痔になりやすい生活習慣とは?

関ヶ原の論功行賞で
毛利が30万石に減らされ、
長宗我部はお家取り潰し
など 西軍にこの上ない厳しい態度で家康は実行していると思うのですが

なぜ、島津だけは領地の減俸がなかったのでしょうか?
・地理的に遠いから?
・「退き口」のインパクトに屈したから?
・まだ豊臣方が力をもっていたから?

是非、教えて下さい。

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A 回答 (3件)

ウィキペディアで解説していることが回答になると思います。



簡単に言えば,
・朝鮮の役で島津兵の強さが証明されていた。
・島津は関が原に1000名しか参加しておらず,薩摩本体には戦力が残っていた。
・地理的に遠く,徳川本体も戦うには時間がかかりすぎる。もし,徳川本体が島津まで出向いていれば,他大名が反旗を翻す恐れがあったため。

ということだと思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5% …
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島津家の粘り勝ちです。



本来、家康としては東軍諸将への加増と、島津家の体力削減のために領土を削りたかったのですが、島津家は、

(1)西軍についたのは本意でなかった。
(確かに、関ヶ原前は東軍につく約束を家康としていたが、京都伏見城で徳川軍の鳥居元忠が島津義弘の入城を拒否したために、仕方なく西軍につかざるをえなかった。)

(2)しかも、現地指揮官は島津義弘で、当主義久の意向が完全に伝わっていなかった(義弘はこのため謹慎)。

(3)家康と戦う意思がなかったので、関ヶ原でも戦いの最中は西軍に味方せず、撤退だけした。

という理由で領土削減をつっぱねつづけ、確かその交渉は4年の長きに渡ったと記憶しています。

家康も、4年間かけたということは、それだけ簡単に折れるつもりはなかったようですが、島津家の不退転の決意を見たうえ、関ヶ原以降豊臣家をないがしろにする姿勢に東軍だった豊臣恩顧の大名(加藤清正、福島正成ら)が不満を持ち始めたことから、最終的には島津家の言い分を丸のみして妥協することにしたそうです。

確かに、薩摩の島津が徹底抗戦を決意して、肥後の加藤清正、安芸の福島正成、土佐の長宗我部、長州の毛利、大阪の豊臣家が応えれば、西日本は一気に反徳川勢力になってしまうおそれがあったでしょう。
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熊本:加藤清正や福岡:黒田如水に佐賀:鍋島直茂の当代の名将というこわーい人が沢山居るのに、ここで島津義弘を排除しちゃうと大変な事になると思いますよ。


彼らの存在が取り潰しにならなかったのかもしれませんね。

毛利と長宗我部はお坊ちゃん育ちなので当代の徳川家康からしてみれば赤子をひねるようなものでしょう。
それに島津は豊臣派ではありませんし、熊本では薩摩・大隈をがら空きにすれば豊臣派の加藤清正を利するだけでしょうし。
実力者が居ない中国・四国とは事情が違ったのでは?
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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
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