「クレオパトラの美貌によりローマの将軍を虜にし歴史に影響を与えた」というのをどこかで聞いたうろ覚えがあります。

これはどういった行いだったのでしょうか。
あるいはこれは誤った知識でしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

実際に美貌だったかどうかはそれぞれの主観にもよるでしょうが、


カエサルがクレオパトラに面会した初の挨拶の際にリップサービスも
含めて『こんな美しい女王陛下が困難な状況にあるのを放っておけない』
などと(実際にはローマの意向に従わせる策の一つであっても)言った
のは事実のようです。
それがなくても、カエサルもアントニウスも初めて会ったその日のうちに
クレオパトラを『お手つき』にし、子宝にも恵まれた事実もあります
から『子孫繁栄に励める状態になった』のは間違いありません。

万が一美人と思っていなくても『ブスだったけど女王だし今後色々役立つ
だろうから手を出した』などと自分のその後に悪影響を与える感想など
いえるはずもないでしょうし・・・。老若男女を問わず『エロ全開』が
当たり前だった当時は『経験を自慢して当たり前』でした。

クレオパトラの側も、国を守らなければならないので体を張ってその気
にさせる媚薬などを徹底的に使ったでしょう。自分は『美女ではない』
と言って国民の士気が下がるような間抜けなことをしようとは
しなかったでしょうしね。

一番の問題として、美貌には関係なく政治的/経済的な事情からエジプトは
古代ローマ帝国の傘下に入る運命にありました。美貌はそれが現実に
なった理由と考えられる一つの要因に過ぎません。
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この回答へのお礼

エジプトは政治・経済的な事情により、古代ローマ帝国の傘下となる運命にあったのですね。
cipher_royさん回答有難うございました。

お礼日時:2009/01/04 07:55

No1のURLの情報に追加。



当時はプトレマイオス朝エジプト。
もともとは、アレキサンダー大王の家来のギリシャ人です。
もともとエジプトでは神の子ラーが王様であるという伝統があるところに、外来からプトレマイオス朝は来たので、近親結婚を繰り返しました。地元のエジプト人とは血統が違うのだと言うことです。
なので、クレオパトラの貴重性は純血のプトレマイオス朝の女性だと言うこともあります。だから、シーザーもアントニウスもクレオパトラを大事にしたのです。
第二次世界大戦後の日本の天皇家をアメリカがなくさなかったのと似た側面があります。統治のための便宜です。
オクタビアヌスまでなると、もうローマの支配が何十年も続いていたので、プトレマイオスの血はいらんと考えたのではないでしょうか?めちゃくちゃオクタビアヌスって合理的な人間のようですから。
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この回答へのお礼

クレオパトラの血統は貴重だったんですね。
tanuki4uさん回答有難うございました。

お礼日時:2009/01/04 07:51

こんにちは、


『クレオパトラの美貌によりローマの将軍を虜にし歴史に影響を与えた』
って話はあまりにも有名ですね。
ですが、一つだけ誤りがあります。世界3大美女に数えられる彼女ですが、本当はそんなに美人では
なかったそうです。彼女の武器は容姿よりも、とても頭が良く、何ヶ国語を自在に操り、そして知識、智恵に秀でた才女であった事なんだとか。
その頭の良さで、隣国の権力を持った男達(王達)を虜にして自国を守った。というのが正しいんだそうです。

ちなみに、歴史上にクレオパトラは何人もいて、我々がクレオパトラと言っているのはクレオパトラ7世の事です。
クレオパトラの詳細については以下を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC% …
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この回答へのお礼

美人ではなかったが、聡明だったんですね。
akakituさん回答有難うございました。

お礼日時:2009/01/04 07:48

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Q【クレオパトラはエジプト人ではなくギリシャ人だった?】 なんでギリシャ人のクレオパトラがエジプトに居

【クレオパトラはエジプト人ではなくギリシャ人だった?】


なんでギリシャ人のクレオパトラがエジプトに居たのですか?

そしてギリシャ人のクレオパトラがエジプトの王妃になってさらにローマ人と結婚してローマに嫁いだの?

どこからギリシャ人のクレオパトラはエジプトにたどり着いたのか教えてください。

しかもクレオパトラは黄色人じゃなくて白人だったって本当ですか?

たまたま銅像の色が茶色かったからクレオパトラを誰も白人だとは思わなかった。

Aベストアンサー

エジプト人って、色は黒くないですよ。今の”中東の人”って言えば分かるでしょうか。当時のギリシャやローマの人も今の”中東の人”です。アングロサクソンの血が入ってくるのはもう少し後です。

イエス・キリストも白人のイメージがあるでしょうが”中東の人”です。

Q「大文字の歴史」と「小文字の歴史」

授業で「大文字の歴史」と「小文字の歴史」について学んだのですが、正直よくわからなかったので教えてください。できれば、根本的な「大文字の歴史」と「小文字の歴史」とは何かを知りたいです。難しい話は得意ではないので簡単にお願いします。

Aベストアンサー

「大文字の歴史」とは朝廷がどうした幕府がどうしたと言った「国」の歴史を中心として書こうとする歴史観のことです。
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「小文字の歴史」とは具体的な個々人の行動の軌跡(個人史)に注目し、権力や文化の主流に必ずしも属さない、しかし大多数である人たちの個人史も視野にいれて、歴史を捉え直そうとする歴史観です。
「小文字の歴史」では、「起こりつつある出来事に歴史上の人たちがどのように考え対応したのか」に注目しますので、本当に歴史に興味がある人や歴史に学びたい人はこちらでないと意味がないでしょう。

Q『クレオパトラのため息』について

『クレオパトラのため息』というのを
知人から聞いて調べています。
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なんでも
クレオパトラが吐いたため息が、
今でも私たちの呼吸に、ほんの少し混じっているから
人の体は完全に滅びることはない。
焼かれた煙がいつまでも残っていることになっているという話らしいなのですが…。

『クレオパトラのため息』について
ご存じの方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

とても興味深いお話ですね。知識がなくてもあれこれ想像してしまいます。
知識が無いが故にお力添えになれるかわかりませんが…。

「クレオパトラの溜息」で検索して気になる記述が2件ありました。
http://homepage3.nifty.com/logical/column111.html 
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/02915223/introd_id/Xmo46Wk9o3689496i81Gi5X96AGA3461/pg_from/u

2件目は書籍でタイトルは『クレオパトラの黒い溜息』(小峰元/著 講談社)とあります。絶版のようですが書評に“人はすべて「縁」がある。クレオパトラのため息の様に。 ”とあります。1件目の記述の内容と照らし合わせて考えると、人は本人が望むと望まないとに係わらず何処かで繋がっている。他人の呼気が自分の体から完全に抜くことが出来ないように。自分の意思で物事を考えているようでも、何処かで他人の思考の影響を受けて(受け入れて)生きている。そんな意味になるのかと思いました。

またweeさんご自身の解説と併せて自分なりに考えたのですが、人が他人の呼気の一部を体内に取り入れて生きているように意思も(全てではなくたった一部分でも)引き継いでいかれる連鎖を不死のように喩えた言葉ではないかと思います。

私も『クレオパトラのため息』について本当のことが知りたいです。



 

とても興味深いお話ですね。知識がなくてもあれこれ想像してしまいます。
知識が無いが故にお力添えになれるかわかりませんが…。

「クレオパトラの溜息」で検索して気になる記述が2件ありました。
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http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/02915223/introd_id/Xmo46Wk9o3689496i81Gi5X96AGA3461/pg_from/u

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Q歴史カテの観点で、世界に影響を与えた日本人

先日、日本に貢献した外国人について質問させて頂きました。皆様、ご回答ありがとうございました。

歴史カテ的な観点で、世界に影響を与えた日本人を十人程度挙げるなら誰になるでしょうか?
理由もお願いします。

※尚、歴史カテで質問すると教えてgooの運営方針に反す蓋然性があるので、今回はアンケートカテで質問させて頂きます。

Aベストアンサー

 こんばんは。


1.明治天皇。
 明治時代の日本の発展と行動が、アジアや欧米に与えた影響は、計り知れないと思います。とくに日清、日露の2度の戦争で、「非白人国」が「白人国」と渡り合ったというのは、いろいろな意味で衝撃だったでしょう。その立役者ということで。

2.新渡戸稲造。
 上記のような国際環境の中で、「日本人って何者?」という疑問に、一応「武士道」で、答えを提供した人物。日本人のイメージを固定してしまいましたね。功罪をいったら、複雑だけど。

3.宮崎滔天。
 孫文を物心両面で援助。

4.犬養毅。
 同上。ほかにも中国の革命家をかくまったりした。東京は一時期、本国にいられない革命派のアジトみたいになった。

5.佐藤栄作。
 ノーベル平和賞。沖縄返還は世界的に見ても大きかったのはほんとらしい。

6.鈴木大拙。
 欧米の禅ブームの仕掛け人。

7.岸信介。
 昔ソ連、今中国の咽喉もとにアメリカが付きつけた匕首としての日本を「安保」で決定的にした人。

8.昭和天皇。
 戦争から経済大国。「昭和」という時代に、日本が世界にしたあらゆることの「象徴」的人物。「ヒロヒト」は有名でしょう。

 かならずしもその人の「意思」とか「功績」じゃないけど、「歴史」を、「人」で語るなら、この人になってしまう、という感じですね。

 ご参考になれば。

 こんばんは。


1.明治天皇。
 明治時代の日本の発展と行動が、アジアや欧米に与えた影響は、計り知れないと思います。とくに日清、日露の2度の戦争で、「非白人国」が「白人国」と渡り合ったというのは、いろいろな意味で衝撃だったでしょう。その立役者ということで。

2.新渡戸稲造。
 上記のような国際環境の中で、「日本人って何者?」という疑問に、一応「武士道」で、答えを提供した人物。日本人のイメージを固定してしまいましたね。功罪をいったら、複雑だけど。

3.宮崎滔天。
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Qクレオパトラについて

クレオパトラについて調べているのですが、クレオパトラの家系図など
ありませんか?
できれば詳しいのが良いです。お願いします。

Aベストアンサー

ANo.1のWiki.の英語のところにCleopatra VIIの家系図が載っていますよ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ptolemaic_dynasty

Q王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

この3つは全部、違うの?

Aベストアンサー

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王のタルクィニウス・スペルブスの時代になるまでにローマは近隣の中では目だって大きな国に成長していたのですが、内紛が絶えずまた政変が相次いだり王族の横暴などもあり、タルクィニウス・スペルブスを追放し王制を廃して共和制に移行することになりました。

これによりローマは王制から共和制になるのですが、その政治体系は執政官を2人選挙で選出し、毎年交代しながら首相のような役職を勤めました。
ちなみに、ローマには王制時代から民会があり、王であっても市民集会の投票を得ないでは王に選出されることはなく、戦争を行うにも(相手から攻めてきた時は別ですが)市民集会の議決が必要でした。またこれとは別に王制時代に元老院という助言機関があり、これもそのまま共和制ローマに残ります。この二つが共和制ローマの発展と、ローマ帝国への変貌のきっかけになっていきます。

これには少し説明が必要だと思います。
さきにローマの始まりは暴力団みたいなもの、と書きましたが、当時は自分の出身地を追放されたり、土地を借金などで失って食い詰める人々がたくさんいました。初代の王とされるロムルスとレムルスの兄弟は、もともと高貴な出てあったようで、このような者を引き連れてローマを建国しました。
その頃には先進国のギリシャが近隣にあり、民主的な政治体系があったため、かなり初期のころから市民集会の原型はあったようです。これは戦争になれば「死」を覚悟して戦う義務があるゆえに、権利として獲得したものでありました。

これが共和制になっても引き続き有効とされ、市民には市民集会のほかに護民官(按察官)という役職も与えられ、今でも「拒否権」と呼ばれるVETOを持つ強大な権力を有していました。これに対して貴族とか富裕者のサロンでもある元老院は、執政官を排出できる人材が集まる集団として隠然たる権力を保持していました。(執政官は戦争時に指揮官になるため、高度な教育を受けられる貴族などに限定されていたため)

この二つの勢力が、ローマ自体が段々強力になり勢力と国土を広げていく間に何度もぶつかり合います。理由のひとつとして、国土が広がるとその土地に住んでいる部族をローマ市民にするため、平民も増えること、もうひとつは国土が広がると富裕者はさらに富裕になることで、平民格差が広がったからです。富の再分配に対して国内紛争がなんども起きました。

これを最終的に解決する方法を考え出したのが、かの有名なユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。彼は地中海全体に広がったローマ共和国の版図を統治するには元老院と市民集会の対立が邪魔になるとして、終身執政官+終身護民官+最高神祇官(これは元々終身)になる役職を考え出します。それも市民集会も元老院もどちらも賛成多数で、カエサルに与えるはずでした・・
と、ここで起こったのが元老院によるカエサル暗殺です。

これによりカエサルが筋道をつけた「皇帝(エンペラー)」にカエサルの養子であったアウグストスが着任することになります。
これにより内政問題がほぼ片付いたため、ローマは帝国としてますます発展するのですが、王とは成り立ちが違っても、所詮は独裁権力であることは同じであるため、代を重ねるごとに皇帝も腐敗し、ローマ帝国の滅亡に至るのです。

最後にエンペラーについて
もともとインペリアルと呼ばれたもので、軍の指揮権を意味します。つまり最高軍司令官です。
こうしてみると、皇帝とは、最高軍司令官・最高行政長官(内閣総理大臣みたいなもの)・護民官(拒否権を持つ平民の長)・元老院第一人者(結果として元老院の議長のようなものになる)・最高神祇官という大国ローマの最高の権力者であり、現在の世界情勢とローマの覇権・周辺国への影響を比較してみれば、アメリカ大統領とローマ法王と安全保障理事会をひとりで行っているようなものでしょう。

このようにして王制ローマからローマ帝国までは一連の流れがあるのです。

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王...続きを読む

Qもし、この世に、クレオパトラが居たら。

クレオパトラ。
前世紀の美女ですが、もし、エジプトに、クレオパトラが居たら、エジプトは、どうなっていたと思いますか?
まあ、ドーバー当たりの富豪は、くどくと思いますが。

Aベストアンサー

もしエジプトに、今クレオパトラが居たとしたら

 確実に言えるのは、エジプトの人口が一人増えていたであろう、ということだ・・・

 というのが、この手の質問に対する定番の回答ですが、
(^_^;\(^O^ )ペチッ!

 真理であろうと思いますよ。

 クレオパトラが実際に生きていた時代と今とでは、美人の基準が違っているはずですから。

 例えば楊貴妃などは、ふっくら、ぽっちゃり系で、よく言えば体を洗った後の水が肌の上で水滴になるような脂系の女性。

 いまの基準では美人とは言えないタイプだったようです。

 日本でも、その当時「お多福」さんは美人でした。

 ギリシア彫刻を見て、均整が取れていることに今でも感心します。

 ローマもあれを受け継いでいますので、東洋ほど「美の基準」は違ってきてはいないのかもしれませんが、なにかの番組で、彼女がいろいろな男を魅惑したのは、どんなことでも会話でき飽きさせない「頭脳の魅力」のせいだったと聞いた覚えがあります。

 それだって、ドーバーの大富豪がくどくかもしれませんが、拒否するんじゃないでしょうか。

 だって、あそこの宗教はイスラムですから、女性が奥にしまいこまれます。

 当時の男どもを魅了した頭脳の持ち主が、箪笥にしまい込まれるのを良しとするとは思えません。

 さまざま考えて見るに、本当の正解は、

 「クレオパトラはアメリカに亡命するので、エジプトにはなんの変化もない」

ではないでしょうか。

もしエジプトに、今クレオパトラが居たとしたら

 確実に言えるのは、エジプトの人口が一人増えていたであろう、ということだ・・・

 というのが、この手の質問に対する定番の回答ですが、
(^_^;\(^O^ )ペチッ!

 真理であろうと思いますよ。

 クレオパトラが実際に生きていた時代と今とでは、美人の基準が違っているはずですから。

 例えば楊貴妃などは、ふっくら、ぽっちゃり系で、よく言えば体を洗った後の水が肌の上で水滴になるような脂系の女性。

 いまの基準では美人とは言えないタイプだっ...続きを読む

Q一国史は近代歴史学に影響を与えたか

タイトルの通りです。
19世紀に国民国家に基づいてできた一国史は、近代歴史学(ランケの実証主義歴史学など)に何か影響を受けたのでしょうか。
それとも、一国史は単なる歴史を見る一つの方法でしかなかったのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>一国史は近代歴史学に影響を与えたか

古代・中世・近代という3区分を始め、時代区分というのはなかなか難しく、近代を「いつからいつまで」という共通認識を持っていないと、度々話が噛み合わなくなることがよくあります。
なので、ここでは「近代=明治~昭和初期(戦後)まで」として「一国史問題」を簡潔に述べてみます。

近代以前の歴史研究では大きな違いがあります。
それは、「時間は一方向に流れ不可逆的である」「文字史料を主に重きを置く」という「実証主義」的な認識・方法論があったかどうかという点です。
近代以降はそうした研究方法と認識を持つことが「科学的・実証的」なものであるとしています。
それ以前は、あまりそうした意図を持たずにつづられた物が殆どです。
それは当然のことであり、上記のような時間認識や研究方法は明治期に西洋歴史学を取り入れた為であり、そうした意味では近代以前と以後とでは大きく異なります。
つまり、日本歴史学も良くも悪くも「ランケの実証主義歴史学など」に多大な影響を受けています。(ランケとならんで、マルクス歴史学にも大きく影響を受けています)

明治期の日本は、欧米列強に追いつけ、追い越せというのが国是となっていました。
その一つとして、「天皇を頂点とする永い伝統(=歴史)を持つ国家」を主張するために歴史編纂が行われました。
その代表的なモノとして「明治政府の修史事業」というのがあります。
この事業が行われた裏には、「西洋歴史学」に対抗すべく、西洋的な意味での「歴史(記述)」がまだ日本にない事に危機感を持った事があげられます。
そして、主に儒学系知識人が中心となり編纂されていきます。
彼らは、西洋の歴史書から学び取り、その知識を生かして「正史」を作り上げていきました。
もちろん、そうした「正史」に対して反対を唱える知識人もおり、現在ほどでないにしろ、闊達な議論がかわされていました。
とわいえ、色々と紆余曲折があり、現在は国による「正史編纂」は行われていません。
ただ、「教科書検定問題」に代表されるように、ある程度国家側も携わっていますが。

結論としては、「一国史は近代歴史学に影響を与えた」のではなく「近代歴史学のもと一国史が編纂された」となるかと思います。


>それとも、一国史は単なる歴史を見る一つの方法でしかなかったのでしょうか


「一国史」という見方は、現在の「国家」を一つの単位として、その内部だけで簡潔するような「歴史記述」です。
「内部だけで完結する」ということは、当然「日本の外の歴史」は無視されるか「日本側から観た歴史」として記述される事になります。
これは、ドイツ史、フランス史、イギリス史などの各国史も似たようなモノです。
ということで、この問いに対する回答は、

「一国史は歴史を観るときの一つの見方である。しかし、多くの場合、現在の国家・民族というアイデンティティーでもって歴史を観る(記述する)」

となるかと思います。
ではでは、参考になれば幸いです。

>一国史は近代歴史学に影響を与えたか

古代・中世・近代という3区分を始め、時代区分というのはなかなか難しく、近代を「いつからいつまで」という共通認識を持っていないと、度々話が噛み合わなくなることがよくあります。
なので、ここでは「近代=明治~昭和初期(戦後)まで」として「一国史問題」を簡潔に述べてみます。

近代以前の歴史研究では大きな違いがあります。
それは、「時間は一方向に流れ不可逆的である」「文字史料を主に重きを置く」という「実証主義」的な認識・方法論があったかどう...続きを読む

Qクレオパトラの墓

クレオパトラってお墓があるのでしょうか?
ピラミッドって聞きませんしねえ。

Aベストアンサー

 Cleopatra は、アントニウス(Antony)と結婚し東方の女王として君臨したが、彼が敗れると、後を追って自殺し、オクタビアヌス(Octavian)の命により、同じ墓所に葬られた。

http://www.beautyworlds.com/cleopatra.htm

... she pleaded to be buried in Antony's tomb, and Octavian was later to grant this last wish.


http://home2.planetinternet.be/verjans/Political_Divas/Stories/Bio_Cleopatra.htm

Octavian, the future Caesar Augustus, commanded that she be royally buried beside Antony.



ということに成っていますし、



 1890年(明治23年):クレオパトラの墓、発見。

と報じられました。が、


http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/kida/upper1.html
その中でも値段が倍高くいかにも貴重そうな「クレオパトラの墓」...


なので、詳細は未だ不明(?)

 Cleopatra は、アントニウス(Antony)と結婚し東方の女王として君臨したが、彼が敗れると、後を追って自殺し、オクタビアヌス(Octavian)の命により、同じ墓所に葬られた。

http://www.beautyworlds.com/cleopatra.htm

... she pleaded to be buried in Antony's tomb, and Octavian was later to grant this last wish.


http://home2.planetinternet.be/verjans/Political_Divas/Stories/Bio_Cleopatra.htm

Octavian, the future Caesar Augustus, commanded that she be royally buried beside An...続きを読む

Q蔡倫の紙の発明は世界の歴史にどのような影響を与えたでしょうか

中国人の蔡倫の紙の発明(改良という説もありますが)は、世界の歴史にどのような影響を与えたでしょうか。
なるべく詳しく知りたいと思います。

Aベストアンサー

やはり、日本へ中東へそしてヨーロッパへと、1000年以上かかって紙が伝わっていき、それまでよりは手軽にものが書けるようになって思想などが伝わったことが大きいのではないでしょうか。特に、印刷ができるようになると、同じものを大量に広めることができ、知識を確実に継承したり(手書きの本のほうが間違えますから)、なにか意見などを広く知らせたりでき、当時は、現代でネットが開通したのと同じような効果があったのではないかと思います。
創元社の知の再発見双書『紙の歴史』に非常に詳しくそのあたりのことが書かれていますので、よろしければ是非ご参照ください。


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