カティンの森事件について疑問に思ったことがあります。
wikipediaや他の資料もみたのですがにこのように書かれていました。
「1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍はカティン近くの森で溝に4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを発見し、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。」
結局1990年にソ連による犯行だったと認めることになるのですが、ドイツではホロコーストがあるのに、ソ連のこの行為を非難できるような立場だったのですか?ソ連側が虐殺したのは捕虜でホロコーストはユダヤ人や反ナチスだから舞台が少し違うと言えば違うのですが、、、
この避難というのは人道的な気持ちでのひなんというよりは、ソ連をつぶしたいという気持ちでの非難ですか?

教えてください

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

人道的なものと言うよりも政治的なプロパガンダという意味合いが強いです。



当時の状況として、ドイツは西ヨーロッパ戦線での焦れから対ソ戦争を始めることによって、イギリスとの戦争状況を発展的に解消し、反共の旗印の下にパルチザンも下火にしようと考えていました。ユダヤ人虐殺や強制労働は自国の中で行なわれていたものですが、法律的には「合法」とされるものであり、彼らの考えの元では、官僚主義的にも何も問題はなかったのです。また、パルチザン行為に対する報復行為としての虐殺も当然として考えられていました。しかし、これらの問題は国際法的には認められない性質であることが自覚されており、秘密裏に実施されていましたし、絶滅収容所もポーランド奥地の国際的に注目されないところに設置されています。

それに対して、カティンの森の大量虐殺は、ソ連の悪逆非道として喧伝するに格好の材料でした。このプロパガンダの目的としては、以下の点が挙げられます。

・もっとも直接的にはイギリスのポーランド亡命政府とソ連との連絡および協力関係を壊す。
・当時展開しつつあった反ファシズム連合国のドイツ包囲網からソ連を放逐させる。
・ドイツの掲げる「反共」の意義を世界中に再確認させ、あわよくば敵の目をソ連撲滅に向けさせる。これは実際にソ連に宣戦布告をしないまでも、対ドイツ作戦の苛烈さを和らげさせるだけでもヨシとされていました。

実際にこの事件を契機としてポーランド亡命政府とソ連との関係は崩壊し、その後、ソ連側は共産主義系のポーランド地下組織としか連絡を取れないことになりました。これは戦後にまで影響していくことになり、第二次大戦後にポーランド人民共和国が建国された際、イギリスにいた亡命政府関係者はほとんど放逐された感じでの人事が行なわれることにもなります。
反ファシズム連合国包囲網構築に対してはあまり大きな成果を挙げることはできませんでしたが、それでも一定時間の確保には役立ちました。
反共共同戦線構築に関しても、国際レベルでは大きな役割を果たせませんでしたが、個人レベルでの反共意識の強化やドイツ占領下の国々からソ連戦線への義勇兵が出るなど、部分的な成果は見られました。
    • good
    • 1

現実的には、プロパガンダ合戦ということです。


しかし、ユダヤを始めとしたいわゆる「二級市民」は、ナチスドイツによる人種差別政策を始める前から欧州においては差別的扱いを受けており、また、当初は意識的に差別政策を行っていただけなので、ソ連軍による無差別大量虐殺は、あまりにも酷いと思ったのでしょう。
    • good
    • 1

さすがドイツ人だ。


いくらホロコーストで何百万人殺戮していようとも見に覚えの無い犯罪は断固として否定する。是々非々の姿勢。それが正しい。わが日本ではどうか? 
「大陸でたくさんの人を殺したのは事実だから南京でもたぶん殺したのだろう。いいじゃないか。南京虐殺はあったんだろう。向こうが30万と言うなら30万人を日本軍が虐殺したでいいじゃないか」
こんなへっぴり腰的日本人がいる。絶対にだめだ!
日本人はカチンの森におけるドイツ人の態度を見習い、身に覚えの無いことは断固として否定しなければならない。東京裁判で確認された南京事件の犠牲者はわずか一人であります!
    • good
    • 1

自分達のやっていないことまでは、そりゃあ認めませんよ。

あくまでホロコーストはドイツにおいて合法的に行われていたものであり、それと関係のないことは当然非難するでしょう。それに併合しているポーランド人を殺すメリットはないと思いますよ。労働力に使うとか使い道はありますし。人道的という概念はこの大戦のあとに造られた概念です。(ホロコーストというドイツでの合法的行為を裁くために)

ちなみにゲームメタルギアソリッドですと、ヴォルギン大佐がこの事件を起こしたことになっています。参考までに。
    • good
    • 0

 プロパガンダと人道性と両方でしょう。



 ドイツ第三帝国といっても一枚岩ではなく、国防軍とSSは別の組織で、あまり仲がよくなかったようです。
 虐殺現場を発見したドイツ国防軍は、徴兵された兵隊さん(要はその辺の普通のお兄ちゃんです)と職業軍人のお偉いさん(連合軍や自衛隊と同じ)からなります。
 ナチス政権が行った事業のうち、戦争の主力にはなりましたが、ホロコーストには関係がなく、その実態も知らされていなかったので、この発見に義憤をつのらせた人も多かったでしょう。

 一方で、ホロコーストを実行し、軍事力としても機能した親衛隊でも、彼らの人種論敵な発想ならば、自分たちは正当で、ソ連の行為だけが悪と考えたことができたでしょう。なので、彼らなりに“人道的”に非難することもできたはずです。
 また、国防軍が情報が行ってしまった以上、「自分たちもやっているから黙っておこう」と隠蔽することは不可能でした。

 いずれにせよ利害が一致したので、ソ連に対する戦時プロパガンダに利用するのに問題はなかったのですが、通常、プロパガンダというと、誇張や虚偽を使ったイメージがあります。
 このケースではドイツは数字も正直に出しているのに、ソ連は否定するどころかドイツのせいにすらしています。なので、ドイツ側は、人道的な気持ちに近い感覚で国際社会に報告した感覚だったと想像できます。
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qポーランドからイギリスへの入国

はじめまして。

私は現在ポーランドの大学で学生をしております。
2月23日で旅行者カード(滞在許可)が切れます。
本来なら45日前までに滞在延長申請をしなければならないのですが、
クリスマス休暇前後で日本に帰国をしていたため、期日に間に合いませんでした。

日本に帰る前に、今住んでいる場所のパスポートオフィスに問い合わせて、期日が少し早いが手続きが出来るか、聞いたところ、日本との2国間の協定で、一度ポーランドを出国すれば、90日間の滞在延長が出来るから、日本からポーランドに戻ってきてからでも、滞在申請ができると言われました。
ですが、実際はカードの記述の方が重要らしく、23日にポーランドを出て5日程シェンゲン外の国に滞在して戻って来て、90日の有効期限を復活させた後、滞在延長手続きをしなさいと言われました。

そこで、イギリスに一週間滞在しようと考えておりますが、色々調べたところ、入国審査がとても厳しいとの評判を聞きました。
このような条件ではイギリスへの入国は厳しいでしょうか?

(1)イギリスではロンドンに一週間滞在して、観光しようと思っています。
(2)航空券はポーランドからの往復航空券になります。
(3)ポーランドに住んではいますが、カードの期限が切れてから5日以上の滞在なので、ポーランドに関する証明書がありません。(期限切れのツーリストカードだけです)
あとは、ポーランド語で書かれた学生手帳だけです。
(4)ポーランドはシェンゲン内ですが日本との2国間協定でポーランドを出国してから5日以上たつと、ビザ無しでまた90日ポーランドに滞在できます。

入国のさい、つっこまれたら、正直に答えようと思っているのですが、
もし、入国拒否にあいポーランドに送り返されてしまうと大問題です。

それとも、トルコや別のシェンゲン協定国外に滞在した方が無難でしょうか。
何ぶん、ポーランドより東の方へ行った事が無く少々不安です。

お知恵を頂ければ幸いです。

はじめまして。

私は現在ポーランドの大学で学生をしております。
2月23日で旅行者カード(滞在許可)が切れます。
本来なら45日前までに滞在延長申請をしなければならないのですが、
クリスマス休暇前後で日本に帰国をしていたため、期日に間に合いませんでした。

日本に帰る前に、今住んでいる場所のパスポートオフィスに問い合わせて、期日が少し早いが手続きが出来るか、聞いたところ、日本との2国間の協定で、一度ポーランドを出国すれば、90日間の滞在延長が出来るから、日本からポーランドに戻って...続きを読む

Aベストアンサー

〉(4)ポーランドはシェンゲン内ですが日本との2国間協定でポーランドを出国してから5日以上たつと、ビザ無しでまた90日ポーランドに滞在できます。

これは確実なんですよね?シュンゲン協定のルールでは出国してもノーカウントにはならないので、ポーランドとの独自ルールということになると思うんですが、その点は大丈夫、という前提で・・・。

〉(1)イギリスではロンドンに一週間滞在して、観光しようと思っています。
〉(2)航空券はポーランドからの往復航空券になります。

で、あれば、日本人に関してはそんなに厳しくないと思います。
できれば、滞在先を事前に決めていかない場合でも、適当なホテルをガイドブックで選んで滞在先として用意すると万全です。

イギリスが主に警戒しているのはテロリストと、不法就労者、不法滞在者です。
ですから、滞在期間が長期でだったり、帰りのチケットがない、滞在先が友人宅という場合にいろいろ聞かれます。
行ったことがないということで、たぶん、いらっしゃらないと思いますが、英国内に友人がいても、聞かれた場合は”いない”と聞かれるのが無難です。

それから、学生証は有効だと思います。ポーランドに帰らないといけない理由(学校)というものがあるということが証明できますから。見せるように言われるかどうかは、担当官次第ですが、すぐに見せられるように準備しておいた方がいいでしょう。職業も大学生とはっきり答えてくださいね。

カードの期限切れということを気にしてらっしゃいますが、期限内に出国しているので、その時点で書類上問題はないですし、その後の再入国に関してまで英国の入国管理国は気にしないと思います。不法滞在期間があるとまずいですけどね。

英国は確かに審査は厳しいですが、観光、短期、往復チケットあり、有職(含む学生)、であれば、それほど、面倒な質問は経験上ないので、心配しなくていいと思いますよ。

〉(4)ポーランドはシェンゲン内ですが日本との2国間協定でポーランドを出国してから5日以上たつと、ビザ無しでまた90日ポーランドに滞在できます。

これは確実なんですよね?シュンゲン協定のルールでは出国してもノーカウントにはならないので、ポーランドとの独自ルールということになると思うんですが、その点は大丈夫、という前提で・・・。

〉(1)イギリスではロンドンに一週間滞在して、観光しようと思っています。
〉(2)航空券はポーランドからの往復航空券になります。

で、あれば、日本人に関しては...続きを読む

Q(再)南京大虐殺で「三十万人大虐殺」を行った日本軍が・・・

前回も質問しましたが、納得のいく回答がなかったので、再掲します。


南京大虐殺の遺体処理についての質問です。

日常のニュースを見ていて思ったことなのですが、
例えば、殺人事件の発覚のキッカケが死体から放たれる異臭というケースが多々あると聞きます。
経験者が言うには、あれほど人間として耐え難い悪臭はないそうです。
しかも、たった一体の腐敗臭でさえ広範囲に漂うそうです。

1、ナチスドイツはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を行うにあたって、初めから死体処理工場を準備していました。ナチスに100%の遺体処理が可能だったのは、工場を建設し、あらかじめ犠牲者を収容所に監禁していたからです。

2、ソ連軍がポーランド軍の将校を抹殺したカティンの森の虐殺でも、あらかじめ将校たちに自分の墓穴を掘らせたうえで射殺しています。

3、モンゴルのチンギスハーンは、都市国家の国民を皆殺しにしたが、全員殺してしまったために死体を処理する者がおらず、死体が全部腐ってしまった。そのあまりにも悪臭に耐えかねて、チンギスハーンはその都市を放棄したそうです。



【質問1】
死体処理について何の準備もなく、偶発的に「数十万人」を虐殺した軍隊が、ただの一体も腐らせずに処理するなどということが可能でしょうか?

【質問2】
中国側のいうような「三十万人大虐殺」がもし本当にあったのならば、
99%の遺体を処理したとしても(絶対に不可能ですが)
残りの1%の、つまり3千人の遺体が現場に残されているはずです。
それならば多くの人々が腐敗臭に苦しんだという証拠が残っているはずです。
そのような証拠はありますか?

【質問3】
前準備もなく「数十万人」を虐殺した日本軍が、どのように遺体から悪臭を発せずに処理したかを教えて下さい。

前回も質問しましたが、納得のいく回答がなかったので、再掲します。


南京大虐殺の遺体処理についての質問です。

日常のニュースを見ていて思ったことなのですが、
例えば、殺人事件の発覚のキッカケが死体から放たれる異臭というケースが多々あると聞きます。
経験者が言うには、あれほど人間として耐え難い悪臭はないそうです。
しかも、たった一体の腐敗臭でさえ広範囲に漂うそうです。

1、ナチスドイツはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を行うにあたって、初めから死体処理工場を準備していま...続きを読む

Aベストアンサー

No.7 で何か述べている人がいますが、結論は変わりません。
> 当時の日本兵の手紙:「もう支那兵の死人が暖かになって腐
> るので、悪臭が鼻を切るように匂ってくるよ。全く戦地だね。
> 揚子江の隅には死人の山で□の如くだよ。一寸内地の人が見
> たら驚くね。腐ってどろどろになって居るよ…」

 で、これは「死体」であることは示していますが、大虐殺による死体であったことは全く意味しません。正規軍同士の戦闘結果であろうが天安門での虐殺結果であろうが、死体は死体です。五十歩百歩と言えましょう。

> これが不衛生な都市の悪臭か、あるいは死体の匂いなのかは、
> 質問者及びこのWebをご覧になっている方の判断にお任せしま
> す。

 というか、この文章からしたら死体の臭いにしか読めないのですが、
他者の読解力をずいぶんと甘く見ていますね。要するに、自称「ほぼ同じこと」が全くもって「ほぼ同じ」などではなかったというだけのことです。

> それで「3月中旬までは未処理の死体が残っていた」事は確
> 認できます。(それ以降がどうかはこれだけではわかりませ
> ん。)

 戦争が行われたのですから、死体が残っていないわけがありません。誰かが「死体が残ってい」なかったという意見を述べているとでも思っているのでしょうか。私ですら死人の存在を明言しています。
 問題は、「三十万人大虐殺」という量であり、それにより生じた三十万体の死体を処分する作戦行動の命令書の有無であり、処理し切れなかったと仮に想定した場合において残ったであろう死体の発する腐敗臭です。
 決して「死体の臭い」などという量を無視した概念ではなく。

No.7 で何か述べている人がいますが、結論は変わりません。
> 当時の日本兵の手紙:「もう支那兵の死人が暖かになって腐
> るので、悪臭が鼻を切るように匂ってくるよ。全く戦地だね。
> 揚子江の隅には死人の山で□の如くだよ。一寸内地の人が見
> たら驚くね。腐ってどろどろになって居るよ…」

 で、これは「死体」であることは示していますが、大虐殺による死体であったことは全く意味しません。正規軍同士の戦闘結果であろうが天安門での虐殺結果であろうが、死体は死体です。五十歩百歩と言えましょう...続きを読む

Qブラントの「跪いての献花」に対するポーランドの評価

最初に、ウィキペディアには以下のように書いてあります。
(多少関係ない部分でも、細かいところは省略しないで書いてあります。また、改行は自分で勝手につけさせていただきました。)

1970年に西ドイツのヴィリー・ブラント首相がポーランドを訪問し、ワルシャワ・ゲットーの前でひざまずきナチスの犯罪に対して深い謝罪の姿勢を示したが、
その一方で帰国後に「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうとも正当化されることはない」とテレビで演説し、
ポーランド側の加害行為をも批判している。ブラントはあくまでも「ユダヤ人迫害」について謝罪したのであって、第二次大戦やポーランドへの侵攻を謝罪したのではない。
ブラントのポーランドに対する態度は、ナチスがポーランドに被害を与えたことは認めつつも、それは東部ドイツ領の併合とドイツ人に対する迫害により相殺されるというものであった。
また、この「跪いての献花」について共産党政権下のポーランドでは公表されず、一般のポーランド人にはほとんど知られていなかった。
したがって、これがポーランドの対独世論を変えたというわけではない。

(中略)

2006年に開かれた、ドイツ人追放者を扱った展示会「強いられた道」に関し、ポーランドのヤロスワフ・カチンスキ首相は「とても悲しく、心配だ」とコメントし、
2007年になると、以前からドイツとポーランドやチェコとの間で外交問題となっていたドイツ人追放を取り上げた「反追放センター」の建設に関する対立も加わって、
追放者問題を巡りドイツ・ポーランド関係は「戦後最悪」と報じられるほどに険悪化することになる。

自分も最初はこの記述を鵜呑みにしていたのですが、木佐芳男氏の本を読み、上の記述に疑問を感じました。
木佐氏はドイツの戦争責任の追及が不十分だという立場からですので、ドイツに有利になるような嘘は書かないと思うのです。
そこで、

・ブラントの謝罪は、ポーランドではだれに対する謝罪だと受け止められたのか
・ブラントの謝罪は、当時のポーランド国民に伝えられることはなかったのか
・ブラントの謝罪は、ポーランドでは評価されているのか
・ドイツ=ポーランド関係は、近年悪化しているのか

の4つのことに関して答えていただきたいのですが、
その際、ネットのみの知識や本を数冊読んだ程度の知識ではなく、
ヨーロッパ、できればポーランドの事情に詳しい方にお聞きしたいです。

回答よろしくお願いします!!

最初に、ウィキペディアには以下のように書いてあります。
(多少関係ない部分でも、細かいところは省略しないで書いてあります。また、改行は自分で勝手につけさせていただきました。)

1970年に西ドイツのヴィリー・ブラント首相がポーランドを訪問し、ワルシャワ・ゲットーの前でひざまずきナチスの犯罪に対して深い謝罪の姿勢を示したが、
その一方で帰国後に「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうとも正当化されることはない」とテレビで演説し、
ポーランド側の加害...続きを読む

Aベストアンサー

当然ながらあらゆる国家において、すべての国民の意思がひとつ、というわけではありません。
ドイツ国内でも"SPDの党首が"ワルシャワで片ひざをついた"パフォーマンス"に反対する
論調は多いですし、ポーランド国民の"全員"が知っているわけでは無いでしょう。

国家は、複数の意思によって成立する共同体ではありますが、
一方で個人の経験が完全に共有されることはありえません。
だからこそ国内のひとつの論説が、すべて国民が共有する共通認識とはなりえないのです。
よって、逆に自説の強化のために、ひとつの論説のみを引用することは
詭弁や、あるいは遊興の域を出ず、問題の解決という点においては
あまり意味を持たないのではないかと思うのです。

唯一、国家間の歴史問題において意味を持つ正式な意思の表示は
合意の下に成立した、明文化された条約のみである、ということを
まず前提にすべきではないでしょうか。



以上、余計な前置きでした。
では本題です。

・ブラントの謝罪は、ポーランドではだれに対する謝罪だと受け止められたのか
一般的な解釈では、本人が言及している通りやはり「ユダヤ人犠牲者」に対してですよね。
ポーランドでは今でもユダヤ人犠牲者への鎮魂の式典が継続していて、
毎年ゲストとして呼ばれている在ポーランドイスラエル大使が、
"大戦時のポーランド系ユダヤ人への迫害"を糾弾しています。
(これに対して、ポーランド人からは、いやいや犠牲者はユダヤ人だけじゃないでしょ?
という反応も出ていないようですし。)


もちろん、対象という面では拡大されうるかもしれません。
同日に調印された条約である、ワルシャワ条約(1970)の前文によると
「ポーランド人がヨーロッパにおける大きな苦しみの最初の犠牲者」であることを
「(平和的共存のために)"想起する"」とされています。国家の取った態度としては
ポーランド人の犠牲を考慮していない、ということでは無いのです。
そもそもブラントさん自身が「殺害された数百万人の記憶に敬意を払う」と言ってますし。

(ただ、これらの言葉が"謝罪"してるかというと・・・・"想起"や"敬意"を"謝罪"と
同じとみなせるか、ということですよね。うーん?どうなんでしょう。)



・ブラントの謝罪は、当時のポーランド国民に伝えられることはなかったのか
知る権利などというものが存在しないのは共産主義政権の常ではありますが、
特にポーランド人民共和国の報道規制はかなり厳しかったことが知られています。
外国からの電波にすべてジャミングを合わせる徹底ぶりでした。
とはいえ、この件に関しては意図的な報道規制の形跡はないですし、
そもそもあれだけ多くの人の前で行われたパフォーマンスに対して、
国民すべての口をふさぐ、ということは不可能ではないでしょうか。

もちろん、興味が無ければ知らないでしょうけれど。
実際の問題として、パフォーマンスが意味を持つ
西側諸国のお祭り騒ぎほどではないでしょうから。


・ブラントの謝罪は、ポーランドでは評価されているのか
評価していないのはドイツ人だけ・・・ゲフン。
やはり、知らない人もいるかと思うのですが、ドイツ国内で反発が大きいことも
セットで伝わっているので、いろいろ思うところはあるんじゃないでしょうか。

ただ、行為そのものを否定的に捉えたりはしていないでしょう。
いまではブラントさんの記念碑がワルシャワゲットーの前に刻まれていますし。



・ドイツ=ポーランド関係は、近年悪化しているのか
特定の政治団体にとっては、悪化している!といいたいのでしょうけれど、
これに関しては良くも悪くも、いつもどおりかと思います。
特段、意味のある糾弾決議などは出ていないです。

当然ながらあらゆる国家において、すべての国民の意思がひとつ、というわけではありません。
ドイツ国内でも"SPDの党首が"ワルシャワで片ひざをついた"パフォーマンス"に反対する
論調は多いですし、ポーランド国民の"全員"が知っているわけでは無いでしょう。

国家は、複数の意思によって成立する共同体ではありますが、
一方で個人の経験が完全に共有されることはありえません。
だからこそ国内のひとつの論説が、すべて国民が共有する共通認識とはなりえないのです。
よって、逆に自説の強化のために、ひとつ...続きを読む

Q質問です。朝鮮戦争においては北朝鮮軍兵士の捕虜と中国義勇軍の捕虜は休戦

質問です。朝鮮戦争においては北朝鮮軍兵士の捕虜と中国義勇軍の捕虜は休戦後どうなったのですか?北朝鮮軍捕虜は祖国に送還されたのでしょうか?それとも韓国に帰化したのですか?中国義勇兵は帰還したのでしょうか?帰還した後はどうなったのでしょうか?回答お願いします。

Aベストアンサー

 1953年、送還を希望する捕虜9万5千人が板門店(地名)から送還。
       送還拒否捕虜2万2千人は中立国送還委員会によって自由意志を確認後、希望地(南か北か)に。
       
 この9万5千人に、南北で捕まっていた北朝鮮兵士・韓国軍兵士・中国義援軍・国連軍が含まれるようです。
 南北の兵士以外は、北朝鮮を選ぶとか南朝鮮を選ぶとかは関係ないのでそのまま自国へ帰ったでしょう。

 ちなみに月並みですが、韓国wikiによると、
<共産軍側被害>
・中国義勇軍  戦死 13万5000名
        負傷 20万8400名
        失踪及び捕虜 2万5600名
・ソ連軍    戦死 315名
        負傷 500名

<国連軍側被害>
・米国     戦死 3万6940名
        負傷 9万2134名
        失踪 3737名
        捕虜 4439名
・豪州     戦死 339名
        負傷 1216名
        失踪 3名
        捕虜 26名
・カナダ    戦死 312名
        負傷 1212名
        失踪 1名
        捕虜 32名
・英国     戦死 1078名
        負傷 2674名
        失踪 179名
        捕虜 997名
・ニュージーランド  戦死 23名
           負傷 79名
           失踪 1名
・フィリピン  戦死 112名
        負傷 229名
        失踪 16名
        捕虜 41名
・トルコ    戦死 741名
        負傷 2068名
        失踪 163名
        捕虜 244名
・オランダ   戦死 120名
        負傷 645名
        捕虜 3名

 国連軍側は16カ国いましたが、上記以外の国の被害については載ってないです。
 「失踪及び捕虜」って、なんだかざっくりって感じですね。

 また、北朝鮮側というと中国義勇軍が有名ですが、実はソ連も「非公式支援国」として「部分参戦」していました。そもそも最初の6月25日の最初の南進軍に、「北朝鮮軍兵の軍服を着て参加した」という元ソ連軍兵士の証言なんかもあります。

 1953年、送還を希望する捕虜9万5千人が板門店(地名)から送還。
       送還拒否捕虜2万2千人は中立国送還委員会によって自由意志を確認後、希望地(南か北か)に。
       
 この9万5千人に、南北で捕まっていた北朝鮮兵士・韓国軍兵士・中国義援軍・国連軍が含まれるようです。
 南北の兵士以外は、北朝鮮を選ぶとか南朝鮮を選ぶとかは関係ないのでそのまま自国へ帰ったでしょう。

 ちなみに月並みですが、韓国wikiによると、
<共産軍側被害>
・中国義勇軍  戦死 13万50...続きを読む

Qポーランド人と仕事、うまくいかない・・・。

初めて質問いたします。失礼があればお許しください。

実は私、現在、ポーランドに単身出張しており、ポーランド人と仕事をしております。ポーランド人に仕事を教え、ポーランド人を一人前にするのが、私の仕事ですが、ポーランド人とのコミニケーションがうまくいかず、非常に困っております。 相手は女性ですが、プライドが高く私の言う事をあまり聞きません。特に女性の部下の前では・・・。
 ポーランド人の気質などに詳しい方、アドバイスいただけないでしょうか? もしも、同様の経験が有る方がいらっしゃれば、何か良い方法をご存知ではないでしょうか?
ご教授願います。

Aベストアンサー

あなたの言っていることが手にとるように分かります。
向こうはあなたに教えてもらう立場なのに、
それどころではないとい感じでしょう。

同じドイツでも旧東ドイツや、ポーランドなどは
第二次大戦での敗戦国になり、
共産主義の配下で辛酸を舐めてきました。
クラクフやグダンスクなどの地方はやや薄くなりましたが、
ワルシャワではまだその影響を色濃く感じるでしょう。
こういうことがあると、どうしてもひねくれた感じになってしまいます。
不親切、無愛想、意地悪の3拍子揃ってしまうのが現実です。

ポーランド民謡の「森へ行きましょ~う、娘さん~」
なんて口笛吹きながらのんきに教えましょう。
ただし、あまり馴れ馴れしくなるとかえってマイナスです。
彼らは日本人の速いペースで仕事を覚える気はありません。
ちょっと教えたら一休み。こんな感じです。
あと、リーダーの女性に一対一で教え、
部下には彼女から教えさせることも大切です。
部下の前であなたに教えられたことがうまく出来ないと、
プライドが高い彼女とはうまくいきません。
教えるときは優しくというより、淡々と教えます。

あなたの泣き言も分かります。
あそこまで打ち解けない人種っているかな~って程ですよね。
まだ対日感情の非常に悪い中国の方のほうがよっぽど親切です。
たまには息抜きしてくださいね。

あなたの言っていることが手にとるように分かります。
向こうはあなたに教えてもらう立場なのに、
それどころではないとい感じでしょう。

同じドイツでも旧東ドイツや、ポーランドなどは
第二次大戦での敗戦国になり、
共産主義の配下で辛酸を舐めてきました。
クラクフやグダンスクなどの地方はやや薄くなりましたが、
ワルシャワではまだその影響を色濃く感じるでしょう。
こういうことがあると、どうしてもひねくれた感じになってしまいます。
不親切、無愛想、意地悪の3拍子揃ってしまうのが現実...続きを読む

Q「カティンの森事件」について調べています

ニュルンベルグ裁判においてはナチス将校の証言などから「カティンの森の虐殺はナチスの仕業」と認定されました。しかし事件発覚直後、国際赤十字が調査を行っていますが、この調査結果ではソ連とナチスのどちらの仕業であると結論づけられていたのでしょうか?
又、1990年にゴルバチョフが「ソ連の仕業であった」と認めていますが、認めざるを得なかった理由はやはり国際赤十字の調査結果のためだったのでしょうか?
できれば情報源なども併せて示していただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まず、事件発覚直後の調査について。。。
1943年4月、ナチスがカティンの森の大量の虐殺死体を発見すると、世界に調査団を派遣するよう呼びかけます。
この呼びかけに対し、ドイツ以外の12カ国から成る国際調査団、ポーランド赤十字の医学調査団、ドイツ法医学調査団の3団体が調査を行っています。
これらの調査により、
(1).死体の死亡埋葬時期が1940年春~夏頃と判明したが、ドイツがこの地域を占領したのが1941年の夏。
(2)死体が所持していたコゼルスク収容所の新聞の日付が1940年4月発行のものが最後だった
(3)死体に残された銃剣による刺し傷から銃剣の形は四角であり、当時ソ連軍の使用していた銃剣と一致する
(4)死体を縛っていたロープがソ連製であった。。。。
等が判明しました。

これに対しソ連は、1943年9月にこの地を奪回するとすぐさま独自の調査を行っています。
この調査結果では、死亡推定時期は1941年夏から秋にかけてである、としています。
しかし、同行した外国の特派員によるとかなりずさんな調査であったことが分かっています。

ニュルンベルグ裁判では、ソ連はナチスの仕業であるという決定的な証拠を示す事が出来なかったため、ナチスの責任を追及することなく結局うやむやになってしまいました。ナチスの仕業と認定されたわけではありません。

ゴルバチョフが認めた理由
ここからは私の憶測です。。。
当時ソ連は社会主義を捨てて資本主義に移行していた時期です。社会主義を捨てると共に暗い過去(スターリン時代)も清算してしまおう、と考えたからではないでしょうか。

参考文献:「カティンの森の夜と霧」(JKザヴォドニー、読売新聞社、1963年)

まず、事件発覚直後の調査について。。。
1943年4月、ナチスがカティンの森の大量の虐殺死体を発見すると、世界に調査団を派遣するよう呼びかけます。
この呼びかけに対し、ドイツ以外の12カ国から成る国際調査団、ポーランド赤十字の医学調査団、ドイツ法医学調査団の3団体が調査を行っています。
これらの調査により、
(1).死体の死亡埋葬時期が1940年春~夏頃と判明したが、ドイツがこの地域を占領したのが1941年の夏。
(2)死体が所持していたコゼルスク収容所の新聞の日付が1940年4月発行のものが最後だ...続きを読む

Qどうしてポーランド侵攻で開戦?

どうしてポーランド侵攻で開戦?

第二次世界大戦の直接的なきっかけは、ドイツによるポーランド侵攻だと教わりました。
ところがよく調べてみると、ポーランドに攻め込んだのはドイツだけでなく、ソ連やスロバキア、リトアニアも含まれるようです。

ポーランドとの互助協定を根拠に英仏がドイツに宣戦したのなら、ソ連に対しても宣戦する義務があったのじゃないですか?

どうして英仏はソ連に宣戦せず、あまつさえ、後にかの国を連合国に迎え入れたのでしょうか?

回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

時系列的な意味でも考える必要があると思います。

ドイツのポーランド侵攻が9月1日、英仏の対独宣戦が9月3日、ソ連のポーランド侵攻が9月17日です。
また、ポーランドに対して独立保証を与えたのが3月31日、独ソ不可侵条約の締結は8月23日です。

その一方で、9月3日に宣戦布告をしたものの、フランス軍は9月5日にザールラント地方に少しばかりの攻撃を加えただけで、ほとんど「座ったままの戦争(Sitzkrieg)」状態でした。9月27日にヒトラーは陸軍に「黄色作戦」と呼ばれる西部戦線侵攻作戦の作成を命じます。作戦自身は10月27日に固まっていますが、ヒトラーが実際に転進したのは1940年5月10日です。この転進は、西欧諸国を混乱させ、オランダ、ベルギー、フランスまでドイツは大きな苦もなく占領していきます。パリ占領が6月14日と一ヶ月あまりで占領してしまったことを考えても、西欧諸国の「宣戦布告」が形式的なものであったことが分かるでしょう。

ポーランドに対する独立保証は、拡大政策を取る独伊枢軸に対する牽制であったと考える方が適切です。(1939年4月13日にはルーマニア、ギリシアに対して同様の独立保証を与えています) この時点で英仏は独ソ不可侵条約とそれに付随する極秘ポーランド分割計画を予測することは不可能です。ドイツがポーランド侵攻したことに対して、保証履行のための対独宣戦は行ないましたが、ソ連に対する宣戦布告は恐らく独ソ両国との全面戦争になる不利を避けるために見送られたものと思います。

この背景には、ナチが反共政策を政権獲得以前から推進していること、ヒトラーの国家計画が東方進出を基盤としているため、独ソ同盟が一時的なものであり、遅かれ早かれ独ソ対立が再発すると予想していたことも挙げられます。ソ連に対しても宣戦布告をしてしまえば、この独ソ対立再発の芽を摘んでしまうと考えたはずです。

以上、簡単ですが。

時系列的な意味でも考える必要があると思います。

ドイツのポーランド侵攻が9月1日、英仏の対独宣戦が9月3日、ソ連のポーランド侵攻が9月17日です。
また、ポーランドに対して独立保証を与えたのが3月31日、独ソ不可侵条約の締結は8月23日です。

その一方で、9月3日に宣戦布告をしたものの、フランス軍は9月5日にザールラント地方に少しばかりの攻撃を加えただけで、ほとんど「座ったままの戦争(Sitzkrieg)」状態でした。9月27日にヒトラーは陸軍に「黄色作戦」と呼ばれる西部戦線侵攻作戦の作成を命じます。...続きを読む

Qヴィットリオ・ヴェネトの戦いのオーストリア軍と1945年のソ連進攻に際しての日本軍

1918年の第一次大戦終結時の、イタリアが、休戦して武装解除を待っているオーストリア軍に対して大勝利したのは、抵抗がなかったからでしょう。なぜ1945年の日本軍のように、武装解除を待つ状態でも抵抗したようにしなかったんでしょうか?抵抗していたら、イタリアは失地を回復できないまま休戦を迎えることになり、戦後交渉がやりやすくなるのではないでしょうか。内部崩壊して軍そのものが消滅していたのでしょうか?

Aベストアンサー

ヴィットリオ・ヴェネトでのイタリア軍の勝利は、オーストリア軍の油断と、既に軍の撤退が開始されていた為です。

オーストリア政府の休戦の決定により、オーストリア軍は、連合国軍に休戦を要請し、既に一部の部隊は撤退を開始していました。
当時、オーストリア国内は各民族が独立を求めており、混乱状態にもなっていました。そうした状況と長い戦争による厭戦気分の為、オーストリア軍の兵士は戦意が低下し、早く帰郷したいとも願っていました。また、指揮官達は軍の帰還による国内安定が早期に必要と判断していました。
その為、オーストリア軍は、占領地からの撤退行動を開始していたのです。イタリア軍が休戦締結後に攻撃を開始してくるとは思っていませんでした。
戦意が無い上に、休戦が結ばれたと思い、その上撤退に入っていたところを、攻められた結果があの敗北です。

この戦いに兵士として従軍していたイタリアの若き文学者プレッツォリーニは、あまりにもヴィットリオ・ヴェネトの勝利がイタリア軍によって過大に飾られた為に、真実を民衆に伝える為に、1920年にその名も「ヴィットリオ・ヴェネト」という本を執筆し世に出しています。
私は読んでいませんが、そこには実際の戦いは、もはや戦意がなく国内に撤退しようとしていたオーストリア軍にイタリア軍が襲い掛かったものであり、軍が喧伝しているような華々しい戦いで、戦果をあげたものではないと指摘しているそうです。

なお休戦を無視して攻撃に出たイタリアの意図は、戦後を睨み連合国の一員としてより大きな発言権や権利を主張する為に、大きな勝利を上げておきたかったからだと言われています。

ヴィットリオ・ヴェネトでのイタリア軍の勝利は、オーストリア軍の油断と、既に軍の撤退が開始されていた為です。

オーストリア政府の休戦の決定により、オーストリア軍は、連合国軍に休戦を要請し、既に一部の部隊は撤退を開始していました。
当時、オーストリア国内は各民族が独立を求めており、混乱状態にもなっていました。そうした状況と長い戦争による厭戦気分の為、オーストリア軍の兵士は戦意が低下し、早く帰郷したいとも願っていました。また、指揮官達は軍の帰還による国内安定が早期に必要と判断...続きを読む

Qポーランドって強くないのですか。

ドルトムントにポーランド3人衆がいます。
レワンドフスキ、ブワシュチコフスキ、ピシュチェクです。

レワンドフスキはマンUへ、ピシュチュクはレアルに
ブワシュチコフスキはリバプールに行くだろうと
ポーランド監督は予想しているそうです。

ポーランドのFIFAランクはかなり下ですが、
これって日本と同じか強いのではと思っていました。

そこでユーロはポーランドがダークホースと言ってたのですが、
昨日の試合は審判に有利に判定していてもらったに関わらず、
レワンドフスキは最初に点を獲った後は消えてるし、
結局ギリシャと引き分けてしまいました。
同組のロシアが快勝したのとは対照的です。

2ちゃんねるではボロクソに叩かれました・・・
ポーランドって強いんでしょうか。そうでもないんでしょうか。

Aベストアンサー

以前のポーランド黄金期ほどではないと思いますけどね。

ポーランドの黄金期はラトー、ディナ、ガドハのいた1970-80年代でしょう。この当時、不運なのはクライフ率いるオランダ、ベッケンバウアー率いるドイツの全盛期と被ってしまったために印象が薄くなってしまいました。

ユーロはワールドカップ中間年と言うこともあって、ワールドカップでは駄目でも活躍する国が出てきます、また、以前はユーロの年はオリンピック年ですから、ステートアマによるフル代表ををオリンピックに出すことが出来る社会主義国が有利という時代もありました(代表的なのはゴルゴンやオンドルーシュのいた当時のチェコスロバキアなど)。

で、現時点の実力はちょっと得体の知れないダークホースだけど優勝候補じゃない。昔でいえぱハンガリーのポジションでしょう。

Q終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機

終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機関から文書や資料を貨車28両でモスクワに運んだとされている、と数年前にある雑誌で読みました。
これらの文書・資料は、ソ連邦の崩壊前後から公開されるようになり、日本の研究者がモスクワ詣でをして、調査・研究しているとのことです。
これらの文書・資料は、今となっては「史料」としての価値があると思いますが、ロシアの言い分は「戦利品」らしいです。

これらの文書等を返還要求できる権利が日本にはあると思うのですが、法的な根拠はあるのでしょうか。
日本政府は、ロシアに対して公式に返還を要求したことはありますか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 1956年の日ソ共同宣言で全ての請求権を放棄していますが…。
 (返還要求は出来ない筈)

日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言
     (略)
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。
     (略)
   http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19561019.html

 勿論「ロシアが好意で返します」なんて事が絶対に有り得ないと言う訳では有りません…。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報