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高虎の他にも「築城の名手」と呼ばれる武将はいます。

なぜ、彼らをそう呼ぶのでしょう?
彼ら自身が掘割・縄張り・築城の実際をやるハズありませんから、
(無名時代ならモッコを担ぐくらいはしたでしょうが。)
その家臣に「名手」がいたとおもいます。
それら「家臣」の名が出ないのは、高虎ら城主が、それぞれ専門分野をもった家臣の「総監督」としての存在だからでしょうか?(親の総どり…みたいな。)

高虎の城に共通する、特徴的な良さがあるはずですが、それこそ、その分野が得意な家来のシゴトのはずです。
その部分を担当(設計・実務)した人物を評価したものは表れないものでしょうか?

A 回答 (5件)

 藤堂高虎の家臣「渡辺了」や加藤清正の家臣「飯田直景(司馬遼太郎の『覚兵衛物語』が有ったかと)」など、一応実務や設計を担当した人物は、記録に残り当時も高い評価をされています。



 藤堂高虎や加藤清正等が築城の名手と呼ばれるのは、そう言った有能な人物と技能集団を自身の家臣として確保し、かつ彼等の才覚を十分以上に発揮できる場(仕事)を与えた事です。

 当たり前ですが、こういった稀有の才能は他家からの引き抜きの可能性も有りますから、十分な待遇を与えると共に「奉公構」を出して他家に士官が出来ないように手回しし、且つ他家がそれに従わざるをえない程の権力が必要です。

 ちなみに渡辺了は、出奔し浪人に成った後、藤堂高虎が出した奉公構のせいで何処にも仕官する事が出来ず、京で寂しい最後迎えたそうです…。
 (才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持で細々と生活したそうです。)

 藤堂高虎の残した200箇条の家訓(実は後から追加されたので204条有ったりしますが…。)を見ると、大名目線からだけのものだけ無く、家臣(家老から末端のものまで)の心がけまで事細かに記載しており、彼の気配りが如何に広かったのかをうかがい知る事が出来ます。
 建前上の最後の200条が、物事の習熟度は下手と呼ばれない程度なら良いという当たりに彼の心情が出ているのかも…。それに201条で「聞かずは末代までの恥」と言っている様に、本当にエキスパートの力が必要に成れば、真摯な態度で聞く事が出来る人物であった事が伺えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり、そういう有能な家臣がいたのですか!しかも当時も評価されてたと。
かの時代は「自分で主人を選べる」最後の時期だったんですね。
高虎自身も「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言ってたのに、離れた旧臣が他家へ仕えないようにする決まりを作るなんて・・・。
知恵モノです。
しかしながら、才覚でのしあがっただけに、「人物」であったことは確かなようですね。

お礼日時:2008/10/27 22:21

No2です追加します。


たしかに製図や土木工事やその他の実務を直接担当したのではないと思いますが、担当できるくらいの能力は持っていたものと思います。例えば製図が読めたかどうかはわかりませんが、その意味するものを説明させ、修正させるくらいの能力はあったでしょう。もっこ担ぎや石積みはしなかったでしょうが、その場の現場監督の役目は果たし、目的を遂行させたことでしょう。
この時代の武将というものは非常に実践的だったと思います。
現在の国会議員の中には、ご飯の炊き方・米一升の値段などのわからない方々も多いことと思いますが、この時代にはあり得ないことだったろうと思います。
この時代の武将は単なる発注者やデザイナーではなかったと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

他の回答者様もおっしゃっておられるよう、高虎はじめ、実務もこなせるエライ人は、確かに存在したようですね。
どうも私の感覚がズレてたようです。

今の時代のエライ人たちも、この時代の武将たれば・・・。ムリですよね・・・。

お礼日時:2008/10/27 22:37

藤堂高虎に関して言えば


1:穴太衆を使えた
穴太衆も近江なら、藤堂高虎も近江出身。
2:上司がよかった
豊臣秀長の部下になっており、一種の天下普請なような形で予算たっぷりで築城することができた。さらに、徳川家康に評価された。江戸城は家康が天下を取るまでは石垣のない城でした。徳川家臣団には豊臣方式の先進的な築城技術を知っていなかった。なので、徳川家臣団をさしおいて高虎は天下普請の城を任された。
3:意外と戦国大名はマメ
No3で指摘されている家訓は知りませんでしたが、伊達政宗の筆まめさや、前田利家がソロバンだけは肌身離さず持っていたとか、結構戦国大名は実務家です。まぁ卑賤な身分から成り上がったのですから江戸時代の大名のようにのほほんとしていては出世できません。
高虎もけっこうマメだったんじゃないかな。
4:実戦経験からのノウハウ
実際に城攻めをしたり、城で守ったという経験値は、個別の兵隊から戦闘現場の隊長である大名にあがってきます。ちゃんとあがってその時その時に的確な判断を下せなければ負けちゃいますから。この意味で、土木工事に詳しいだけでは城はできない。実際に戦った経験から、こうすれば守りやすい(攻めづらい)というノウハウは大名が一番持っていたわけです。このノウハウは大工には分からない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>意外と戦国大名はマメ

・・・意外でした。実務家ぞろいなんですね。
私の「大名感」がちょっと変わりそうです。

そして、「城に必要な機能は、実戦した者にこそ解り、反映させられる」
・・・かなり納得できます。

お礼日時:2008/10/27 22:30

>なぜ、彼らをそう呼ぶのでしょう?


彼らがそういうことを実行したからでしょう。
彼らは自分の事業として城を造ったり、川を治めたりしたはずです。
なぜならばそれこそが彼らの義務ですから。
>彼ら自身が掘割・縄張り・築城の実際をやるハズありませんから
なぜそのように判断されますか?
高虎自身が計画し、指示し、実行したと思います。
>その分野が得意な家来のシゴトのはずです
もちろんその通りでしょう。そうだったかどうかはわかりませんが。
>その部分を担当(設計・実務)した人物を評価したものは表れないものでしょうか?
 はい! たぶんそういう部分の評価は現れないようになっているように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

・・・よく考えてみれば、どんな時でもそうですよね。
「○○首相の功績」という場合も、別に、首相自らが実務を執ったんじゃありませんものね。
号令かけたか、GOサイン出すかしただけですから。
実務は官僚がやるものでしょうし。

城の場合も、殿さまが発案したことによって立派な城ができたのなら、それはやはり「城主が作った」ということになるのでしょうね。

・・・でもまだなんか釈然としませんねえ・・・
たとえば現代の有名な建築物、それを設計した人はとても評価されます。でも、実際の施工業者の名も知れわたってもいいような気がしますが、そうではありません。(私が知らないだけかもしれませんが。) 
それどころか、その建物が公共の施設だった場合、その発注者(市長とか知事とか)こそが、「それを作った人」といえるのでは?

封建社会においては、家来の功績も何もかも全て主人のものになるのでしょうか?
>高虎自身が計画し、指示し、実行したと思います。
・・・高虎がねじりハチマキをして、筆を舐めなめ、設計図面ひいたとは どうしても思えないんです。

お礼日時:2008/10/26 23:07

>なぜ、彼らをそう呼ぶのでしょう?


>その部分を担当(設計・実務)した人物を評価したものは表れないものでしょうか?

この部分こそが高虎や加藤清正ら「築城の名手」たちが担った部分だからです。
今で言う設計士や建築士のような仕事を武将自ら、もしくは武将のブレーンがしていたと考えられています。

彼らが活躍する時代は戦国時代も終わりかけなので、今で言う現場監督も務めていたかもしれませんが、恐らくはたまに視察するぐらいだったと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も、彼ら自身にその能力があったのかなあ?・・・とは思ってもいました。

ただ、殿さま自らが図面引いたりすることってあるのでしょうか?
ブレーンがするというのなら解りますが。
(というより、この方が自然では?と思うのです。)

同じ時代に、他の武将も「自ら設計する」のがフツーだったのなら、その中でスバラシイ城を築きあげた高虎や清正は評価するに値しますが、家来が設計・施工しておいて「築城の名手」と もてはやされるのはどうか?と思うのです。
・・・でも、やはり殿さま御大が設計してたんでしょうかねえ?

お礼日時:2008/10/26 18:23

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Q徳川家康と藤堂高虎

どっちかと言えば、器量は小さく
猜疑心の多いと言われている、家康殿なのですが

その猜疑心を大いに生かせる、藤堂高虎に
えらく、晩年信頼を寄せている様子です

藤堂ファンの私としては、是非に!
高虎のどこに惚れたのか!?

・・と、調べてみたのですが
意外に、情報がない!

そこで、家康殿は、なぜ、高虎殿を、そこまで、信頼したのか

何でも良いので、教えてくださいな

かっちょよい、逸話なども、期待してます

是非に!!

Aベストアンサー

先ずは藤堂高虎への個人的な評価ですが、民政・外交・合戦・築城術のどれを取りましても一級品、幾多の人材が輩出した戦国期に於いてすら、高虎の如き有能な士は極めて稀でした。

一方に於いて、今に至る不当とも思える彼に対する評価の低さと評判の悪さは、当然ながら徳川幕府の価値観のほぼ全否定に至った、明治政府の樹立に由来するのでしょう。

即ち豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となった豊国神社が、明治天皇の鶴の一声で再興されるなど、明治維新後豊臣政権の復権が図られ、その結果として或る意味豊臣家に背を向けた藤堂高虎の評価は地に落ち、現在に至る訳です。

>家康殿は、なぜ、高虎殿を、そこまで、信頼したのか何でも良いので、教えてくださいな

浅井長政⇒阿閉貞征⇒磯野員昌⇒織田信澄⇒豊臣秀長⇒豊臣秀保⇒豊臣秀吉、左記は高虎が使えた主君を列記したものですが、後年徳川幕府の正学とされた(一義的に忠孝を説く)朱子学の教えがさほど支配的ではなった戦国末期に於いてすら、彼ほど主君を変えた或いは変えざるを得なかった武将も少ない、言い換えればあの時代有能な武将は引く手数多であった事を指し示す証左でもあるのだが・・。

晩年やっとの事で秀吉の直参とはなったが、そこは係累・子飼いでない為飽く迄も準譜代扱い、依って全神経を研ぎ澄まして次代の権力者を推敲した結果、彼が出した答えは徳川家康であり徳川政権という事だったのでしょう。
何しろ豊臣政権の最盛期に於いて既に、跡継ぎと子飼い・係累が少ない豊臣氏の行く末を見限り、家康に接近しておりますが、最上義光を除いてその嗅覚の鋭さは他に類を見ません。

家康の信頼を勝ち得た理由の1つがこの点、つまり即ち既成事実の積み重ねと陰日向が無い継続的な追従は、月日の経過と共に真実とほぼ同義語になってゆく訳で、それほど高虎は家康に尽くし抜いたという事の証しでもあります。
語りついでに有名な話を1つ、それは駿府で家康が死の床に就いた時の事、徳川家に対する未来永劫に至る忠誠を誓う為か、従来の日蓮宗から徳川家の宗旨である天台宗に改宗を申し入れました。

理由の2つ目は、開闢当初その構成分子に多くの豊臣恩顧の大名を抱えていたという、徳川政権の内部事情に依ります。
その後多くの豊臣系大名が粛清されるに至りますが、その全てを根絶やしにする訳にも参らず、自然豊臣系と目された藤堂高虎を粗略に扱えなったという、高度な政治判断でもあったのでしょう。

何れにしても極めてドライな高虎の立ち回りは、或る種のひ弱さを否定出来ない豊臣恩顧或いは徳川譜代の大名とは一線を画す、戦国大名・外様大名の一典型であり、一方に於いて彼の有能さを指し示すもの、私としてはそう肯定的に捉えております。

先ずは藤堂高虎への個人的な評価ですが、民政・外交・合戦・築城術のどれを取りましても一級品、幾多の人材が輩出した戦国期に於いてすら、高虎の如き有能な士は極めて稀でした。

一方に於いて、今に至る不当とも思える彼に対する評価の低さと評判の悪さは、当然ながら徳川幕府の価値観のほぼ全否定に至った、明治政府の樹立に由来するのでしょう。

即ち豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となった豊国神社が、明治天皇の鶴の一声で再興されるなど、明治維新後豊臣政権の復権が図られ、その結果として或る...続きを読む


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