人気マンガがだれでも無料♪電子コミック読み放題!!

 大恐慌前後の失業率(日本1928年~34年推計値とアメリカ1928年~34年)を教えてください。
 特に、日本の32年推計値6.9%(朝日新聞12.25)は、農業従事者の失職を「失業者」にカウントできていないのではないか、実態はアメリカの失業率(25%)と同じくらいではなかったのか、という疑問を持っています。
 いま、失業の爆発に対処する緊急共同提案「パンデミック失業を救う無料の介護サービス」をブログhttp://cid-23673586dd710ec5.spaces.live.com/?lc= …で作成中です。
 ふまじめな質問でないということを知っていただくため、目次と骨子だけを送らさせていただきます。

緊急共同提案
仮題「パンデミック失業を救う無料の介護サービス」
田中雄二ほか(田中http://docs.google.com/Doc?id=dfrzv3md_2dsbkxpd5
2008.12.24更新
【目 次】
<1> 骨子
<2> 積算根拠
<3> 問題点
<4> その他

<1> 骨子
 世界大不況による雇用崩落で1000万人以上が失業し、その割合は7人と1人となる。
 雇用を大量に創出するためには、熟練を要しない労働を提供する必要がある。かつては道路・ダムなどの土木作業がそれを担ったが、今の日本ではもうその必要性がない。
 非熟練の労働が必要とされる分野は、介護である。
 そこで、失業者を介護要員として雇用する。
 財源20兆円は、赤字国債でまかなう。
 この費用による介護サービスは無料とする。
 給与の支給は、介護会社の人件費を補填することによる。
======
 以上の提案を研究中です。共同で研究していただけませんか。
 ただし、この研究では、私も含め、著作権を放棄していただきます。緊急性と公益性のためです。しかし各人の努力は評価しなければならないので、コメントにはハンドルネーム・実名・筆名をつけてください。
 
 研究、提案、資料提供では、特に現役公務員や政策立案者の参加をお待ちしています。ぜひ、仮名でどうぞ。ただし根拠資料は公表資料に限ります。さらに、幅広い参加のため、政党名、官庁名、官職名の明示はおことわりします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

介護 費用」に関するQ&A: 祖母の介護費用や責任。 負担は誰が多くすべきだと思いますか? 6年ほど前から認知症になった95才の

A 回答 (2件)

とりあえずコメントを書きます。


私の見解は、質問者の方と違っていますので、お手伝いはできませんが。


>特に、日本の32年推計値6.9%(朝日新聞12.25)は、農業従事者の失職を
>「失業者」にカウントできていないのではないか、実態はアメリカの失業
>率(25%)と同じくらいではなかったのか、という疑問を持っています。

当時の日本の農村社会は、大家族制が残っていました。
実際は居候であっても、親兄弟の農業の手伝いをすることで、とりあえず衣食住は何とかなった時代だと私は思っています。
そういう人を失業者としてカウントするかどうかは、ただの数字いじりにしか過ぎないのではないでしょうか?


>世界大不況による雇用崩落で1000万人以上が失業し、その割合は7人と
>1人となる。

8人中1人が失業。つまり、失業率が12.5%まで上昇するとお考えでしょうか?
今のところ私の主観レベルですが、そこまで失業は悪化しないと思います。

ただし、その成否は政治が決定しそうです。
麻生政権の批判が強いため(半ばマスコミが作り出したものだと私は思っていますが)、与野党まじえて政局争いが活発です。
来年3月まで争いが続き、重要な景気対策が何も進まなければ、質問者の方が予想した事態に進むかもしれません。

しかし、政府による景気対策が前進すれば、そこまで失業率が悪化する前に歯止めはかかると思います。
熟練を要しない労働として、建築・土木の他に、農林水産業の活性化を私は期待しています。

また生活レベルさえ問わなければ、都会でのアルバイトもまだまだ多いです。
政府が低価格の住宅を供給し、アルバイトで生計可能になれば、世界経済が盛り返して輸出が回復するまで、何とか持ちこたえることも不可能ではないでしょう。

その他、質問にあるように介護分野での雇用も、予算さえ確保すれば十分可能でしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

 ていねいなご教示、ほんとうにありがとうございました。
 失業の増加をあえて「パンデミック失業」などと強調しているのは、たとえそのような悲惨な事態になっても、対応できる制度を今から準備するためです。準備にお金はかかりませんから。
 もし、いま暗い気持ちになっている人が、万全の準備体制を見て、その心が少しでも楽になればよい。そんな気持ちでやっております。
 どうか、その点をご理解の上、今後ともご指導のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2008/12/27 15:32

1929年の大恐慌ですが、


 金融恐慌が起こった原因は、金解禁政策を実施するため政府が金融引き締め政策及びドル買い政策を実施していた時に世界恐慌が起こり、ドルは紙くず、金が暴落したためです。これは銀行の統廃合を実施して乗り切りました。
 農村恐慌は、昭和4、5年が凶作、6年が大豊作(豊作貧乏)、7、8年が大凶作となったため、小作農(日本国民の20%ほど)が生活困窮状態に陥りました。
 経済不況は1920年のバブル崩壊の処理を怠ったためダラダラと不況が続き、29年の世界恐慌で輸出産業が打撃を受けたことにあります。

 当時の日本政府は、1930年にまず陸軍が制服改変を実施します。1935年に警察が全面改正を行います。土木事業も実施して雇用創出を行いました。
 1937年から日中戦争が起こったため、雇用問題は解決、戦争特需で景気が回復しています。45年の敗戦で特需は失われましたが、50年の朝鮮戦争で直ぐに回復します。

 さて、現在騒がれている失業問題ですが、実は失業者はほとんどおりません。彼らは人材派遣会社の従業員であって、いすゞやトヨタの従業員ではないからです。
 人材派遣会社が、肉加工業者や介護に派遣を開始すれば問題は解決します。もっとも彼らがそういう場に働きに行ってくれるかは不明ですが…

この回答への補足

 先日解答していただいたおかげで、大恐慌時の日本の農民の困窮が、不況だけでなく凶作・豊作という自然要因によることもわかりました。そこで、農業従事者の失業率に近似した困窮度の推定をやめました。
 しかし、教えていただいた「不況からの脱出の歴史」で、次の1がわかり、さらに2を考案しました。以下の理解にまちがいがないかどうか、重ねて質問させていただきたいと存じます。
 
1 悪魔の公共事業
 各国とも公共事業をしたにもかかわらず、その効果は上がらず、結局、戦争という「悪魔の公共事業」で、人と物を公共投資して、不況を脱出した。恐慌前の水準に戻ったのは、日本が経済植民地(満州)を獲得した後の1934年から、アメリカが第二次世界大戦突入後の1941年から。
 この公共事業は、物資を大量に消費するので企業が潤い、安い賃金で酷使される労働者(兵士)は、忠誠心あるいは戦死によって不平を言わないので、経済学的には、最高に合理的と言える。
 しかし、人道的には最悪なので、次を考えた。

2 すばらしい戦争
 道路、ダム、発電所などの建設、省エネ設備の施工など、日本の既存技術が生かせる分野で、日本の国債を財源として、中国とインドにおいて、両国の経済発展のための公共事業を行う。
 この時は、「ひもつき」を原則とし、機械と人員は日本からの輸出でまかなう。
 国債の償還は、経済発展した両国への輸出によって得られる日本の利益で行う。
 これらを戦争にたとえると、道路のためのセメントは「弾薬」、省エネに使う機械は「戦車」、技術者は「将校」、労働者は「兵士」、国債は「戦時国債」、国債の償還は「賠償金の獲得」となる。
 経済的に効果があり、人道的に申し分ないが、政治的には実現不可能。でも、楽しい夢。そこで、「すばらしい戦争」と名づけた。
 以上の案は、ケインズ政策を日本国内だけで考えるのでなく、日・中・印の領域で考えたもの。
 単純ケインズ政策との違いは、国債の償還財源を日本国民だけに求め、中・印の国民に求めない点。
 そこで、中・印に対する公共投資を無償援助でなく、借款にすると、中・印の通貨が日本円に対して上昇したとき、返還しやすくなる。これが政治的実現性を増す一方策。
 なお、援助に関連してもう一言。
 現在のODAは全廃して、投資を中国とインドに集約する。理由は次のとおり。
・両国の経済発展の可能性が大きい。
・両国には政治不安のリスクがあるので、それを日本が負うために、他国への援助を廃止する。
・日本の経済危機なので、経済効果のない対外援助はできない。
以上

補足日時:2008/12/31 11:09
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ていねいなご教示、ほんとうにありがとうございました。
 失業の増加をあえて「パンデミック失業」などと強調しているのは、たとえそのような悲惨な事態になっても、対応できる制度を今から準備するためです。準備にお金はかかりませんから。
 もし、いま暗い気持ちになっている人が、万全の準備体制を見て、その心が少しでも楽になればよい。そんな気持ちでやっております。
 どうか、その点をご理解の上、今後ともご指導のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2008/12/27 15:33

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q世界恐慌って?

1929年の世界恐慌に限って質問です。

世界恐慌って言うのはどういう風にして起こったのでしょうか。
世界までにも影響が波及した理由も兼ねて、分かりやすく、かつ詳しく教えていただけると幸いです。

それと、しってたらなぜ今の不況を世界恐慌といわないのかも教えてください

Aベストアンサー

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が異常に市場に流入されました。
市場流入した金が多いということは、市場そのものの価値が下落します。
(モノが大量にあれば希少価値が無くなり値段が下落しますよね)

ここで株価が史上最高値を出したことで株の売りが出だしますが、
下がれば買いが入り、しばらく上がっては下がりの状態を繰り返しました。
そんななかアメリカの国益産業である自動車産業の雄、GMの株がこのあおり
で売られはじめたことで不況の端を発します。
投資家が売り出したことで、他の投資家も「今が売りだ!」とGM株が大量に
売られてしまったのです。この売り誘発で他の銘柄も売りが殺到し、
市場の株が売り一辺倒になりアメリカ恐慌が発生しました。

ちょうど、GMも過剰生産だったので工場縮小などの措置を講じていた背景
があり、投資家に売りを誘発させる材料が整っていたことも大きな要因です。この流れで強烈な経済後退をアメリカ国内で招きました。

これが世界に流れて大恐慌になったのですが、当時はまだ株式市場は影響力
が小さく、被害はアメリカ内部だけにとどまっていました。
大きく世界を巻き込む恐慌に発展した理由として、銀行の倒産が挙げられます。
金融システムが停止し、世界取引の大部分は金本位制に基づく現物だった
ことから信用取引が中心となっており、輸出が激減して信用がなくなった
東欧諸国への取引が停止されます。
これによりオーストリアの銀行が倒産し、隣国のドイツを恐慌が襲い
ドイツの銀行が倒産し、企業の倒産が急激に襲い始めました。
また、第一次世界大戦からやっと復興し、金本位制に戻った各国から
大量の金が流出し、特にイギリスやドイツのヨーロッパ諸国の経済停滞を
招いて価値が急激に下落します。

日本やドイツは産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から
脱しましたが、政党や軍部の台頭が資本主義先進諸国との軋轢を生み、
他の国々も巻き込んでアメリカ市場経済への報復と、戦争による通貨価値
の上昇が狙われ第二次世界大戦が勃発しました。

現在の不況は当時の世界恐慌とは異なり(この恐慌から学び)、
国政資本を注入して建て直しを図る政策を各国が採っています。
各国が市場経済を導入している現在は、通貨の価値保全を各国が協調し、
一国の不況で計り知れない経済停滞が世界を襲うことを避けるため、
各国通貨や国債を他国が購入し、通貨の安定や外貨、外債を持つ購入国の
発言力が大きくなることでバランスを図っています。

そのため、株価は下落しても通貨自体は大きく変動していないので
通貨の国際的地位は各国とも保全されており、当時の世界恐慌ほどの
停滞とは言えないと思われるからだと考えられます。

簡単に言えば、各国がこれまで貯め込んだカネを放出して経済対策を
講じることが出来るためです。
国際法がしっかりとできあがり、世界的な連鎖恐慌を避ける措置が
図られているためですね。

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

QWord 文字を打つと直後の文字が消えていく

いつもお世話になっています。
Word2000を使っているものです。
ある文書を修正しているのですが,文章中に字を打ち込むと後ろの字が消えてしまいます。
分かりにくいですが,
「これを修正します。」
という文章の「これを」と「修正します。」の間に「これから」という単語を入れたときに,その場所にカーソルを合わせて「これから」と打つと,
「これをこれからす。」
となってしまいます。
他の文書では平気です。
何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q満州国建国の目的を教えて下さい。

なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

Aベストアンサー

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされた...続きを読む


人気Q&Aランキング