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よろしくお願いします。

明が対外政策として朝鮮・日本などに冊封させることによって、
中華思想のもと君臣関係を結び朝貢させる・・・とまでは分かり
ます。しかし、わずかな朝貢でも何倍ものお返しをする明にとっ
てメリットはあったのでしょうか?また具体的には、どのような
ものを朝貢し、何をおかえししていたのでしょう?

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A 回答 (4件)

国内的には国民に服属してきた外国使節を見せる事で皇帝の徳の高さを示し、また皇帝の権威を高めるという目的がありました。


対外的には敵を減らし味方を増やす事で、四方から異民族に攻められたり、国内が戦乱で荒れ果てる事を阻止するメリットがありました。

明の使者が日本を訪れ、明の建国と日本の服属を求めた時、倭寇の取り締まりも求めています。当時は明の沿岸を倭寇が荒らし回っており、明にとり大きな問題となっていました。
また、日本との朝貢貿易では、日本の輸出品は硫黄、銅、刀剣等です。
硫黄は火薬の原料です。硫黄は戦争の絶えない明にとり必需品でした。
明の永楽帝は北方のタタールやオイラートを叩く為に、5回も親征していますし、内乱もありました。
こうした戦いに明軍は火器を大量に使用しました。火器が中国の軍において大量に装備されたのは明の時代からだという説もあります。
大量の火器を使用する為には、大量の火薬が必要であり、その原料として硫黄も大量に必要でした。
勘合貿易においても主要な輸出品は硫黄でした。
つまり明は日本と朝貢貿易を始める事によって、倭寇の脅威を抑えて沿岸部を安定させる事を望み、そして戦争に必要な硫黄の流通先を確保する事に成功したのです。
明は硫黄の調達の為に日本と貿易したという説もあります。

朝鮮が成立したのは1392年であり、すぐに明に服属しています。この頃より50年間で朝鮮は朝貢貿易で明に馬を4万頭、牛を2万頭も朝貢しています。
この頃は、前述したように永楽帝がタタールやオイラートを叩く為に親征していた時代でもありましたし、親征以外にも軍の遠征がありました。また国内では内乱もありました。
朝鮮が北方民族と結びついて敵に回らないようにするだけでも大きなメリットがありました。
そして戦争している明にとり朝鮮から朝貢される大量の馬は大いに役立ったでしょうし、内乱で荒れた土地を耕したり食料としても牛は大変役立ったでしょう。

朝貢貿易において明から日本に送られたものは銅銭、生糸、絹織物などでした。
特に生糸や絹は高級品であり、明は朝貢に来た国への主要な送り物としていました。そしてそれはどこの国でも喜ばれました。
また、明に来た使節には国に送られる品とは別に、金や銀が与えられ、その金、銀で使節は明で色々な品物を買い付け本国に戻ってそれを売却し利益を上げたという話です。

ちなみに琉球では朝貢貿易で、赤の染料となる蘇木や夜光貝、宝貝という貝や、刀、銅、硫黄を送っていたそうです。
チベットの国々(当時チベットでは小国が乱立していました)では、馬、ヤクの毛織物、甲冑、仏画や宗教系の用具などを送っていたそうです。

また明は鄭和の艦隊を南海に送り出しています。鄭和の艦隊は遠くアフリカにまで到達していますが、それにより色々な国と朝貢貿易する事になり、明にとって珍しい動物を送られています。
マリンディ(現在のタンザニアあたりにあった国)からはキリンが送られ、その首の長い珍しい動物に人々は驚いたそうです。
モガデシオ(現在のソマリアにあった国)からはシマウマとライオンが送られ、ブラワ(この国も現在のソマリアにあった国)からは駱駝とダチョウが送られ、ホルムズ(現在のイランにあった国)からは、ヒョウ、アラビア産の馬が送られたそうです。
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中華思想によれば、中国とは世界の中心の国、中華(夏)とは


世界で唯一、高度な文明を有する国と考えています。

周囲の地域は、本来皇帝(天子)が世界の支配者として直轄すべき
ではありますが、現実問題としては無理です。ですから、周囲の国の
首長を皇帝に心服する王(=皇帝の臣下)と認めることによって、
中華思想を理念的に実現し維持しようと考えました。

そのために莫大な下賜品を与えても、別にデメリットでは
ありませんでした。むしろ、高価な品や高度な技術を必要とする
品を与えて、相手国を平伏させた方が効果的だったでしょう。
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・メリットについて



 中国の朝貢貿易で、最大の実利を与えたのは、北方騎馬民族との対応でしょう。朝貢貿易で、「平和共存」を目的に、豪華な贈り物を与えました。

 「明」は漢民族の王朝で、北方騎馬民族モンゴル人の「元」のあとに建国し、「明」が滅んだあとは、満州の女真族の王朝、「清」となりました。(直接原因は、民衆反乱といえる李自成軍によるものですが。)

 また、巨額の費用をかけて「万里の長城」を修復・建設しています。現在観光でみられる立派な万里の長城は、主にこの時代のものです。

 つまり、朝貢貿易や万里の長城建設の出費より、外国・異民族の侵入を撃退する戦費のほうが国家財政に対する負担が大きいということなのです。

 現代でも、アメリカがベトナム戦争戦費負担でドル危機を起こし、ソ連はアフガニスタンで10年戦った挙句、経済不振から崩壊してしまいました。
 最近では、ブッシュ政権が世界を不況に巻き込もうとしていますが、これもイラク・アフガニスタンでの戦闘継続によるもの。
(早期の金融引き締めで、サブプライム問題に手を打つべきだったが、そうすると経済は一時低迷するので、戦争費用の赤字が膨大となり、戦争継続が政治的に困難になります。そこで、この問題を放置して税収が伸びるバブル経済を黙認し、赤字国債を買ってもらえる状況を維持しました。日本の場合、バブルで赤字国債の増加がストップしましたが、アメリカは去年バブルの好景気の状況で40兆円の赤字。オバマ政権になったとき、どれだけの赤字を解消しなければならないか、気が遠くなるほど。)

 ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、明が朝鮮支援の軍を派遣しましたが、この戦費が膨大で明の崩壊につながる財政破綻を招いたといわれています。
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政治的なデモンストレーションです。

目的は。

江戸時代に朝鮮通信使や琉球の使節、さらには大名行列が日本国内を練り歩くことで「うーん徳川家は偉いのね」と思わせたのと同様です。
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Q朝貢貿易とは何ですか?

朝貢貿易とは何ですか??
具体的に教えてください。
お願いいたします。

Aベストアンサー

朝貢貿易とは古代中国で始まった制度です。
それまでは物々交換で始まった貿易が次第に通貨を使用するようになり、中国は次第に強大な国家に成長しました。

周辺の弱小国は中国との関係を対等とはいえないようになったのです。
また国内に対しても中国との関係を強調する必要があり、中国皇帝から国王として認めてもらうことが必要になってきました。
この為、中国皇帝に家臣ないし随身の姿勢を表す態度をとりました。

これが貿易朝貢の始まりです。  実態は中国皇帝に貢物を献上すると、皇帝はそれに倍する返礼として品物を与える習慣でした。
周辺国はこうして中国の進歩した品物を入手することが出来ました。
のちにはこの多額の返礼が中国の財政の破たんの原因になるほどでした。

中国と朝貢関係をもったのは日本、琉球、東南アジアをはじめ北方の蛮族などでした。

Q朝貢と冊封体制について

タイトルのことを教えてください。

Aベストアンサー

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗っ取られるけど)になる。

…だと、思います。
人同士国同士で身分差があることが前提なので、#1さんの回答にある現在の国際社会での力関係には当てはまらないように思います。

あと、宗主国と各朝貢国との力関係は、時代や国によってケースバイケースで一定していません。
ほぼ属国状態の場合もあれば、形式的に親分子分になっているものもあります。
この場合、宗主国は朝貢国の内実には一切ノータッチ、朝貢国の代替わりの度に追認の使者がやってきて宴会してオシマイです。
(#2さんの回答にある琉球王国はこのケース)

冊封体制の宗主国としては中国歴代王朝が有名ですが、タイ王国とかオスマン=トルコも朝貢国を持っていました。

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q明治大学と明治学院大学の違いは?。

 明治大学と明治学院大学というふたつの大学が存在すると思うんですが、両大学は同じ明治という名前を付けてますが同じ系列の大学とかなんでしょうか?。
 
 共通点と顕著な違いがあれば教えてください。

Aベストアンサー

明大OBです。友人に明学を中退した明大時代の友がいっていたことを書きます。

明治大学と明治学院大学は系列も違うし、カラーも違います。

明大ははっきりいって男臭いです(笑)。文学部は通常女性の割合が高い学部ですが、明学は通常通り男2:8女でしょうが、明大は男5:5女です。文学部といえども男の数が多いのです。でも明学は女性の方が多い大学だと思います。

あとは皆さんも書かれていますが、明大の方が偏差値が高いです。一応「東京六大学」ですから。明学の場合はそれよりも落ちます。よく「MARCH」、「坊ちゃん四大」、「日東駒専」、「大東亜帝国」と大学のレベルを指す表現がありますが、明大はMARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政大学)のレベルに属します。明学は坊ちゃん四大(学習院・成城・成蹊・武蔵大学)のレベルに入るでしょう。

それと明大は無宗教ですが、明学は宗教色が強いキリスト教のプロテスタントの教えを基盤とした学校です。

以上まとめると、
1.男臭い(明大)か女臭い(明学)かの違い
2.無宗教(明大)かキリスト教(明学)かの違い
3.偏差値の高(明大)低(明学)の違い
4.キャンパスが三箇所(駿河台・和泉・生田)の明大と横浜市戸塚区のキャンパスの明学

この四点が上げられます。

明大OBです。友人に明学を中退した明大時代の友がいっていたことを書きます。

明治大学と明治学院大学は系列も違うし、カラーも違います。

明大ははっきりいって男臭いです(笑)。文学部は通常女性の割合が高い学部ですが、明学は通常通り男2:8女でしょうが、明大は男5:5女です。文学部といえども男の数が多いのです。でも明学は女性の方が多い大学だと思います。

あとは皆さんも書かれていますが、明大の方が偏差値が高いです。一応「東京六大学」ですから。明学の場合はそれよりも落ちます。よく「M...続きを読む

Q専攻とは

よく大学での専攻は?などと言いますよね。
この専攻って何の事なのでしょうか?

学科の事ですか、ゼミの事ですか、それとも特別の研究室のような所での研究の事ですか。

もし、学科の事だとしたら、細かく学科に分かれておらず、学部だけしかない規模の小さな大学の場合はどうなるのでしょうか。

また、研究室の事だとしたら、研究室に入っていない学生は専攻なしということになるのでしょうか。

Aベストアンサー

普通、「専攻」と言ったら、卒論で自分が扱う分野、卒論がないのなら、それに代わりゼミ研究などで自分が扱っている分野のことです。

たとえば「私は文学部の日本文学科で、紫式部を専攻しています」のように使います。そこまで細かく説明することを要求されているわけではないなら、「文学部で日本文学を専攻してます」って言い方もアリです。

また大学によっては、「○○科」の変わりに「○○専攻コース」などを設けている場合もあります。この場合、○○の部分を自分の専攻であると言ってしまっても差し支えありません。

まあ、そんなに厳密な言葉でもないので、神経質になることはないですよ。自分が主に勉強している(したいと思っている)分野、という程度の意味です。

Q中国は社会主義。経済は資本主義?

中国は社会主義国のはずです。しかし昨今の中国経済の成長の話題から、経済は資本主義化していますか?

社会主義国にとは、「勤勉勤労は無駄。皆一並び」という考えは時代遅れなのですか?

Aベストアンサー

>社会主義国とは、「勤勉勤労は無駄。皆一並び」という考えは時代遅れなのですか?
 「社会主義」の認識に誤解があるように思うのですが、そもそもこの思想は19世紀の産業革命による経済格差を是正するために生まれた思想です。つまり、資本主義が成熟して社会主義に移行し、最期に共産主義へ到達するというのが思想の柱になっています。ですから社会主義と資本主義は対立関係にありません。

 中国共産党は現状について正式な見解を発表していませんが、政府要人などの発言を聞く限り以下のような解釈(言い訳)で資本主義化を行っていると考えられます。

・現在の資本主義化は理想の共産主義を実現するための過程である。
・資本主義を導入しているのは国民の生活を脅かさない余剰産業の分野である。
・基幹産業は国家が共産主義思想に基づいて行っているため問題ない。

 つまり、共産主義を実現するために国家の経済を豊かにしようというのが資本主義導入の理由であり、国民の生活を支える基幹産業は国家が管理しているので問題はない。そもそも社会主義・共産主義は資本主義の発展系なので、現在の資本主義はあくまでも過渡期である、というのが中国共産党の考え方のようです。

 「時代遅れなのですか?」というご質問ですが、現在の中国は本来の「資本主義→社会主義→共産主義」ではなく、文化大革命によっていきなり社会主義となった(多くの社会主義国家が同様ですが)ため、思想的にはあり得ない「社会主義状態での資本主義導入」という現象が起こっただけです。したがって「時代遅れ」とは別の次元で判断した方がよいでしょう。

 社会主義という思想は格差の是正を目的としているため、「資本家と労働者」という階級闘争に結びつきやすく、国家や官僚による国民の支配を強めてしまう側面があります。中国が抱えるさまざまな問題は、資本主義の導入が原因というよりも、社会主義が持っている問題が抑えきれずに露呈したといえますね。

 ちなみに、日本を含む資本主義社会の多くは、市場経済でありながら平等な生活を求める「混合経済体制」に移行しつつあります。すでにEUなどではゆるやかな社会主義が導入され、資本主義といかに組み合わせるかが課題となっています。そういう意味で、これからの社会は資本主義と社会主義が融合した形がスタンダードになるかもしれません。

>社会主義国とは、「勤勉勤労は無駄。皆一並び」という考えは時代遅れなのですか?
 「社会主義」の認識に誤解があるように思うのですが、そもそもこの思想は19世紀の産業革命による経済格差を是正するために生まれた思想です。つまり、資本主義が成熟して社会主義に移行し、最期に共産主義へ到達するというのが思想の柱になっています。ですから社会主義と資本主義は対立関係にありません。

 中国共産党は現状について正式な見解を発表していませんが、政府要人などの発言を聞く限り以下のような解釈(言い...続きを読む

Q朱印船と奉書船

朱印船と奉書船の違いが分からなくて困ってます。
教えてください。

Aベストアンサー

朱印船は、江戸幕府から海外渡航許可の朱印状を受けた公認の貿易船です。
これに対して、奉書船は、渡航許可として朱印状のほかに老中発行の奉書を所持している貿易船のことです。
幕府が鎖国へ向かう中で海外渡航をする貿易船は制限されていきます。
1631年以降、朱印状に加えて老中奉書の所持を渡航の条件とすることで、海外渡航のハードルを高くしようとしたのです。

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む

QワードのデータをUSBに保存したい。

タイトルのとおりです。
ワードで作ったデータを、USBに保存したいのですが、
パソコン初心者なので、やり方がわかりません・・・汗

また、そのUSBで、別のパソコンで見たいのですが、
そのやりかたもわかりません。。。汗
誰か教えてください・・・。

Aベストアンサー

UBSメモリに保存の操作(例)

1) 名前を付けて保存します。
※別のPCのOfficeが2003以前の場合は、[97-2003互換性]ファイルを指定して保存する必要があります。
2) USBメモリを装着します。

3) ファイルが保存されたフォルダを(普通は、「ドキュメント」)を開きます。
4) 右クリックから「送る」→「リムーバブルディスク」をクリックで、「USBメモリ」にコピーされます。

5) タスクバーの「通知領域」の「ハードウエアの安全な取り外し」をクリックして「USB大容量・ドライブ(*)を安全に取り外します」をクックして、「このディバイスはコンピュータから・・・」のメッセージに「OK」を押します。
6) USBメモリを抜き取ります。

USBメモリからデータを読み出す操作(例)

1) USBメモリを装着します。
2) 「フォルダを開く」を選択して「OK」を押します。(自動的に展開される場合もあります。)

3) 目的のファイルを選択して、右クリックから「コピー」を選択します。
4) ディスクトップなど分かりやすいフォルダを開いて、右クリックから「貼り付けします。

5) コピーされたファイルをダブルクリックなどで開きます。
6) 編集作業の途中と作業の最終には「上書き保存」します。

「USBメモリの取扱方法<Windows Vista(R)>」
http://dynabook.com/assistpc/faq/pcdata/006042.htm 

UBSメモリに保存の操作(例)

1) 名前を付けて保存します。
※別のPCのOfficeが2003以前の場合は、[97-2003互換性]ファイルを指定して保存する必要があります。
2) USBメモリを装着します。

3) ファイルが保存されたフォルダを(普通は、「ドキュメント」)を開きます。
4) 右クリックから「送る」→「リムーバブルディスク」をクリックで、「USBメモリ」にコピーされます。

5) タスクバーの「通知領域」の「ハードウエアの安全な取り外し」をクリックして「USB大容量・ドライブ(*)を安全に取り外しま...続きを読む

Q倭寇と勘合貿易について

学校の教科書などの説明に、「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」とあります。

単純な疑問なのですが、確認のために倭寇の海賊船に対しのこのこ割符をもっていったら持っていた人物は略奪をうけたり殺害されたりしなかったのでしょうか。勘合符を照合する人物はなにか武力的な裏付けがあったのでしょうか。

或いは勘合符とはそういった性質の物ではなくて単に正式の貿易船と密貿易船を区別するものだったのでしょうか。そうなると一般的に海賊とされる倭寇が乱暴も働かずにすごすごと帰っていったのでしょうか。

または勘合符の役割は朝貢貿易船以外の船の平和的な排除だったのでしょうか。

どなたか詳しい方御回答をお願い申し上げます。

Aベストアンサー

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が品物を下賜する、という形態です。
明王朝の家臣である必要があります。
明王朝は、周辺の国の王に対して、明王朝の家臣としてその国を治めている、という様式をとることを強要しました。
同時に統治者に対して、お前が正式な統治者であることを認めて王と名乗ることを許すという、いわば辞令を発行していました。
古代史で有名な金印「漢委奴国王印」が有名です。
このような印を辞令として下賜しました。

この考え方は古代から清王朝が滅亡するまでの長い間続いていた中国王朝特有の考え方です。
(中華思想と呼ばれます)
明や清王朝はこの朝貢貿易以外の交易(私貿易)を一切認めていませんでした。
私貿易は全て密貿易という扱いでした。

明王朝が下賜する品物の経済的価値は家臣が献上したものよりも大きいのが普通です。
家臣の側から見れば安い品物で高価なものが入手できますから、貿易としては常に黒字ということになります。
この利益を狙って偽者が献上してくるのを防止する必要があります。
この船は正式に日本からの献上品を搭載した船です、ということを証明するのが勘合符です。
勘合符を所持した船は1401年~1547年の間で総計84隻です。
日明間での交易全体に占める割合は微々たるものです。

つまり、身分証明書ではありますが、安全を保障する効力はありません。
海上で海賊船に襲われようが、襲われまいが明王朝の与り知らないことです。

倭寇という言葉は、中国や朝鮮王朝で使われていた言葉です。
沿岸を荒らしまわる武力集団の総称です。
内容は、武装商人、日本人の海賊、中国人の海賊、ポルトガル等のヨーロッパの海賊と多岐にわたっていました。
この武装商人の中に、九州一円の大名船や博多などの商人船も含まれています。
もっとも頻繁に渡航したのは朝鮮半島です。

護送船団という考え方は存在していませんでした。
ただでさえ積載量に制限のある船に警備兵などという無駄な要員は乗せていませんでした。
乗務員が即戦闘員です。文字通り自己責任で身の安全を守りました。

海賊船と言っても、カリブの海賊ではありません。大砲をぶっ放して襲ってくるわけではありません。
船を接近させて乗り込んで白兵戦を広げるだけのことです。
こんな手間暇をかけて海上の勘合船を襲うくらいなら、中国なり朝鮮の沿岸に上陸して略奪したほうがよほど効率は良いです。
広い海上で当てもなく勘合船を探すなどという無駄なことはしませんでした。
さっさと中国大陸や朝鮮半島を目指しました。

以上がざっとした説明です、何か疑問があれば補足をお願いします。

蛇足
足利義満は、明との交易による利益欲しさに在職中にいろいろやりましたが、朝廷の家臣であることから上手くいきませんでした。
そこで引退して自由になったところで勝手に日本国王と名乗って朝貢を始めました。
息子の義持は、オレは親父とは違い他国の家臣ではない、といって止めてしまいました。
義持なき後、利に目がくらんだ連中が再開しました。

足利幕府には倭寇を働く九州沿岸の人間を取り締まる意志も能力も持ち合わせていませんでした。
明や高麗、李朝鮮は盛んに取り締まりを依頼してきますが素知らぬ顔でした。
倭寇として沿岸を荒らしまわっていた連中を排除したのは、北九州一帯の諸大名たちでした。
目的は、中国や朝鮮との交易の独占です。
倭寇を排除するのには有効だったことから、明王朝や朝鮮王朝はこれらの諸大名の交易は黙認しました。
これを組織的に徹底的にやったのが秀吉です。
秀吉の時代になってからは朱印船制度というものを設けました。
臣下の礼を要求する勘合などということを秀吉は受付ませんでした。
やがて朝鮮出兵へとつながります。

>「日明貿易の際、正式の貿易船と倭寇を区別するために合い札である勘合符が使われた」
相当に簡略化した説明です。
誰が、何のために区別したのか、ということを理解される必要があります。
勘合符を要求したのは、明王朝です。
貿易船となっていますが、この時代の日明間の貿易は現在の「貿易」とは形態も考え方も全く異なるものです。
当時の貿易の形態は朝貢貿易と呼ばれるものです。
朝貢貿易というのは、平たく言いますと、王様のところへ家臣が貢物をもってご挨拶に行き、それに対するご褒美として王様が...続きを読む


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