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日常性に流される毎日、ふと「現実とは?」・・・・と思う一瞬があるとおもいます。それを知りたいのです。・・・・・・・・

A 回答 (7件)

今を感じる


何があっても感覚を断ち切ることはできない。感じなければならない苦痛。
あまりのことに泣き叫びながら生まれてきた
感じることのできる喜び 生きる意味を見いだしたのではないでしょうか
どうしても物事の考察において人類至上主義が抜けきらないご様子ですが
ビックバン後、フラスコ状態の地球で単細胞生物として誕生した我々が。白亜紀、ねずみだった我々が。現在に至るまで経験した記憶があなたのいう人間の本性なのでは?これは厳しい現実を生き抜いて勝ち取ってきたものです
共食いすることも マンモスを追いかけることもしなくて済みます 現代
食われるためだけに放牧される牛がいるために 哲学する時間が増えましたが 肉体と精神を切り離して考えることが多くなりました
みんな非現実的です
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この回答へのお礼

>今を感じる
何があっても感覚を断ち切ることはできない。感じなければならない苦痛。
あまりのことに泣き叫びながら生まれてきた
感じることのできる喜び 生きる意味をみ見いだしたのではないでしょうか

zyabaさん、度々のご登場、感にいります。それにしても素晴らしい感性ですね!
もし「無」が「この世界の出現」に関与したとしたら、当にこの感性を、彼等の対極である「有限物理的肉体を通して感じる」為だったろうと思います。(この世界出現の意義)

前回の「個」としての責任感についても、我々出現は誰の責任でもありません。
我々の主体「個」の問題で、「個」とは、無としか言いようの無い世界(現代科学では測定不能の世界)が、「この世界(四次元物理世界)に出現した,最小単位,水素元素から,ーーーーー我々現代型ホモ・サピエンス登場の物質進化,生命進化の基になったものです。・・・・・もし詳しい事が知りたければ、私共の自費出版本「無の帰還への道」神田神保町書泉グランデ(1500円)販売中・・(管理者削除?かな)を、よろしかったらオススメデス。・・・・自費出版なのでおお幅な赤字覚悟・・・・・・キャッチフレーズが「この世界150億年の根源システムの解明」で独創的?実験的,初心的(文書がへた),覚醒者からの「神秘体験」,個人的なつまらない日常性とバラエテイーに飛んでいます。中に有料サービスなどの記述がありますが(昔はこんなモノでもネットで,カウンセリングでもしてと、野望あり)
今現在やってません。(すこしは覚醒したようです、反省)、まっ、本人丸見え?
暇つぶしにでもどうぞ・・・・・・・・・・・・・・・なにか質問ありましたらgooへ・・・・・・・

お礼日時:2003/01/28 19:02

無意識に「現実」と捉えている世界に意味を見出せない、だらだら続くだけの時間に「ホンモノらしさ」を感じない、そういうときに「現実とは?」って思う、下記の方の多くはそれについての解答だと思います。



僕自身が時に感じる「現実とは?」って疑問はこれと少しずれます。

夢と現実は、普段はキッパリ区別されます。これをPCの前に座って読んでいる人は誰でも「今いる世界は現実だ」と確信しているでしょう。

現実だと思っているこの世界にいるとき、僕は夢の世界のことをごくおぼろげにしか覚えていません。
夢の世界にいる僕は、現実の事をちゃんと覚えてないようです。文字通り、「寝ぼけて」るんでしょう。

では、これを踏まえて、現実の世界と呼ぶものと夢の世界と呼ぶものには、どれくらいの違いがあるのでしょう? 夢から覚めて「なんだ、夢か」と言う。一日を過ごして眠りにつき、夢の世界へと行く。「ああ、なんだ現実の世界に行ってたのか。」といって夢の世界を過ごす。現実の世界の僕は「夢なんて脈絡ないし偽物だよ。」と思い込む。夢の世界の僕はもしかしたら「あんなつまんない現実の世界が本物だって?」くらいに思っているかもしれません。

僕の感じる疑問はここなのです。僕の思い込んでるとおり、「夢=偽物、現実=本物」であってるのか?
現実の世界にいる僕には現実の世界こそが「現実」ですが夢の世界にいる僕の「現実」は一体どれですか?

そういう観点として、僕は「現実とは何ぞや」という疑問をもっています。
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この回答へのお礼

これは「この世の掟」「本当の現実の一つ」「真理の一つ」・・・・・{今」と言う現実と、「今」の連続を記憶した「大脳の記憶神経回路」が「眠りと言う休憩エネルギー回復状態で創り出す、夢の世界」の、どちらが「本当の現実か?」と言うユニークで、我々にとって絶対的な現実「今次元」への、ささやかな反逆的疑問?
・・・・と、捕らえました。・・・しかし,考えました,我々の意識は「何時も今」なのです。・・・・・受精して妊娠・・・意識が宿れば、その時点で「今意識が始まり・・・・「今が消えるまで」(死ぬまで)・・・・とにかく「眠る」「気が狂う」「死ぬ」「意識不明状態(植物人間)」位しか「逆らう事が出来ない」・・・・・「絶対的な今」と言う現実・・・今の奴隷である,我々の大脳が「ささやかな反逆」で「創り出したのが、ユニークな夢の世界」なのであろうか?・・・・面白くて、鋭い根源的疑問・・・・・・ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/25 23:09

現実 リアル これらを感じられないのでしょうか?


それは「他人に依って」生きているからです。
自分に依って生きなければ、それはリアルじゃない。一生現実を感じられないでしょう。
確かに助け合いは大切です。しかし、不要ななれ合いが生むのは平和ではなく安逸です。
どうすれば生きてゆけるのか。どうすれば生きている実感を得られるのか。
本当の現実とは自由なのです。故に厳しいのです。責任はどこまでも自分なのですから。
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この回答へのお礼

>本当の現実とは自由なのです。故に厳しいのです。責任はどこまでも自分なのですから。
#1、さんの回答、>お金ってやっぱり必要だなー。と思うことです。
この世界の日常性で「お金を得る」ことの目的は、ご承知のとおり、間接的に「自由を得る」ことです。お金をより多く得る事が可能なら、より多くの自由を得、安定した日常性を続ける事が可能となります。・・・ところで、この「自由」とか「安定」という概念は、この世界では実現不可能なイワユル「抽象性概念」と言われるものです。有限時間、有限遺伝子の中で「完全なる自由」「完全なる安定」などの抽象性概念は「この世界に無い」ものなのです。・・・・・・・・・・・・・
ところが、我々の最初の祖先と言われている「現代型ホモ・サピエンス クロマニヨン人が残した洞窟壁画には「象徴性とか抽象的世界らしきモノが描かれている」と言われています。また今尚人跡未踏のジャングル地帯で現代文明に全く汚染されていない未開部族でも「彼等なりの何らかの抽象性概念を保持している」と言われていて、・・・・我々は,生まれながら「この世界には無い、抽象性概念を保持し」
それを「目的」として生きている・・・・・・・・・と言う事は「我々の本性」は「この世界(四次元世界)では無い所」から遣ってきた・・・・・・・それは現代宇宙論の「宇宙開闢説」で有名なビックバン宇宙、始動地点「特異点」以前の世界、イワユル「無」としか言いようのない世界から遣って来たと私は推論し、覚醒者が言う「我々の本性は、肉体のセンターに在る「無」である」が真実であると確信するものです。・・・・・・これが「本当の現実」です。
どうもチョット独創的?現実を定義しましたが・・・・・ご理解できたでしょうか?・・・・・自由への推論、「個」としての責任感、見事です。ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/25 20:12

 


「本当の現実」というものを志向したとき、それは「本当でない(本来的でない)現実」との対比で、はじめて意味を垣間見ることができます。

「日常性に流される毎日」……これが「現実」であるのです。しかし、そのような自己のありかたに、「非本来姓」を感じるというのが、「本当の現実とは?」という疑問の開始になります。

しかし、これが現実だが、しかし、この現実は本当とは思えない、もっと本当の、本来的な現実があるはずだと考えたとき、このような人の「現なる存在」が、人の現実のありようだということにもなります。

「本来性」を志向したとき、はじめて「現実」の非本来性が「意識」されるのです。このような「意識」がない状態では、「これが現実」も、「あれこそ現実」もありません。現実からの距離の意識が、「現実認識」を実はもたらし、その距離意識に対し、「違和感」を抱かない場合、「本来性」への疑問は起こって来ないのです。

コピーでもなく、機械の部品のように交換可能でもなく、誰とも交換できない、自分そのもの、自分の生きる、交換不能な、本来的な現実というのは、「現なる自己の状況」に対する「違和」に基づいています。

この現実とは異なる、本来的と思える現実状況を、願い、志向し、過去あるいは未来、あるいは時間の外に、プロジェクション(投影・投機・企投)することはできるのです。

しかし、プロジェクションされた現実は、「この現実」ではないのです。それはあくまでプロジェクションなのです。しかし、翻って考えれば、現実に違和を覚え、本来性をプロジェクションすることが、すなわち、意識し志向する人間の「本来的な姿」だとも言えるのです。

遙かな「夢の現実」を何かの方法で達成でき到達できたとき、その「新しい現実」に安住できれば、問題は解決するでしょう。しかし、「青い鳥」の話ではありませんが、「この現実」であっても、そこに安住できれば、「この現実」が本来的現実となるのです。

また、「夢が実現された現実」でも、それが実現されたとき、違和感が起これば、ふたたび、本来性を求めるという志向のプロジェクションになります。

どこかで、この現実に安住するか、(これを、現実への妥協とも表現できれば、現実を生きる決意とも表現できます)、違和感を抱いて、企投を続けてゆくかです。現実に安住できている人は、違和を意識していない人か、生きる決意をした人ということになります。

違和を意識しない人はいないはずなので、(つまり、人間は夢や希望や、未来を知る存在なのです)、結局、どう生きるかの「決意」の問題になるのです。

本来性を求め続けようと決意したとき、そのような生き方、本来性を求めようという志向のありようが、人の実存であるということになります。

お金がないと食べることができず、遅刻をしていると、会社をリストラされる、洗濯しないと洗濯物が貯まって来る……こういうことは、端的に「現実」であるのです。

こういう現実は受け入れがたいと思うとき、それは「疎外」という一般事態になります。疎外に対しては、すでに述べたように、この現実の内へと自己を企投するか、現実の外へと企投するかで、サルトルの言葉だと、アンガージュマン(関与・参加)ということになります。

何かを志向し、決意する過程において、本来性が実は、実現しているというのは、言葉の遊びのようですが、これが本当のところなのです。

……しかし、人は関与や本来性や企投などは面倒で、ただ惰性で、この現実に生きている、と思うこともあるでしょう。惰性で、日常に流されているのでは、死んでいるのとどこが違うのか、と思いつつも、惰性で流されてしまうというのもあるのです。

それは、「非本来的な生き方だ」とも言えます。しかし、人はどのような状況にあっても、夢や希望を破片でも持っています。希望もプロジェクションも見いだせないとき、人は自殺するしかないでしょう。これはアルベール・カミュの問いになります。

しかし、惰性で生きていようと、希望やプロジェクションの破片でもあれば、人はそれで、十分、本来性の一部を回復していると言えるのです。

わたしは、死の前に、大いに後悔するのかも知れません。しないのかも知れません。しかし、いずれにしても、惰性で流されて生きた人生だとしても、わたしは、夢や希望を、かなわないにしても、何時でも心に持っていた。それは、「意味」あることではないのかと思うのです。
 
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この回答へのお礼

>しかし、翻って考えれば、現実に違和を覚え、本来性をプロジェクションすることが、すなわち、意識し志向する人間の「本来的な姿」だとも言えるのです。
この世界に誕生した、生命体なら、全てやる本能行動(日常性の現実)以外に、人間なら「何かプラスアルファーを、一回切の「この意識」の中に求めようと喘ぐ」現実・・・・・・それが叶うか叶わないかは別・・・・人間の明かし?・・・・・・・それも現実。
どうも意味深な論理的なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/24 20:13

これが「現実」だな~と認識した時点から「非・現実」への妄想を抱くかな・・・


そして、それは、えてして反比例するね。
足掻けばあがくほど、『現実』に飲み込まれていく。
主婦の日常にあるのは、怠惰な現実の積み重ねです。
本当の自分を何とか繋ぎとめながら、「妻」「母」をやってます。
「現実」を見つめたらため息がでるな~
「非・現実」を考えたら、自分も家庭も崩壊するかな・・・
「おんな」は哲学出来ないね。いたって現実的だし・・・
答えにならなくてごめんなさい。思った事、つらつらと書いてしまいました。
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この回答へのお礼

平均寿命78歳位・・・・この有限時間で生老病死が在り、一回切りのこの意識・・・日々生き続けたいと誰もが願う「現実」・・・その為に一生の大部分を当てなければならない現実・・・・・動物達ならそれで終わり・・・・人間は「?」が付き纏う・・・・・・賢者は言う「今」を全力で生きろ・・・・と・・・・・・
答えのない現実も在る・・・・・・如何もご回答有り難うございました。

お礼日時:2003/01/24 18:04

哲学的に考えるならとても難しい質問ですよね。


目に見えるものを現実とするなら、青い空は現実。
物質として存在するものを現実とするなら、青い空は空想。
人の心は正に青い空のようなものですよね。
社会という名の大きな対流の中に身を任せるしかない人間という動物。
私たちは何を求めて生きてゆくのだろうかと、ふと思う瞬間。
自分自身が自分自身であることの証明が難しくなる日常。
現実とは単なる単語であって、実は何も存在していないのではないかと思う日曜。
このメールさえ、単なる0と1の集合体という不確定な存在。
「現実」を語るときその枠組みの限界点を決めなければ、その言葉の明確な意味さえ失ってしまう「現実」という言葉。
muzanさんの日常とはどこまでが日常だろうか?
人はまだ宇宙の理を何も知ってはいない。
切々と続いていく物悲しい響きの「人生」という枠組みが私たちの現実というところではないだろうか。
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この回答へのお礼

>現実とは単なる単語であって,実は何も存在していないのではないかと思う日曜。
ある人が言ってました「人は生き続ける為に、誕生(イヤ意識が宿った時)以来
コピーを取り続けるコピー存在・・・そのコピーを取り除けば「何も無い」・・
イヤー人間的根源に迫る・・・正に人間らしい人に会いました。・・・・・普通の人間になかなか会えない日常性の現実・・・・感激です。

お礼日時:2003/01/23 22:15

お金ってやっぱり必要だなー。

と思うことです。
こういう事でいいですか?
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この回答へのお礼

これもGENJITUです。・・・・・・・・・・ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/23 22:17

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