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鎌倉時代の日興遺誡置文における
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。」
の正確で解り易い現代語訳をお願いします。

なお、宗派により勝手な解釈がなされているようですので、思想宗教にとらわれない文学や歴史や国語を研究学習されている方にお願いします。
書いてある通りの厳密な現代語訳をお願いします。
日興遺誡置文全体を踏まえての解釈も必要と考えます。
http://dakkai.org/yuikai.html
http://home.att.ne.jp/blue/houmon/gosyo/g435.htm
http://www.sokanet.jp/sg/sn/gosho_text.html?key1 …
また、この文からも、日興上人は、代々の貫首を特別視(絶対権威化)していないと考えますが、いかがでしょうか?
小中学生でも迷わない解説をお願いします。

なお、私の現在の解釈は、
「その時々の日興門流の管長であろうとも、その管長が、日蓮大聖人の御書と矛盾する自分流の教義を主張するならば、その教えを用いてはならない」
或いは、
「その時々の日興門流の管長であろうとも、その管長が、日蓮大聖人の御書と矛盾するする自分流の教義を主張するならば、そのような管長を管長に登用してはならない」
です。

A 回答 (2件)

現代語訳と解釈とは峻別してください。

誰の文章であるかを伏せて、言語内容を現代語で表現するのが現代語訳です。他の宗門の人が同様の文章を書いている場合にも通用するものでなくてはなりません。

日蓮聖人の門流は法華経に帰依します。仏法は法華経を説いた御仏の法です。法華経には「私はこのようにきいている。ある時、御仏がラージャグリハのグリダラクータの山の中にとどまっておられて………」とあるように、御仏は釈尊(ゴータマ・ジッダールタ)に仮託されています。日蓮聖人の門流は釈尊として示現された御仏の説いた法華経を仏法として護持します。

日興上人の門流では、法華経を護持された日蓮聖人を本仏とされている由。御仏は去来今に亙って遍在されています。本仏も同じく三世にうつしみとなって示現されます。正法初期の世尊の声も末法往時の聖人の文もともに仏法の顕現です。

なお、今回の置文の条文は、本則(「門流内部で論が分かれた時は基本的には管長の指導に従うこと。」)に対する例外規定(「ただし、その管長が、仏法に相違して自分流の教義を主張する時は、その管長に従ってはならない。」)であると感ぜられます。
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(皆さん方は、釈尊の教えに従うグループ(僧伽)の一員として、わたくしの指導のもとに修行をしてこられました。

私の他界後も、私の後を承けた方が指導者(貫首)となって、皆さんも将来に亙って修行を続けてゆかれることになります。ただ、心していただきたいことがあります。私の後を承けた)その時々の指導者であろうとも、その人が、釈尊の御(み)教えに背くような、自分流の教義を主張することがあるならば、皆さんは、その人の(間違った)教えに従ってはなりません。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりましたが、アドバイス有り難うございます。
あなた様の解釈は、釈迦仏教の観点から「そうあらねばならない」読み方であろうと想いますが、
日興上人は、釈迦よりも日蓮大聖人を本仏と考えている方ですので、「仏法」とは、「釈尊の御(み)教え」ではなく、日蓮大聖人の御書となります。
私は、この遺誡から「日興上人は、代々の貫首を特別視(絶対権威化)していない」と判断しますが、いかがでしょうか?

お礼日時:2008/12/23 02:29

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