出産前後の痔にはご注意!

終ってしまった理由を知ってる方教えてくださいたのみます

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A 回答 (7件)

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 一因として組織の老朽化・硬直化を挙げておきます。


 時代が米経済から貨幣経済に移行しようとしているのに、江戸幕府のシステムは石高による米経済から脱却出来なかった。
 徳川吉宗の享保の改革も末期はその辺りのギャップに喘いでいたように思えます。
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田沼意次によるバブル時代による破産と、松平定信による金縮政策による社会の閉塞感があり、経済的に息詰まっている所に黒船登場!


これによって、幕府に不満を持つ人たちの大爆発。
又 本来日本人の宗教は神道ですが、先進国の仏教と文化(医学・科学等)の押し売りにより、神道が妨げられてきた歴史に疑問を感じていた人々による、現体制(社会)への不満の爆発により、内乱が勃発し。
江戸幕府は黒船等の海外との折衝を知らず危機感を覚え投げ出した感があります。
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江戸幕府がいつ終わったのかにもよるかも。


大政奉還で終わったと見るなら、大政を奉還したから。将軍職から退いたんでしたっけ?
ゴジョウカク(漢字が思い出せません:汗)で終わったのであれば、戦争(内乱?)に負けたから。
まあ、いずれにせよ、それに至るまでの経緯は色々あるわけで、「理由」ですよね。ん~、

黒船にのってきたペリーさんの脅しに徳川さんはびびってた。
家康さんのころから徳川さんを恨んでいた島津さんと毛利さんが、ここぞとばかりに逆襲を開始。
徳川さんより偉い人、天皇さんを担ぎ出そう。でも島津さん、毛利さんをだしぬいて自分だけ天皇さんと仲良くする。毛利さん恨む。
毛利さん徳川さんに成敗される。
幕府の体制下、不満がたまっていたので、「さばく」だ「きんのう」だと、島津・毛利・徳川さん等のとこの若い連中が京都で暴れ始める。
でもみんな外国が攻めてきたらヤバイと感じていた。
徳川さん、毛利さんに喧嘩を仕掛けるも負ける。
土佐の坂本さんいま喧嘩してる場合じゃないからと、島津さんと毛利さんを仲直りさせる。
徳川さん、今のままではいろいろヤバイので、山内さん(土佐)のすすめもあって、政権を天皇さんに返すことにする。「大政奉還」
島津さん毛利さん、天皇さんを脅して錦の御旗を手に入れ、徳川さんに逆襲をはじめる。
江戸無血開城。
会津で白虎隊自刃
徳川さん函館まで逃げるも降伏。

たしかこんな経過でしたよね。でもなんで「大政奉還」したのか分かんないですね。

あぁそうです。NHKの「徳川慶喜」を見て下さい。もうビデオ出てるでしょう、きっと。これをレンタルすれば、天下のNHKですからばっちりわかるはずです。
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 私が述べていることは、私が大学時代に勉強したことを述べたまでです。

20年以上前のことですからねぇ。

 しかし、この程度のことであれば、高校日本史の参考書に書いてあると思います。ネット上で探すのが、もっと大変ですよ。
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明治政府発足の際に(だったかな?)江戸幕府が大政奉還で政権を天皇家に返したからです。


サイトは「大政奉還」で検索すると山のように出てくるので、わかりやすいところを読んで納得して下さい。
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 18世紀半ばまでに耕地面積が増大し、農業が発達するに連れ、農民は商品作物に手を出す一方で、貨幣経済に巻き込まれて没落する農民が増えていきました。



 その一方で、幕藩体制の大量消費型のシステム(参勤交代や江戸・国もとでの二重生活、贅沢な暮らしなど)があり、しかもその幕藩体制が農民支配に依存していたからです。

 経済的に幕藩体制を支えていた農民たちが没落していけば、幕藩体制が終焉を迎えるのは当然のことです。

この回答への補足

そういう資料とかありますかできればインターネットで

補足日時:2003/01/13 22:45
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Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q江戸幕府の終わり

ある本に「1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。これをもって江戸時代は、終わりました。」と書かれていました。
 そして、ある本には、「1868年3月14日、公家や各藩の大名たちを京都御所に集め、天皇にかわって三条実美が、新しい政治の方針を示した五か条の御誓文を読み上げた。これをもって江戸時代は、終わりました。」とありました。
約半年の違いなのですが、歴史上、どの時点をもって江戸時代は、終わったと考えられているのでしょうか。
 大政奉還しても旧幕府の考え方を持った少数派がいて、幕府としての機能を果たしていたという考えの人もいました。いろいろな考えがあると思います。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

前者は江戸幕府の機能停止を、後者は新政府の活動開始を「象徴する出来事」があった日ですね。双方とも、それ自体がある程度の時間をかけて進展した歴史の経過なので、その日を境に突然江戸時代が明治時代になる決定的1日を想定するのは非現実的です。そんな日付は、入試に回答する場合を除けば、決める必要もありません。

しかし、一つの考え方として been の個人的意見を述べるならば、諸外国から見たわが国政府、つまり、国際法上の権力の所在で判断するのが客観的だと思います。国内の佐幕派残党の活動などは、権力移行の過程で生ずるよくある現象なので、時代の終り(始め)を画する重要な要素とはいえないでしょう。国際社会から見れば、江戸幕府の権力返上は国事について諸外国と交渉する地位を放棄したことを意味するので、これをもって江戸時代の終りと考えるのが比較的説得力があると思います。

Q≪江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのか?≫

江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのですか?

詳しく、簡単に教えてください。

よろしくお願いします。^_^

Aベストアンサー

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられた

と言う受身の幕府に国民の不満は表面化しました。
※元々不満はあったが、言えなかった。

アヘン戦争の勃発です。
これが日本に大きな影響を与えた事は確かです。

日本にとって中国とは「先生」であり様々な文化を教えてくれた国です。
大きな中国が英仏に犯されていると知った時に、
やはり国内に憂いを抱く事が多かったはず。

倒幕で盛んに動いた薩摩長州なんてのは西国で長崎が近いのと、
もともと英仏蘭とも交流可能であったこと。

江戸はそういった情報が収集できなかったことかも知れません。
黒船の威嚇によっての開国ではなく、幕府自らの決断で開国していれば
また違った結果になったでしょうね。

となると、幕臣に有能な人間がいなかった、と思いがちですが、そうではないです。
小栗とか勝とか人材はいました。
いたからこそ、鳥羽伏見まで幕府は頑張れたのだと思います。

でも体制を変えられなかった。従来を重んじる文化が滅亡した原因でしょうね。
鎖国をしても幕府だけは海外情報を積極的に収集し、体制を変更し、
時代を読む動きをしていれば…と思いますが、そんなに易しい話では無いでしょう。で

崩壊すべくして崩壊した。新時代を作るために。
客観的に見て、あれだけキッチリした体制なら、変更も楽で無いです。

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられ...続きを読む


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