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ジョン・ケージの4分33秒
十代のころは「かっちょええ!!」「斬新やん!!」とか、
思ってたのですが、最近なにが良いのかさっぱり分からなくなってきました。

人はもともと、鳥の囀りや、虫の声、木々のざわめきなどを、
「音」として楽しんでいたのではないのでしょうか?
それを、なんで、わざわざケージに、「音を開放する」だの「偶然性」だの言われないといけないのでしょう?

4分33秒が作品である以上、音を作品の中に閉じ込めてしまっているので、全然音を開放していない。

むしろ、無意識に自然の音を聴いて心を和ましているほうがよっぽど音を開放している。
しかも、たちの悪いことに、今まで自然に自然の音を聞いていたのに、ケージのせいで「あぁ、この自然の音も音楽なんだなぁ」とか一々意識するようになってしまい、音を自然に聞くことが出来ず、音を閉じ込める結果になってしまう。


大体、金払ってコンサートホールまで来た客は、「音」を聴きにきたのではなく「音楽」を聴きにきたのだから詐欺だ。


私は、ダダの無音音楽は好きなんですよ。
それはダダとしてのちゃんとした、意味の無い意味という意味があるから。

ケージはごちゃごちゃ言ってるけど、結局はただの三歳児の屁理屈にしか思えません。

どうして、こんなに評価されているのでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

音楽家にとって 


休符は 楽曲にとって もっとも大事な音符の一つです。
芥川也寸志先生は 著書「音楽の基礎(岩波新書/1971年)」
において 静寂こそ音楽の基礎であると定義されています。
多くの作曲家の言葉や 著書にも 「休符を演奏する」という
表現が多く見られます。
音を休むとか出さないのではなく 積極的に無音を発する~~
休符を演奏するといった意味です。

無音があるから、音の意義が見える。

4分33秒では、観客は自分のスタンスで 演奏者と主に 休符を演奏しています。
無音の前後に 各人の人生があるとしたら 各人の生き様こそが 音楽であると発見する方もいらっしゃるでしょう。
素晴らしい音空間です。
これぞ 音楽とあらためて感じています。
未来永劫 この楽曲の意味合いは 失われないと感じています。
質問者様のおかげで
自分自身 これまで単なるハプニングと思っていた件の曲が
いま 新たに意味を持って見えてきました。
ありがとうございます。 
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nitoro2さん 私が言いたかったのは、”私はケージの議論には乗らない。

乗り気は全く無い。問題外”と言うことでう。芸術を語るなと言うことではありません。”無音”の音楽?存在し得ないものを議論の対象にはしません。音があれば、議論の対象にしますよ。
身の回りに音楽の専門家が複数いますので、いい加減なことを言う気はありませんよ。
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私は、4分33秒そのものは、いろんな形で50年以上たった今も問題を投げかけるすばらしい作品だとは思いますが、それについてケージが語ったことに関しては、質問者さんと同じく少し疑問を感じていたりしますね。

「音の開放」という言葉とか、一定の時間を区切っているあたり、自ら作品の価値を下げている気がします。

めちゃくちゃロマンティックな音楽に涙したあと、その作品の作り手が「あれはクライアントの希望に沿って作っただけ」なんて語るインタヴュー番組を、後から見てしまったような感覚に近い。

4分33秒はたしかにケージから発せられた作品ではありますが、私が思うに、そもそも作曲家が意図した通りに作品が聴かれる必要なんてありません。
その作品についてケージが語っている言葉は、無視する必要はありませんが距離を置く必要はあると思います。

「いい作品」を定義するのは難しいですけど、その一つには「様々な見方が出来る作品はすばらしい」という考え方があると思います。
作曲家本人の意図を超えて一人立ちし、様々な聴かれ方をされる作品こそ、未来にも対応し、残る可能性のあるものではないでしょうか。そういう意味において4分33秒はすばらしい作品であり、当然50年後の今の時代にもこの通り語り継がれているものだと思います。
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再びこんにちは。


またしても憶測話ばかりのうえ大変な長文になってしまい恐縮ですが。

なお,私自身,明確な答えをもっていないまま回答しており,文中の「?」は質問者さまに,というよりは自分に対しての問いかけですので,その点ご了承ください。


> これは当たり前のことだと思います。何を問題提起する必要があるのかがよくわかりません。

では,どこからどこまでが『音楽』であり,お金を払えるのか?
例えば,私は先日メシアンの演奏会に行ってきたのですが,こんなの我慢ならんという様子で途中で帰ってしまった人もけっこういましたし,最後まで熱心に聴いていた人もいました。
4分33秒を質問者さまが音楽ではないと「思う」のはいいとして,それは当たり前のことなのか?

楽器を普通の意味で演奏するのは常識的に考えて演奏行為でしょうね。
プリペアド・ピアノのような特殊奏法も現代にあっては一応は演奏行為と認められるような気がします。(そうでないと思う人もいらっしゃるでしょうけれども)
では,ピアノの鍵盤のふたを開け閉めするのも(初演時には楽章の切れ目でそうしたとか←4分33秒は三楽章『形式』の『作品』です),演奏家が動いた衣擦れの音も,聴衆の咳払いも,会場の空調の音も,極端に言えば誰も一切の音を(外部に)出していなくても演奏行為と言えるんではないのか?(無響室の無音環境で血流などの身体内部の音を聴いて,完全な沈黙は自分が生きている限りありえないと思ったのがこの作品を作ったひとつのきっかけだったはず)

・・・と,かなりの極論になってきたような気もしますが,この作品自体が,そうした極端な事例を切り取ることで,我々の「思い込み」を顕在化させているのかもしれません。

ベートーヴェンはOKで4分33秒はNG。
だとしたら,OKとNGの境界はどこにある??



> ただし、コメディアンとして。

前衛と道化,実はやっていることはほとんど同じなのかもしれません。
(いつの間にかアーティストになっているコメディアンってわりと多くないですか?)
ケージ本人にとっては,自分が芸術家かコメディアンかなんてのはどうでもいいことで,私たちが勝手に色眼鏡で見ているだけかもしれませんよ。
ケージの人生についてはご存知かも,とは思いますが,ご参考までに。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%F3 …

前の方もおっしゃっていますが,4分33秒の作曲は1952年,いわゆる「現代音楽・前衛音楽」やその他前衛的な芸術はずいぶんと前からすでに存在していたはずです。
ケージとしては,この作品をありがたがっている連中を見てほくそえんでいた部分もあろうとは思いますが,質問者さまがおっしゃるような自己矛盾を抱えてしまうことにもなりますね。
既存の概念を壊して「してやったり」のつもりが,自分がそれを『作品』という枠に収めてしまったがために,壊したつもりが逆に自分がそこに組み込まれてしまったことになる。(意味がないことに意味がある,と言ってしまった瞬間にそれは無意味ではありえなくなる,というのも近い?)
そして,反抗していたはずの権威の側にいつのまにか立たされている。
お笑い芸人が権威ある賞をもらって,授賞式で悪ふざけしたら,「やっぱりあの人はスゴイ」と褒められてしまう。そんな感じでしょうか?(笑)
*実際,京都賞の受賞の際はそこそこの悪ふざけ(スーツが嫌で羽織袴で登場)をしたらしいですし。
ケージの生き様は,こういった矛盾・葛藤を自分自身がよく分かっていたがゆえかもな,と思ったりもします。


ゲイジュツとはなかなかに恐ろしい魔物ですね。
私もこうしてまんまとはまっております(笑)。
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ケージは 啓示に通じますね(笑)。



音楽は 発表された あるいは 作られた あるいは 聴かれた
時代によって 評価も意味合いも違ってきますね。
当然、聴く人の経験値でも違ってきます。
だから ある人が昔 良いと思っていたことが 違って来ても
それが普通です。つまり 時を超えて アートし続ける訳ですね。

何でもありの今の時代
彼の 作品というよりパフォーマンスは 特段の意味を持たないかもしれません。
その意味では、
ポピュラーミュージックが ビートルズ以前と以降に 分けられるように
ピンポイントで考えると
ある種の音楽は ケージ以前と以降に考えられるかもしれません。

ケージは 小野洋子(ジョン・レノンの奥さんですね)さんと
交友関係にあって
例えば、ハプニング・アートについて 語り合っていたようです。

ピアノを プリペアードで鳴らすとか
テープコラージュで音楽を構成する(今で言う サンプリングミュージック)を 既に行っていたとか
スノッブを嫌い クラシック、コンサート会場、権威などを
ぶっ飛ばしたいという まるで ロックミュージックの魂の元祖のような
存在であったとか……
革新的なことに 魂を砕いていた存在。
4分33秒は 1952年の作品ですから、 ビートルズのデビュー1962年の
10年も前の話です。

その反骨精神、チャレンジ精神、実験精神、お茶目な精神~~
の一つの頂点が 件の4分33秒なのではないでしょうか?

ある意味 ケージは とても ビートルズのような存在感を感じます。
実際、ビートルズが レボルーションNO9で テープコラージュを行ったのも 小野洋子経由で ケージからの影響があったものと思われます。
ビートルズの革命的な存在を ケージからも感じます。

YOUTUBEで フル編成の bbcシンフォニーオーケストラ(ローレンス・フォスター指揮)の4分33秒を 観たのですが まったく 自分自身 これまでの
4分33秒感とは違う 何かを感じました。
あの音楽は 観客と主に創り出す音楽でした。
演奏が終わってからの 大拍手!!
イギリス人は 本当に 楽しんで かつ 賛辞を贈っていました。
そこまでも 含めて 大オーケストラと巨匠と 観客~
その三位一体のアート空間を あのスコアは 生みだしていたのだなあと
あらためて感じました。

紙の上の知識とは違う 
空間としてのアートを あらためて感じることが出来ました。

答えには なっていなかったですが ゴメンなさい。
このご質問のおかげで 自分なりの新たな発見がありました。

ありがとうございます。
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この回答へのお礼

こちらこそありがとう!

確かに当時は斬新で新しい意義で「意味」が合ったのかもしれませんが、今となってみるとおかしいですよね。
当時の時代が…「時代という宗教」がケージを賛辞したのでしょうね。

「今の時代の当たり前」で考えると、4分33秒は狂ってる。
音楽で発表するのではなく論文で発表すればいいのに、何でわざわざ音楽を無音で表現したのでしょうかね?

音楽を論文という言葉にしていては、それは結局言葉であって音楽ではない。というのならば、4分33秒を「作品」として結局はコンサートで演奏していては、禅も何も偶然性もなにもあったものじゃないと思うのですが。
なぜならば、「偶然性を演出する」とコンセプトを決めている時点でそれは偶然性ではないから。

ただ、ピアノの前に座って何もしないというのは衝撃的だとは思います。
だれだってまともな人が、街中で基地外を見れば「衝撃的」なのと同じように(注意していただきたいことは、これは、あなたへの批判ではなく私の個人の意見です)。

ただ、ビートルズは、ケージではなくシュトックハウゼンを尊敬していたのではないでしょうか?サージェントのジャケットにはシュトックハウゼンがいます。


私もYOUTUBEの動画見てました。
確かに、コンサートホールで、何も演奏していないのに、大拍手が起きるのは、衝撃的であるし、なんかよくわからないけど、拍手のせいで無理やり感動させられます。
しかし、よく考えてみると、このオーケストラ奏者達と「音楽」を聴きにきた観客は、自分たちを否定されている作品に拍手を送っているわけで、そう考えると、演奏者も観客も結局4分33秒に深い意味は見出していなくて、「4分33秒を理解できる人はセンスが人」という現代芸術の「権威」に対して賛同し、そして、その「権威を理解している自分自身」に対して拍手しているのでは!?



私はこの場を借りて、持論を唱えさせてもらいますた。
なにも、あなたの意見に反論しているわけではありませんので。

お礼日時:2008/12/09 20:09

如何でも良いことではないでしょうか? 何事も、聞いたり見たりした人の好みと言うか、好き好きですから。

私は、”何も音を出さない”ことは音楽で無いと思いますが、ケージは”音楽”と考えているんでしょうね。そう出よいことで、”議論”にはしません。それだけです。
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この回答へのお礼

う~ん、様々な人の意見を聞いていて思ったのは
「芸術を語るべきではない」、または
「芸術はそれぞれ」という意見が多いということですね。
はっきり言ってこんなもの嘘だし、良識でもなんでもないですよ?
先のシュトックハウゼンの例しかり。

大体議論を持ちかけたのはケージのほうですよ?

つまり、こんなもの評価している世の中自体がおかしいともうそろそろ気づくべきなのです。

しかし、私も気づかないケージの良さがあるのかもしれない。
それが、知りたい。

お礼日時:2008/11/27 18:15

こんにちは。


素人の憶測話です。とりとめのない雑感として。


「お金を払ってコンサートホールに行ったのだからなにかご立派でありがたい『音楽』が聴けるべきだ」


・・・という固定観念への課題提起だったのかもしれませんね。

ある人は,「こんなのは『音楽』じゃない」と憤慨し,ある人は,「ケージは革命を起こした!」と賞賛する。
どちらにせよ,「『(西洋芸術)音楽』とはかくあるべし」という先入観があるから起こる反応であり,こういった反応を示すこと自体が,ケージの思惑にまんまとはまっているという(笑)


ことさら意地悪に書けば,ケージはこんなことを考えていたのかもしれません。
(もちろん勝手な憶測ですが)

「あんたたち,わざわざ高い金払っていい格好してありがたがってじっと座ってるけど,何を聴こうとしてんの?『音楽』ってそんなものかい?」

あるいは,

「へー,この『4分33秒』が素晴らしい『音楽』だって?ケージはスゴイ作曲家?オレ,何にも書いてないけど,あんたたち,正気?(笑)」


さらに天邪鬼な見方をすれば,この作品に価値ついて議論していること自体もまた,彼の思惑にはまっているのかも?
ケージ自身がこの作品にそんな価値があると考えていたかどうか?
あるいは,『普遍的芸術的価値』なんてモノが存在すると彼は考えていたかどうか?

・・・ああ,きりがない,笑。そう,きりがないと思うこともまた・・・???


最後に,この作品はいわゆる「コロンブスの卵」であって,何十年もあとの世代があれこれ言うのは,「後だしジャンケン」のようなものかもしれません。
ごくごく個人的には,質問者さまの言葉を借りるならば,(今にして思えば,という前提で)三歳児の屁理屈でシンプルに課題提起したことは,それなりに価値があることだと思っています。
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この回答へのお礼

>「お金を払ってコンサートホールに行ったのだからなにかご立派でありがたい『音楽』が聴けるべきだ」
これは当たり前のことだと思います。何を問題提起する必要があるのかがよくわかりません。

>「へー,この『4分33秒』が素晴らしい『音楽』だって?ケージはスゴイ作曲家?オレ,何にも書いてないけど,あんたたち,正気?(笑)」
これは、私もまったくあなたと同じこと考えてました。
もし、この通りだとしたらケージは評価できる。
ただし、コメディアンとして。

この作品について議論すること事体がケージの思惑にはまっていることなのかもしれませんが、その議論の結論は4分33秒は結局何の価値も無いごみだ。という事に必ず落ち着いてしまうように思います。
結論が問題ではなく議論することの方が重要だとしても、その議論自体に大した意味があるとは思えないし、結局それは音楽は魂で聴くのではなく、論理や精神論で聴くものだ、と言っているようなものなので、音を閉じ込める結果となってしまうような…。


…と考えてる時点でケージの思惑にはまっていることなのでしょうか?
でも、もしそうだとしても結局ケージの言いたかったことってなに?
結局前衛音楽なんて如何様で、「こんなもん評価してる評論家どもと聴衆はお馬鹿ちゃんですねぇ~」ってことでしょうか?


しかし、ケージ信奉者からまだ、一度も回答が無いのが興味深い。

お礼日時:2008/11/27 00:43

現代芸術の形式に影響を及ぼしたからではないでしょうか?


芸術で評価されるのはいつだって形式のほうだと思います。

僕もはっきりいって屁理屈という感じがしますね。
もっと自由であるべきだと思うんですが、頭で考えた自由という感じです。

いったい彼は何をいいたいのかってとこです。
内容は非常に重要だと思います、形式以上に。
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何かに対して自分なりの感想や希望を持ち、論議をするのは表現の自由です。


ただ、他の人があなたでない以上、あなたと違う感想・希望、論議を
する人がいるのもまた表現の自由です。
あなたがケージを嫌いになったのなら、あなたは今後彼の作品を聞かなければ
良いだけのことでしょう。

オークションに大金を払って落札する人も、他の人から見たら狂気の
さたでも当人にとってそれだけの価値を感じるから金を出すのです。
騙されていると思うことを選択しない人にとっては別に詐欺にはなり
ません。

あなた自身の感想も、ある程度以上世間が無視できない絶対数的な
賛同者が出て、アーティスト側がそれを意識した言動をする必要が
あると感じさせられない限りは一意見の域を出ません。

この回答への補足

>「あなたがケージを嫌いになったのなら、あなたは今後彼の作品を聞かなければ良いだけのことでしょう」
はははは。ケージの4分33秒は聴きたくても聴けませんよ。だって無音なんですもの。
ま、これは冗談。

私と違う意見の人がいるのはいいですよ。ただ、4分33秒は、普通にものを考えられる人ならばおかしいということにすぐ気づくはずなんです。

しかし、「表現の自由」だの「意見は様々」だの、だからどうしたの!?と私はあえて言いたい。
そんなの逃げの一言に過ぎないのだと思います。

つまり、よくよく考えてみると4分33秒はおかしいということに、意識的にしろ無意識的にしろケージ賛同者は気づいてしまっているのでは?
だから、まともに論争することが出来ないのでは。


「道徳は道徳であるから道徳なのであって、なぜそれが道徳であるのか考えてはならない。なぜならばそれが道徳だからである」。


つまり、4分33秒は非常に観念的な宗教的な理論の音楽なのだと思う。
ケージ賛同者は、ケージ教の信者たちなのだ。
確かに、ケージ信者は信者なのだからケージに騙されたとは思わんでしょう。
まともに論議すると嘘だということがばれちまうのだ。

つまり、音は開放されていない。

補足日時:2008/11/26 12:36
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>人はもともと、鳥の囀りや、虫の声、木々のざわめきなどを、


「音」として楽しんでいたのではないのでしょうか?

いや、それが少々違うようです。

角田忠信氏の研究はご存じないですか?

氏の研究によると、日本語を第一母国語とする人(これは、必ずしも「日本人」という意味ではありません)と、英語を第一母国語とする人(見た目や国籍が日本人でも、英語を中心に話す環境で育った人を含めて)では、自然音に対する脳の働きが異なるという調査結果を出してます。
(ただし、相対的な話であって、個人差もあるそうです。)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog …

と同時に、演奏者が”能動的に演奏をしない”という点も、今までの西洋音楽の概念からかけ離れたものであったとも言えるでしょう。

そういった意味で、ケージのアプローチは、英語圏の人々にとって画期的であり、西欧音楽の文脈において評価が高まったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

確かに虫の声は国によっては雑音に聴こえたりする場合もあるのでしょう。

でも、角田忠信氏の研究結果は
 >「いろいろな音で、左脳と右脳の違いを調べ
ると、音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、
日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣
き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川の
せせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、
西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった」
とあります。

つまり、西洋人は日本人以上にあらゆる音を右脳で、つまり音楽として
聴いているという結果なのでは!?
その証拠にベートーベンの『田園』鳥の鳴き声を模している部分が在りますし、詩の世界では音が効果的に用いられていますし。

あれ?
ということは、ケージのアプローチは言語脳で音を捉える我我に向けられるべきであって、右脳で音を捉える英語圏の人には尚更どうでもいいことなのでは?

お礼日時:2008/11/27 00:16

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