大阪ってなぜ大坂から変更されたんでしょうか。誰がいつ何のために?

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A 回答 (5件)

江戸時代には「大坂」の方が一般的で、


明治以降、いつの間にか「大阪」の方に定着していったようです。
でもはっきりした区切りはなく、誰がはじめた、というのもないようです。

参考URL:http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/qa/qa1.html#n …
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この回答へのお礼

gooで初めて質問したのですがあっという間の的確な回答に驚きました。

お礼日時:2001/02/27 21:11

「なぜ」への回答にはなりませんが、名前変更の時期については「ベネッセ古語辞典」の「資料部」に下記のように書かれています。


---------
大坂 おおさか[オホ-]地名 摂津国 せっつのくに の地名。現在の大阪市の中心部。古くは「難波 なにわ」と呼ばれた。中世に入って「小坂 おさか」「大坂」と書くようになり、明治以降、「大阪」に改められた。
[「ベネッセ古語辞典」1998年 P1379]
---------

江戸時代には「大坂」と標記するのが一般的なようです。

この回答への補足

よく区画整理だかで地名が統合されてただの何丁目になったりしますが地名に込められた歴史まで消されてしまうようで寂しい気がします。個人的には大阪より大坂のほうが気に入っているのでいったいどこのどいつが勝手に変えたのかと思っていましたが自然発生的に変化したようですね。

補足日時:2001/02/27 21:35
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江戸時代(初期)に誰かは分かりませんが、つちへんを


武士の士とみなし(武)士が反(乱)を起こすと読めるので縁起が悪いと変えたと聞きました。
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あんまり関係無いですけど、もとは小坂だったのを、大きなことが好きな秀吉が大坂に変えたそうです。

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坂は土に反る(土に返る;死ぬ)につながり縁起が悪いのでと聞いたことがあります。

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Qなぜ、大坂~大阪になったの?

なぜでしたっけ?
大坂を大阪と書くようになったのは

Aベストアンサー

こんにちは。

下記サイトで次のような解説があります。
http://www.kansaigaidai.ac.jp/teachers/yokom/tokuron/2002/web/000721/about/osaka.html
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/library/library020.html
「大坂」の「坂」は土編に反ると書きますが土に返るとは衰退と意味することから
「坂」を、盛ん・多いといった意味のある「こざと編」に改め
「大阪」として縁起をかついだとされています。

参考URL:http://www.kansaigaidai.ac.jp/teachers/yokom/tokuron/2002/web/000721/about/osaka.html

Q大坂城を造ったのは誰?

 一般に豊臣秀吉と答えますが、ナゾナゾでは
大工さんという答えになります。

 でも実際は、ある武将を普請奉行に任命して、諸大名の
負担、持ち出しで築城をさせていたと思うのですが、工事は
その大名の足軽や募集人足だけで賄ったのでしょうか。

 まさか本職の大工、左官をかき集めて本職集団が作った、とは
思いませんが本職が一人もいないということもないだろうし、
どうなんでしょうか。

Aベストアンサー

お城とか橋の建築の職能集団というのがありました。
この職能集団は全国的な横断的組織集団であり、どんな権力や統治支配にも属しませんでした。
特にお城の建築は、落ちていく秘密の通路や仕掛けを作るので絶対的秘密が義務でした。

こういう横断的組織は外国ではフリーメーソンの基礎となったメソニック石工たちがいます。
また、孔子自身は突撃隊の武士とある職能集団に属する人の家族である女性との子ども(白川さんの説)でした。その職能集団はお墓や葬儀をする全国横断の方々で、孔子が全国を遍歴するときにも大きなちからとなったようです。

日本では、以下のURLと私の質問に対するご解答を紹介します。どうぞご参考になさってください。
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi3/item/9552-05.html?mid=w461h90200000493369

http://okwave.jp/qa/q8638477.html

Q難波宮・大坂城・大阪府庁が近隣に存在する理由は?

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F40%2F52.545&lon=135%2F31%...

古代(飛鳥・奈良時代)には難波宮。
中世(桃山時代)には大坂城。
現代(昭和~平成)には大阪府庁。

この3つの政治中心地は徒歩圏内の至近の場所に存在します。
それぞれが時代が遥かに離れているのにも関わらず、
こんなに近くに存在するのは偶然でしょうか?
あまりにも近すぎるため何か意味も感じます。

【仮定1】:桃山時代に豊臣秀吉が「拠点となる城を築くなら、
かつて飛鳥時代と奈良時代に都があった難波宮の地」と選んだ。
(難波宮の正確な位置は長年の間不明で昭和中期に発見されたが、
 秀吉の時代にはそれが一般的に知られていたという想定)

【仮定2】:昭和初期に大阪府庁の移転計画が持ち上がった時に、
「府庁の新庁舎の移転先は、政治中心地なのでかつて大坂城のあった
土地がふさわしいのでは。幕末に消失した大坂城の再建計画も
ある事だし」と考えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%...

↑Wikipediaで検索してみたものの、この土地が選ばれた理由というのが分かりませんでした。

この3つが奇妙な程に近すぎる事に理由はあるのでしょうか?
推測でも構いませんので、ご意見を願います。

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F40%2F52.545&lon=135%2F31%...

古代(飛鳥・奈良時代)には難波宮。
中世(桃山時代)には大坂城。
現代(昭和~平成)には大阪府庁。

この3つの政治中心地は徒歩圏内の至近の場所に存在します。
それぞれが時代が遥かに離れているのにも関わらず、
こんなに近くに存在するのは偶然でしょうか?
あまりにも近すぎるため何か意味も感じます。

【仮定1】:桃山時代に豊臣秀吉が「拠点となる城を築くなら、
かつて飛鳥時代と奈良時代に都があった難波宮の地」と...続きを読む

Aベストアンサー

「あの場所」が高地である事実を無視してはいけません。湿地の中の高地への重要施設建築は、特に治水が不十分な明治時代以前には、水害を防ぐ万能の策でした。
16世紀末、家康の江戸入りと同時に家康が本丸にした場所は、洪水の心配の少ない高地(湿地の中の小高い台地末端)でした。「あの場所」と概ね同じ立地です。

「あの場所」について順番に説明しますと、

難波宮の場所の理由:現在の大阪市付近で唯一の、水害の恐れのない高地。大化の改新の前も、瀬戸内を経由して大陸とを結ぶ海運の終発着地点で、外交関係の施設が設置されていたようです。それを宮殿に転用・拡大したと言われます。その施設に隣接して(現)淀川河口の河川港があったようです。
※ 古代、港の多くは河川港です。21世紀の現在でも、ロンドン港やハンブルク港は大河の河口の河川港です。

大坂城の場所の理由:瀬戸内に面した水城として、瀬戸内水軍(毛利氏配下)の海上補給により難攻不落であった石山本願寺城(大坂城とほぼ同じ場所。中枢施設は高地に立地)は、信長との講和によってようやく開城しました。
※ 信長の鉄甲船による木津川の海戦の後も、毛利水軍による海上補給は可能で、兵糧弾薬補充兵の心配はありませんでした。信長の鉄甲船の威力は誇張されているようです。
その後に、秀吉は石山本願寺の規模を拡大した水城として大坂城を築き、城下町を建設しました。

県庁の場所の理由:現存する組織である大阪府庁にメール等で問い合わせるのが確実でしょうが、大阪府庁が戦前に建設されたのなら、「水害の心配のない場所」は重要な理由であったでしょう。
戦前はブルドーザーのような機械力による土木工事は不可能で、治水工事にも限界がありました。

戦後になって機械力による治水工事が行われるようになっても、大阪の中ノ島は数回水害の被害を受けています。河川の中州である以上、中ノ島は現在も安全とは言えません。大阪府庁建設以前に多くの公共建築物が中ノ島に立地していましたので、あえて大阪府庁を中ノ島の外の高地(もとの大坂城の一部)に作ったのは先見の明があったと言えるでしょう。

「あの場所」が高地である事実を無視してはいけません。湿地の中の高地への重要施設建築は、特に治水が不十分な明治時代以前には、水害を防ぐ万能の策でした。
16世紀末、家康の江戸入りと同時に家康が本丸にした場所は、洪水の心配の少ない高地(湿地の中の小高い台地末端)でした。「あの場所」と概ね同じ立地です。

「あの場所」について順番に説明しますと、

難波宮の場所の理由:現在の大阪市付近で唯一の、水害の恐れのない高地。大化の改新の前も、瀬戸内を経由して大陸とを結ぶ海運の終発着地点で、...続きを読む

Q大坂の陣について。何を変えたかった?得をした人

大坂の陣について。
・彼らは何を変えたかったんでしょう
・戦によって得をしたのは誰?
・戦を避けることは出来なかったのですか?

解答お願いします。

大坂の陣といっても、冬の陣、夏の陣とあり、
違った方向からみれば、思想や出来事の見え方も変わるのでしょうが…
その辺りの事も含め、総合的に教えてください。

私は今高校生なので、わかりやすい説明をお願いします。
また、必ずしも資料に基づいた正確な説明である必要はありません。

Aベストアンサー

もう一度豊臣の世を取り戻したかったんです
じゃなきゃ真田幸村は豊臣には付きません

得をしたのは小笠原家です
大阪夏の陣で実は戦死した徳川家康の影武者を小笠原秀政が勤めたおかげで小笠原家は加増されています

戦を避けることはできたはずです
徳川は 豊臣が大阪城を退去するか 淀を人質にすれば秀頼の命は保障すると言っていました
しかし淀が拒否ったので無理でした

素直に従ってりゃよかったのに

Q『大阪』と『大坂』

Q.「天下の台所」とよばれたところはどこ?

って聞かれたときに、『大阪』と『大坂』のどちらを答えたらいいんですか?

Aベストアンサー

 「天下の台所」は,江戸時代の大坂を指して用いられた異名なので,「大坂」を用いるべきですね。
 なお,「大坂」という地名が「大阪」に改められたのは明治維新のときです。


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