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こんにちは。
南斗水鳥拳で頭を正中線から真っ二つにされた人は、どんな映像を見ているのでしょうか?

とても俗な言い方をしてしまいましたが、ご存じの通り、いわゆる脳分割問題です。
このテーマに興味はあるのですが、何せ難解で知られる哲学という分野、どこからどう考えたらいいのかよく分からず、ご助言頂ければと思い投稿しました。

もし長文レスがご面倒でしたら参考文献だけでも構いません。(我が侭な話で申し訳ないですが、なるべく平易なのをお願いします・・・)
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (1件)

実際にどう見えるかは犠牲者に聞いてみるしかないのですが


ひでぶ!とか、うわらば!しか答えてもらえそうに無いので
以下は脳科学からの推論になります。



まず、負荷を与えたときの脳の働きが局所的な反応を示すことから
脳は見たり、思い出したりする場所がそれぞれ決まっていると
考えられています。しかしながら、事故で記憶を司る脳の部分を
欠損した人が物を覚えられないか?というとそうではなく
他の脳の部分が代わりに記憶を行う、という実験報告もあります。

何故こういうことが生じるのかというと、つまるところ記憶とは
「神経回路のダイナミックスをアルゴリズムとして神経回
路のニューロン間の結合の重み(シナプス荷重)の空間に外界の
時空間情報を写し取ることによって、内部表現が獲得される」
と定義するからです。

つまり、記憶や認識とは脳の連結によって生じます。一方から
スパイクが送られた場合、受け取った側で処理が行われることで
この連結が強化され、初めて意味を持つのです。この仮定の上で、
重視されるのは脳の連結です。
(ヘッブの法則と呼ばれるものの一つです。)












ここまでのかったるい長文は読み飛ばしていただいてもokです。
以上を平たく1行で言い直すと

「脳は繋がって、初めて意味を持つ」

のです。結論として、脳が4分割された時点ではつながりが消えて、
意味のある情報と認識できなくなります。一方で、分割された後
生き延びることができれば、いずれ脳のつながりが出来て
元通りの働きをするはずです。
(でもアニメ版はちぎれた死体が蒸発してたような・・・・?)







さて、哲学思想史上の脳分割についてなんですが
実は脳(松果体=脳の中心)を魂の座と明確に定義したのは、
近代哲学の祖、デカルトのようです。
一方、それまでのキリスト教支配下の社会では、手足の欠損すら
人間でなくなったとして差別の対象になっていました。
(もちろん権力者は別ですが)



17世紀から連結部に着目していたのは流石デカルト先生だなぁとは
思うのですが、いかんせん当時の医学では脳を欠損した人間を生き延び
させることは難しかったので、連結そのものには着目することは
難しかったのかもしれません。

もちろん、結果として見れば松果体が破壊されていれば前述の理屈から
映像は意味のあるものとして認識できないはずなので、
近代哲学の視点からも、科学の視点からも
「今のようには見えない」が質問の答えとなると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
風邪で倒れておりまして、お礼が遅くなってしまいました。

>実際にどう見えるかは犠牲者に聞いてみるしかないのですが
>ひでぶ!とか、うわらば!しか答えてもらえそうに無いので

この一文でいきなり吹いてしまいました。ユーモアのセンスがおありですね(笑)

脳の認識やヘップの法則に関してはこれからさらに自分で勉強してみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/27 23:43

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