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仏教という異質な文化要素が入ってきたとき、今まで築いていた日本文化はどのように変容していったのでしょうか??
そして仏教も日本に入って来た事によって日本的な変容をしたのでしょうか??
仏教伝来直後から平安時代くらいまでの、初期段階の変化を教えてほしいです。

A 回答 (1件)

 


回答は昨日書いてみたのですが、難しい問題でもあり、何かいい加減なことを書いている気もしましたので、他の方の回答を拝見させていただいてと考えていましたが、他の方の回答がありませんので、登録します。

仏教は、中国、特に、(随)・唐朝の制度や文化とセットになって日本に入って来ていますので、日本文化への仏教の影響という部分だけで、分けて考えることができない面があるのです。(仏教伝来が大きくクローズアップされますが、儒教や道教も入って来ているのです)。

また仏教は、インドですでに多様化しており、中国に伝来して、道教などと習合し、変容し、それがさらに日本に漢文訳仏典などと一緒に入って来た訳です。

「日本文化への影響」

仏教は、中国には、1世紀から2世紀頃に入ってきたとされます。日本には、6世紀から7世紀頃、飛鳥時代に、物部氏に対抗する蘇我氏が、「先進文明」の象徴として仏像や仏具、仏典などを導入して、物部氏の古代神道に対抗しようとしたとされます。

しかし、蘇我氏は朝鮮半島出身だという説があり、日本の大和の大王家も朝鮮半島出身だと言われていますから、中国から朝鮮半島に伝播した仏教を、更に、蘇我氏や大王家が大和に導入したのだということかも知れません。

しかし、記録上の仏教伝来からわずかな年月しか経過していないのに、聖徳太子は、仏教に深い理解を持ち、彼こそ、日本の仏教の興隆者とも言えます。とはいえ、聖徳太子は「十七条憲法」において、日本古来の「和の思想」をときました。

「和の思想」とは、縄文そして激動の弥生を通じて、長い年月をかけてできあがった日本列島の伝統的な「文化の思想」とも言えるものです。聖徳太子は、深く仏教思想や文化を知っていたが、しかし、為政者として、日本の文化伝統を維持するということは知っていたのです。

日本の文化伝統は、実は、長い縄文時代を通じて築かれた、この「和の思想」で代表されます。何でも取り入れて、すべて「丸く収める」というのが、日本の伝統です。

この伝統は、仏教をも飲み込みます。しかし、日本文化に仏教は大きな影響を与えます。聖徳太子の後、その子孫を皆殺しにした大王家は、天智・天武に至って、日本を、当時の先進大国、隋・唐にならって、法治国家つまり、当時の現状では「律令国家」として形を整えるのに努力します。

それは「律令」の制定と実施も含みますが、唐への対抗としての「国史」の編纂に始まり、原始的な形であった日本古来の宗教、神道を、律令国家神道として、秩序化し、例えば、伊勢の斎宮を置くと共に、天照大神を最高神として祭り上げます。(伊勢の斎宮は、天武のときに始めて置かれたはずで、これは「壬申の乱」と関係しています)。

その他方で、仏教も、律令国家仏教として、聖武において頂点に達するように、全国に国分寺を造るなどして、「国教化」をすすめ、仏教によって、国家統一と国家秩序の構築を試みます。聖武の娘、称徳は、みずからも入道となり、かつ唯識派の仏僧、道鏡を天皇にまでしようと画策します。この試みは、行き過ぎであるとして阻止されます。

日本の伝統的宗教、伝統的な死生観・世界観はシャーマニズムであり、祖先崇拝、ないし祖先回帰の「循環的時間」の自然宗教が主であったのですが、仏教は、高次元な、生死や世界についての形而上学的思想をもたらします。

死ぬと、祖先の国に行き、ふたたびこの世に循環して戻ってくるというシャーマニズム的な死生観に、大乗仏教の精緻な「輪廻の理論」や、因果応報、縁起の説などが重なって行きます。

仏教は、律令と並んで、国家の基盤であり、仏教の戒律は、広く貴族・庶民のあいだに流布して行き、死生観や人生観、世界観にも仏教的諦観や輪廻思想、因縁思想が浸透します。戒律の流布は、それまで獣の肉を食べることに疑問を抱かなかった日本人に、肉食のタブーの文化を築きます。また、慈悲の教えより、奈良朝より平安朝にかけ、死刑が事実上なくなります。(死刑は、武士階級が台頭した鎌倉時代になって復活します。平安時代を通じて、死刑が法律上も、実際の政策上もなくなったのは、仏教の影響です)。

平安時代に至り、神道のシャーマニズム的世界観と、仏教の教学・戒律、そして呪術的迷信が複雑に習合した、独特の文化が構成されます。仏教の儀式と神道の儀式は別のものなのですが、区別が、実践的には曖昧になってきます。

盛期平安文化は、こうして仏教と神道によって、日本が国家的安定と平和を実現した中で、熟成し、貴族は神仏に帰依しつつ、権力闘争に明け暮れ、他方、紫式部や清少納言は、日本古来の伝統を背景にしつつ、仏教的世界観が濃厚に反映した芸術作品を生み出すことで、仏教とシャーマン宗教のシンクレティズムによる、独自の「平安日本文化」の成立を明らかにします。

仏教は、その体系性により、日本の国家統一・文化統一に寄与し、また原始シャーマニズム宗教だった神道を体系化させ、両者のシンクレティズムが日本の平安文化を生み出したのだと言えます。「和の思想」は、仏教を日本文化に吸収し、日本文化は、また自己変容したのです。

「仏教の変化」

仏教は、原始仏教、アビダルマ仏教、そして小乗仏教と大乗仏教の分化という過程をとりました。さらにそれは密教にまで進みます。

インドの段階で、「法華経」はできあがっており、密教の原型もできあがっていたとも言えます。しかし、仏教は中国に伝来することで、道教と習合を起こし、仏教の漢語用語は、多く、道教の用語が転用されたり、そこから造語されたものでした。

日本列島に渡って来る前に、仏教は、中国を通過することで、中国仏教に変化していました。玄奘三蔵は、サンスクリット原典を求めて遠くインドにまで旅をしますが、持ち帰った原典は、中国語に翻訳されるや、散逸、湮滅します。また玄奘の翻訳は、原典の意味を歪曲しているとの批判もあります。

日本に入ってきた仏教は、最初、有り難い仏像などで、まじないの道具の一種でした。しかし、聖徳太子は、早くも、仏教の教理を理解し、哲学的思索に入ります。彼は、大乗仏教唯識派の教えを知りました。

聖武の仏教も、唯識派で、唯識派は、強固な論理構造と、人間の意識構造についてのかなりに高度な実証的知識による裏打ちを持っていました。しかし、空海などが中国から密教を伝来し、仏教は、神秘性・呪術性を高めます。

平安時代にもっともポピュラーだった仏典は「法華経」で、法華経は、数ある仏典のなかで、もっとも呪術性・神秘性の高いものの一つです。原始仏教は、反呪術と合理的思想で、人間の生死を看破したのですが、中国仏教を通じ、日本に入ってくると、仏教は、国家仏教となり、また呪術仏教となります。それは、シャーマニズム宗教とシンクレティズムを起こした仏教なのです。

平安時代における、この仏教の日本化、強固な論理構造を持った仏教も「和の伝統」のなかで、呪術宗教となった事態に対し、次の時代の鎌倉時代に、本来の仏教の姿を求めて、鎌倉新仏教諸派が起こるのです。しかし、それは、ある意味、平安シンクレティズム仏教を前提としてだとも言えます。
 
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございました。
日本文化への影響と仏教の変化、それぞれとてもわかりやすかったです。
仏教は死生観など精神的な面でも、日本に影響を与えているのですね。

お礼日時:2003/01/18 16:10

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