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関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。

A 回答 (5件)

私も歴史のIFは好きですね。

良く、特定の個人の生死のIFが有ったところで、大きな歴史の流れは変わらないと言う人もおられますが、私はそうは思いません。
現在の議会制民主主義では、リーダー格の人達の生死や個人的資質の良否が、良くも悪くも大きくは政治に影響を与えませんが、江戸時代以前のリーダー格の人物達の行動は、大きく歴史を動かしていた思います。
回答#4の方の、秀次に関するIFが豊臣政権の分岐点だったのではないかというご意見、なるほどと思いますね。最近の研究では、彼は意外と有能な為政者だったらしいですし。
ただ、私の印象では徳川家康は非常に慎重な人物なので、回答#2のご意見のように、関ヶ原の合戦は生じなかったと思います。
となると、秀次を中心にした豊臣政権の存続となるわけですが。他の回答にも有るように、豊臣政権は、ほとんどの戦国大名の生き残りを生かしており、秀吉子飼いの連中よりも大きな勢力を保持したまま政権内部に加わっているという点で、安定感に欠ける政権に思えます。
これは、足利政権に似た感じが有ります。従って、徹底的に外様大名を粛正した徳川政権とは異なって、頻繁に内紛を繰り返す不安定政権となり、秀次以降の後継者の資質によっては別の一族に政権を取って代わられた可能性も高いでしょう。
その場合、徳川氏が一番有力そうに見えますが、鎌倉幕府の初期を見ても分かるように、政権内でのNo1の部下というのは厳しいマークを受けて、潰される可能性が高いです。徳川氏の場合も、順当にいけば秀次より先に家康が死去するでしょうから、家康亡き後にちょっとしたもめ事につけ込まれて滅ぼされるのではないでしょうか。
一方、豊臣政権は海外貿易を重視していたので、おそらく鎖国は行わなかった。西欧諸国による植民地化の危険性は有りますが、国土・資源的に魅力が乏しい上に、当時の世界一の鉄砲保有量を誇る戦力で強力な抵抗が予想されるので、遠洋航海の中継基地以上の利用はしなかったのではなかろうかと予想します。
従って、比較的速く西欧諸国の産業革命の技術伝搬が行われ、明治時代の無理な富国強兵策を取った結果の太平洋戦争に突入することは無かったでしょう。現在よりは強い権力を残した天皇制が続くでしょうし、そこそこ強力な軍隊も保有しているでしょうが、もう少しこなれた民主主義政治をしているかも知れません。
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歴史のIFとして一番有効なのは


「秀吉が関白の座につけて跡継ぎとした豊臣秀次の地位をそのままにしていた」
ことです。

秀次は「自ら天下を取れる武将」では恐らくなかったと思われますが、現在残っている史料を公平に判断する限り
* 徳川秀忠に劣らない、二代目として不足のない人物。
* 豊臣家の後継者として、諸大名や公家・僧侶・茶人などときちんと交際していた。
* 長久手の戦いでの敗北を除けば、失敗・失政と言えることは行っていない。四国遠征、九州遠征、関東・東北遠征など、秀吉がつけた家臣の補佐よろしきもあってか大過なく任務を果たしている。

と、秀吉の死後の豊臣家で(寿命を質問者さんによって延長された秀長を除き)、唯一「マトモに仕事のできる成年者」でした。

秀吉が、秀長とその家族を全て惨殺するなどと言う暴挙に出ず、自分の子である秀頼の将来を「甥である秀次」に頼んでいれば、豊臣家の統治体制はそのまま保たれ、徳川家康は関東の大名として人生を終えていたでしょう。

仮に、秀吉の死後に徳川家康が中央の豊臣政権に叛旗を翻したとします。
秀吉が後継者に指名し、現に関白の位にあり、秀吉の子である秀頼を託された立場にあり、豊臣家の統治機構を正当な権限で動かせる秀次は、天下の兵をもって家康を討つことができます。これに歯向かえる大名は、それこそ徳川家康くらいでしょう。

江戸を拠点に挙兵した家康に対し、東海道・中山道からは豊臣の本軍が、上野方面からは上杉や前田の大軍が、北からは蒲生や伊達や最上の大軍が迫ります。大軍の兵站については、石田三成をトップとする豊臣家の官僚機構が完璧に補給します。
※ 1600年当時に44歳の蒲生氏郷は、質問者さんのIF通りに健在と言うことにします。同年に47歳の堀秀政は、健在であれば蒲生と同格の大大名になっていたでしょう。駿河・遠江・三河あたりを領して、東海道を攻め下る豊臣軍の先鋒となっていたかもしれません。

常陸からは佐竹の軍が徳川の側面を脅かしますので、徳川軍は古河あたりまで下がらざるを得ません。
下野と上野はガラ空きとなり、北陸方面・東北方面の豊臣軍に対する防衛体制が崩壊してしまいます。圧倒的な兵力の豊臣軍は容易に北方から武蔵に達するでしょう。これだけで徳川の命運は尽きます。
※ 蒲生氏郷は家康と親密ではなかったようですが、秀次事件以前の伊達政宗や最上義光といった東北の大名は秀次と親密で、家康とは特に親密ではありませんでした。伊達と最上が無二の徳川党になったのは、秀次事件の結果です。

箱根の関を大軍が通過するのは決して容易ではありませんが、江戸の北には特に自然の要害はありません。ですので「徳川征伐」の主力軍は、奥羽と北陸から南下する北方部隊になると思われます。北方部隊が江戸近辺に達したあたりで、東海道を下ってきた豊臣主力軍が合流する形になるでしょう。

この結果、江戸城が天下の兵で包囲され、徳川家康が北条氏政・氏直父子と同じ運命をたどるのは火を見るより明らかです。
家康は北条ほどアホではありませんので、豊臣に叛旗を翻したりせず、静かに生涯を終えるでしょう。

なお、「五大老」とかいう制度は、秀次が殺されて豊臣政権が「後継者不在」となり、有力大名の合議制で体制を維持するとでもしないといけなくなったから成立したものです。

関白たる秀次が豊臣政権を引き継ぐのであれば、秀次が豊臣家の官僚組織(石田三成あたりを長とする)を統率するわけですから「五大老」も「七大老」も要りません。
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好きですね こういうの 貴方の趣味ですね


ゲームとか 読み物がありますね  
自称作家の方のとおり ですね
そのまま 少し時間はかかったとしても 歴史どおりでしょう
あなたが書かれたその他大勢の大名が束になってもです 
そんな緻密な連携取れるとおもいますか
今でさえ各地の知事さんたちの間の道州制でも意見の集約がバラバラ 当時といわずいつの世も それぞれ抱えた問題山積みだったでしょう
前田 堀 上杉 秀長 蒲生にしろ 各個に抱えた事情はあったはずで
正直みんなは 家康 豊臣関係ないでしょう 
治政の優劣と安定性でしょう 
豊臣直関係の人がわあわあいってただけで
もう戦闘や戦術 戦略じゃなくて 
以後の政治をどうするかといった問題意識のほうが各大名には重要な段階だったとおもいますよ 概に戦国は打ち止め
みんなそんな物騒なことまたやるのかなんてね 早く終わらせなければとの思いが体勢をしめるはずですから 
人間の体は 切れば 血がでます

願わくば 個々の事情を確かな資料(飢饉や災害 交易や経営状態)にもとずいて検証されて
貴方のプランが実行可能かどうかの答えを導きだされた時
はじめて 昔も今もない 人間の行動の原型を垣間見れるでしょうから
また別の歴史のダイナミックさと ユーモラスが

でもゲームのストーリをお考えなら 答えにはなりませんが
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様々なケースが考えられます。


(1)豊臣秀長が長生きしていれば、朝鮮出兵はなかった、または、あれほど疲弊することはなかった。また、文治派と武断派の対立も豊臣秀長の仲介により、家康に付け込まれることはなかった。よって、関ヶ原の合戦以前の頃に家康に付随する大名が少なく、関ヶ原の合戦は起こらなかった。

(2)前田利家が生きていた場合も、(1)と同様に関ヶ原の合戦は起こらなかった。

そもそも、家康から見れば、関ヶ原の合戦は必ず勝てるという布石を打った上での戦いですから、東軍についた何名かの武将が西軍に組して、家康は関ヶ原の合戦が勝てないと判断したでしょうね。

そうして、家康が寿命で死に、秀頼が成人し関白を継いでいたように思います。

結局、豊臣に恩顧があり人望も高かった豊臣秀長、前田利家が亡くなった時点で家康の動きを止める人物はいなかったと思います。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

私たち作家は、「原因」があって、「過程」があって、「結果」がある。
その「原因」や「過程」をどのように「解釈」していくかを、それぞれの立場から、もちろん、「史料」などを基にですが・・・、「推測」するものであって、
あなたのご質問のように、誰かと誰かが入れ替わっていたら、どうなったでしょうか・・・は、少なくとも、私にはお答えできません。

例えば、Aさんと、長距離恋愛のB子さんが、1本電車に乗り遅れたら二人は結婚できなかったかも知れない・・・
さて、では、結婚できなかったら・・・それはそれで「運命のいたずら」で、それぞれ違った人生を送った・・・と、しか、言いようがありませんよね。

まあ、一言で言えば、現代の「平和な時代?」はなかった・・・と言えるくらいでしょうか。
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