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日本史について質問です。最近ペリー後に日本が開国を始めた時代から、長州征伐までを本で読んだのですが、わからないところがあります。長州藩のことですが、本では長州藩が尊皇攘夷をたて、京都で幕府を支配し、井伊直弼が結んだ開国を防ごうということが書かれていたのですが、なぜ長州藩は幕府を牛耳るだけの支配権をもっていたのでしょうか?それ以前に、幕府が行った開国に対しての不満が生じ(攘夷論)、その不満を防ぐために、公武合体運動として家定と和宮が政略結婚させられましたよね??
そこで長州藩が、今まで徳川家(幕府)の武家政権が中心社会でしたが、力をずっと持っていなかった朝廷(公家)をいきなり立てて、なおかつそれを使って、攘夷論を打ち出すことによって、長州藩は力をつけたのでしょうか?
本では、家定を京都に呼んだ??と書かれてあったのですが、政略結婚のことをいっているのでしょうか?

教えてください。

A 回答 (10件)

NO5.です。


なぜか、あなたの「補足」がメールで来なかったため「回答」が遅れました。たまたま「覗いたら」・・・。

>>つまり長井雅楽が唱えたこの策には、開国派側にも攘夷派側にも満足させることができる、いわばどっちつかずの文章ということでしょうか?海外と貿易をするけど、完全に受け入れてはいけない、、というような、

(1)朝廷への力説。
「航海遠略策」をまとめた長井雅楽は、文久元年(1861)3月30日、公武周旋の藩命を受け、4月29日に萩を発って5月12日に入京した、と言われています。長井はまず議奏の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる=大納言)に面会して、公武の離間は攘夷・開国の確執にあること、今では破約攘夷は不可能であることを論じた。長井が、
「外国がもし4~5隻の軍艦で九州に臨めば、数百万の士民は、自国の騒動をおいて東上することはできない。京都守衛がおぼつかなくなるだろう。今は朝廷も鴻館(平安時代のような)の昔を思召されて、神威を世界に振るうことを大基本とし、開国遠略の策をもって幕府に臨ませれば、幕府の実行は容易であり、君臣の位次を正しくし、公武一和の道も開きえるだろう」
と弁じると、正親町三条は、
「もし幕府が長州の建白に同意しないときはどうするのか?」
と尋ねた。
それに対して、長井は、
「幣藩はどこまでも穏和手段をとるつもりである。国内に隙を生じさせるようなことは好まない」
と答えたという(『徳川慶喜公伝(長州御往反始末、長井雅楽一件書類・防長回天史より)』)。
正親町三条は同説を喜び、長井に文書にして提出するよう求めた。天皇も建白書を嘉納し、6月2日、正親町三条は長井を呼び出して天皇が喜んでいたとの内意を伝えた。

(2)幕府への力説。
朝廷の賛同を得た長井は、今度は幕府を説こうと、6月2日に京都を発ち、14日に江戸に入った。
7月2日、世子毛利定広は老中久世広周(くぜ ひろちか)に面会して長井上府の趣意を告げ、夕刻、長井は久世を訪問して意とするところを陳述した。久世は大いに喜んだという。さらに8月3日には老中安藤信正に面会し、安藤の同意も得た。
このとき、長井は、
「事の成否は御同列の存意次第に在り、誠に公武一和を希望せらるるならば、主人も周旋すべし」
と、長州藩の周旋の意図を告げたと言う。(『徳川慶喜公伝(長井雅楽一件書類)』)。
幕閣は、ついに外様大名である長州藩に国事周旋を任せることにしたのである。

つまりは、長井はもともと「開国派」でしたが、朝廷には、
「朝廷のため開国を遅らせるため公武合体を急ぐべき」
と説き、幕府には、
「幕府のため公武合体が御ため、さすれば、いずれは朝廷も開国を聞き入れるだろう」
と、確かに、力点が若干違った言い方をしているようです。
まあ、どちらにも都合が良いような「日和見(ひよりみ)的」な言い方であったようにも見てとれますね。

(3)その後、長井は8月7日に江戸を出立し、途中、京都に寄って正親町三条に状況を報告して、29日、萩へ戻った。
長井の復命を受けて、藩主毛利敬親は自ら周旋に乗り出すことにした。
11月13日、藩主毛利敬親の参府に随従して長井は再び江戸入りした。同18日、敬親は老中久世・安藤と会見したが、この席で老中は長井の意見を称し、今後国事を敬親と相談したいと告げた。
12月8日、長州藩は幕府に対して、正式に航海遠略策の建白を提出した。さらに、同月30日、老中久世は長井に公武の周旋を任せるという将軍家茂の内意を伝えた。
これを受けて、敬親は長井を中老に昇格させ、再入説のため、再び京都に派遣することにした。幕府も目付浅野氏祐(伊賀守)を京都へ派遣し、所司代酒井忠義(若狭守)とともに長井を支援させることにした。
しかし、長井が入京した文久2年(1862)3月には、京都の情勢は文久元年とは大きく一転しており、尊攘激派が勢力を伸ばしていた。しかも、島津久光の率兵上洛(兵を派遣して京都を守る)の情報によって、京都では薩摩藩への声望が増しており、在京長州藩は後塵を廃したことへの焦りを感じていた。
今さら公武合体・開国ではない雰囲気だったのである。長井の建白は時宜を得ず、失敗に終わった。(長井が公武周旋を任されたときに中老格に出世したことへの嫉みも藩内にはあったという)。
情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、長井は4月14日、退京した。
長井支援のために幕府が京都に派遣していた浅野氏祐も江戸へ戻った。

(4)京都での入説に失敗して長井が帰府(江戸に戻る)してまもなくの5月5日、朝廷は、長井の起草した建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があり、懸念ありとの沙汰を下した。
この頃、京都では建白中の
「昔を思い、国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」
という部分が、古代の朝廷隆盛の時代と外国に迫られて開国した今の時代を比較して、現在の朝廷を誹謗するものだという議論が起っていた。長井の公武合体-開国論を嫌い、長井を排斥して長州藩の藩論を一転させようという、藩内尊攘派激派の久坂玄瑞らの朝廷工作の結果だった。
長井への批難は大きく、その累は毛利家にも及ぼうという勢いだったという。長州藩主毛利敬親は在京の家老浦靱負(うら ゆきえ)を遣わして朝廷に陳謝し、6月5日、長井に帰国謹慎を命じると、翌6日、上京して直接朝廷の疑念を晴らすために江戸を発った。

(5) 入京した敬親は、
「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」(『徳川慶喜公伝』)
をさとり、家臣と会議の結果、7月、長井の航海遠略策を破棄することに決し、藩論は「破約攘夷」へと大きく転換した。すなわち、勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行うというもので、尊攘激派の桂小五郎や久坂玄瑞の主張が通ったわけである。
航海遠略策を推し進めていた長井は、翌文久3年(1863)3月24日切腹を命じられ、無念の最期を遂げた。

>>現に、彼は暗殺されましたよね?

長井雅楽は「暗殺」されてはいません。失脚して「切腹」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95% …

>>また、最後に高杉晋作についてですが、四国艦隊砲撃事件の後、私がいったように、彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。でも長州征伐で幕府は長州藩(高杉)と戦って勝ち?ましたが、なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか?表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか?

高杉晋作は「攘夷派」ですが、
(1)文久2年(1862)5月、藩命で幕府使節随行員として、長崎から中国へ渡り、清が欧米の「植民地化」されようとする姿を目の当たりにする。
なお、この頃、まだ藩論は「攘夷派」には移っていなかったが、3月に長井(「開国派」)の朝廷工作が失敗したため、すでに、この頃には藩主の毛利定広も「攘夷派」に傾き始めていたので、高杉を使節団員に選んだ、と考えられます。
(2)その後、高杉は、
諸外国の恐ろしさを見聞したことを受けて、7月に江戸藩邸に帰国すると、ただちに、「尊皇攘夷派」に加わりました。また、
「薩摩はすでに生麦(生麦事件)で、夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお公武合体を説いている・・・」
と、唱えるようになり、武州金沢(金沢八景)で遊ぶ外国公使らの暗殺計画などを企てますが、同士の一人久坂玄瑞が土佐の武市半平太に、そのことを話したところ、土佐藩主山内溶堂の耳に入り、山内溶堂は長州藩主毛利定広に連絡し、この計画は未然に防がれた。
(3)文久2年12月12日、同士と共に品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行。
(4)文久3年(1863)5月10日の砲撃事件(前回、参照)。
(5)5月23日の砲撃(前回、参照)。
(6)5月26日の砲撃(前回、参照)。
(7)6月4日、高杉、下関防衛司令官を任命される。
(8)6月5日、フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が長州を砲撃し、陸戦隊が上陸し、前田、壇ノ浦砲台を占拠。
(9)6月6日、高杉、豪商白石正一邸に入り「奇兵隊」の編成準備。
奇兵隊とは:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5% …
(10)6月8日、奇兵隊発足。
(11)まだまだ行動は続きますが、8月18日、「8月18日の政変」で長州藩は京都を追われる。
(12)9月15日、高杉は「教法寺事件」での責任で奇兵隊総監を罷免される。
教法寺事件:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E6%B3%95% …
などなど、詳しく書いたら「キリ」がありませんので、その後は、
(13)文久4年(1864)7月19日、「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、とも呼ばれた)」。
禁門の変:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80% …
(14)8月4日、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が横浜出港。(7月18日に事前通告あり)。
同日、高杉晋作、伊藤俊輔の両名が「和平交渉役」を任命される。
(15)8月5日午前4時10分、の「四国艦隊下関砲撃事件」発生。
(16)8月6日、約2,000人の陸戦隊が下関上陸。8日までに関門海峡に面した砲台すべてが破壊された。
(17)8月8日、高杉は「宍戸刑馬」と名乗ってイギリス艦「ユリアラス号」でクーパー提督と交渉開始。
(18)8月14日、停戦協定成立。

このように変遷して、高杉は「開国派」のように言われますが、実際には、この交渉で連合国は「彦島の租借」を要求するも、高杉は「清国と同じになる」と、断固拒否をし、撤回をさせています。

第一次長州征伐
原因は、「禁門の変」への制裁。

第一次長州征伐が迫る中で、長州藩内では10月、「開国派」が「純一恭順」を唱え、「攘夷派」は、表向きは「恭順」を装いながらも「武備恭順」を主張したが、この時、井上聞多らが「開国派」に襲われて負傷し、高杉は平尾山荘へ匿われる。こうして「攘夷派」が結束を乱したため、「開国派」の「純一恭順」をさらに強力な「徹底恭順」に切り替えて、長州は征伐軍に降伏。しかし、その代償は三家老(国司信濃、益田右衛門介、福原越後)の切腹。匿っていた公家の三条実美ら五卿を他藩へ移転。山口城の破却と撤兵、等々の大きな犠牲を払うこととなった。

>>彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、<<

※高杉や井上らが襲撃されたのは、「開国派と知った攘夷派はいかり」ではありません。

>>その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。<<

(1)元治2年(1865)3月、(4月7日に「慶応元年」と改元)。開国派の首魁椋梨藤太が高杉らのクーデターで排除され、「攘夷派」が再度、実権を奪還。しかし、藩内部では、依然として「開国派」と「攘夷派」の対立がくすぶっていた。
(2)3月、高杉は海外の情勢を知るため、海外渡航を計画し、長崎でイギリス商人グラバーと接触するも反対される。
(3)4月、諸外国の恐ろしさを体験した高杉は、諸外国との戦を想定すると同時に、いずれ国内であるであろう戦いに「軍備増強」を考え、下関港の開港し直接武器を購入することを推したため、「開国派」からも「攘夷派」からも命を狙われた。そこで、愛妾おうの(後の梅処尼)とともに、四国へ逃亡。
(4)6月桂小五郎の斡旋により帰郷。
(5)高杉晋作は、一貫して「攘夷派」ではありましたが、外国勢力の強さを見せ付けられ、一時期、「このままでは、清国と同じように植民地になる」そして、「武装強化」を考えて、下関の開港等を目指したものと思います。

>>なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか?
>>表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか?

第二次長州征伐の原因
長州征伐(第一次)に一応終止符を打つことができたと思ったのも束の間、功山寺で挙兵した高杉らが、早くも元治2年(1865)年1月2日、遊撃隊を率いて再び下関新地の萩藩会所を襲いこれを占拠する事件が勃発した。そこで、幕府は、長州藩の石高を減封しようとしましたが、長州藩は「断固拒否」。そこで、第二次長州征伐が行われることとなった。

高杉は、先にも述べましたが、一環して「攘夷派」です。そして、「攘夷派」のまとめ役として、再び、慶応2年(1866)6月7日からの第二次長州征伐(四境戦争)では、海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖の幕府艦隊に夜襲をかけ撃退。
この時、征長軍(幕府軍)の装備は、旧式の火縄銃、弓矢、槍などで、さらに、甲冑は約30kgもあり、動きは大変鈍かった。さらには、幕府の権力低下もあって、幕府軍は15万という人数こそ多いものの統制が取れていなかった。
一方、長州側は、西洋式の軍事訓練がされた兵力と最新式のゲーベル銃などとともに、西洋式の陣構えで幕府軍を圧倒。7月20日、幕府軍の大将、14代将軍家茂が死亡してからは、完全に統率力を欠き、徐々に終結へと向かって行った。
そして、その後は「薩長同盟」へと展開していきました。
第二次長州征伐の状況:
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-to …

「幕末」は、一言では語れない「複雑」な各藩の動きがあり、一歩読み間違えると、中々、考えをまとめ直すには、また、最初から読み直さなければならないような時代背景があります。
分からない事件などは、このOKWebでも良いですし、PCの「検索」で調べて「知識」を高めましょう。
お互いに頑張りましょう。
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こんにちは。


NO5.です。
私への質問のみお答えします。

>>長井雅楽が<開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため>と書かれてましたが、都合が良いというのは具体的にどういったことなのでしょうか?
>>また、長井が開国を唱えることで長州藩の攘夷派の怒りは高ぶらなかったのでしょうか?実際、周布政之助や高杉晋作、井上馨、伊藤博文などの開国派たちは、表では攘夷派というものでしたが、裏では開国派だったような、、、後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね?

上記をまとめてお話します。

長井雅楽の「航海遠略策」は、藩内の反対はあったものの、藩主の毛利敬親が受け入れ、文久元年(1861)3月より長井を江戸と京都へ「遊説」に派遣しました。
(1)嘉永6年(1853)6月、ペリーが浦賀に入港すると、ただちに、幕府は諸藩に対して「海防」を打ち出し、長州藩は相模を守ることとなった。
(2)さらには、安政4年(1857)6月19日の「日米修好通商条約締結」の際は、幕府にとって重要な武器庫の警備につく。
(3)安政5年(1858)、この「通商条約」が孝明天皇の許可なく調印されたため、幕府への不満を長州藩などへ伝えた。(「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」事件)。
(4)万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」が起きて、井伊直弼が暗殺される。
(5)こうしたことを背景に、長州藩は、文久元年(1861)、朝廷に直接「航海遠略策」を受け取らせることに成功する。
(6)朝廷では、何とか徳川幕府と調和が取れないかを模索中でしたので、「公武合体」という部分で打開策が見出せると、考えました。
(7)長井は、その足で江戸へも向かい、幕府にも「航海遠略策」を提出する。幕閣の中にも「開国」を前提とする・・・という文言に、賛成意見が出され、長井は大いに喜ぶ。
(8)朝廷にも幕府にも「喜ばれた」と言うのは、朝廷も幕府も共に「自分たちの都合の良い部分」だけを受け止めた、ということになります。
(9)勢い勇んだ長井は、翌文久2年(1862)3月18日、再び入京するも、薩摩藩の「公武合体論」が大勢を占めるようになっており、長州藩は「蚊帳(かや)の外」の存在となってしまいました。
(10)文久2年7月、藩主毛利敬親が上京し「御前会議」が開催される。
(11)その結果、周布政之助や木戸孝允(桂小五郎)らが主導権を握り、「破約攘夷」へと転換した。つまり、「開国をしない攘夷」という、極端に言えば「攘夷一辺倒」に変更したのです。
(12)その後は、先にお話したように、「8月18日の政変」が起こり、長州藩は京都を追い出されます。
(13)もちろん、長井が「航海遠略策」をまとめた時やその前後でも、村田清風(せいふう)に登用された木戸孝允や高杉晋作、周布政之助らの派と坪井九右衛門(くうえもん)が登用した椋梨藤太(むくなしとうた)や長井雅楽の派と意見は、たびたび衝突をしています。

>>後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね?<<

(14)その通りです。その辺については、あなたも良くご存知のようですので、(13)で述べた通り、長州藩は、常に、「攘夷派」「開国派」の藩内部での対立があり、攻守交替が後々まで尾を引きました。
(15)しかし、その後は、「池田屋事件」「禁門の変」などを経て、後には薩長連合へと変化していきました。
(16)藩主の毛利敬親(たかちか)やその子の定広親子らも、もう、時代の流れで、藩士たちを押し止めることができなかったのでしょうね。

この回答への補足

ありがとうございます。つまり長井雅楽が唱えたこの策には、開国派側にも攘夷派側にも満足させることができる、いわばどっちつかずの文章ということでしょうか?海外と貿易をするけど、完全に受け入れてはいけない、、というような、、・
現に、彼は暗殺されましたよね?なので、こういうあやふやな表現に攘夷派がやっぱりお前も開国派か!と憤慨したと読んでいるのですが、、

また、最後に高杉晋作についてですが、四国艦隊砲撃事件の後、私がいったように、彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。でも長州征伐で幕府は長州藩(高杉)と戦って勝ち?ましたが、なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか?表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか?

すいません、またまたの補足でしかも長いですが、お答えできる範囲でよいのでお願いします。

補足日時:2008/11/29 20:11
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    補足について


陸と船とのちがいは ハッタリですよね
威風堂々たる軍容で地に落ちかけている徳川の権威(幕府)を 増すためで 外には軍事的威武行動のため うちには意識の高揚のためですよね 船だと道々目につきませんしね 帰りは 最新式の船を見るため海路です  
公武合体は長州を中心とした尊王攘夷派の先鋭化を挫くため 朝廷の伝統的権威と結びつくことで幕府の発言力をますためですよ 
家茂と和宮の結婚もその考えのもとです 単純な婿養子ではなく 純然たる幕府の政略です
朝廷との融和結合を計り公武合体派との連携で攘夷派をおさえこもうとしたわけでしょ
無視しませんよというのは 井伊がフライングで開国したことに鑑み 本来朝廷の決定範囲事項も含めて これからはなにごとも相談さしてくださいぐらいの やや下手で 攘夷なんてとてもとてもなんですから
このへんでどうでしょうか 
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こんばんは  #3です。


第一次長州征伐の原因は幕府と長州の対立ではありませんね。長州が禁門の変で朝廷を怒らせたのが発端。幕府は公武合体でしたから仕方なく出兵。長州は勤皇のトップでなくてはならなかったのに朝廷を怒らせてしまうという大失態、ひたすら謝ります。この頃は俗論派(公武合体論)がリードしてましたが、謝り方があまりに卑屈なので立ち上がったのが正義派(尊攘論)。しかしあまりに強硬だったので今度は幕府が怒った。これが第二次長州征伐ですが、結果は幕府の大敗となります。
長州はだいたい開国論だったと思っていますが、時期によって尊皇だったり、攘夷だったり何度も変わっています。(尊皇=攘夷 とは限りません。もう少し後になると 尊皇=開国 となります)
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この時代、幕府の権威が失墜していきますが幕府は朝廷との結びつきを強める事で自らの権威を守ろうとします。

逆に長州は朝廷を幕府ではなく自分達と手を組んでもらう事で幕府を攻撃しようと考えたというのが大まかな流れだと思います。ですから朝廷の存在感が急に出てきたなと感じられると思います。

>なぜ長州藩は開国派になったのにも関わらず、同じ開国派の幕府と長州征伐で戦う必要があったのでしょうか?
単純に攘夷派だから開国派だからという区分けは誤解の元になりかねませんので慎重に理解されたほうがいいかもしれません。
攘夷と一口に言っても外国人排斥から諸外国の技術を積極的に取り入れて外国に対抗する大攘夷の類。攘夷を公言しつつも実際はそこまで攘夷を考えてない人。その上、考えの変遷もありますので少し繊細な話になるかもしれません。
重要なのは幕府に従いますよと言っていた首脳が倒されて反幕府の人間が政権をとって、外国から兵器の導入を始めた事です。
これは倒幕の意思表明同然ですから、幕府はこれを潰そうとしたという理解でいいと思います。

関が原の戦いで毛利は前線で戦っていません。これは家臣である吉川が密かに徳川方に通じていて毛利の所領を安堵してもらう約束を取り付けて兵を出さなかったからです。
しかし後にこの約束は反故にされ、毛利は取り潰しされそうになります。これに吉川が嘆願したので取り潰しは逃れますが、先に書かれた人がいるように幕府から様々な干渉を受けます。
その上、吉川の行動が独断によるものだった為、毛利と吉川の関係が悪化しました。
この影響は非常に大きく四境戦争の折には岩国(吉川)との関係修復に努めています。

こうした背景がありますので倒幕思想が育ちやすかったのは事実です。
しかし、元旦に殿様に倒幕云々。江戸に足を向けて云々。というのは史実ではなかったと思います。
ドラマ等でよく出てきますが出典を聞いたことがありません。
お取り潰しの原因を安易に作るほど間抜けとは思えませんし、参勤交代を知っている人なら江戸に足を向ける事が何を意味するかぐらいは分かると思います。

長州の動きを支えたのは無論財政です。改革が行なわれたのは宝暦ではなく天保ですね。
他の大多数の藩の財政事情は後の廃藩置県にも大きく関わってきます。
明治になって他藩の贋金作りが問題になりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BC%AA% …


>また、意思表示と書かれていましたが、本当でしょうか?
>最後に、船ではなく陸で京に行ったということですが、そこはどういうことでしょうか?船と陸の違いというのは?
和宮との婚姻は上洛前の出来事です。公武合体の一環ですので長州にメリットはありません。
海路を主張した勝海舟は海軍増強のために家茂を船に乗せようとし、陸路を主張した天璋院(篤姫)はどうやら生麦事件の関連でイギリス艦隊が来ていたことを心配したようです。
ですから帰りは船で帰っています。朝廷は無関係です。

戊辰戦争の戦後処理、陸軍への影響とありますが
戦後処理に関しては、恐らく史実と異なるものを教わったのでしょう。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub3ju …
陸軍で問題を起こしていたのはむしろ反長州閥を掲げていた人間です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%95% …
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

質問を少し整理して解説してみましょう。

>>なぜ長州藩は幕府を牛耳るだけの支配権をもっていたのでしょうか?

これには、長州藩の歴史にも関わりがあるのですが、
(1)天保2年(1831)に、長州で飢饉が発生し、民衆蜂起による「天保大一揆」が起こります。さらに、天保8年(1837)にも飢饉となり、「一揆」が起きました。
(2)藩主となったばかりの毛利敬親(たかちか)は、村田清風(せいふう)と坪井九右衛門(くうえもん)を交代で登用し、藩財政等の立て直しを図りました。
(3)村田と坪井は、全く「対照的」な政策を展開しましたが、安政年間(1854~)に入ると、村田の政策を受け継いだ周布政之助(すふまさのすけ)は「尊皇攘夷」を唱え、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作らを登用しました。反対派としては、坪井はもちろん、坪井に登用された椋梨藤太(むくなしとうた)などがいましたが、弱藩であったため、当時の揺らぐ政治に対して、どちら(朝廷か幕府か)に付いたら存続できるかが話し合われ、
(4)安政5年(1858)、長州は、ついに、「朝廷への忠節」、「幕府への信義」、「祖宗への孝道(祖先を敬う)」という「藩是三大綱(はんぜさんだいこう)」を定めました。その後、「公武合体」を模索していましたが、
(5)文久元年(1861)に長井雅楽(うた)が「開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため、長州藩は一躍、政治の表舞台に登場するようになりました。
(6)そして、「尊皇攘夷」「公武合体」を唱える公家の三条実美(さねみ)らと行動を共にするようになりました。
(7)当時の孝明天皇も三条実美らを側近に付けており、長州は一弱小国から、天皇の後ろ盾があることで、朝廷に対しても幕府に対しても「物申す」存在へと力をつけてきました。
(8)その後、和宮が文久2年(1862)2月11日に14代将軍家茂と結婚。「公武合体」(政略結婚)は成功しました。ますます、長州は発言権や行動を強化していきました。
(9)一方、孝明天皇は「攘夷」の約束の基で和宮を降嫁させたにもかかわらず、幕府が一向に動かない、さらには、米国や仏国と「通商条約」まで取り交わしたことにしびれを切らし、文久2年(1862)10月に幕府へ勅使を派遣し、家茂を咎めました。
(10)そこで、家茂は、「釈明」のため、文久3年(1863)2月13日、実に家光以来230年振りの上洛をしました。
※これが、あなたの言う「家定(正確には家茂)を京都に呼んだ??」でしょうね。
(11)しかし、家茂は孝明天皇に押し切られる形で、
「5月10日をもって攘夷をする」
と、約束してしまいました。
(12)それを聞いた長州藩は、5月10日に攘夷が決行されたもの、と思い、関門海峡(馬関海峡=ばかんかいきょう、とも呼ばれた)に停泊していた米国商船ベンプローグ号に長州側砲台と庚申丸(こうしんまる)および葵亥丸(きがいまる)から砲撃。突然の砲撃に驚いたベンプローク号は危機一髪で周防灘へ逃避。
(13)初めての「外国船打ち払い」で、長州は沸き立ち、すぐさま、朝廷からも「褒勅(ほうちょく=祝いの言葉)」が寄せられた。
(14)続いて、5月23日には、同じく関門海峡に入った仏国のキャンシャン号を砲撃、周防灘へ撃退。
(15)5月26日にはオランダのメジューサ号を砲撃。メジューサ号も同じく周防灘へ非難。
(16)長州藩は大いに盛り上がりましたが、やがて、孝明天皇自身も、長州藩の余りにも過激な行動に「憂い」を感じ、文久3年(1863)8月18日、「公武合体派」の中川宮朝彦親王や近衛忠房らを参台させ、「攘夷論」一辺倒の毛利敬親(たかちか)やその子の定広親子、そして、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえもと)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)らを朝廷より排除しました。
これを「8月18日の政変」と呼び、7人の公家が京都を追われたので、これを「7卿落ち」と呼ばれるようになりました。
(17)当時は、御所の警護を薩摩藩と会津藩で行っていました。
(18)まだこの頃は、長州は薩摩と手を組んでいなかった。
(19)京都を追われた長州藩は、巻き返しを計るため、後の「池田屋事件」「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、とも呼ばれた)」などへ拡大していきました。

この回答への補足

詳細に回答していただきありがとうございました。
補足ですが、長井雅楽が<開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため>と書かれてましたが、都合が良いというのは具体的にどういったことなのでしょうか?

また、長井が開国を唱えることで長州藩の攘夷派の怒りは高ぶらなかったのでしょうか?実際、周布政之助や高杉晋作、井上馨、伊藤博文などの開国派たちは、表では攘夷派というものでしたが、裏では開国派だったような、、、後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね?

補足日時:2008/11/29 08:34
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なんかおかしいですね まず家定ではなく家茂でしょう和宮の相手は もちろん公武合体のための結婚です


確かに長州藩は朝廷の攘夷派と結んで朝廷を牛耳り あらかさまに幕府と敵対しますが それによって 力をつけたわけではないでしょう 
公武合体は朝廷権威による幕府専制をおさえるためのひとつですから
家定ではなく家茂は攘夷派を抑えるため圧力をかけるためと 朝廷を無視しませんよという意思表示で京都へいきましたよね 船ではなく陸で

長州は攘夷論といより 倒幕怨念でしょう 力をつけたというか起爆剤は 
この藩は正直好きになれませんよ 関が原で負けて 消えてなくなるところをどうにかいきのこったわけで まずはよかったよかったとかんがえなけりゃねと思います 戦に負けこの時代どれほど多く消えてなくなった国があったでしょう 逆恨みもいいとこ こんな話があったかどうか
まことしやかに語られている話があります それは
元旦の夜明け前 一人の家来が殿様の前で こういいます
徳川を撃つ準備が整いましたと そしたら殿様が いやまだ早いと
怨念300年間つづけたそうです みんな足を江戸に向けて寝たともいいます
急進的な尊皇攘夷 倒幕から 池田屋事件  蛤御門の変で朝敵にされ二度にわたる幕長戦争によって ボロボロ 最悪 
攘夷派でない倒幕組の右派が藩権力奪取をへて 薩長同盟がなってしまったものだから この藩の狂信的な力がうまい具合に作用し大きな時代の変革につながったように思います やはり薩摩だったんですよねキーボイントは  また
経済的には宝暦の改革が大きいでしょうね そのなかでも独自の制度(撫育方)は改革で得た増収を元手に 湾港および産業をを推進する組織 これが幕末長州の資金的原動力となったことは確かでしょう
余談ですが このあと戊辰戦争の戦後処理で会津藩を目のカタキのように人に対するものかとおもえるような処置した狂信性はなんかそののちの陸軍へとつづいていってような気がしますがどうでしょう   

この回答への補足

回答ありがとうございます、すいません家定ではなく家茂ですね。。
間違えました。
<朝廷を無視しませんよという意思表示で京都へいきましたよね 船ではなく陸で>と書かれていましたが、これは男の人が婿養子に行くようなもの?ですかね?すいません、短絡的で、、、それまで幕府は江戸で権力をもっていたと思うのですが、家茂と和宮の結婚(幕府の策略??それとも長州藩の策略?)することによって、攘夷派が朝廷を支配しないようにした、ということですよね?

また、意思表示と書かれていましたが、本当でしょうか?
最後に、船ではなく陸で京に行ったということですが、そこはどういうことでしょうか?船と陸の違いというのは?

質問多いですが、お願いします。

補足日時:2008/11/28 20:23
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なぜ長州が大きな力を持ったか? 愚輩の解釈を記します。

誇張や誤りがあるかもしれません。その際は諸賢のご訂正をお願いします。
#2の方が仰言るように関が原以降長州藩内には反幕の意識があり、何か機会があれば幕府に一撃をと考えていました。
ペリー来航で井伊直弼は開国しますが、これは朝廷の了解を得ていません。江戸幕府は成立時に朝廷が持っていた政治権力を委譲されますが、これは国内政治のみで外交権は移っていません。
そこで井伊は朝廷に事後承認を求めたのですが、長く政治から離れていた朝廷もどうしてよいかわからない。「外国人と付き合わなくてもよいのなら、付き合いたくない・・・」といった感じで、攘夷というほどでもなかったらしいのですが、長州はそれを攘夷と拡大(?)解釈し、幕府を攻撃する材料に使いました。幕府も外交権がないのに独断で開国した負い目があったので強硬な態度がとれなかったのです。
長州は最終的には開国派が実権を握り、攘夷派は棄てられてしまいます。朝廷を持ち上げた連中についても本当に”勤皇”だったかは疑問。その朝廷は幕府へ圧力をかける道具として利用されただけと愚輩は考えています。
公家についてですが、江戸時代に存在していました。幕末の歴史に出てくる三条実美や岩倉具視などがそうです。
http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html
に一覧があるので見てください。だいたい京都御所の周辺にまとまって住んでいました。公家は朝廷に仕える人のことですから天皇は含みませんが、公家の代表者ということになります。wikiにも説明があるのでご一読を。

この回答への補足

回答ありがとうございます。大変わかりやすかったです。
長州藩は最終的に開国派が実権を握ったとおっしゃいましたが、つまり高杉晋作、伊藤博文、井上馨がおもに有名な開国派でしたよね?その影響で井上馨は攘夷はの同じ藩の武士に襲われ瀕死をおいました、、

なぜ長州藩は開国派になったのにも関わらず、同じ開国派の幕府と長州征伐で戦う必要があったのでしょうか?

補足日時:2008/11/27 22:05
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 歴史に大変詳しい方が多くいらっしゃる中、関連情報でちょこっとおじゃまいたします。

ご質問の内容そのものでなく、関連情報です~。
 毛利氏(長州藩)は、関が原の戦いで豊臣方だったので徳川幕府からは外様大名にさせられてしまい、領地も今の中国地方5県&大分県の一部にまで持ってたのを防長二洲(ぼうちょうにしゅう、今の山口県)だけにさせられました。そのためたくさんの家臣たちも領地を失い、生活水準がガクッと落ち、お殿様についてトボトボと山口へ引っ越しになりました。藩の土地自体が狭~くなってしまったので今までちゃんとした領地をもらってた武士もわ~ずかな領地しか与えてもらえず、役職がもらえる武士も大幅に減り、相当数の武士が形だけの武士で事実上農民と変わらない生活になりました。郷士(ごうし)ってやつですね。
 吉田松陰の実のお父さんの日記を見たことがありますが、ほとんど農業日誌です。お父さんは下級武士で、役職をもらってた時期ともらってなかった時期がありました。石高23石(26だったかな)で、役職をもらってないときは早朝から農業です。家も、武士なのに草葺きの家でした。松陰も今の年齢で幼稚園児のころ、お父さんの農業を手伝って働いていました。松陰は6歳(7歳だったかな)くらいで上級武士の家へ養子に行きましたので、ま、ほんの2年程度のことですが。
 藩主がいるお城も、長州藩は本当は昔、奈良時代に国府が置かれて海・陸交通の便が大変良い防府(ほうふ、現 防府市)に置きたかったのですが、江戸幕府からは許可がもらえず日本海側のちっーちゃな漁村、松本村(まつもとむら、現萩市)に置くように命令が出て、萩に築城します。この松本村と山陽道側の間は山ばっかりでほとんど、けものみちのような道しかありませんでした。お殿様が参勤交代などで通らないといけないのでけもの道はその後整備され、萩往還、もしくは萩往還道と呼ばれますが、今も山の中です。
 藩の政治の中心地を山陰のへき地でなく山陽側に持ちたいという思いは消えることなく、幕末に幕府弱体化のスキを突いて一時、山口市に移したりなんてこともやってます。
 「なんでワシらぁが、こんな山奥の道を通らにゃいけんのか。」「かつては西国の覇者やったのにのぉ。」「大内氏の跡を継いで天下を取るために打って出ることもできたのにのぉ。」「なんで武士たる者がこんな農業をやらんにゃいけんのか。」
 長州藩は徳川幕府を恨んでいました。もちろん表面上は従順なふりしてましたが。その反徳川の思いは、ほぼ農民化して藩内各地に散らばった下級武士を通じて一般民衆へも伝わっていました。それが幕末の非武士階級による武装組織、奇兵隊へつながります。武士であった高杉晋作の呼びかけに、あれよあれよという間に「奇兵隊、及び諸隊」が結成されました。一般民衆の政治への認識度が高かったとでもいいましょうか。
 また、朝廷に対する思いですが、毛利氏はその昔天皇家の血を引く家系から出たらしいです。先祖が朝廷からもらったのが正三品の官職で、そのため毛利氏の家紋は上が横「一」で、その下に点点点と丸が三つあります。(というのは、研究者の人の講演を聞いた時のうろ覚えです。) そのため、朝廷に対する気持ちが元々強くあったようです。そこへ反徳川の思い、さらには戦国時代あの時に「我われ毛利氏だって天下を取って今の徳川のように日本を支配できたのに!」 の思い。
 天下支配の権力欲をずっと持ち続けていたわけです。 明治維新でその望みはかないました。

 ま、関連情報として反徳川の意思が長らくいっぱいあった、ということですわ☆

 経済的な事についていえば、長州藩は白いものを増産することで収入を増やしました。白いものは、米、蝋(ろう)、コウゾ・ミツマタ(紙の原料)、塩 です。
 米の増産の為、湿地・海を盛んに埋め立てて農地を拡げ、江戸勤務の武士は最新の農業技術の取得に努めました。その他の白い物も盛んに奨励しました。
 結局江戸中末期には、公称37万石が実質は100万石あったようです。
 武士の給料を何度も減らしたりもしています。減らしたうえに更に藩へいろんな名目で強制的に寄付させもしました。その一部が英国から武器買ったりするお金に回ったわけです。

 でも単なる外様が政治的にえらい強く出てましたよね。肝心のそこの部分の理由はわからないのですが、要するに徳川幕府が弱体化してたってことじゃないかと思うのですが。詳しいかたにお願いしたいです。

この回答への補足

詳細い回答していただいて誠にありがとうございます。!とてもおもしろかったです。元々長州藩は広い領地を持っていたとは以外ですね、外様ですもんね、、、譜代大名というのは徳川家についた人たちでしたっけ?、、すいません。

ちょっと補足なのですが、公家について質問なのですが、公家というのは武家政権になってからも実際存在はしていたのでしょうか?実質は武士のみが支配権をもっていましたが、ただ横にいる存在ということだったが、長州藩がいきなり公家を担ぎ出し、政権に再びでてきた?

というより、初歩的な質問なのですが、公家って天皇ですよね、、??

補足日時:2008/11/27 07:37
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19世紀の藩政改革の基本は専売と商業対策。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E% …
あと、下関という港湾を抑えていたことが大きい。

名目石高で同じような規模の大名家がありましたが、専売や商業対策によって、米による税金以外の税収方式を確立した藩が幕末でブイブイできたわけです。薩摩の琉球を通じた密貿易とか。

口先だけでは、ブイブイできません。
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