プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

昨日、確実に見てみぬふりをしなければ間違いなく好転していたのにおろかにも見てみぬふりをしてしまいました。
見てみぬふりをしたのは情けないことにぼーぜんとしていた、
時間をとられるのが嫌だった、行動したときのリスク(極々わずか)
が嫌だった。という理由です。
幸せはすでに諦めていて欲を持たず感情を持たないこと、
をしていたらいつの間にか自分のことしか考えない
人間になっていました。

いじめを見ていてもとめない、ヤクザが暴力を振るうところを
みても通報しない、以前事件になった電車で女性が襲われていても見てみぬふりというのをおそらくしてしまいそうです
通報すらできないと思います。

自分が本当に情けないです。
あるのは偽善と損得勘定だけ・・
リスクを考えてなお立ち向かえる方、もしくは
自分のなにかを犠牲にしても他人に優しさを分けられる方
、なんでそのようなことができるのでしょうか?
教えてください。
 
打算なき優しさと行動力をもち二度と見てみぬふりを
なくしたいが社会をみているとどうしても優しさは損をし
自分が豊かでないうちはそんな心の余裕ができません。

冤罪、足元を見る、弱者に強く強者に弱い、サービス残業、
食品偽装、年金、きりがないです・・

自分を守るのは自分だけ、余裕があれば他人も守れるけど・・
他人の心を考えて思いやれば、付け込まれるだけ。
他人を助ければ回りまわって自分を助けるなんていうのは御伽噺だと思ってます。
(人間不信の元凶 ↑)

A 回答 (6件)

そうだなあ。


立ち向かえる方、優しさを分けられる方、はおとぎ話の存在だと私は思う。
どこをどう間違ったのか、おとぎ話から出てきて現実のものとなっている。
彼らは、またおとぎ話となって伝えられていくのだろう。

人を助けた分が、自分に戻ってくる、と言う方程式はない。
これもおとぎ話だ。
つまり、戻ってくる見返りがあって助けるのではないと言う事。

守りたいものがある。
その守りたいものを守っていればそれでいいと思う。
自分とか、他人とか、ではなく、ただひたすらに守りたいもの。

自分で自分を守れなくなった者が、他人を守りたくなるのかも知れない。
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  ◆死ぬか死なないかという選択の結果、死ぬにしても死なないにしても、どちらもそのほうがより楽だからそうするだけであるかもしれないし、



  ◆処世術を駆使するのも、できるだけ使わないようにするのも、そのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、

  ◆共同上の主観に対して無批判であることも、そこで採用されている独断を批判することも、ともにそのほうが楽だからそうするだけであるかもしれないし、

  ◆働くのは、働かないことによって得られる、飢えや他者からの攻撃を恐れる、あるいは働かないことは非道徳的であるという先入見を持っているがゆえに、働くほうが楽だと思うからそうしているだけかもしれないし、

  ◆労働をファッション化、ステータス化するのは、労働による苦痛や、労働しないことによって得られる苦痛を考慮した結果として半強制的に労働させられているという思いを持つに至り、その思いを源泉とする苦痛を取り除こうとしているだけであるかもしれないし、

  ◆その社会の多数派によって苦労ならびに/あるいは苦痛と見なされている何かを常に選択する者は、そうするほうが楽とされている方向に行くよりは苦しくないと感じている、したがって多数派の価値観における苦痛のほうが楽であるからかもしれない。

  これに対しては、たとえそうであったとしてもそのような性質を絶えず戒めることが重要なのであるとの反論もあろうが、上記の考え方を適用すればその反論を行うこと、あるいは行わないこともまた楽な方へ進んだ結果であると言うことができる。

というわけで、見て見ぬふりをするほうがより苦痛であると思うようになればしないようになると思います。
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私も質問者さんとかなり近い思考の持ち主ですが、もっと面倒くさがりです。



「見てみぬふり」してしまったら自分が後でグダグダ考え込んでしまうのが分かっているので「考えるより動け」と先ず動きます。
そこでは当然、それこそ必死なので損得だとか計算している余裕はありません。

幸いな事に人力による被害は骨折数回程度で今までは済んでいますが、そのうち命を落とす事もあるんだろうなぁ。くらいは考えています。

でも、止めたらきっと鬱に入るのが分かっていて、そっちの方が自分の命の危機です。

自分には何も返っては来ないとは私も思っていますが、私のような馬鹿のおかげで私の配偶者、子ども達、その子ども達の誰かが救われる事も有り得るので、それでヨシと思っています。

で、私のことは置いておいて。。。

状況は分かりませんが質問者さんの行動は間違っていなかったのではないですか。
頭の中で考え得る範囲外のリスクが潜んでいて知能以外のなにかがストップをかけたのではないでしょうか。
私もそれに近いものを感じる事がありますが、そういう時は想定以上の被害に遭っている事が多いです。
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 質問者さんが何を見て見ぬふりしたのかが分からないので答えにくいですが、一口に「見て見ぬふり」といっても私的には2種類あって。



・学校や会社内での苛めや不正
  (アクションを起こすにも匿名性が保たれにくく組織絡みで、自分に不利益をもたらすもの)

・街中でヤクザが暴力をふるったり、病人が倒れてたり

 後者の場合、何もヤクザの喧嘩を肉弾で仲裁しろというわけではないし、アクションを起こす事で失ったり不利益を被る事は殆どないと思うのです。
 幸いヤクザは警察、病人は救急車とジャッジして引き継ぐ相手はほぼ決まっているので、「匿名でしかるべき所に一声かけるだけ」で事足りるので。

>他人の心を考えて思いやれば
 というややこしい内容にまで及んでいる事を考えると、前者なのですかね?もし後者だったら、深く考えず、自分の負担にならない程度で続けていく事をお勧めします。

 前者なら・・・。多分「見て見ぬふりをせず、アクションを起こす」のは難しいので、「荷担しない」というアクションを取ると思います。
 それだけでも十分だと思うので・・・。

 余談なんですが、女性が電車で襲われて・・・の事件。
 私、昔、そーゆープレイのカップルを目撃した事があり、強姦かと思ってとても恐かったし気持ち悪かったし、何より通報すべきかどうかの葛藤が凄かった。結局は露出カップルのプレイだったんですが、腹が立って泣けてきました。
 もし本当に強姦でもちゃんとアピールしてくれない限り、通報出来ないと思います。
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私も以前はそのような感じで悩むこともありました。


しかし、意外な経験で光明を得られました。

その経験は「デイトレード」です。デイトレードというのは1分1秒の単位で株の売買を繰り返して利益を上げようとするものです。
当然、すべて儲けられるわけでもなく、またたく間に大損することもあります。
このデイトレードは非常に精神に負担をかけます。その原因は、結果がすべて見えてしまうことです。あのとき売っておけば儲かった、買っておけば儲かったと、過去のデータは山ほど見ることができ、実際に自分が売ったすぐ後にすごく値上がりしてしまうことも多くあります。

このデイトレードを長くやっていて、後悔もかなりのものでした。そして、何年か続けていると考え方や感じ方が突然別の方向に行くようになりました。
それは、あの時儲けられなかったのは自分がそれを決断できるだけの状態になかったと自然に感じるようになったのです。つまり、そのときの周囲の状況や自分の経験などではそのように振舞うほかにありようがなかったということです。
これだけだと運命論者的な感じですが、もうひとつ。平素の研究や訓練、思索などでこの行動を変えられることを現実をもって目の当たりにしたのです。

これが、思いのほか私の多方面の将来に重大な変化をもたらしました。
それは、平素に良い決断を訓練をしておかないと、望む決断をすることができないということです。
つまり、大きなリスクを冒して人助けをする『決断』を得るためには、それまでにそのリスクを十分受け止める訓練をしておかなければ、その決断は行われないのです。

「言行一致」という言葉があります。発言と行動が伴った人は素晴らしい人と評価されます。素晴らしいと評価されるのはなぜかというと、めずらしいのです。めったにいません。
ひとは、善行をしたいと願っていてもその場で、見て見ぬふりという望まない行動を決断してしまいます。これは、その場においては必然です。かならずできません。なぜなら、訓練をしていないからです。
逆に言うと、訓練をしておけば必ずできるようになります。必ずそちらを決断するからです。

ですから、あなたのように偽善と損得勘定を感じているのはおそらく大多数の人すべてだと思います。みな、良い行動をしたがっています。することを望んでいます。しかし、望むだけではできないのです。

では、『訓練』とはどうかというと、これがけっこう簡単です。リスクの小さいときに善行をしておけばよいのです。誰も見ていないところでよいことをするのが効果的です。いきなり公衆の面前で善行に及ぶのは困難です。ゴミをひそかに持ち帰って処分したり。歩道がないところでは速度を抑えて運転したり。という具合です。
最近私は運転中に突然停止してゴミを拾えるくらいになりましたし、平日の暇な時間に1人で不法投棄の分別をするくらいは平気でできるようになりました。でも、やっぱり周りの人は迷惑がったり偽善だと思っていると感じますが、どうでもよくなります。

ということで、あなたはまさに善良に生きたいと願っています。あなたは今、大多数の人とおなじように「言行不一致」な人です。
ここで、訓練をしないとあなたが嫌うような大多数の他人と同じ人になってしまいます。でも、別にそれでも良いのです。人間は普通そんな感じです。悪いとは思いません。なぜかというと、善良になりたいと思う時点で訓練は始まっているので、みんな善行をしています。ただ、より大きな善行をしたいと思いすぎて疲れているだけなのです。
あんまり疲れすぎて人を攻撃してしまうのでしょう。
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人はもともとそんなにキレイにできていないので、偽善や嫉妬があって当たり前ではないですか?



「私は無償の愛を捧げます」的なこと言う人が新興宗教家の中にいますけど、それが本当ならその人はもはや人間じゃないと思います。

たまに、偽善でも気まぐれでも自己満足でも、いいことができればそれだけですばらしいと思いますよ。
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