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日本人には宗教心が少ないということが一般的に言われていると思うんですが、その一方で儒教や仏教の考え方が意識できないレベルで日本人の間に広がっているという主張もあると思うんです。
たとえば祖先を敬うことは思想だともいえるし宗教だということもいえると思うんです。
でも祖先を敬っている日本人に対しては儒教的ということを言いますが、祖先を敬っている欧米人がいても儒教的とは言いませんよね?
宗教は思想に影響を与えているだけであるという考え方もできると思うんです。
ですが、思想に宗教が影響したということもあると同時に、宗教に思想が影響することもあるわけで、それは同時に宗教の影響を受けてないと思われる思想も宗教になる可能性を持っているということになると思うんです。
たとえば朝ごはんにパンが食べたい、ということも宗教的であるということができると思うんです。
そう突き詰めていくと人が抱く考え方はすべて宗教になる可能性を持った宗教的なものという考え方ができてしまうわけで、そもそも「宗教」という言葉の価値がなくってしまう気がします。
宗教の定義について色々と本を読んでみたんですが、ほとんどが体系だった考え方を前提としていたり深い関心を要求するものなど、あまり「軽い」ものについては触れていないように感じました。
長々と書いてしまいましたが自分でも混乱しているところは多く、うまくまとめられませんでした。
質問の要点は宗教と思想の違いはどこにあるのかということです。
ただ自分がここで言っている「宗教」と「思想」はだいたいこんな意味を持っていると考えてください。

A 回答 (10件)

 宗教の言葉の意味は、「真理の道」だと思います。

世の中無数の宗教がありますが、信仰している人はそれが真理だと思っています。

 思想とは宗教が根本にあって、その上にあるものではないでしょうか。木に例えると宗教は根で思想は幹、そこから枝分かれして個性による考え方があるのではないかと思います。

 宗教は神や仏など人間が存在することの根本原因で深くて変わらないもの。思想は文化や歴史など全てを含めて時代によって発展していく広いもの。私はこんな感覚を抱いています。
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 私も日本人は宗教心が少ないと思います。

しかし、信仰心は強いと思う。
 宗教は数多くの儀式が多く、多くの人が同じ行為をすることでその意義が達成できるのではないでしょうか。
 思想は、単純に考え方と捉えましょう。
 日本人は今までの歴史の中で数多くの宗教的儀式の無意味を学ぶ。その為に儀式的な行為に反発を覚える環境ができてしまったのではないでしょうか。
 しかし、神を思う気持ちは深く、元旦に願い事。七夕やクリスマスなどに夢とロマンを求める気持。それが信仰心だと思う。
 神を思う気持ちと宗教心とは異なると思います。
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キリスト教・仏教などは奇跡と儀式が備わっているので宗教という分類は明白です。



日本神道は「清らかに暮らしなさい」というほかに教義らしきものがありませんが、禊祓いという儀式で罪まがごとが消えるという奇跡を信じますので宗教に含めます。

処世術や政治学を説いた「儒教」は宗教ではありません。孔子は「鬼神は敬して近寄らず」と言っています。

思想の中で、奇跡があり、儀式の備わっているものが宗教という分類方法です。
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私が思うに、思想が中枢にあって、その発展的なものとして宗教があると考えます。



まず、思想とは、人間が自然に関わる……生殖などの生死、天候、豊穣など……について、物語を創造したものです。例えば、創造主が6日間かけて世界をつくり、7日目に休息したとか。その物語を信じ、行為で示されるものが宗教になると思います。キリスト教の洗礼では「神、イエスの存在を信じますね?」みたいな事を訊かれるらしいし、賽銭箱に五円玉を入れるのも、儲からない神社に義捐してるわけじゃなくて、その神社に宿る神へお金を捧げる行為ですよね。
あと、言わずもがなですが、科学などの唯物的学問は宗教や思想とは言いませんから省きます。オールドブラックマジックとか、フィロソフィアーズストーンとか……黒魔術や錬金術なんかは一種の思想ですけど。

地図帳に書かれているアジアの宗教分布で、日本は神道と仏教を信仰している、と書かれています。由緒正しいキリスト教徒の家系もあるし、イスラム教を信じている人もいるはずなのに。多分、それは日本人の生活とより密着しているのがそれらだからではないでしょうか。
例えば、「南無阿弥陀仏」とかは誰でも言えますよね。また、葬式をする時はお坊さんじゃなくても大抵は仏式ですね。神式の方もいるでしょうけど。そして、何より江戸幕府はキリスト教を禁止し、仏教や儒教を奨励したわけですから、生活に根付くのは当然かもしれません。
それから、キリスト教を開いたのはヨーロッパ人です。アジア人が開発した仏教の方が、信頼が置けるんでしょうね……日本人は同族意識っていうか仲間意識が強いですから。

長くなりましたが結局は、思想は自分で説明できない自然の摂理を物語を創造する事で説明させてしまうもの、宗教はその物語を行為をもって示す、という事です。
日本人が信心薄いというのは、明治時代に極端な欧化政策が取られた為、殆どの仏教・神道の行為が忘れ去られたけれど、江戸時代の政策もあり、宗教だけは欧米化=キリスト教式に変えれなかった。という事じゃないですか?
私は仏教は嫌いだし、神社が傍にないので、たまに教会に行く事にしていますが、日本がクリスマスとかヴァレンタインとか騒いでいるのは、宗教的な本質から思いっきり外れています。イエスへの信心の欠片もない経済界が経済の活性の為に神様を引っ張り出してきたんだからしょうがないけど。
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再度、お邪魔します。



>人が抱く考え方は全て宗教的になる可能性・・・
そうだと思いますよ。宗教も所詮人が考えた教えですから。ただ、貴方も仰っているように、「宗教的になる可能性」であって、「宗教になる」と断言している訳では有りませんよね。

#1の方に賛同と言いましたが、厳密にはちょいと違います。#1の方は思想が自己の外部にあるか内部にあるかで分けていらっしゃいますが、私は、神仏と言った人知を超えた存在が教えたと捉えるか、あくまで人が考えたかで、宗教と思想との違いが有ると思います。

この際に一番大切なのは、「人知を超えた存在」を信じるか否かであるとも言えると思います。その存在を信じるならば、その「教え」を自分は理解できなくとも、人知を超えた神仏が言われるのだから、それを守るのが当然だと考える事もあるでしょう。(勿論、人の教えであっても、三島由紀夫のようにカリスマとなってしまえば、その信者にとっては、三島の言葉は絶対となります。つまり、その信者にとって三島は神で有り、人知(自己)を超えた神そのものであり、この時点で三島教が成立します。)

このように、何の疑いも無くその「考え」の発祥を当たり前として捉えるのを宗教、その「考え」はあくまでも「人」であって、疑いの余地があると思えるものを思想だと分けて見るのも一興かと存じます。

如何ですか?
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この回答へのお礼

うーん。
たとえば子供はかわいいですよね?
自分にとっては疑いもなく子供はかわいいもので大切にしてやらないといけないものなんですが、時間も国も越えて子供はかわいいと積極的に主張する自信があるかと言われたら、それはないんですよね。
子供がかわいいことに根拠を見出せないんですよ。
自分としては疑いがないが人から見たら疑い得ると言うことがわかるんです。
例に子供を出しましたがそれは全てのことにいえるんじゃないかと思うんです。たとえばヒンズー教徒が牛を大切に思う心は、ひょっとしたら自分が子供を大切に思う心と違いがないかも知れず、だとすると自分が子供を大切に思う心は何なんだろう?と言う疑問です。
うまく説明できている自信がありません。質問がわかりにくくてごめんなさい。
でも回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/02/03 15:49

「専門家」にしないと破門されてしまう・・・(泣)



宗教の定義は難しいです。No.1さん、No.3さんが「神(仏を含む)の有無」を基準にしていらっしゃいますが、そうすると儒教は宗教ではなくなります。儒教に神はいませんから。tarojirosaburoさんはごく自然に「儒教的」と仰有ってますが、これは勿論、儒教を宗教の一つであると見ておられる訳ですよね? 実は儒教が宗教かどうかってのは大問題なんで・・・。今のところ、「正解はない」というのが正解のようです。

阪大名誉教授で中国思想が専門の加地伸行氏は、宗教を「死後の世界について言及するもの」と定義しておられます。これで儒教を宗教に含めるわけです。逆に言えば、加地氏は儒教を宗教に含めたいわけなんですね。
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この回答へのお礼

確かに「死後の世界について言及するもの」という定義を使えば非常に明確な線引きができますね。自分は加地先生の本を読んだわけではないので詳しいことはわかりませんがきっと死後の世界について言及する部分があるならその「教え」全体が宗教、ということなのでしょうね。
この定義は非常に面白い考え方ですね。
部分を取り出して考察するのではなく全体をひとまとまりにして考えるということですね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/02/03 15:34

 「いただきます」はいったい誰に対してするんだろう、とかつて人に聞いてみたことがあります。

東京育ちのぼくは、てっきり親に対して言う言葉だと思ってたんですが、実は食われるために料理になってくれた食べ物たちに対して言うんだって。私は驚きましたね。これって宗教行為だったの?まるで成仏してくれよ、と言ってるみたいですよね。宗教心が無いどころか、結構宗教してるじゃないの日本人はって感じしませんか。僕らはほとんど無意識のうちに、成仏せえなんて宗教行為をしている。

 じゃあ思想とは?これは意識的なんでしょう。俺は何々主義だとか、俺ってこういう奴だからとか自分で勝手にそう思っている事じゃないですか。だからね、首から上は近代的、首から下は仏教徒、なんて人腐るほどいると思いますよ。「宗教」と「思想」の違いといわれて非常に難しいなと思ったのは、果たして自分の無意識を自分で見てきていたかということを、ここで問いただされる気がしたのですよ。それをクリアしない限りなかなかうまいことが言えなくて、これ以上のことは書けなくなりました。
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この回答へのお礼

そうですね。自分の言っている問題は無意識につくられた価値観の根拠の問題になるんでしょうね、きっと。
自分の無意識の部分をなくそうと思っても結局それは無駄なことなんでしょうか。
だとしたら理性のみに頼ることは無謀なことなんでしょうか。
やっぱり難しいですね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/02/03 15:39

#1の方に賛同。



宗教=神、仏が説いている考え方
思想=自分または他の人の考え
*但し、宗教家で思想家の方が多いので混乱するね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
自分の考えについては1の方のところであわせて述べさせていただきました。

お礼日時:2003/02/02 21:59

私も学生時代史学が好きだったので同様の命題に付いて考察した経験があります。


私の場合は、どちらが先でどちらが後なのかと言う事から考えた気がします。
つまり、思想上の理想的頂点を求めた結果生まれたのが宗教(神)なのか、通常生きて行く上で、必要とする理性の頂点が宗教として成立し、結果として思想的世界観が生まれ発展してきたのかと言うものでした。
その時考えた問題として、人の価値観を基準付ける原理は宗教的価値観で、行動の正当性を確認する事は思想的価値観なのではないかと言う解釈をしたと記憶しています。
善悪と言う言葉がありますが、善悪を世界観的に表現する事は難しく、善にも悪にも実際は正確(性質)は存在せず、当事者の状況によって定義付けられる性質のものである事も考察対象として認識できた事が記憶にあります。
交通事故そのものには善悪は無く当事者の立場によって善悪が発生すると言う感覚でしょうか…
この様な、例を確認する事でも思想上の価値観が行動原理を左右し、思想上の価値判断の基準となっているのが宗教的な価値判断なのではないかと考えるようにしています。
私は、宗教や信仰には全く興味がありませんが歴史と言う宗教とは切り離せない学問を学んだ際、興味をそそられた内容が今回の様な内容でしたので、思わず書き込んでしまいました。
人間は、理想の追求をして行く過程で、頂点を極める存在を必要としたと考えられ、神(宗教上の頂点)と言う存在を作り出しました。
しかしながら、理想の頂点は実生活とかけ離れすぎた存在となり、その存在と実生活上のギャップを埋めて行く過程で成立してきた考え方が思想と言えるような気がしています。
私個人は、人間が生きて行く上で必要性が高いものは思想であり、神は必ずしも必要と言える存在ではないと考えています。
神と言う存在を考えるのであれば、一人一人の理想を追い求める行為の結晶的存在を考える事で幾らでも崇高な存在は生み出す事が可能ですし、逆になくても良い訳です。
しかし、社会的秩序を維持して行く上で思想は必要性の高い要素であり、宗教の様な偏りも少ないと考えます。
やはり、実生活上、行動原理を司るものと、精神上の価値観の原点と言えるのが宗教と言えるのかもしれません。
結局、私の場合も結論は出ませんでしたが、個人的に宗教は必要ないと結論付けた事を覚えています。(所詮空想上の絵空事)
思想は、経験から来る理想的考え方を指す程度の見解を出すのがやっとでした。
あくまでも個人的見解ですが。

この回答への補足

考えてみたいので少しお時間を下さい。

補足日時:2003/02/03 16:19
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飽く迄個人的見解です.



そう考える理由が外部(神)にある⇒宗教
そう考える理由が内部(自己)にある⇒思想
と考えます←思想として(^^;
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
回答についてですが、理由が外部にあるか内部にあるかという分類をする前提として宗教が意識されていない考えは全て宗教ではないということがあると思います。それは特定の宗教の信者かどうか、あるいは敬虔であると思っているかどうかという意識の問題になると思います。
たとえば欧米人の熱心でないカトリック教徒で「一夫多妻が悪いということは人類に普遍的なことだ」と信じている人がいるとします。
その人は恐らくカトリックの教えだと意識せずにその価値観を信じることができると思いますがそれは別の信仰を持つ人からは奇異に感じられるかもしれません。
自分の直観としてもそれは宗教の影響だと思うんです。
つまりある考えの理由が自己の内部にあるのか外部にあるのかというのは区別しにくい問題でもあると思うし、自分が疑問を持ったのもその区別の問題でもあるんです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/02/02 21:56

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