4月17日はQueenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

先日、「ジャンヌダルク」の映画を観ました。映画≒史実とは思っていませんが。イギリス、フランスの百年戦争に関しましては、全くといって無知です。

映画によると、ジャンヌは神の声を聴き、自国フランスを守るため戦い、最終的に彼女は魔女として宗教裁判にかけら火あぶりになったそうです。

率直な感想です。

1、話ができすぎフランスの栄誉を守るための話だと感じました。
2、話ができすぎ、本当に実在するの?
3、神の声って..........
4、ということは英国ではジャンヌは国敵???

余談ですが、明治維新のころ弱体であった土佐が、忘れ去られた「坂元竜馬」を持ち上げ復興を狙った史実をふと連想してしまいました。また幼少のころ「イングリッド・バ-グマン」のジャンダルクを観た際は確か涙した記憶があります。といってもリバイバルです。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

ジャンヌの記録はルーアン宗教裁判記録を基にしていますがかなり不備があるためまだジャンヌの研究は始まったばかりだと言うことです。



ロレーヌのドンレミ出身(ボージュ県ドンレミ・ラ・ピュセル村)
父 ジャコ
1429年から1431年までの約2年間が記録として残っている。
それ以前はほとんどあいまいで分からないらしい。

神の声についてこんな記録が残っているそうです。

「ジャンヌよ。お前は神の声を聞いたそうだがその声は男だったのか、それとも女の声だったのか、あるいは老人だったのか。答えてみよ」
するとジャンヌは
「ハイ。少なくとも貴方のようなしゃがれた声ではなかったわ」
と言ったそうです。

映画では幼少からオルレアンの戦いまで長々とやってますがさほど重要ではない。(ほとんどが脚色のため)
話ができすぎるのは19世紀の国民国家意識の高揚したフランス人が見たジャンヌダルク像であって実像とはかなりかけ離れたものであったと思われます。

私たちがジャンヌダルクについて知りうるすべての情報は宗教裁判でのやり取りがすべて。(約3ヶ月間)
(映画で裁判シーンばかり流したら誰もお客が入らない)

大まかには史実だと思いますが映画の中のジャンヌ像はあくまでもエンターテイメントと思った方がいいと思います。

日本の歴史上の人物も一般に知られているイメージと実情はかなり違うようですし。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

GOOD

お礼日時:2003/01/11 21:31

一部訂正。



>ジャンヌ・ダルクは実在しましたし、No.2の方の言われる
>ように、危機的なフランスを救ったことも、最後に魔女と
>して火あぶりになったことも史実です。

No.2の方ではなく、No.3の方でした。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

理解しました

お礼日時:2003/01/11 21:28

ジャンヌ・ダルクは実在しましたし、No.2の方の言われる


ように、危機的なフランスを救ったことも、最後に魔女と
して火あぶりになったことも史実です。

ジャンヌ・ダルクは、近年カトリックから聖女として認定
されましたが、それ以前からフランスでは救国の英雄でした。

イギリスでどう思っているかは知りませんが、あまりよく
評価はしていないでしょう。


神の声については本人しか聞けなかったのですから、第三者
がそれをどう思うかです。
ただし当時のフランスの農民は、ジャンヌが神の声を聞いた
と本気で信じ、彼女についていってイギリス軍と戦いました。

信仰で結びついた軍隊は死を恐れませんから強いです。
彼女と彼女を信じて共に戦った農民兵が、逆転のきっかけ
となったのは、軍事的にみても間違いのない事柄でしょう。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます。
現在はジャンヌが存在したか否かより、数百年たって英雄史されているほうが疑問です。フランスでは英雄でしょう。しかしながら現在非英雄と認識している国家はあるのかな?

少々マイナーですが伊藤博文、秀吉:ちょと違いますね。

お礼日時:2003/01/11 21:28

Jeanne D'Arc(1412年1月6日生~1431年5月30日没)ドンレミ(フランス東部)の農民の娘



1428年 シャルル7世に献策し、軍を率いてイギリス軍を撃破。
1429年 オルレアンを奪還、ランスでのシャルル7世の戴冠式を実現させる。
1430年 コンピエーニュ救出に赴いてブルゴーニュ派の軍にとらえられ、イングランドに売りわたされる。
    異端及び魔術使いの疑いでルーアンの教会裁判所の審判をうける。
    裁判所は14回にのぼる異端審問ののちに、男装という当時のキリスト教で禁じられていた行為をしたこと、教会を経由せず直接神と対話できると信じたことをもって有罪とし、死刑を宣告したが、ジャンヌがあやまちを認めたためにいったんは終身刑に減刑。
    牢獄に収容されたあと、ジャンヌがふたたび男装したため再度審問に付され、死刑を宣告される。
1431年5月30日 ルーアンで火あぶりの刑に処される。

1456年 ローマ・カトリック教会はあらためて審理をおこない、正式に無罪を宣告。
1920年 ローマ教皇ベネディクトゥス15世はジャンヌに聖人の称号をあたえ、5月30日を祝日とすることを決定。

百年戦争(1337年~1453年)
・フランス王位の継承問題に、フランドル地方(イギリスとの貿易に依存していた地域)の領有権問題が加わって、百十余年にわたってイギリスとフランスが争った戦争(常に戦闘が行われていたわけではなく、断続的な戦争。当時はペストが流行したりして戦力が低下するたびに事実上の停戦→戦力回復後また戦闘)

1328年 カペー朝が絶えたフランスでバロア朝のフィリップ6世が王位につき、これに対し、イギリス王エドワード3世は母がカペー家の出身であることを理由にフランスの王位継承権を主張して宣戦。
 戦争初期は、エドワード黒太子の率いるイギリス軍がクレッシーの戦い、ポアティエの戦いなどでフランス軍を破り、1360年ブレティニーの和で領土を拡大。
 のちにフランスは戦勢を回復したが、1415年アザンクールの戦いで大敗。
1428年 国王シャルル7世はオルレアンに包囲されたが、ジャンヌ・ダルクらの活躍によって、フランス軍が優勢を確保、1453年 カレーを除くフランス全国土を回復し、戦争終結。

以上が、簡単なジャンヌ・ダルクと百年戦争の解説ですが、

1.どこの国でも負け戦についてはあまり記録が残らないので(特に昔は)、最終的に勝利したフランス側の記録を元に描くとどうしてもフランスよりの描写になるのでしょう。
2.話ができすぎですが、ジャンヌ・ダルクは実在します。
3.本当に神の声を聞いたかどうかは、本人にしかわかりませんが、『ファティマの予言』とか『聖痕』とか、常人には理解しがたいこともありますので・・・。
4.百年戦争前のイングランド国王の立場と言うのは、封建制度上は非常に曖昧で、イングランド国王であると同時に、フランス国王の臣下(ノルマンディー公ギョームがイングランド王ウィリアム1世として即位、ノルマン朝断絶後、ヘンリー1世の孫であるアンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位)でしたが、フランス国王の領地がパリ周辺のごく限られた地域だったのに対し、イングランド王の領地はフランスの半分近く(元々のノルマンディー公領とアンジュー伯領に加え、アキテーヌ公領等が婚姻によりイングランド王の領地になっていました)にもなっていました。
 百年戦争によって、その広大な領地をことごとく失ったわけですから、当時のイギリス人にとっては、殺しても飽き足りない存在でしょうが、広大な領地を失うことで、海洋貿易国家とならざるを得ず、その後、7つの海に冠たる大英帝国となるきっかけとなったとも言えるわけですから、歴史的に見れば、そう悪くない負け戦でしょうか。

ANo.#2の方の回答にある『なんと言っても聖人ですから』は、???ですね。現在のイギリスの国教はローマ・カトリックではありません(イギリス人の中にもローマ・カトリックの信者はいますが)から、ローマ・カトリックの決めた聖人や祝日をありがたがるかどうか・・・。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

あまりりにもお詳しいので驚きです。
お話が広大になっていますが、ジャンヌに関してはどのような評価をされているのでしょうか?

「勝てば官軍」フランスの虚言といってしまえば悲しい限りですが、実在したのなら、興味深いですね。

お礼日時:2003/01/11 21:19

ジャンヌ・ダルクは、今世紀になってからキリスト教殉教者として聖人に加えられました。


勝ったり負けたりの戦争だったわけですし、
なんと言っても聖人ですから、国的なんて思っていないでしょうね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうなのですか? ジャンヌ・ダルクは異教徒でなく キリスト教殉教者として聖人に加えられたのですか。約500年後にどうしてキリスト教殉教者に加えられたのでしょうかね?

質問意にも記載しましたが、「坂本竜馬」と同じ背景なのでしょうかね。難しいですね

お礼日時:2003/01/11 21:12

この映画は観てないし、あんまり記憶も定かではないのですが……。



1)フランス側からの視点で描いているのでそう感じるのは当然です。
そもそも100年戦争というのは前王家カペー王朝が断絶し、その後、家督はヴァロア家に譲られるはずでしたが、長い間婚姻関係にあったイギリスが「こちらにも血族関係はあるのだから、王位継承権はあるはずだ」と異議を唱え出したのがそもそもの争いの発端です。
映画の通り、優勢だったはずのイギリス軍を蹴散らして、フランスを勝利に導いたのが、ジャンヌです。
戦いに勝利したあと、ジャンヌに国民の人気が集まったことをシャルルが心よく思わなかったとか、イギリス側が入れ知恵をしたとか臆測はあるようですが、火あぶりになって処刑されたのも事実です。
関係ないけど敗戦して荒れたイギリスにはその直後50年戦争が起こってますし、ヴァロア家が断絶したときもイギリスがちょっかいを出してます(このときは戦争はしてません)。

2)ジャンヌ・ダルクは実在します。オルレアン出身で、確かにただの町娘だったそうです。(字が書けなかったという話も聞いたような)

3)ちょっとわかりません・・・。でも割とありがちですね。受胎告知とか(←これしか知らない)。

4)いなければ勝てたか、と聞かれればそれも?ですが、強敵だったでしょうから、国敵にはなるでしょうね。

真面目に調べたわけではないし、その上記憶が曖昧なのですみません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

はずかしながら「争いの発端」を僕はそりません。
2)その様に描写されていました。

>国敵にはなるでしょう

ですがなっていませんね。歴史とは興味深いものです。

お礼日時:2003/01/11 21:07

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む


人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較