イスラエルの宗教と、メソポタミア・エジプト・ギリシャの宗教の間にある一番際立った相違点は何か教えてください。
よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

ご質問の宗教は時代によりかわりますが


それぞれの古代宗教について
1 イスラエル
  絶対神であり自然そのものが神である「ヤハウエ」のみを信仰し
  メソポタミアからきたアブラハムの子孫モーゼが十戒をヤハウエ   と結んだ物が「ユダヤ教」の原点であり現在でも信仰されている
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80% …
(参考映画)十戒 がユダヤ教の成立の大変参考になりますDVDも
      あるようですよ
   http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=1 …
2 エジプト
  太陽神に代表され時代にさまざまな神がいた
  http://www.m-matsu.com/egypt/study/gods.html
   
3 ギリシャ
  多神教
  http://www.gakken.co.jp/mu/library/wgods.html#wgg
  
4 メソポタミア
  多神教
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD% …

2~4の神は現在では信仰されとおらず、ユダヤ教から派生した
キリスト教 イスラム教が世界の趨勢になりました
  
  
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この回答へのお礼

懇切丁寧に、ありがとうございます!
参考文献まで(><)
感謝です!

お礼日時:2009/01/20 14:20

イスラエルのユダヤ教は非常に決まり事が多い(戒律の厳しい)排他的一神教です。

その他は、いろいろな神様がおられる多神教です。
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この回答へのお礼

なるほど!ありがとうございます!

お礼日時:2009/01/17 13:01

イスラエルの宗教であるユダヤ教は、現在まで生き残った宗教であり、古代ギリシャ、古代メソポタミア、古代エジプトの宗教は、現在では信者のいなくなった絶滅した宗教といえます。


ただし、古代ペルシャのゾロアスター教は、わずかばかりの人ですが、信者はいます。
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この回答へのお礼

参考になりました!ありがとうございました!

お礼日時:2009/01/16 23:02

....


どういう状況で気になったんだろう.
ちょっと考えればすぐわかるというか, 「歴史」というカテゴリーであることからすれば「考えなくてもわかる」というか.
普通は「イスラエルの宗教」といえば「ユダヤ教」なので, それぞれを調べればいいだけだよなぁ. もちろんいろいろ検索しているとは思うので, どこまで分かってどこからが分からないのか, 書いてもらえませんか?
ギリシャの場合は「宗教」というか「哲学」というか微妙な面もありそう.

この回答への補足

レポートの課題として出されたものなんです。
一応、自分なりに調べたんですけど、あまり核心的な答えが見つからなくて、ほとんど何もわからない状態です。
哲学の分野ではなく、あくまで宗教、文明の分野です。

補足日時:2009/01/16 23:17
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Q非文明的な生活を送る宗教(組織?)の名前

非文明的な生活を送る宗教(組織?)の名前

「文明的なものをいっさい使わない人達がいる」「その人たちの目は死んでいるように思えた」「心に傷を負った人が行き着く場所」「退廃的?」「カナダ?」

ずっと昔に上記のような文章を見たような記憶があります(あるいは別の表現かもしれませんが、意味するニュアンスは似てると思います)。その宗教(もしかしたら、ただの組織かもしれません)の名前を知りたいのです。一応、WIKIPEDIAで宗教一覧から探したのですが(ざっとですが)、それらしい生活を送る宗教はありませんでした。Googleにて「宗教 非文明的 生活 名前」のようになんとなく頭にある言葉を並べても、まるで見当違いの情報がでてきてしまって、あとはどう調べればよいのかわかりません。そこで、質問させていただきました。

本当にうろ覚えなのですが、よろしくお願いします。宗教名がわかれば、あとは本部支部の所在地は恐らく自力で調べることができるかと思います。

そういった人たちとの会話は、きっと自分にとって良い経験になるのではないか、と思いました。

Aベストアンサー

「文明的なものをいっさい使わない」「宗教的」北米、という記述から、アーミッシュだと思いました。
Wikipediaのページを貼っておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

文明的な機器を否定して自給自足の生活を送る素朴な宗派です。
教義を厳格に守るためか俗世とほとんど接触がなく、非常に禁欲的な印象を受けます。
宗教はキリスト教だと思います。

死んだような目、というのもすさまじい表現ですね(^^;

Qメソポタミア文明とエジプト文明と古代ギリシアの関係

メソポタミアとエジプトの文明は、制度・宗教などでは大きな違いはありますが、相互の交流はあったようです。
インターネットなどでは、「エジプトはメソポタミアから多大な影響を受けた」などと書かれていますが、具体的にどのような影響なのかがわかりません。逆に「メソポタミアはエジプトの影響を受けていた」というようなことは見当たりませんでした。
質問:
(1)エジプトはメソポタミアから一体どのような影響なのでしょうか?
(2)文明としてメソポタミアの方がエジプトより進んでいたということでしょうか(例えば、政治などの制度や文字・暦などの創造で)。

もう一つ、
(3)古代ギリシアはエジプト、メソポタミア文明にどの程度影響を受けたのでしょうか?

Aベストアンサー

>)エジプトはメソポタミアから一体どのような影響なのでしょうか

パッと思いつくのは、鉄器文化です。
ただ鉄器を一番初めに使用したとされるのは、ヒッタイトですから、メソポタミアとは少し場所的に違いますが。

>文明としてメソポタミアの方がエジプトより進んでいたということでしょうか

そうではないと思います。
エジプト・メソポタミア・ヒッタイトの各文化圏は、シリアで重なっています。
シリアを通してお互いの文化が交流されたのだと思います。
ただ、軍事的に後に現れたアッシリアに全て併合されてしまいますから、軍事的には、歩兵主体のエジプト軍は、戦車主体のアッシリアにかなわなかったのでしょう。
同じ事は、歩兵主体のバビロニア(メソポタミア)にも言えます。

Q宗教の本質

宗教の本質

哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。

1.宗教の発生時期
  宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。
  どのような原始社会においても宗教は発生しています。
  宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。

2.宗教の種類と数
  宗教は全世界に溢れています。
  その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
  また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。

3.宗教を構成するもの
  宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。
  この3つの概念を備えない宗教は存在しません。

4.宗教の宇宙観
  全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。
  すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。

5.宗教を動かすもの
  宗教は心地良いものです。
  修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。
  酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。
  もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。

6.宗教の目的
  宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。
  これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。
  大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。
  この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。
  国が宗教を擁護するのもこのためです。

7.宗教の未来
  統治の道具としての宗教の力は既に失われています。
  これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。
  それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。
  つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。

8.宗教の次にくるもの
  それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。

御意見ください
 

宗教の本質

哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。

1.宗教の発生時期
  宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。
  どのような原始社会においても宗教は発生しています。
  宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。

2.宗教の種類と数
  宗教は全世界に溢れています。
  その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
  また宗教は人の数だけ存在するという人も多...続きを読む

Aベストアンサー

続けて失礼いたします。
>>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。
 認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持っている守備範囲を表すもので、どれもその核心を突いているわけではありません。
「未知の物に説明を与える」ということに関して言えば、宗教は説明以上に謎を呼びます。スーダンのザンデ人のあるお宅の屋根が崩れました。すると、ザンデ人たちはすぐに妖術師の仕業であると疑い、説明をつけ始めた。この時ザンデ人の宗教を研究していたエバンス・プリチャードは、屋根の所にはシロアリが食っているのだから屋根が落ちた原因は妖術師ではなくシロアリの仕業だと指摘します。しかし、ザンデ人はシロアリが原因であるや建物の老朽化などのことは百も承知であったが、シロアリに関心を寄せませんでした。彼らの関心事は「なぜ今その人が屋根の下にいる時に、屋根が落ちたか?」という理由でした。これが適切な「謎」であれば「宗教は未知の物に説明を与える」ということもいえるでしょうが、そうではありません。宗教自体が新たな謎を呼んでいるのです。一休禅師の歌の中にも「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」なんて歌を詠んでおられますが、このような点からも宗教はただ説明を与えるだけではないことが伺えます。
「宗教は安心を与える」というのは前述の通りそれだけではありませんし、「宗教は秩序を与える」というのも秩序を壊すのも宗教であったりします。また、「宗教は妄想である」というのも、私達は妄想と隣りあわせで生活しているわけで、「もし」や「シュミレーション」や「遠く離れた恋人の思い」であったり、その妄想から力を得ることもありますが、そういうことには言及されないことが多い。どの説明でも不十分なのです。
それを前提において考えますと、私としては一番それらしいかなと思っているのは、認知科学的な方面からの研究によれば宗教の本質は「人間の認知機能の表象」であると考えられています。分かりやすく言えば「人間は宗教的なものを感じるように出来ている」ということです。前々回の回答の中でも記したように、人間の行為者の過剰検出であったり、それを安定した形で定着させる機能だあったり、前回の中に記した推論機能であったり、数多くの人間の認知機能の表象として宗教と言うものがあるという説明です。
しかし、私はこの回答では宗教の本質というより「人間の本質」の問題であるように思います。では宗教の本質とは?「いろいろ」です。刹那的にみれば、一つの宗教から、多くの宗派が生まれたように見えます。ここから一つの宗教から多くの宗教が生まれたのだから「宗教の本質を答えることが出来る」と考えるのが自然なように見えます。しかし、文化人類学や進化心理学においては「多から少」、質問の中にも
>>その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。
>>また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。
とあるように、宗教は歴史的な多様化ではなく、数限りない宗教の絶え間ない自然淘汰による凝縮の結果と考えられています。私もこのように考えます。
 つまり、「人間の認知機能」という共通ですが、その対象が違うのです。砂漠における砂の認識と、湿原における砂の認識は違っているわけですから、同じ砂を信仰対象としたとしても、共通点はあってもその本質は違っています。だからこそ日本には宗教全般を表わす「宗教」という言葉が存在しなかったのはそのためです。日本の分類は「仏道」「神道」「儒学」「キリシタン」という括りまでです。なぜなら、それぞれの「本質」が違うことを意識せずとも知っていたからでしょう。つまり、宗教の本質は「いろいろ」ということです。

 しかし、この答えでは満足いかないでしょう?そうでしょう。書いている私が満足してません。説明としては不充分なのです。けれども、だからこそ学ぶのです。「宗教」について語られたものは、宗教学、神学はもとより、歴史学・文化人類学・認知科学・進化心理学等々多岐にわたります。今の時代、調べれば知ることが出来るのに、それをしないのは怠惰以外の何者でもないと私は学び続けています。
あなたのような熱い方とお話が出来て嬉しく思います。ありがとうございました。
 ただ、お答えにはなっていませんね。申し訳ありません。
合掌 南無阿弥陀仏

続けて失礼いたします。
>>私の提示したものに一々否定したり、不十分であると述べたりするばかりで何ひとつ自身の答えを示そうとはしません。
 認知科学のパスカル・ボイヤー氏は宗教をひとくくりにして説明してしまうことはよくやれられるがこれ間違いだと述べておられますが、私も同意見です。よく、「宗教は未知のモノに説明を与える」とか「宗教は安心を与える」「社会に秩序を与える」、または「妄想に過ぎない」と説明を加える方が居られます。しかし、それは「宗教」という言葉のあらわすものが持って...続きを読む

Qエジプトの太陽暦とメソポタミアの太陰暦

題名の通りなんですけど、エジプトの太陽暦とメソポタミアの太陰暦のように違いが出たのはなぜだと考えられるのでしょうか。どちらも乾燥地域で大河の氾濫の時期を知るために暦が生まれたということだとすると、同じものが生まれる気がするのですが。エジプトではラーの信仰のように太陽への信仰が強かったことなどが影響したりしているのでしょうか。詳しい方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

詳しい人ではありませんが、知っている範囲でお答えします。
エジプト、メソポタミアとも農業耕作のため、暦がつくられました。
月日の移り変わりを知るには月の満ち欠けが、判りやすくこれで一ヶ月を決めましたが、太陽との運行とはずれがあり、農耕にあうよう3年に一度閏月(当時は連大月という)を作り大体あわせました。
太陰太陽暦(今は俗に太陰暦という)といいます。
真の太陰暦は閏月を置かず、そんままで大幅な狂いが生じますが、それを使った国もあるとか。  農業の必要がない国なので。
エジプトも始はメソポタミア同様太陰太陽暦に近い暦法でした。
ナイル川の洪水を予測するため、太陽の代わりにシリウス(ギリシャ語でソティス)星を使うので、太陰ソティス暦といいます。
王朝が出来た頃からこれを廃し、太陽暦に近いものを採用したといいます。
理由は明確ではありませんが、王の治世や在位年月を記録するようになり、より正確なものを求めたとも考えられます。

Q宗教の種類は今後も増え続けるのか?

宗教は動物にはないものと思います。死人に対してお墓を作ったり花をお供えすることなどは、人間が進化した結果の宗教心です。その宗教心は国や地域でさまざまな既成宗教を生み出しました。ですがその反面科学や知識が進歩することにより、既成宗教の信憑性は低下しています。ですが自分で宗教を選ばない人達は先祖の宗教を引き継いでいる人が多数です。信教の自由ですから先祖の宗教から離れる人もいます。その人達は無宗教になるひともいますが、多数の人は理論的で科学的に近い宗教に惹かれるようです。その為、新興宗教が多数つくられてきています。私としては宗教の多くは必要のないものと思っています。この世にとって必要な宗教と必要でない宗教を分けることはできないでしょうか?ただ増え続ける宗教は馬鹿馬鹿しいだけです。できれば宗教は一つにまとめるべきだと思っています。誰にでも人間としての宗教心はあります。その意味をもう一度見直して、世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?

Aベストアンサー

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。

ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。

わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。
しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち徹底してその本質まで考える癖はついていました。

だからといってこの人生について解ることは、徹底して考えるほどに自分の未熟さ、青二才ぶり、甘さ、どうしようもなさ、小ささ、木の葉のような状態でしかなかったのですが、  自分の中では、これが60歳になってみて(50歳ごろ全体的にまとまったのですが) 物事は総合的にかんがえると(人生のことがらすべてをなのです。このOKウェブのカテゴリが無限にあるわけではないことから、60歳の思索者のそのへんを想像していただけると幸いです。)人間の能力はけして何もかも出来る可能性なんて持ってはいないけれど、 A地点からB地点までの一歩一歩の旅ならば必ず答えが見えてくるそういう確かな「可能性の大地」という世界、 つまり深く本質的にそして広く総合的に考えれば必ず 次への見とおしならば開けるはずで その頂点であるべき思索開拓の道が本来哲学であるはず、→ すなわち、この相対的は世の中にて、諦めていいような問題は存在しない。 哲学がそこにある限り、常に前進への道はあるはず。 という考えにいたっているというわけなのです。

宗教の問題に限らず、憎しみの連鎖の問題、生物の弱さの問題、医学の進歩の問題、経済の問題、外交のあり方の問題、大きくて不可能に思えてしまう問題も、 けして諦めてはならない。 哲学が諦めたらもちろんすべては絶望しかないのでしょうが、そんなことはありえない。という考えだということです。 

今では、論理以上に「諦めない心」のほうが大事と思えるほどになっています。

ジョンレノンでしたか「宗教の無い世界を夢見てごらん、国境の無い世界を夢見てごらん♪」といった歌詞(くわしくは知らないのですが)の「夢」を音楽と詩で語っていますよね。

夢は 音楽哲学にしろ、言葉や詩の哲学にしろ そこから生まれたさらに進化した音楽や詩や文学にしろ、 裏のその哲学がどこまで煮詰められているかによって 実現へと近づいてゆくという理論もなりたちます。

私が33,4歳のころだったでしょうか、友達が泣きながらそのニュースを知らせてくれた事を憶えています。彼がピストルで撃たれて殺されていなかったら、どのような哲学をわたしたちに語ってくれたのか、生きていたなら彼の60歳の頃のお話を聞いてみたくなります。

へんな自己紹介ですが、ここまでをここでの自己紹介とさせていただいます。

紙数の都合で 回答自体はANO15まで筆を伸ばします。(一応最初の回答という形ですが)

***
 paradox8様の質問文に直接対応した回答は次のANO15(から)となりますが、 まだ紙数がありそうなので、付け加えます。

私は上記のような「哲学人」なのですが、 最近、このサイト内にて、アカデミックな哲学の世界で“哲学の世界”自体が 膨大に分裂していてそのその思索における総合性を失ってるとかつかみがたくなってるとか聞いていますし、

また哲学の歴史自体が、何か個とか個性というあたりでもしかしたら へんな曲がり方をしてきてしまったらしいことも聞いています。  個とい概念はとても大事な人間性についての思索なのですが、絶対個という概念を 文字通り「絶対」に通じ合えないのだからそれが故にお互いを尊重しあうことが大事なのだとかいうふうな簡単な考えでまとまってしまっているらしいことも聞いています。

 アカデミックな哲学が こんな地点から抜け出せないでいるというのが事実であるなら ちょっと信じられない世界です。

学者の卓上の論理というのは もしかしたら、生きる必死さ、真剣さに欠けているのかもしれませんね。 それだから この宗教の問題にも哲学が答えられなくなっているということなのかもしれません。 ここにそのような推理が働いてしまう者です。

でも、本来 人間の哲学の可能性を哲学すれば、深く広く総合的、本質的、厳密に考えれば そんなはずないと思う者の 私はもちろんその一人です。

私自身は、諦めません。  つづけます。

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。

ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。

わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。
しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち...続きを読む

Q中国の古代国家(秦・漢)はエジプトやギリシャ文明の影響を受けていますか。

紀元前から東西文明の交流・接触があったと思うのですが、そうであれば、秦・漢時代の遺跡、土木工事、政治や社会制度その他に、なんらかの痕跡、証拠があるでしょうか。
ただ漠然とそんなことがありそうだと思っているだけの質問です。
推定でもよいですから教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

中国の暦に古代バビロニアの影響があるとする説を中国史家飯島忠夫が称
え、それに反対して天文学者の新城新蔵は中国独自説を称えて論争になりま
した。
それぞれの主要な論文は、「科学図書館」
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/scilib.html
というサイトに掲載されています。
飯島忠夫の論文は

●支那インドの木星紀年法の起源
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/iijima/sinakodaishi/mokusei-kinen.pdf

●支那天文学の成立に就て
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/iijima/sinakodaishi/mokusei-kinen.pdf

新城新蔵の論文は、

●歳星の記事によりて左伝国語の制作年代と干支紀年法の発達とを論ず
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/sinjyo/kenkyu/saisei-kiji.pdf

●再び左伝国語の制作年代を論ず
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/sinjyo/kenkyu/hutatabi-saden.pdf

これ以外にもまだ論争が続いていますが、これ以外の論文については、
飯島忠夫『支那古代史と天文学』
新城新蔵『東洋天文学史研究』
などに収録されています。

中国の暦に古代バビロニアの影響があるとする説を中国史家飯島忠夫が称
え、それに反対して天文学者の新城新蔵は中国独自説を称えて論争になりま
した。
それぞれの主要な論文は、「科学図書館」
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/scilib.html
というサイトに掲載されています。
飯島忠夫の論文は

●支那インドの木星紀年法の起源
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/iijima/sinakodaishi/mokusei-kinen.pdf

●支那天文学の成立に就て
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/sci/iijima/sinakodais...続きを読む

Q総合格闘技団体みたいな、総合宗教団体を作りたい。

最近、宗教の事を身近に感じます。
少し無理が有るかもしれないですが、すべての宗教をまとめる宗教団体を作りたい。
総合格闘技みたいな。
宗教法人、宗教研究会とか、宗教法人、総合宗教団体オールとか、宗教法人、宗教オリンピックとか、宗教法人、宗教交流会とか、宗教法人、宗教すべてオッケーの輪とか、宗教の宗派や、派閥は、あっても良いけど、宗教は宗教だから、みんな一つの輪だから、思想も色々あるが、とりあえず一つの輪になって、宗教活動したい。
それで、思想の違いから意見の対立があるから、
宗教オリンピックを開いて、宗教論争の戦いをやる。宗教の専門家に審判をお願いする。
もちろん、これが元で宗教戦争になったら困るので、言い争っても、テロとか、やらないように、論者に頼んで、また信者にも頼んで、合法的な活動にする。
それで、相手を批判したり、自分が批判されたりして、自他共に、良い所、悪い所を認めあい、自分の宗派や派閥を、良い物にして行く。

これは、どうでしょうか?面白いんではないでしょうか?

柔道的な発想です。
嘉納治五郎も、その昔、柔術が無くなって行くから、柔術を総合し、人道を加えて、柔道を作りました。

それなら、宗教から、宗道べの時代が、やって来てないですかね?

少々無理があるかもしれないですが、回答を、よろしく、お願いします。

最近、宗教の事を身近に感じます。
少し無理が有るかもしれないですが、すべての宗教をまとめる宗教団体を作りたい。
総合格闘技みたいな。
宗教法人、宗教研究会とか、宗教法人、総合宗教団体オールとか、宗教法人、宗教オリンピックとか、宗教法人、宗教交流会とか、宗教法人、宗教すべてオッケーの輪とか、宗教の宗派や、派閥は、あっても良いけど、宗教は宗教だから、みんな一つの輪だから、思想も色々あるが、とりあえず一つの輪になって、宗教活動したい。
それで、思想の違いから意見の対立があるから...続きを読む

Aベストアンサー

たぶんこんなことを考えられるのは 『あなたが日本人」だからでしょう。
日本の宗教は「神様喧嘩せず」が信念にあるので、どんな宗派だって好きにさせてます。
例え金儲けの宗教でも。 だから宗教衝突も起きませんし 殺し合いもありません。

海の向こうでは「唯一神信仰」だから 俺以外はみんな邪教者なんで
邪教者は殺したっていいんです。徳が積まれますから、喜んで赤ん坊を石で引いたり
女を犯して 生きたまま男の首を切り取り歓喜の声をあげます。 あちらの人にとっては
この行為はすっごい美徳ですから。うらやましいですね。

こんなやつらを相手取るんですから、銃でも大砲でも絶対に敵わない上、眉一つ動かすだけで周りの仲間が苦しんで苦しんで絶命するような力を持った代表者が仲に立って
力でねじ伏せて手を握らせなきゃ無理でしょう。

温厚ってのは「同じ宗派の人間のみ」の付き合いなんで 異教徒に温厚になれるわけはありません
だって自分の宗教以外を認めるのは冒涜なのですから

Q【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。民衆は神を讃え、統治者より神が

【政治と宗教】エジプト文明が滅びたのは統治者が神の力を借りたから。

民衆は神を讃え、統治者より神が偉くなり、統治者が神を制御出来なくなり、神を頂点とする世界に統治者は不要となった。

エジプト文明が滅びたのは神の力に頼ったから滅びたのですが、なぜこの世は過去に世界統一に失敗した神の力を未だに頼っているのでしょう。

エジプト文明は国民が統治者より神が偉いと思ったから国を統治者が統制出来なくなり滅びた。

違いますか?

Aベストアンサー

統治者が、神の名を借りて統治していたようですよ。
アレクサンダー大王の時に、王の家系がギリシャ出身者になっても、太陽神の名を借りて統治し続けていました。
結局ローマの覇権争いを利用しようとしたクレオパトラが自滅を招いたということらしいです。
神は信じる人の心にあります。
鰯の頭も信心から(いわしのあたまもしんじんから)
亡くなった祖母は何にでも手を合わせていました。口癖は「守ってくれよる」でした。今も、祖母が守ってくれていると感じる私もきっと有神論者に入るのでしょうね。

Q伝統宗教と新興宗教と外来宗教

宗教に抵抗のある人でも、除夜の鐘の音を聞くのも不愉快、初詣にもいかん、お盆もやらんという人は少ないと思います。
多くの人にとって伝統宗教は「宗教」のカテゴリに入っていないのではないかと感じられます。
特異な存在である宗教として意識されるのは新興宗教と、外来の宗教であるキリスト教やイスラム教ではないでしょうか?
伝統宗教とそれ以外は意識の上で何が異なるのでしょうか?
またいかなる伝統宗教も開祖の時代は新興宗教であったはずですし、逆にいえば今現在の新興宗教も何百年も先まで残っていれば
伝統宗教として扱われるようになるでしょう。
また今は日本の土着宗教のようになっている仏教も本来は外国の宗教でした。
新興宗教や外来宗教はいつなにをもって伝統宗教に転ずるのでしょうか?

Aベストアンサー

マイナーがメジャーになるきっかけは、やはり支配者の決定じゃないでしょうか。


古来 人間はモノを創造していた。製作していた。


今のように大型量販店で、できあいのモノを買うのではなく、自ら作っていた。


各地で特産ができて、自分たちには無いものを、自分達独特のものと交換していた。
無いなら作ればいい から 作らずに品物を手に入れる方法として物々交換をしていたわけです。


そういうわけで、創造から今では人間の特性は消費に進化したわけです。


従って今では、創造をするモノになるより、創造されたものを大量消費するモノの方が圧倒的多数。
創造する人はマイナー。


キリスト教を例にとると、人々はいい宗教だからと 自らの自己決定で選んだわけではない。


学校には制服があるじゃないですか。
学校に自ら作った服を着ていかず、既製服を着ていきますよね。
それと同じように、時の支配者が創造したというか、ミックスした宗教を、被支配者階級に「これを着なさい これ以外は学校では着てはいけません」というように、「これを信仰しなさい。これ以外の信仰はしてはいけません」となったわけです。


どうして支配者は、キリスト教を選んだのかというと、被支配者の頭を上げさせないため。
押さえつけて支配者に服従させるため。

という側面と、集団を一つの宗教だけ信仰させることで、統一し纏め上げることが容易になるから。
散らばっている羊より、固まっている羊の方が、扱が容易ですよね。


ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいなもの。
創造者、支配者、そして設計者でもあるその者の思い通りに、宗教を使えばできてしまう。

それに気づいたローマ皇帝たちは、だからキリスト教を使用して、領土を拡大することに成功したわけです。



従って、どの宗教が集団のメジャーとなるかは、支配者が利用価値があるとして使用するかどうか次第。


考えてみてください。
「あれは敵だ」と戦争を支持する者の息子は、決して戦場にに行くことはありません。
人々は国のため、神の正義のため という言葉によい知れ、奮起させられるが、決して支配者の息子が戦場の前線で国のため、神のためと戦うことはありません。
つまりその宗教の価値があるとしているのは、それがすごい物だから信仰すべきだとしているのではなく、自分の世界を拡大するために利用価値が大いにあるとしたから。
だから利用価値があるから支配者は利用することとなった。
利用しても成功しなければ、利用しないまでです。



神の正体とは、人間であり民を支配している者。
その者が利用価値があると選択した宗教が、メジャーになるわけです。


人々はその者が創造した商品を大量消費することに楽しみを感じる。
大量消費からブランドとして、価値を付加するわけです。

ブランドの誕生は、支配者が使用するようになってから、ブランドとして名が通り、高い値で取引される。

手作りで、職人が作るわけだが、人々の関心は、それを消費することであって、メーカーのように創造・製作することを楽しみたいからではない。
信仰とは消費と同義語。



仏教だって支配者が選択したからだし、神道だって支配者の都合で各地に伝わっていったわけですし。

人々は被支配者が決めた服を着て(消費して)喜んでいるだけ。



物を作っていた時代から、交換になり、消費がはじまり、大量消費になり、創造に興味はもたず、今はブランドに興味を持つようになったという人間の進化の過程を、宗教に置き換えて考えてみました。

人間の特性を知れば、解ける問題ですね。
そして人間の特性を知った人は、利用し勢力を拡大していった。
気づき利用したことで、自分が中心となる王国を築けた。

マイナーがメジャーになるきっかけは、やはり支配者の決定じゃないでしょうか。


古来 人間はモノを創造していた。製作していた。


今のように大型量販店で、できあいのモノを買うのではなく、自ら作っていた。


各地で特産ができて、自分たちには無いものを、自分達独特のものと交換していた。
無いなら作ればいい から 作らずに品物を手に入れる方法として物々交換をしていたわけです。


そういうわけで、創造から今では人間の特性は消費に進化したわけです。


従って今では、創造を...続きを読む

Qイスラエルに3つの宗教の聖地が存在する理由は?

現在、パレスチナ人がイスラエルに対して自爆テロを行い、イスラエルはそれに報復をするといったニュースが連日のように報道されています。その原因についてはおいといて、そもそも、なぜ、イスラエルには3つの宗教の聖地が近い場所に存在するのですか?知っている方、教えてください。

Aベストアンサー

  
  三つの宗教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、これらは、「至高の神」として、「同じ神」を信仰していると主張しています。ただし、一番古いユダヤ教は、キリスト教の「神」と、ユダヤ教の「ヤハウェ」は同じ神だと認めていますが、イスラム教の「アッラー」を「ヤハウェ」と同じ神だと、必ずしも公式に認めていなかったはずです。「アッラー」が「ヤハウェ」であるというのは、イスラム教の主張です(キリスト教も、アッラーが、自分たちの信仰する神と同一とは、公式には認めていないはずです)。
 
  キリスト教は、元々ユダヤ教の一派でした。ユダヤ教の異端がキリスト教だとも云えるのです。無論、独立した教義を持つ宗教となったキリスト教は、ユダヤ教と「異教」関係にあり、異端関係にはないのですが、ユダヤ教側からすると、「異端」だということになります。
 
  聖都エルサレムやその周辺施設などは、ユダヤ教の聖なる地であり都市であったのですが、エルサレムをめぐって、キリスト教の誕生の中心的なできごとがあったので、エルサレム及び、イスラエルやパレスティナなどは、至るところ、キリスト教にとって聖なる地、記念の地となっています。例えば、エルサレムに限らず、ガリラヤ湖とか、ナザレとかは、キリスト教にとって聖地または記念の地になる訳で、キリスト教徒の観光客などは、このような聖地や記念の場所を訪ねます。
 
  キリスト教は、最初、自分たちの教えこそが、唯一神ヤハウェの「真の新しい教え」だと主張し、ユダヤ教の伝統を、『旧約聖書』の形で、継承し、一方、ユダヤ教とキリストの福音はどう違うかで、『新約聖書』の形で聖典をまとめたのです。ユダヤ教は、『旧約聖書』とは呼びません。それに相当する文書記録は、『ユダヤ聖典』となります。『新旧約聖書』の「旧約」を認めては、ユダヤ教の立場がなくなるのです。
 
  キリスト教は、元々ユダヤ教の分派で、独立した教義を立てて、「異教」となったのだと云えます。しかし、ユダヤ教の教えは、「古い啓示」に基づくものだという考えを持ちます。従って、分離までのユダヤ教の歴史は、そのままキリスト教の歴史に取り込まれ、ユダヤ教の聖地や記念の場所も、全部、キリスト教の聖地、記念の場所として継承しています。エルサレムはユダヤ教の聖地・聖都で、それ故、キリスト教の聖地でもあり、また、「ゴルゴタの丘」とか、「十字架の道」などは、エルサレムにある、キリスト教の聖なる記念場所となっています。
 
  イスラム教は、ユダヤ教の分派でも、キリスト教の分派でもなく、むしろ、アラブ族の民族宗教だとも云えるのですが、古い多神教のアラブ族の宗教の限界を超えるため、ムハンマドは、天使ジャブリール(キリスト教の天使ガブリエルに対応)から啓示を受けたと主張し、「神」は、ユダヤ人に啓示を与え、「聖典=ユダヤ聖典」を与え、自己の意志を表明したが、うまく人類に伝わらなかった。そこで、「預言者イーサー(イエズス)」を使わし、新しい啓示と新しい「聖典=新約聖書」を与えたが、なお、人類は、「神」を正しく認識しなかった。そこで、「最後の封緘」として、「最後の預言者ムハンマド」を使わし、ムハンマドを通じて、「最後の啓示=聖典クルアーン」を人類に与えた。これがイスラム教であるというのですが、これは、ユダヤ教・キリスト教の分派ではなく、勝手に、ユダヤ教やキリスト教の聖典や預言者や教えを、ムハンマドとその預言に先行する預言であるとして、教えに取り込んだもので、最初から分派でないのです。
  
  つまり、イスラム教の側では、ユダヤ教やキリスト教は、共通の神の啓示を受けた「兄弟」となるのですが、ユダヤ教側からは、勝手な理屈を付けて、ユダヤ教を汚す宗教にしかならないのです。だから、ユダヤ教とイスラム教は、歴史的に、決してよい関係ではなかったということがあります。キリスト教は、ユダヤ教から分派したということが歴史的に明らかなので、イスラム教は、キリスト教により寛大で、キリスト教も、イスラム教よりも、ユダヤ教の方に、より好意的だとも解釈できます。
 
  こういう経緯で、元々、サウディアラビア半島に起こった、ユダヤ教とは、一応別の宗教であるイスラム教が、エルサレルなどを聖地にするのは、根拠がないのですが、「教え」から言えば、エルサレムは、神アッラー=ヤハウェが、かつて、ユダヤ教で崇拝を受けた聖地であり、イスラム教固有の聖地であるメッカ、メディナに次ぎというか、同格ぐらいの重みで、教義上聖地となります。
 
  ただ、キリスト教にとっては、エルサレムもイスラエルもパレスティナも、キリストに関連する直接の聖なる場所などが至るところにあるに対し、イスラム教は、メッカが第一聖地で、パレスティナには、それほど聖地はありません。ただ、ヤハウェ=アッラーの神殿などがあったエルサレムは、特別な聖地となる訳で、預言者ムハンマドは、一夜にしてか、アラビアから天使の翼に乗って、エルサレムを訪れ、そこの「聖なる岩」から天に昇り、神との出会いの聖なる体験をしたなどという話があり、エルサレムの「岩の神殿」というのが、イスラム教にとって、固有の聖なる場所になっています。
 
  ユダヤ教にとって、イスラエル・パレスティナなど、あのあたり一帯は、「紫のカナーン」と呼び、神から与えられた「約束の土地」で、至る所聖地だらけなのです。キリスト教徒もその伝承を継承していて、かつ、キリストゆかりの多数の聖地や記念の場所があるので、エルサレム、イスラエル、パレスティナなどは、「聖地」になります。イスラム教にとっては、エルサレムは聖なる都ですが、「紫のカナーン」は、ヤハウェ=アッラーが、ユダヤ人に約束した土地であって、エルサレム以外の場所では、それほど拘りはないと云えます。
 
  パレスティナ問題は、元々ユダヤ人が、紫のカナーンへの侵略者であったこと。この地域は、必ずしもユダヤ人の独占地域ではなく、昔から、ユダヤ人と砂漠のベドウィンや海のペリシテや、その他多数の民族などが共有してきた土地で、第二次世界大戦後、イスラエルを建国し始めた時、そこにはすでに、「パレスティナ人」というイスラム教の人々と、ユダヤ教を信奉するユダヤ人が共存していたという事実があるのです。
 
  第二次世界大戦後の「イスラエル建国」において、ユダヤ人は、また侵略者として登場した訳で、原住民であるパレスティナ人が、迫害され、イスラエルに対し抵抗運動を行っているということです。このことは、エルサレムが、三つの宗教の「共通の聖地」という問題とは、また別の問題なのですが、イスラム教とユダヤ教は昔から仲が悪く、特に、イスラエルを建国した、西欧から来たユダヤ人は、イスラム教を認めない人々だったので、問題が複雑になったのです。
 
  話が少しずれましたが、イスラエルに三つの宗教の聖地があるというより、三宗教共通の聖地は、一応「エルサレム」です。ユダヤ人は、エルサレムにかつてあった、「神殿」の名残=嘆きの壁、神殿の壁を聖なる場所とし、キリスト教は、エルサレルムの神殿は無論、ゲッセマネ・ゴルゴタなど、キリストに関係する場所が記念の場所で、聖地になり、イスラム教にとっては、「岩の神殿」跡が聖地になるということになります。
 
  聖都エルサレムが、三つの宗教の共通の聖地になります。その理由と、どの程度の範囲かは、以上に述べた通りです。
  

  
  三つの宗教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、これらは、「至高の神」として、「同じ神」を信仰していると主張しています。ただし、一番古いユダヤ教は、キリスト教の「神」と、ユダヤ教の「ヤハウェ」は同じ神だと認めていますが、イスラム教の「アッラー」を「ヤハウェ」と同じ神だと、必ずしも公式に認めていなかったはずです。「アッラー」が「ヤハウェ」であるというのは、イスラム教の主張です(キリスト教も、アッラーが、自分たちの信仰する神と同一とは、公式には認めていないは...続きを読む


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