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みなさん、こんにちわ。
もうすぐお正月ですね。

お正月の遊びである凧上げや羽根つきは陰陽道からくる風習だそうです。

http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-8.htm

茶道も陰陽道と関係があると聞いたことがあります。

その外にも陰陽道からくる風習や行事をご存知でしたら教えて下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

次のサイトなどはいかがでしょうか。
http://homepage1.nifty.com/haruakira/onmyoudou/f …

(よもやま話)
方位除けも「陰陽道」からきています。
(1)方位神(ほういじん)
九星術から生じたもので、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられた神である。
方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行する。吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。
平安時代には、自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われました。

(2)鬼門(きもん)
北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としているのです。他の方位神とは異り、鬼門は常に艮の方角にある。
鬼門とは反対の、南西(坤 ひつじさる)の方角を裏鬼門と言い、この方角も忌み嫌われます。
鬼門は、古代中国の書物『山海経』にある物語が元となっており、北西(乾)を「天門」、南西(坤)を「人門」、南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」としたことによるものです。
江戸時代には、鬼門の方向への造作・移徙(わたまし=貴人の引越)は忌むべきとされました。また、人々は家の鬼門の方角に桃の木を植えたり、鬼門とは反対の方角が申(さる)であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしました。
京都御所の北東角には屋根裏に木彫りの猿が鎮座し、鬼門を封じています(猿ヶ辻)。
現在でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、門や蔵、および水屋・便所・風呂などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が強く残っている。
また、都市計画においては、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が置かれ、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が置かれました。

例えば、家の真ん中に階段があると「凶相」。これは、どこからも「光」が入らず暗くては危険のためですが、どこかに明り取りの窓などを取り付けるだけで解消できます。
昨今は、建売住宅などで、玄関が「鬼門」を向いている物件もありますが、これも、塀の門扉を少しずらして、回り込むようにすれば解消できます。

(3)方違え(かたたがえ、かたちがえ)
陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習の一つ。方忌み(かたいみ)とも言われます。
外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いと一旦別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにしました。
また、外出または帰宅の際、目的地に特定の方位神がいる場合に、一旦別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けた。
例えば、仕事先から西の方にある自宅へ帰ろうとしたら、西の方角に方違えの対象となる天一神が在していたとする。この場合、真っ直に家へ帰ると天一神のいる方角を犯すことになる。そこで、一旦他の方角、例えば南西の方角にある知人の家で一夜を明かして翌朝家に帰ることにすれば、移動は南西方向と北西方向になって、西への移動を避けることができる。
また、造作を行う際、その工事場所が家の中心から見て禁忌の方角に当たる場合に、一旦他所で宿泊して忌を移してから工事を行った。しかし、天一神のように数日で移動する方位神ならば良いが、同じ方角に1年間在する金神などが工事をしたい方角にいる場合もある。その場合には、その年の立春に一旦方違えになる方角に移動して一晩明かし、翌日自宅に戻れば当分は方違えしなくても良いとされた。
方違えの対象となる方位神は、以下の5つである。

天一神(てんいちじん、てんいつじん、なかがみ):
同じ方角に5日留まる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%80% …
太白(たいはく):
毎日方角が変わる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%99%BD
大将軍(だいしょうぐん):
3年間同じ方角に留まるが、5日単位で遊行する。(陰陽道の大将軍の項)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%86% …
金神(こんじん):
1年間同じ方角に留まる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%A5%9E
王相:
王も相も1か月半同じ方角に留まる。続けて来るので3か月間ひとつの方角が塞がることになる。
http://www.ffortune.net/calen/calen/yomi99/yomi0 …

総じて、現代の神仏の行事(特に、神道)や占いの多くは、「陰陽道」を原点としているものも多いかと思われます。
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございます!
またはってくださったサイト、どれもとても面白いです。

五節句や大祓なども陰陽道からくるものだったのですね。
そういえば京都下鴨神社や大阪天満宮の流鏑馬で
騎手が「インヨー(陰陽)」と叫びながら弓を射ていたのを思い出しました。

古事記の冒頭にも
「陰陽の二極が開けて、イザナギ・イザナミの命が万物すべてのものを生み出す祖神となられた」というようなことが書かれていたように思います。

日本神道そのものが陰陽道から創作されたと考えることができるかも、ですね。

歴史作家さんということなのでお伺いしたいのですが
平安時代の初期に平城帝が嵯峨天皇に譲位したのち
移転を繰り返していますが、これなども方違えが目的だったんじゃないかなあ、と思ったりしますが
どう思われますか?

お礼日時:2008/12/24 15:04

こんばんは。


NO1.です。

>>元号の無い時代があったなんて、オドロキです。
なんで元号がなかったんでしょうか。

昔は、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す呼び方ありましたので、「元号」は、いわば、副産物のようなものでありました。近年、2008年を平成20年と、二つ読み替えるようなもので、これも、陰陽道から来ている、と、言われていますが、yuhkohさんには、「素直に?」受け止めてもらえないことかもしれませんね。

yuhkohさんへ
>>「ない」という証明は当方では不可能です。「ある」という側が明確なる根拠、出典、事例を紹介しない限りは、直ちに納得できるものではないのではということです。

「ない」という証明は当方では不可能です。・・・これは、私は、これでも、一応は法学部法律学科を卒業した人間ですが、あなたが、「ない」という証拠を出さない限り、それぞれのサイトやそれぞれの意見を「批判」する立場ではない、と言えますね。

質問者さまも、私も、あなたの「回答」を興味深くは見ていますが、私たちは(質問者さまは、どうか分かりませんが)少なくとも、サイト検索で記述された内容を、まあ、100%とまではいかずとも、「なるほどな~」と、読み返している過程?でもあります。

逆に言えば、yuhkohさん、あなたが、こういう「出典」に基づき、「ここは間違いだ」と、証明すべきではないでしょうか。あなたは、完全に「逃げている」。

私も、仕事柄、多少の講演会などにも呼ばれたりして質問も受けますが、話が「茶道」とか「華道」へ飛ぶのではなく、「否定」をなさるなら、それはそれで。他人を「非難」するだけではなく、「理路整然」とした「回答」をされてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

干支も陰陽道からくるのですね。
暦や宗教、遊びにいたるまで陰陽道の影響は広く及んでいるのですね。

いろいろありがとうございます。

お礼日時:2008/12/27 22:12

>>体的に関係がないという理由を示していただきたく存じます


「ない」という証明は当方では不可能です。「ある」という側が明確なる根拠、出典、事例を紹介しない限りは、直ちに納得できるものではないのではということです。

言い方が悪かったかもしれませんが、当方が言いたかったのは別に陰陽道と陰陽五行が対立しているというのではなく、「陰陽道から生まれた行事(陰陽師が行っていた儀式、祭祀が習俗化したもの)」と、「陰陽五行思想の影響を受けている行事」とはある程度峻別が必要ではないでしょうか。
例えば、宮中で年末に行われた追難が習俗化した節分の豆まきや、三宝荒神信仰などは陰陽道から生まれた行事といえるでしょう。
ただ、茶道が陰陽道から生まれた、神道が陰陽道から生まれたという言い方は違うのではないかということです。
神道思想の形成に、茶道や華道などの芸道の形成、体制化に陰陽五行思想の影響を受けてはいます。
例えば江戸時代にいけばなの花態の一つ、生花(せいか)を大成させた未生斎広甫は、花の形、数、花器の寸法などを陰陽五行の理論を用いて、全体の調和を図りつつ花の形に世界を表現します(『未生斎広甫全集』、『華道古書集成』)。
 もっとも、陰陽五行だけでなく仏教、儒教、神道などの理論も用いていますが。

たこ揚げに陰陽五行思想が見られるというのであれば、そういう見解もあるかもしれませんね。と思いますが、たこ揚げが陰陽道の行事だというのであれば、陰陽師がたこ揚げを広めたという事例が提示されないと信憑性に難があるのではということです。

この回答への補足

>「ある」という側が明確なる根拠、出典、事例を紹介しない限りは、直ちに納得できるものではないのではということです。

上に上げたサイトは出典は示されていないかもしれませんが
根拠と事例は示されていると私は思いますよ。
多少疑問点がなくもありませんが、大筋においては筋がとおっている。
しかし、あなたはおかしいと主張するだけで
どこがおかしいかという点を明確にしていません。
批判するのであれば、それを明確に指摘する必要があると思います。

陰陽道から生まれた行事とは、陰陽師が行っていた儀式、祭祀が習俗化したもの)」で
「陰陽五行思想の影響を受けている行事」であると主張なさりたいのだと思いますが
そうであると主張する根拠は何ですか。
根拠となるサイトや史料を提示していただきたく存じます。

>ただ、茶道が陰陽道から生まれた、神道が陰陽道から生まれたという言い方は違うのではないかということです。
神道思想の形成に、茶道や華道などの芸道の形成、体制化に陰陽五行思想の影響を受けてはいます。
例えば江戸時代にいけばなの花態の一つ、生花(せいか)を大成させた未生斎広甫は、花の形、数、花器の寸法などを陰陽五行の理論を用いて、全体の調和を図りつつ花の形に世界を表現します(『未生斎広甫全集』、『華道古書集成』)。
 もっとも、陰陽五行だけでなく仏教、儒教、神道などの理論も用いていますが。

上記の文章は何がいいたいのかわかりかねます。
>神道思想の形成に、茶道や華道などの芸道の形成、体制化に陰陽五行思想の影響を受けてはいます。
以下は私と同じ意見ですね。

それなのに
>神道が陰陽道から生まれたという言い方は違うのではないかということです。
というのは矛盾していませんか。

どのように意味をとればいいのか、判断しかねております。

それに私は、「神道が陰陽道から生まれたかも」とは書きましたが
「神道が陰陽道から生まれた」と断定はしておりません。

補足日時:2008/12/25 19:10
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この回答へのお礼

すいません、補足の補足をここに書かせていただきます。
意味がいまひとつわかりにくいのですが

>ただ、茶道が陰陽道から生まれた、神道が陰陽道から生まれたという言い方は違うのではないかということです。

というのは、神道は【陰陽道】ではなく、【陰陽五行説】より生まれたと書くべきという意味なのでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD% …
によれば陰陽五行説が伝わったのは5世紀から6世紀頃とあります。
神道の最も古い文献は記紀だと思いますが、
これは8世紀はじめに成立しており、中国より陰陽五行説が伝わって
かなりの時期を経ています。

また何をもって陰陽道の確立とするかも明確ではありませんので
陰陽道として確立した時期を特定するのは難しいのではありませんか。

それから陰陽師が用いたものが陰陽道であるという見解を持っておられるようですが
上記サイトにはそのようなことは記されていません。

また凧揚げや羽根突きは江戸時代に盛んに行われたものと思いますが
(凧揚げそのものは中国から伝わったものだそうですが)
上記サイトによると
※江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった
とあります。
ですから陰陽道からくる行事だと言っても間違いであるとは言い切れないと思います。

もっともあなたはウィキの記事などあてにならないと
おっしゃるかもしれませんが。

重複しますが下記のことを再度お願いしたいと思います。

陰陽道から生まれた行事とは、陰陽師が行っていた儀式、祭祀が習俗化したもの)」でであると主張なさりたいのだと思いますが
そうであると主張する根拠は何ですか。
根拠となるサイトや史料を提示していただきたく存じます。

お礼日時:2008/12/25 20:50

こんにちは。


NO1.です。

yuhkohさんへ。

確かに、陰陽道は陰陽五行思想を起源としているようですし、それぞれの世界観は若干違うようですが、5~6世紀頃、日本に陰陽五行思想が入ってきて、「日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系」。(次のサイトの冒頭)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD% …
と、あるように、日本独自の発展をした、と、考えられ、占いの分野では、完全に分かれるものなのかもしれませんが、
少なくとも、陰陽師の「賀茂一族」や「安倍清明」が活躍した頃には、「混同している」と、言われるかも知れませんが、日本独自の「陰陽道」が出来上がっており、それが、今日まで続いている・・・と、考えた方が「自然」なのではないでしょうか?
もし、双方が相容れないものであれば、日本においても、「陰陽道」と「陰陽五行思想」は、対立したまま発展をするのではないでしょうか。

>>(もっとも、質問者さんが参考にされたサイトも、どれほど信憑性のある話か分かりません。信頼のおける参考文献も提示されていないし、サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしか見あたらないし、それにサイト主の名前で検索をしても何だかな~ ということしかヒットしないし)

少なくとも、Webサイトでの検索で出てきたものを、色々集め、それらを総合して、自分の考えをまとめる・・・だけでも良いのではないでしょうか。それぞれのサイトでは、「出典」があるものもあれば、ないものもありますし、思わぬサイトで「出典」が分かるものもあります。
「出典」が明記されていない=「間違い」とは、言い切れないのではないでしょうか?
この、陰陽道にしても陰陽五行思想についても、サイト検索では、バラバラと出てきます。それらは、時には「異説」もありますが、多くのサイトを照らし合わせて「自分の考え」とすることは、あながち、間違いとは言えないのではないでしょうか。
多くのサイトが「間違いだらけ」を公開しているのでしょうか?
では、yuhkohさん、あなたの自論の「出典」は?

質問者のsitifukujiさんへ。

>>「迷信」「占い」を受け入れて歴史を考え直して見ると面白いのでは、と思いました。

そうですね。
「歴史」とは、○○年に××事件が起きた。その背景は☆☆であった。
と、言うように「単一的」に見ていく傾向がありますよね。

しかし、あなたの言われるように、特に、奈良時代や平安時代などを考える時には、占術や加持祈祷の盛んな頃でしたから、前述のように、「遷都」ひとつをとっても、
「・・・三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている」
と、占術に頼ったことも「考慮」すべきかもしれませんね。

同時代ですが、桓武天皇が延暦3年(784)6月に平城京から長岡京へ遷都をしましたが、その後、「飢饉」「疫病」「自然災害」が多発しました。そこで、桓武天皇は占術師に占ってもらったところ、弟の早良(さわら)親王の「たたり」だと言われた、といわれています。
早良親王は遷都に反対する公家たちと共謀して、桓武天皇の片腕であった藤原種継を暗殺した一味で、桓武天皇は激怒し、
「一味をきっと探し出せ」
と、指示し、10名近くの公家と、それにかかわっていた弟の早良親王が捕らえられました。
公家たちは、ただちに「斬首」の刑を執行し、早良親王は幽閉されましたが病死しました。
この後、色々な「災難」があったため、占術師に占ってもらい、早良親王が「恨み」を持ったまま死んでいった。とのことで、ただちに、「鎮護」の祈祷をした、と言われています。

また、
大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。

>>歴史の解釈は、「迷信」「占い」とかを受け入れない「解釈」で成り立っています。

と、書きましたが、やはり、側面からは、「迷信」や「占い」も十分考慮しなければならないのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。
元号の無い時代があったなんて、オドロキです。
なんで元号がなかったんでしょうか。
そのようなことも古代人の気持ちになって考えてみると
新しい歴史の発見があるように思います。

これからもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/12/25 20:55

質問者さんへ、陰陽・五行思想と陰陽道を混同している感があるように思えます。



 陰陽・五行思想とは古代中国の一種の世界観であり、古代東洋の自然哲学です。
 陰陽思想は、万物は混沌な状態である太極から陰陽両儀が生まれ、そこから四象が生じ、そして八卦が生まれるという、森羅万象の成立を説明するものです。
 五行思想は、木・火・土・金・水の五つの気による森羅万象の相克関係。つまり、木は燃えて火を生み、火は灰を生んで土に帰る…という相互と、土は水をせき止め、水は火を消す…という相克、この二つの力関係で世界を把握するというものです。
 そして陰陽と五行の思想が結びついて陰陽五行という、より複雑な世界観となります。

 陰陽道は大陸より伝わった陰陽五行思想に基づいて、天文観測や暦の作成、そして月日の吉凶判断を行うい、また仏教や道教、神道などの影響を受けた、日本独自の天文・暦学・呪術体系です。

 陰陽五行思想は、陰陽道に限らず日本の思想、文化の体系に多大な影響を受けています。『日本書紀』などの国生み神話の形成もその一つですし、また華道、茶道、能楽などの芸事も、その所作・道具・作法などを陰陽五行の思想によって説明、体系付けることで、一種の思想性、芸術性を高めました。
 陰陽道というのは陰陽五行思想から生まれた一分野ですから、陰陽道<陰陽五行思想であり、陰陽道=陰陽五行思想ではありません。

(もっとも、質問者さんが参考にされたサイトも、どれほど信憑性のある話か分かりません。信頼のおける参考文献も提示されていないし、サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしか見あたらないし、それにサイト主の名前で検索をしても何だかな~ ということしかヒットしないし)
 

この回答への補足

ながらく返事を待っていましたがついにいただけませんでしたね。
残念です。

>信頼のおける参考文献も提示されていないし、サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしか見あたらないし

この文章の中にあなたの考え方が現れていますね。
すなわち、あなたは論理的に筋の通ったものを認めるのではなく

「信頼のおける参考文献」を認めるという姿勢なのです。
どうやって「信頼のおける参考文献」を見極めておられるのか存じませんが
論理的に筋が通っているから「信頼のおける参考文献」と認めておられるのではなく
作者がその道の権威であるというような理由から「信頼のおける参考文献」と認めておられるのではないでしょうか。
安易なブランド志向と何ら変わらないと思います。
あなたは「知識を得る」ことに長けているかもしれませんが
「自ら考える」という姿勢がありません。

しかも反論しかけておいて、途中で逃げ出すなど卑怯この上ない。

補足日時:2009/01/05 10:55
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この回答へのお礼

>質問者さんが参考にされたサイトも、どれほど信憑性のある話か分かりません。信頼のおける参考文献も提示されていないし、サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしか見あたらないし

参考文献は 吉野裕子『ダルマの民俗学』岩波新書と記されています。

以下の3点について質問をしたいと思います。

1.陰陽道<陰陽五行思想ということは理解しています。
つまり陰陽道とは中国の陰陽五行思想をベースに日本で発展したものであるということは理解しています。
ただ、陰陽道と陰陽五行思想が具体的にどういった点が違うのかについてはしりませんので
ご教授ください。

2.私のどの文章から「陰陽・五行思想と陰陽道を混同している感がある」と思われたのでしょう?

3.凧揚げ、羽根つきが陰陽道と関係ないと主張なさりたいのでしたら
信頼のおける参考文献が提示されていないとか
サイトを見ても啓蒙書や入門書のたぐいしかみあたらない
といった理由でなく、
具体的に関係がないという理由を示していただきたく存じます。

お礼日時:2008/12/25 09:20

こんにちは。


私のつたない解説をお読みいただき、ありがとうございました。

>>平安時代の初期に平城帝が嵯峨天皇に譲位したのち
移転を繰り返していますが、これなども方違えが目的だったんじゃないかなあ、と思ったりしますが
どう思われますか?

歴史の解釈は、「迷信」「占い」とかを受け入れない「解釈」で成り立っています。
しかし、あなたのご指摘を考えると、
(1)平城天皇は、幼少より病弱であった。
(2)和銅元年(708)、元明天皇が平城京を開くにあたり、
「都というものは、百官の府であり、四海の人々が集まるところ、である。平城の地は、三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている」
という詔(みことのり)を出している。
(3)大同5年(810年)、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。(ただし、嵯峨天皇によって、未然に防がれた)。
(4)「薬子の変」で平安京にいられなくなった。
薬子の変:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90% …

これらを「総合」して考えると、自らの病弱さを克服するため、また、人心を一新して自分の政権を確立するために、特に(2)への思いを馳せた、とも言えるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

またまた回答ありがとうございます。

>歴史の解釈は、「迷信」「占い」とかを受け入れない「解釈」で成り立っています。
はー、そうなんですか。
でも昔の人が迷信や占いを信じていたことは確かだと思うんですね。
宮中には陰陽寮があったくらいですし。
迷信や占いを受け入れないというのは現代人の考え方で
古代の人々はそうではなかったのではと思います。
一般的な歴史の解釈において「おかしいなー」と感じることがありますが
きっとそれは、「迷信」「占い」とかを受け入れない「解釈」だからなのかもしれないですね。

「迷信」「占い」を受け入れて歴史を考え直して見ると面白いのでは、と思いました。

平城帝の転居についての考察も参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/12/25 08:59

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