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形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いてみたものの、実証主義者が言うように、
形而上学はまったくのたわごとにすぎないんじゃないか?という疑問でかなり悩んでいます。

観測できる世界とは形而上学とは理論によって結ばれており、
理論の先にはもう何も存在していないと宣言できるような理論をつくることはできない、という指摘もありますが、
そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?と悩んでいます。
そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

わかりにくい駄文ですみません。どなたか、詳細かつわかりやすい回答をお願いします。

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A 回答 (8件)

経験を通して、、



例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんかんを起こす人の中には、別ワールドを知覚したと認識する人もいる。
一箇所に過剰な電流が放出され、別ワールドにトリップして快楽の頂点に達し、天国に行った気分になるのだそうです。

そういう体験をした人は、その幻を、現実体験した認識する。

「所詮 君らのような凡人にはわからんだろう」となる。

ええ、麻薬もやったことないし、てんかん発作も起こらないので、幻を見れませんから・・・。


我々は地上にいるとき、象3頭分くらいの重力を脳は受けているらしい。
その状態で認識したり思考している。

宇宙は無重力。
宇宙から帰った人は「私は神と出会った」とか言う。
民間宇宙飛行士として搭乗人も、「君らにはわからんだろう」みたいなことを言ってた。
彼は高尚な経験をしたと言っていた。

てんかん発作を起こした人も、似たようなことを言っている。
説明を求めるとごまかす。
説明できない。が体験したと主張する。
何をと聞いても説明しない。
「言っても所詮君らにはわからんだろう」とごまかす。

民間宇宙飛行士が体験したこと。高尚な世界? 神と出会った? 
無重力の中に長期にさらされたため、脳の思考が通常と違う回路になり、それで幻覚を現実体験したとしか思えなくなったのんじゃないかと。

ま ともかく、その人はそれ以降 庶民的な人だったが、なんか高みに上ったかのうな態度になってしまった。


脳が壊れた?
というより、気圧により、人間の脳の思考の範囲が決まり、通常ほとんどの人は1気圧の中で生活しているので、そんなにとっぴなワールドを認識しないのではないかと。


ところが、麻薬や気圧の影響を受けていないのに、特殊な認識をする人もいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA% …

この人は、その特殊な認識をする人を研究している人。

この人に影響を受けた人は「脳の中の幽霊」という本を書いた。
人間には神を認識するモジュラーがある とか推論を書いています。
あるというより、そう認識することになった理由を推定している。


その本の中で名前は忘れましたが、ある人は自分の両親を、自分の親とそっくりだが、偽者だとしか思えない症状があった。

声だけ聞かせると、親だと思うが、対面すると、親とそっくりだが別人だと言い張る。

その人は親だけに対してそういう反応をする。
他の友人には「そっくりだがお前は偽者だ」と言わない。


どうして声だと親だと認識できるのに、視覚でも親と同じだと認識できるのに、偽者だと思うのだろうか この作者は考えた。

で、仮説として、人間は特別な親しみ」を感じるかどうかで、親だと認識するのではないか という。

その特別な親しみを感じる部分が障害によりうまく機能しないと、親に会っても、特別な親しみを感じないので、親だと認識できなくなるのではないかと考えた。

じゃあ、人間はどの部分により親しみを感じ、どの器官が壊れると、親しみを感じなくなってしまうのか ってことになるんですね。


親しみを感じるってのは、精神的なものですよね。
親しみを感じる機能が壊れるって現象は、物質界ですよね。

脳科学は物質界ですが、それを研究することで、精神世界のなりたちがわかるようになるのではないか と研究されだしている。

それが盛んになったのは、皮肉なことに湾岸戦争とかが起こってから。
化学兵器は、外的損傷を与えず、脳にダメージを与えることができる。
湾岸戦争から帰ってきた人は、外傷が無いのに、精神病患者にそっくりな症状を起こしていた。

それで、脳科学が注目されるようになったらしいです。



>そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

親しみを感じたり、憎しみを感じるって意味があるか?
あるとしか思えません。
物事に対して、何にも感じないのなら、植物と一緒じゃないですか。
オリンピックで日本人は日本を応援するが、日本が負けたら、他のアジア諸国を応援したくなるでしょ?
人によってはサッカーで日本が早くから負けていたら、サッカー王国に挑む国を応援したくなる。
植物はそんなことしないです。
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存在するものは、可能性として、知覚することができます。


しかし形而上なるものは、存在しません。
つまるところ、形而上学は、形而上の物事を知ることができないのです。

例) フロギストン
フロギストン説という学説をご存知でしょうか?
燃焼素・燃素と訳されることがありますが、酸素が発見される前に使われていた燃焼プロセス理論です。酸素が見つかったことで、破棄されました。いまでは、間違った理論も体系的構造を持つことができるということの「たとえ」としてよく使われます。

心理学や物理学を信じたい人・心の糧にしたい人が多いようです。それは自由。でも、なぜ形而上学と現代人が信じている理論を無理やり結び付けようとするのでしょう。「形而上」という言葉が、なぜそんなに大事なのか正直理解しかねます。

アリストテレスを研究する前に形而上学を云々するのはどうかと思います。

質問自体の意味を問い直す為自問します。

「アリストテレスは、形而上という言葉をみずから用いたのでしょうか?」

傾向として、ゲームやら映画やらで神の存在を前提とする考え方(ここでは形而上学)が、無意識のうちに広がってきたことも事実でしょう。

キリスト教的な考えにも、学ぶことは多いのかなとは、思いますが、まわりのひとに目を配って改めて考えてみると、「西洋的神」云々が、大事なのは、結婚のとき/オンラインゲームのプレイ中だけだというのが、どうも頭から離れません。

「形而上学がなにげなく存在している」ということ自体が、必ずしも「形而上なるものが存在する」ということへの証明には
ならないでしょう。

この事実は、この場を借りて確認しておきたいなと想っています。
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> 詳細かつわかりやすい回答をお願いします。


そんな、難しいことを・・・

ご質問の趣旨からそれますが
少々思いついたことがあるので書かせてください。

> 形而上の世界のものごととはまったく性質の異なるものかもしれない、
> ということもあるんじゃないでしょうか?
例えば、量子力学の世界では今
(私の量子力学知識は書籍の受け売りですが)
5次元で物理学を考えている人たちが多いそうですね。
でも、量子力学者だってわたしたちと同じ3次元の世界に住んでいます。
3次元に住んでいる以上、3次元の世界の経験を通じてでしか
5次元以上の世界のことを知ることは出来ません。
量子力学者たちは、観測した素粒子の振る舞いを
5次元運動する物質が、3次元+時間の4次元時空を通った「軌跡」と捉えるそうです。
既知の事例かも知れませんが
平面上では球体は円として姿を現します。
球体(3次元)が平面(2次元)を横切ると、その軌跡は
最初は点、徐々に大きな円になり、再び小さくなり、最後に点になり消えます。
このような事例を発展解釈し、素粒子の振る舞いの観測結果から
5次元の時空間の在り様を想像しているそうです。

> そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?
これは「大前提」だと私は考えます。
5次元の時空間は、3次元に住むわたしたちには
数学的な抽象概念としてでしか考えることが出来ません。
量子力学者たちでさえ、直感的には理解できない空間だと言います。
なぜ量子力学者たちがこのような空間を考えるかといえば
素粒子の振る舞いが3次元世界の物理法則(ニュートン物理学)では
説明できないからです。
例えば(例えが悪いかも知れませんが)
神をわたしたちの理解の範疇で解釈するのは間違い、すなわち
神をわかりやすく説明する行為は間違っていると思います。

> 形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
知る、というのは難しい概念だと思います。
他人の心を知ることは出来るのでしょうか?といった視点からの発言です。
まあ、細かいことはさておき
量子力学者たちは実験結果から5次元時空間を仮説づけ
その仮説に基づき新たな実験手法を編み出し、仮説検証をする
といった行為を続けています。
仮説どおりの結果が出たからといって、時空間の本当の姿を知ることには
まだまだ至らないでしょう。
概ねこの方向で考えていってイイのではないか?ぐらいのことですよね。

> そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?
意味、というのも難しい概念だと思います。
実益を生まない行為は無意味だ、といった前提があるのでしょうかね。
例えば(またたま例えが悪いかも知れませんが)
子作りを目的としない快楽のためのSEXには意味があるのでしょうか?

わたしたちは抽象概念が発達した生物種だと言われますが
よって、抽象思考に快楽を感じることが出来ます。
極論すれば「たわごとを楽しむ」ことが出来ます。
漫画を楽しむことも出来ます。
漫才を楽しむことも出来ます。
こうやって意見交換?を楽しむことも出来ます。
楽しむことは意味のない無駄な行為なんですかね?
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  形而上学は存在とか絶対者についての学問でり、生の根本構造についての学問です。

それは生きている存在なので、我々の生としての精神の経験を還元しながら把握していくことになります。形而上学には原理があります。善のイデア(プラトン)、現実態(アリストテレス)、モナド(ライプニッツ)、自然の合目的性(カント)、自然と理性の同一性(シェリング)、弁証法(ヘーゲル)など、それらは生の原理であり、魂の原理です。違った表現を用いていますが、同一のリアリティーに根差し、共有集合をもっています。つまり我々自身の精神の基本構造に基づいて、目的論的に運動する生の構造を反省的言語で模倣しようとします。
  私たちは生きている間にいろいろな経験をしますが、生の目的論的運動の視点から見ると、実はある一定の普遍的な経験をしています。ある一定の運動の中で、善悪の極性の中でのいい経験だったり、嫌な経験だったりします。形而上学はそのような生の経験を自覚化する過程で、いい経験に近づけるヒントを与えてくれるものなのです。そして、生を統合させるような根本的自覚が入ると、絶対者との一体化に近づくわけです。哲学はそれを把握する主体の活用の仕方で生きてくるものです。
ただ現在までの形而上学はまだまだ不完全で、漠然としてしか捉えられないので、もう一歩論理的にならないと実用困難な面があります。形而上学を学ぶ人は生の全体性の統合の相を把握するようにアプローチするとよいでしょう。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/mk6/
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 《やわらか(和)》は 手で触ったり雰囲気で感じたりする知覚としての形而下のことがらです。

そこから そのモノや人間の実在する情況を捨象して 概念だけを取り出せば 形而上のこととなります。
 次のように言うときは すでに 形而上の世界に〔も〕 足を踏み入れています。
 ● (十七条憲法)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たっと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
 (日本書紀の書き下し文 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《和》は 人間の考え方や接し方が 柔軟であることを意味します。仮りにたとえ極端な見解を出したりそのような行動を取ったりしても それによって自己の態度や立ち場が 固定してしまうものではなく あくまで相手との関係において やはり柔軟に あくまで対話において 対処するという内容を示します。
 (ちなみに こういうことを 上から宣(の)りたまうのは いかがなものかと思います)。

 ところで 形而上学は このとき
 ○ なぜ 柔軟になるのか。なる必要があるのか。
 ○ なぜ 柔軟な考え方から ひとは 逸脱するのか。それに対して どうすればよいのか。
 ○ 柔軟と言っても 相手によって いろんな対処の仕方として 幅があると思われるが それについては どうか。等々。
 ☆ これらのことを考えます。

 ★☆ 〔むしろ〕実証主義者が言う〔ことのほうが〕・・・まったくのたわごとにすぎないんじゃないか。
 ☆ と言ってもいいのではないでしょうか。
 ☆ いくら形而上学を展開しても 世の中 ちっとも よくならないのじゃないか? という反論に対しては そうかも知れないと答えておけばよいでしょう。自分が 実践をつづけていけばよいのです。研究の実践だけではなく 人生として・生活としての実践です。
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 No.3のkigurumiさんのご回答は非常に示唆的で、私も納得です。


 そういう中で、形而下の研究で形而上のこと(麻薬も使わず、気圧の異なる世界にもいかないものでも)を扱うことがずいぶん進んできているのでしょう。脳科学とか神経とか、心理学とか。
 出てきた知見というのは形而上のことではなく、形而下の内容ですよね。そういう研究と結果ですね。
 形而上のことを形而下で、申し述べていることですね。
 それもそれで意義のあることですが、形而上の内容ではないですね。
 したがって形而上の認識・経験自体は、形而下の研究ではもてないということなのではないでしょうか?
 虫のいろいろな研究は成果として出てきます。
 虫自体の経験は研究成果としては出てきません。
 人間における形而上の経験や認識は、それをすることに意味性、つまり存在性があるのだという考えもありえるのではないでしょうか。
 価値の問題、理念の問題。それをこういう状況と歴史、心理、そして階級の中の生成であるということ、そういう分析はそれでいいでしょう。
 しかしそれは価値を生きる中のことにはなっていない。
 形而上というのは、形而下の研究で済まないのだという思考の人もいると思います。それに対しては形而下の研究は意味がもてないとぞんじます。
 このことは、いつも冷たい分析思考の対象されてきた、私の中学からの経験でした。50年も続いてきております。
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アインシュタインが「最も理解しにくいことはこの宇宙が理解可能であうことである」という意味のことを書いていると聞いたことがあります。

形而上学の究極の対象は自分(とは何か)だとするとアインシュタインが言っている意味が理解できるような気がします。対象を理解しようとしている自分(という対象)だけは理解できないということだろうと思います。自分という対象を除けば対象が形而上とか形而下かという区別は理解の対象という点で考えればあまり意味がないのではないでしょうか。
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>>形而上学には本当に意味があるのでしょうか?


おもしろくかつロマンチックな質問です。w

本質な哲学者および科学者は常に形而上学者である。
私はそう思っていますが、この議論はとりあえず置いといて。

この場では柄谷行人のカントについての言説を私なりにまとめてみます。
例えば、物自体という概念。
人間は、もの(もの事)を認識するとき完璧にはそのものを認識することはできない。
物自体(形而上学)をだから決して人は認識することはできない。

これは二元論そのものだという通説に対して、柄谷行人が唱えるのは次の点です。

物自体とは倫理に関わることである。

これはどのようなことかと言うと、
例えば、ある科学者が「~はaである」と定義する。
しかしそれに対して反論するものがいる。
だが定義した科学者は絶対的に私が正しいと反論者の意見を徹底的に退ける。

この例を例えば遺伝子組換え食品は大丈夫だとする科学者に対する市民の声としてもいいでしょう。
つまり、確かに遺伝子組換え食品は安全かも知れないが、「本当に未来において」大丈夫かは誰も分らない、ということです。
この「本当に未来において」というのは私達の子孫であり、「他者」です。

もう一度まとめると、
私たちは常に物事を判断しなければならないが、

その判断は常に正しいとは限らない。
なぜなら物自体を知ることはできないから。

つまり、思考するということは同時に「他者」を想定すること。
それは同時に倫理にも関わることである。

形而上学とは、
自己言及性に基づいて物事を追及していく本質的な思考だと思います。

参考文献 『トランスクリティーク カントとマルクス』 柄谷行人 
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この回答へのお礼

素人のわたしにはむずかしすぎました。内容も難しいのでどう返事したらいいか迷っていました。
この場を借りてみなさんにお礼と謝罪をさせていただきます。
とりあえず、わたしなりにお礼をさせていただきます書かせて頂きます。

お礼日時:2008/12/11 08:17

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Q形而上・形而下

形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、
(1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか?
●商品は形而下で、価値は形而上である。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。
上記の2つの文は、間違っていないでしょうか?
質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。

Aベストアンサー

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。

「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。

簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼は、観察や実験を通じて、実証的、合理的な、「自然」の研究を行いました。それは、現代の自然科学の祖先とも言えるもので、「合理性」「実証性」というものが強調されていました。

「自然」というと意味が広いのですか、一応、「この世界」のことだと考えるのがよいです。この世界とそこに含まれると考えられる色々なものが「自然」であるのです。

飛躍した言い方になりますが、この意味での「自然」が、大体「形而下的世界」と似たような意味です。この世の事物やできごとは目に見えますし、感覚で知ることができますし、形がありますし、「超自然的」ではなく、自然的で、西欧の思想で特に意味を込める「精神」はこの世界に属さないとも言えます……精神は、目に見えたり、感覚で知られたり、形があるでしょうか?

「形而下」というのは、日常的な自然ということだと考えていいのです。

「形而上」というのは、それに対し、「超自然」とも言えます。「形而上学」は「超自然学」でもあったのです。

アリストテレースの構想では、自然についての学問は、感覚などで得られる事実などをまとめ、これを理性で、合理的に整理し、その秩序などを研究するものでした。

しかし、このような自然学では、捉えられないもの、扱えないもの、事象がありました。「形而上学」では、「存在する」ということはどういうことなのか、世界の存在の根拠や理由、目に見える自然現象の背後の「神的な秩序」などの探求が課題とされていました。

アリストテレースはまた、自然学以外に、「倫理学」つまり、善や価値や、人間の行為規範や正義や理想などについての学問を考えていました。神や宇宙を造ったものなどの考察は、形而上学の範囲ですが、善や真などとも関係して、「イデアー」や普遍論理の問題も自然学とは別だと考えられました。

イデアーというのは、高度に抽象化された「形」や「性質」の本質のことになりますが、これは、神のようなものだとも考えられました。

アリストテレースの色々な考えは、西欧中世の神学や哲学に取り入れられます。そこでは、神や神に関係した普遍的永遠的な、イデアー的な世界や事象を、神学として研究し、このような研究の対象を、「形而上学的存在」ともしました。

そこでは、目に見えない世界、つまり、神の世界や天国などが、形而上のものとされ、また、神が授けた人間の霊魂、つまり「精神」も、その本質は形而上的なものとされました。神は善であり真であり美であり存在であるので、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」「存在そのもの」は形而上的であり、精神の機能である「知性」や、「概念」も、普遍概念として、イデアーと共に考えられ、これらも形而上とされました。

この中世西欧の「形而上学」の形というか、定義が大きく後世に影響します。

「愛」は例えば、形而下的なものです。しかし、神への愛や、精神的な高貴な愛は、例えばプラトニック・ラヴとして、形而上的と考えられました。

物質や肉体や、地上の目に見える事物に関係したことや、それらは、形而下的なこと・ものです。人間の心や意識や思考なども、感覚などと同様、形而下的で、概念や価値も形而下です。

しかし、人間の精神は形而上的であり、イデアーである、真、善、美、存在なども、そのもの自体は形而上的です。善に関係する道徳や倫理、社会規範、正義なども形而上的な位相があるとされ、美を分有すると考えられる芸術作品には、また、形而上的な何かがあるとされます。

神あるいは存在の根源者を囲んで、目に見えない、彼方の世界(霊的世界・普遍的イデアー的世界)に、「形而上的世界」というものがあると考えられると、分かり易くなります。

地上の自然の事物や出来事や、人間の世俗社会などは、形而下的世界だと考えられ、そこに属するものは、形而下的です。しかし、彼方の形而上的世界から、「普遍の光」のようなものが、地上に射して来るのであり、形而下の事物のなかにも、形而上的要素があるということも明らかになることもあります。

この地上、自然世界、人間の社会、人などは、形而下にあるのですが、自然は、存在や美や目的を通じ、人間の社会は、善や倫理や真理や芸術を通じ、形而上世界と交流しているとも言えるのです。また人も、精神としてイデアーとして、知性として、形而上的な要素を持ちます。

形而上とか形而下というのは、思想家で使う人によって、意味範囲が違いますし、場合場合でも、何を指すか、曖昧なものがあります。

>●商品は形而下で、価値は形而上である。

貨幣経済において、商品は無論、形而下ですし、商品価値のようなものは、形而下です。

>●貨幣は形而下から形而上に変化した。

貨幣は、人間の社会や精神と関係する何かですが、普通、貨幣を形而上とは言いません。形而下のことです。

肉的な愛を、形而下的愛とし、プラトニック・ラヴ(精神愛)を形而上とする考え方はありますが、そうではないという考えもあります。完全な形而上的愛は、人の魂が、この世を離れて後に実現するというような考え方もできるのです。

概念については、概念を普通、形而上などとは言いません。言葉や概念は、この地上にある精神機能に付帯するもので、形而上的精神との関係が密接ですが、あくまで地上のものです。

しかし、天使の言語とか、概念の根源にあると考えられる「普遍的概念」のような、非この世的なものは、形而上的と考えられます。

正義や善や倫理や美も、その普遍的・イデアー的側面が、形而上的なのであって、それら自体は、形而下です。

アメリカ人が、聖書に手を置いて、裁判所で宣誓するのは、少なくとも、その身も言葉も証言も、この世のもので、形而下であるが、神への祈りを精神を通じて行い誓うことで、世俗の、地上の、形而下的世界の思惑や利害を離れ、純粋に、「真理」を善の意志に基づいて行うことを誓うので、神という形而上的存在と人間の精神の祈りのあいだで、証言に「普遍性」、ある意味の「形而上性」を与えるためにするのです。

しかし、これによって、証言が、形而上のものとなる訳ではありません。「真理」や「正義」は、真に神のみ知りたまうのです。形而上の真理や正義との「結びつき」を試みようとするのが、この宣誓です。

「形而上」というのは、日常生活で出会う出来事や事物や経験や、思考や構想に、簡単に名付けられるものではありませんし、そういう使い方をすると、何を言っているのか分からなくなります。

日常生活で出てくるものや扱うもの・こと、科学・自然科学で扱うもの・ことは、すべて形而下だと考えるのが、無難です。概念も、言語学の対象でしか過ぎません。ただ、「言語の本質」という問題になって来ると、「言語哲学」が成り立つように、形而上的問題が関係して来ます。

「形而上と形而下」について、以上、かなり丁寧に説明しましたが、「抽象性の高い言葉」は、色々な情報や知識や、その言葉が使われる場面、その言葉の由来や背景の事情などが分かって来ないと、普通、分かりません。

早急に答えを求めるのでなく、時間をかけて、学ばねばならないことです。

「形而上」というような言葉は、西欧哲学の伝統的用語ですから、そんな日常で使う言葉ではないのです。

また、19世紀から現代に至るまで、「形而上学批判」を多くの哲学者が行い行っていますが、そもそも、これらの批判する「形而上学」は、批判する者で色々な意味に捉えられており、色々な人が論じているので、分かり易いことだろうということは、まるでないのです。

むしろ、何か分からない問題が多々あるので、形而上学について、色々な見解があるのです。
 

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語され...続きを読む

Q形而上 と 形而下 の意味を具体例で教えて下さい。

形而上

形而下

の意味を具体例で教えて下さい。

Aベストアンサー

形而上:心、霊、法則、理論、芸術、宗教、神
形而下:肉体、物質、現象、行動、科学、人間

Q形而上学・形而下学の語源

この前、辞書を読んでいた時に形而上学という言葉を見つけました。すごく不思議な言葉なんですが、「形而上学」という言葉はどうやってできたんでしょう?

過去の質問に、明治になって西欧から文化が取り入れられた際に「metaphysica(metaphysika, metaphysique)」の訳語として造成された、という説明がありましたが、西暦何年に何をやっている誰々さんが作った、というような具体的なデータはないのでしょうか?
あと、「形而上」って何でしょう?訳語を新たに作るとなると、その訳に根拠……日本語の場合は漢字を使って意訳するか仮名を使って音訳するか……があると思うのですが、私は形而というものを見た事がありません。

ご存知でしたら教えて下さい!

Aベストアンサー

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムのなかでは、呼ぶに相応しいようです。

「タ・メタ・タ・ピュシカ」とは、「ピュシカの後の本・学」という意味で、「ピュシカの後」という意味ではなく、この場合、「形而下学」の後・次に来るのが、「形而上学」であるというのは、自然であるとなっています。

つまり、形而上のことを扱うので、「形而上学」ですが、他方、ロードスのアンドロニコスの配列によって、「ピュシカ=自然学諸本」の後に置かれたので、「形而下学の後の学」とは、認識や智慧の階梯順序からして、それは「形而上学」のことで、ta meta ta physica を訳すと、「形而上学」となるのだとされます。

>http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r-metaphysica-1.html

--------------------------

なお、「易経」というのは、儒教において尊重される四書五経の一つで、簡単に言えば、「占いの本」ですが、これは「世界の構造についての概論書」だとも言えます。「易経的世界把握」とでも呼べばよいのか、陰陽の二元構造の反復で、世界は成立しており、世界の運動や現象も、この陰陽二元構造に基づくパターンで成立しているという考えです。

「陰」でも「陽」でもない根元を、「太極」と言います。これが陰陽の二元に分離し、「陰」と「陽」の両儀となります。陰と陽の組み合わせが更にあり、「陽陽」「陽陰」「陰陽」「陰陰」の四つのパターンができ、これを四象と言います。これが更に分化して、「陽陽陽」「陽陽陰」「陽陰陽」「陽陰陰」「陰陽陽」「陰陽陰」「陰陰陽」「陰陰陰」と八個のパターンになると、これを、「八卦」と言います。

八卦を上と下で組み合わせると、六十四のパターンになり、六十四卦で、この六十四が、世界のありようや展開運動の基本パターンとされます。

戦争などで、現在の状況や、未来の展望を知りたい場合、偶然で、陰か陽が出るようにして、このプロセスを六回行うと、六十四卦のどれかが出てきます。出てきた卦が、現在の状況を示していて、これがどういう意味かを読みとるのには、易経の「解釈文」を使います。

世界のありようを、六十四のパターンに分けて、把握するのだと言えますが、これは未来の展開を知ることができるので、「占い」に使えるのです。

「陽」が六回出てきた場合、「乾(けん)」と言い、「陰」が六回出てきた場合は、「坤(こん)」と言います。「乾坤」で、天地とか、宇宙の意味になります。「乾」は天を表し、「坤」は地を表すからです。

>http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/gogyo/ss1.html
 

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムの...続きを読む


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