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宇治拾遺物語の中で、「これも今は昔、田舎の児の比叡の山へ…(中略)…うたてしやな。」という古文の、最後の「うたてしやな」は、誰の立場にたっての見解でしょうか?作者でしょうか、僧でしょうか?

それと、その文中にある「桜のめでたく咲きたりけるに」の現代語訳は、「桜が見事に咲いているところに」でよいのでしょうか?
それとも、「桜の立派に咲いているところに」でしょうか?

どちらでもよいので、わかった方は、教えてください!

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A 回答 (2件)

語り手のように思います。


宇治拾遺物語の全体に、生き生きとした語りが感じられます。とりわけ助詞のつかいかたなどにです。
うたてし・やな(情けないことよなぁ/嘆き) もそうですし、咲きたり・ける・に(咲いていたのだったが/回想または伝聞) もそうです。
叙述がナレーションでできあがっているのですから、登場人物である僧つまり三人称の気持ちが「うたてしやな」のように表されているとしたら、自由話法になってしまいますが、全体としてそういう話法の傾向のない素直な書物と思っています。
めでたしは愛でるべきであるの意味だそうですから、
立派にでも見事にでもすばらしくでも美しくでも良いのではないでしょうか。
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すみません、あくまで素人考えということで・・・



「うたてしやな」はいろいろ意味があるようですが、この場合『気にくわない、情けない』といったやや否定的な意味にとるようですね。
僧が期待していた風流な答えではなく、現実的な答えが返ってきてがっかりといったところでしょうか。ですから僧の感想ですね。

「桜のめでたく咲きたりけるに」は「桜が見事に咲いているのに・・」でいいのではないでしょうか。
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Q宇治拾遺物語の中の・・・

宇治拾遺物語のなかにこんな文があるんですが・・・
“これも今は昔、ゐなかの児の比延の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風邪のはげしく吹きけるを見て、この児さめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、「などうかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かくほどなくうつろひ候ふなり。されどもさのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らむは、あながいちにいかがせむ、苦しからず。わが父の作りたる麦の花の散りて、実の入らざむ思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。”
カギかっこのあたりから意味があまりとれません・・・。それと本文中に「うつろひ候ふなり」の『候ふ』と「さのみぞ候ふ」の『候ふ』はそれぞれ丁寧語と謙譲語や補助動詞のどれすか?わかる方、ご説明の程、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 「カギかっこのあたり」というのは、「などう(この『う』は原文にはありません)かうは……」あたりからですか?
 まず引用本文にいくつか間違いがあるので、原文を引用しなおします。

「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かくほどなくうつろひ候ふなり。されども、さのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らむは、あながちにいかがせむ、苦しからず。わが父の作りたる麦の花の散りて、実の入らざらむ思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。

 上の部分の口語訳

「どういうわけで、こんなに泣いていらっしゃるのですか。この桜の花の散るのを惜しくお思いになるのですか。桜は頼りにならないもので、このようにすぐに散ってしまうものなのです。けれども、それだけのことなのです」と慰めたところ、「桜の花の散るようなことは、しいてどうしましょうか、いや、どうすることもできません、(そんなことには)不都合はありません。私の父が作っている麦の花が(この激しい風で)散って、実が入らないだろうと思うのが辛いのです」と言って、しゃくりあげておいおいと泣いたので、情けないことであることよ。

 それから、もう一つの質問ですが、「うつろひ候ふなり」の「候ふ」は、動詞の連用形に接続しているから、丁寧の補助動詞です。「候ふ」は、補助動詞の時は謙譲語にはなりません。一方、「さのみぞ候ふ」の「候ふ」は、「さ」という副詞を受けているので、本動詞「あり」の丁寧語ということになります。口語訳すると、「それだけでございます」の「ございます」に相当するので、補助動詞のような訳になりますが、文法的には副詞を受けているので、本動詞とみなされているようです。

 「カギかっこのあたり」というのは、「などう(この『う』は原文にはありません)かうは……」あたりからですか?
 まず引用本文にいくつか間違いがあるので、原文を引用しなおします。

「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かくほどなくうつろひ候ふなり。されども、さのみぞ候ふ」と慰めければ、「桜の散らむは、あながちにいかがせむ、苦しからず。わが父の作りたる麦の花の散りて、実の入らざらむ思ふがわびしき」といひて、さくりあげて、よよと泣...続きを読む

Q『古今著聞集』「母子猿」の品詞分解について

本文中の助動詞「む」についてなのですが、
・「すでに木より落ちむとしけるが」
・「おのが傷を負ひて土に落ちむとすれば」
の「む」は推量の助動詞の終止形で良いでしょうか。
文法書には「連体形」となっていて、どちらが正しいのかわからず…
お分かりになる方、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

分かる範囲で。
格助詞の「と」は、一般に文法の教科書等には接続が体言、連体形と書かれていますが、引用句を受ける場合、特に会話文等を受ける場合は、「と」の前で一文が終了していますので、「と」の前の活用語は終止形であることが多くあります。
この例文の「む」ですが、格助詞の「と」の直前の単語で、一文の終了する部分ですので、「む」が推量や意志の意味であれば終止形ではないかと思います。(前文を見ないと正確ではないのですが、両方の例文とも「む」は意志か推量の意味のようです)
ただし、「む」を連体形となる場合は次の3つの可能性が考えられます。
「む」の後に体言が省略されている場合。(この二つの例文では体言が省略されているようには思えませんが。)
文の途中に係助詞の「ぞ」「なむ」「や」「か」があり、係り結びの結びになっている場合。
「む」を仮定の意味にとる場合。推量の助動詞「む」には仮定(と推量)の意味もあり、その場合には連体形とされているからです。しかし、仮定の場合は、「む」の下に来るのは、体言や助詞の「は」「に」「には」などが多いのです。また、「む」のあとが、「が」や「すれば(已然形+接続助詞の「ば」)」で、両方とも確定条件になっています。つまり、「む」を仮定にとると、仮定の後に確定条件が付くというあまりありえない形になります。

結論からするとこの両方の例文の「む」は、終止形だと思います。(前の文を見ないといけないのですが)





文法なのでごちゃごちゃと理屈が多くてすみません。

分かる範囲で。
格助詞の「と」は、一般に文法の教科書等には接続が体言、連体形と書かれていますが、引用句を受ける場合、特に会話文等を受ける場合は、「と」の前で一文が終了していますので、「と」の前の活用語は終止形であることが多くあります。
この例文の「む」ですが、格助詞の「と」の直前の単語で、一文の終了する部分ですので、「む」が推量や意志の意味であれば終止形ではないかと思います。(前文を見ないと正確ではないのですが、両方の例文とも「む」は意志か推量の意味のようです)
ただし、「む...続きを読む

Q古典の現代語訳

『宇治拾遺物語』や『竹取物語』『伊勢物語』『平家物語』などの古典の現代語訳テキストでおススメのものはありますか?シリーズでほぼすべての教科書に出てくる程度の古典の現代語訳ってありますか?

Aベストアンサー

三省堂 新明解古典シリーズ (参考URL)
中道館 古典新釈シリーズ
旺文社 古典解釈シリーズ (文法全解)

これらは学習参考書なので、品詞分解や語釈がていねいに書かれています。かならずしも全文ではありませんが、 「教科書に出てくる程度」 なら、全部入っているはずです。
現代語訳で作品を味わう方が目的なら、文庫本の古典シリーズにいいのがあります。

ビギナーズ・クラシックス/角川ソフィア文庫

参考URL:http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gakusan/h-japanese/smk_koten.html

Qテスト直前なのに、短歌の区切れがわかりません………。

短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。
感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか?

以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、
ネットで調べてもよくわからないので困っています。
どうぞよろしくお願いします。

・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌)
・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌)
・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王)
・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂)
・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持)

すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。

3、終止形や命令形で言い切っているところ。

4、体言止めで言い切っているところ。
ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。

5、倒置法のあるところ。

6、呼び掛け法のあるところ。

韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。

*防人に・・・
あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。
→「ともしさ」が体言止めで、意味的に倒置法なので四句切れです。

*多摩川に・・・
多摩川に晒して作る布を見ていた。その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。
→「多摩川にさらす手作り」までは、「さらさらに」を導くための「序詞(じょことば)」で、和歌の解釈としては内容的な意味はなく、「手作り」は体言止めで、二句切れです。

*君待つと・・・
恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。
→順当な流れのうちに結句まで言い切っている歌で、句切れなし。ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。単に季節がほんとに秋だっただけ。女心の寂しさは詠み込まれているけど。

*近江の海・・・
琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。
→「夕波千鳥」を呼び掛け法と考えても、単なる体言止めと考えても、いずれにせよ二句切れ。

*うらうらに・・・
うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。一人ぼっちで物思いに耽っているので。
→「心悲しも」の「も」は、上代特有の助詞で、詠嘆を表すので、ここで切れて四句切れ。春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。

万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。
五七/五七/七
と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。
(古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます)
五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。
七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ...続きを読む


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