関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。

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A 回答 (5件)

私も歴史のIFは好きですね。

良く、特定の個人の生死のIFが有ったところで、大きな歴史の流れは変わらないと言う人もおられますが、私はそうは思いません。
現在の議会制民主主義では、リーダー格の人達の生死や個人的資質の良否が、良くも悪くも大きくは政治に影響を与えませんが、江戸時代以前のリーダー格の人物達の行動は、大きく歴史を動かしていた思います。
回答#4の方の、秀次に関するIFが豊臣政権の分岐点だったのではないかというご意見、なるほどと思いますね。最近の研究では、彼は意外と有能な為政者だったらしいですし。
ただ、私の印象では徳川家康は非常に慎重な人物なので、回答#2のご意見のように、関ヶ原の合戦は生じなかったと思います。
となると、秀次を中心にした豊臣政権の存続となるわけですが。他の回答にも有るように、豊臣政権は、ほとんどの戦国大名の生き残りを生かしており、秀吉子飼いの連中よりも大きな勢力を保持したまま政権内部に加わっているという点で、安定感に欠ける政権に思えます。
これは、足利政権に似た感じが有ります。従って、徹底的に外様大名を粛正した徳川政権とは異なって、頻繁に内紛を繰り返す不安定政権となり、秀次以降の後継者の資質によっては別の一族に政権を取って代わられた可能性も高いでしょう。
その場合、徳川氏が一番有力そうに見えますが、鎌倉幕府の初期を見ても分かるように、政権内でのNo1の部下というのは厳しいマークを受けて、潰される可能性が高いです。徳川氏の場合も、順当にいけば秀次より先に家康が死去するでしょうから、家康亡き後にちょっとしたもめ事につけ込まれて滅ぼされるのではないでしょうか。
一方、豊臣政権は海外貿易を重視していたので、おそらく鎖国は行わなかった。西欧諸国による植民地化の危険性は有りますが、国土・資源的に魅力が乏しい上に、当時の世界一の鉄砲保有量を誇る戦力で強力な抵抗が予想されるので、遠洋航海の中継基地以上の利用はしなかったのではなかろうかと予想します。
従って、比較的速く西欧諸国の産業革命の技術伝搬が行われ、明治時代の無理な富国強兵策を取った結果の太平洋戦争に突入することは無かったでしょう。現在よりは強い権力を残した天皇制が続くでしょうし、そこそこ強力な軍隊も保有しているでしょうが、もう少しこなれた民主主義政治をしているかも知れません。
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歴史のIFとして一番有効なのは


「秀吉が関白の座につけて跡継ぎとした豊臣秀次の地位をそのままにしていた」
ことです。

秀次は「自ら天下を取れる武将」では恐らくなかったと思われますが、現在残っている史料を公平に判断する限り
* 徳川秀忠に劣らない、二代目として不足のない人物。
* 豊臣家の後継者として、諸大名や公家・僧侶・茶人などときちんと交際していた。
* 長久手の戦いでの敗北を除けば、失敗・失政と言えることは行っていない。四国遠征、九州遠征、関東・東北遠征など、秀吉がつけた家臣の補佐よろしきもあってか大過なく任務を果たしている。

と、秀吉の死後の豊臣家で(寿命を質問者さんによって延長された秀長を除き)、唯一「マトモに仕事のできる成年者」でした。

秀吉が、秀長とその家族を全て惨殺するなどと言う暴挙に出ず、自分の子である秀頼の将来を「甥である秀次」に頼んでいれば、豊臣家の統治体制はそのまま保たれ、徳川家康は関東の大名として人生を終えていたでしょう。

仮に、秀吉の死後に徳川家康が中央の豊臣政権に叛旗を翻したとします。
秀吉が後継者に指名し、現に関白の位にあり、秀吉の子である秀頼を託された立場にあり、豊臣家の統治機構を正当な権限で動かせる秀次は、天下の兵をもって家康を討つことができます。これに歯向かえる大名は、それこそ徳川家康くらいでしょう。

江戸を拠点に挙兵した家康に対し、東海道・中山道からは豊臣の本軍が、上野方面からは上杉や前田の大軍が、北からは蒲生や伊達や最上の大軍が迫ります。大軍の兵站については、石田三成をトップとする豊臣家の官僚機構が完璧に補給します。
※ 1600年当時に44歳の蒲生氏郷は、質問者さんのIF通りに健在と言うことにします。同年に47歳の堀秀政は、健在であれば蒲生と同格の大大名になっていたでしょう。駿河・遠江・三河あたりを領して、東海道を攻め下る豊臣軍の先鋒となっていたかもしれません。

常陸からは佐竹の軍が徳川の側面を脅かしますので、徳川軍は古河あたりまで下がらざるを得ません。
下野と上野はガラ空きとなり、北陸方面・東北方面の豊臣軍に対する防衛体制が崩壊してしまいます。圧倒的な兵力の豊臣軍は容易に北方から武蔵に達するでしょう。これだけで徳川の命運は尽きます。
※ 蒲生氏郷は家康と親密ではなかったようですが、秀次事件以前の伊達政宗や最上義光といった東北の大名は秀次と親密で、家康とは特に親密ではありませんでした。伊達と最上が無二の徳川党になったのは、秀次事件の結果です。

箱根の関を大軍が通過するのは決して容易ではありませんが、江戸の北には特に自然の要害はありません。ですので「徳川征伐」の主力軍は、奥羽と北陸から南下する北方部隊になると思われます。北方部隊が江戸近辺に達したあたりで、東海道を下ってきた豊臣主力軍が合流する形になるでしょう。

この結果、江戸城が天下の兵で包囲され、徳川家康が北条氏政・氏直父子と同じ運命をたどるのは火を見るより明らかです。
家康は北条ほどアホではありませんので、豊臣に叛旗を翻したりせず、静かに生涯を終えるでしょう。

なお、「五大老」とかいう制度は、秀次が殺されて豊臣政権が「後継者不在」となり、有力大名の合議制で体制を維持するとでもしないといけなくなったから成立したものです。

関白たる秀次が豊臣政権を引き継ぐのであれば、秀次が豊臣家の官僚組織(石田三成あたりを長とする)を統率するわけですから「五大老」も「七大老」も要りません。
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好きですね こういうの 貴方の趣味ですね


ゲームとか 読み物がありますね  
自称作家の方のとおり ですね
そのまま 少し時間はかかったとしても 歴史どおりでしょう
あなたが書かれたその他大勢の大名が束になってもです 
そんな緻密な連携取れるとおもいますか
今でさえ各地の知事さんたちの間の道州制でも意見の集約がバラバラ 当時といわずいつの世も それぞれ抱えた問題山積みだったでしょう
前田 堀 上杉 秀長 蒲生にしろ 各個に抱えた事情はあったはずで
正直みんなは 家康 豊臣関係ないでしょう 
治政の優劣と安定性でしょう 
豊臣直関係の人がわあわあいってただけで
もう戦闘や戦術 戦略じゃなくて 
以後の政治をどうするかといった問題意識のほうが各大名には重要な段階だったとおもいますよ 概に戦国は打ち止め
みんなそんな物騒なことまたやるのかなんてね 早く終わらせなければとの思いが体勢をしめるはずですから 
人間の体は 切れば 血がでます

願わくば 個々の事情を確かな資料(飢饉や災害 交易や経営状態)にもとずいて検証されて
貴方のプランが実行可能かどうかの答えを導きだされた時
はじめて 昔も今もない 人間の行動の原型を垣間見れるでしょうから
また別の歴史のダイナミックさと ユーモラスが

でもゲームのストーリをお考えなら 答えにはなりませんが
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様々なケースが考えられます。


(1)豊臣秀長が長生きしていれば、朝鮮出兵はなかった、または、あれほど疲弊することはなかった。また、文治派と武断派の対立も豊臣秀長の仲介により、家康に付け込まれることはなかった。よって、関ヶ原の合戦以前の頃に家康に付随する大名が少なく、関ヶ原の合戦は起こらなかった。

(2)前田利家が生きていた場合も、(1)と同様に関ヶ原の合戦は起こらなかった。

そもそも、家康から見れば、関ヶ原の合戦は必ず勝てるという布石を打った上での戦いですから、東軍についた何名かの武将が西軍に組して、家康は関ヶ原の合戦が勝てないと判断したでしょうね。

そうして、家康が寿命で死に、秀頼が成人し関白を継いでいたように思います。

結局、豊臣に恩顧があり人望も高かった豊臣秀長、前田利家が亡くなった時点で家康の動きを止める人物はいなかったと思います。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

私たち作家は、「原因」があって、「過程」があって、「結果」がある。
その「原因」や「過程」をどのように「解釈」していくかを、それぞれの立場から、もちろん、「史料」などを基にですが・・・、「推測」するものであって、
あなたのご質問のように、誰かと誰かが入れ替わっていたら、どうなったでしょうか・・・は、少なくとも、私にはお答えできません。

例えば、Aさんと、長距離恋愛のB子さんが、1本電車に乗り遅れたら二人は結婚できなかったかも知れない・・・
さて、では、結婚できなかったら・・・それはそれで「運命のいたずら」で、それぞれ違った人生を送った・・・と、しか、言いようがありませんよね。

まあ、一言で言えば、現代の「平和な時代?」はなかった・・・と言えるくらいでしょうか。
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Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

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Q豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。

Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

Aベストアンサー

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む


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