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私の質問を読んで下さりありがとうございます。

ピンポイントで聞きます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD% …
の、本能寺の変後の諸将の動向に

羽柴秀吉
”秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。”

とありますが、今まで戦っていた毛利家と急遽和平を結ぶ事に大変違和感を感じています。

他の歴史書物も読んだ事があるのですが、かなり短文で、やはり”急遽和平を結び、折り返した”としかありません。

私が、毛利側ならば、そんな和平には応じません。どういった状況で、毛利家が和平を結ぶにいたったのでしょうか。

毛利家にとっては、秀吉との和平は”棚からぼたもち”だったのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

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A 回答 (6件)

司馬遼太郎「播磨灘物語」をお勧めします。

これで、あなたと同じ疑問が解けました。
秀吉の中国戦略のキーパーソンである黒田官兵衛が主人公の物語です。 織田信長勢力の時の勢いを背景に調略をまず行っていくのですが、毛利は備中高松の戦いでは領地が半分になってもいいから講和を成立させたいと思っていたようです。清水宗治の犠牲だけで毛利家は救われたと安堵したようです。また、もともと毛利家は元就の遺訓をよく守り京へは出たくなかったようです。毛利家の参謀である両川の一人である吉川元春は追撃をしたかったようですが、山陽道の責任者であった小早川隆景が一時的に京へ出られたとしてもそのうち毛利家はつぶれるだろうという大局観でひきとめたようです。
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毛利家の状況は見かけよりは良くなかった。

第一に瀬戸内海の制海権は織田に奪われていた。
吉川と小早川とは健在だったがこれらのどちらかがつぶされれば、毛利は全て崩れる状態だった。(織田氏ほど束ねは強くなかったので、不利になればあっという間に寝返りそうな家臣が多かった。)
織田信長が参戦した場合、先般の武田氏の運命と同じく家そのものを完全に滅ぼされる可能性が強かった。
主力を備中高松の近辺に集中させていたのと、先ほどの後ろの不安が強いということから、秀吉の和平案は「背に腹は変えられない」状況だった。明智の謀反を知った後でも秀吉を追撃しなかったのは、それだけ伸びきった戦線を維持できる余力が毛利側には残っていなかった。
ということでしょう。
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お家の一大事になると たたき上げの創業者を懐かしがるのもわかりますね


3人の息子どもでは どうにもならない
領国各地の有力国人地侍への掌握に ほころびが見えてきましたね
ほころばしたのは秀吉の調略ですが この備中高松城攻城戦の前に
上月城 鳥取城の攻防戦をへて この三兄弟は上月城で尼子を叩いて面目をほどこしましたが 第三戦の備中高松城攻防戦のころには
毛利の水軍にガタが出始めましたね 何を意味するかといえば
毛利の強さのひとつは水軍にあるわけでここに抜け目なく秀吉は手を入れたわけです 織田の強さを 水軍だからわかっていたはずですよね
本願寺との戦いの中で信長の鉄の大船をしっているわけです 
もう勝てないという感覚は村上水軍におおくあったと思います
この戦力の離反は 瀬戸内海山陰日本海での制海権の衰弱につながり 毛利の後方を突かれる恐れがてでくるわけです 一大事なんですよ
どこまで秀吉の調略の手が伸びているか 毛利にしてみれば配下の盟友たちには決して疑心暗鬼にさせてはならないわけで それがまた 憶測を生んで うわべはともかく 実は相当ガタガタだったようです
攻撃こそ最大の防御なのに どうもその辺がいかない 
はじめから専守防衛 三国協力体制ですからしかたありません
まあこの時代 どの大名であっても軍事行動において緻密な連係ははじめから取れませんから 事実です すべての行動に時間がかかるということです
秀吉の後を追うという軍事行動もそうは機敏にできません
あなたは平成ですから無理はありません
さっさと追撃 なぜしないの?
信長が出てくることは 遅かれ早かれまちがいない状況
そのときは完全敵対になり 前面戦争になります しばらく凌げても
離反者がつぎからつぎ 地力で押されて 
ついには落としどころはお家の消滅だけとなるでしょう
ですから 落としどころを探るのは 戦いをはじめるときの当然の戦略のうち
信長が出てくる前に まあまあの条件なら 手を打って 仕切り直し
戦略の練り直しをしたかったと思いますよ  
信長が本当に死んだのか 情報は本当か 確認のしょうがないじゃないですか 電話があるわけじない
結果的に正解だったと 




 
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補足


3→5と条件が緩和されたことが重要だと言われたのは、領国統治の実態として、大名は部下に激しく説明義務があり、うまく説明できないと追放されてしまうくらい大名の権力は弱かったと言うことがあります。
時代は少しさかのぼりますが、浅井家では、久政が六角氏への対応が弱腰だとして、息子の長政が六角氏に大勝した段階で追放されています。また、武田家も同様に当主が追放されています。
逆の資料としては、島津家が太閤検地を受けた後で、(確か)上井覚兼の日記に「太閤様の威を借りて本家が強くなった」などと言うことが書いてあります。京枡により、それまでの領地が石直しになり、増えた部分が、太閤直轄地と島津本家の領地になりました。
各家臣は実質的な減棒になったのに対して、本家が強くなったわけです。それまでは、どこの大名家も有力国人の連合体の中の一番有力者が大名という程度でしたが、太閤検地によって、圧倒的に強くなった。

この状況を考えれば、当時の毛利家本家も他の国人層から、「おめーーちょっと弱気ジャン?俺たち、個別に織田方についちゃうよ、宇喜田もしてるからさぁ」という状況があったと思われます。
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毛利家からみた状況


1:宇喜田家のケース
滅ぼすべしという信長の意向を秀吉は存続させるに方針転換させた実績がある。
2:武田家のケース、朝倉家のケース
信長自身が出馬した場合、存続は許されない。
3:6月3日の交渉前の条件
未だ織田勢の実効支配がされていない、出雲=石見から安芸=備後ラインまでを割譲せよという条件
4:信長出馬情報は到達していたはず

5:条件緩和
すでに毛利家から離脱気味の因幡=出雲から備中=備後ラインになった。

これらの条件から毛利家として考えると
「秀吉が信長カードを切って、過大な要望を出してきたが、そろそろ、落としどころを求めて来たに違いない」と判断したのではないでしょうかね。
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私の知識では、もともと和平交渉をしており、条件交渉の最中だったはずです。


ここからは本当かどうかわかりませんが、信長の到着を待って和平を決めることで、秀吉が信長の機嫌を取る(「殿のおかげで毛利が条件をのみました」)ために、交渉を引き延ばしていたという話も読みました。

戦っている最中にいきなり和平を持ち出して1日で和平は無理でしょう。
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この回答へのお礼

>信長の到着を待って和平を決めることで、秀吉が信長の機嫌を取る(「殿のおかげで毛利が条件をのみました」)ために、交渉を引き延ばしていたという話も読みました。

おお。そういえば、私もそんな話を読んだ事があるような気がします。

>戦っている最中にいきなり和平を持ち出して1日で和平は無理でしょう。

ですよね。すると、回答者様の仮定も真実味をおびますね。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/25 14:44

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