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1915年の対華二十一ヵ条要求の内容の一つに、「南満州及東部内蒙古における日本の優越な地位」の承認を迫るというのがあります。「南満州」は満鉄や付属の炭田・鉄山の事でしょうから意味がわかりますが、「内蒙古」にどんな権益があるのでしょうか?確か満州事変の時にも「満蒙の危機」なんて言葉がありましたよね。「内蒙古」って今のモンゴル自治区なのだそうですが、その場所に日本がこだわったのはなぜですか。資源目的ではなく、ソ連との国境付近だから、共産主義の南下を防ぐ防衛ラインを確保したいという事なのでしょうか?でも1915年ならまだロシア革命起こってないですよね…。

A 回答 (6件)

空き地とは別にまったく人がいないという意味ではありません。


誤解をまねいたらすいません。

なお清朝の晩期は人が入ることも清朝も許可を出しています。
清朝建国時から中盤にかけては、漢民族が入ることを長く許していません。
これは「中国の歴史 12 陳舜臣」にでてきます。
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第一次大戦中なので、ロシアがどさくさにまぎれて中国の権益を求めようとするかもしれず、先手を打っておいた面は、あるかもしれません。


実際にはロシア帝国が崩壊し、極東どころではなかったわけですが。

なお、満洲は空き地ではありません。
横手慎二『日露戦争史』(中公新書)によれば、「一八八八年当時、満洲に住む清国人は一二○○万人に及び」、大杉一雄氏によれば満洲事変「当時の満洲人口約三千万のうち満洲族は二百万足らず」(歴史読本2008.9)となっています。
↓も参考に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E% …
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この回答へのお礼

日本もロシアも大戦期のどさくさ紛れに何でもやっとけっていう感じですね。仰るとおり結果論でいえばロシアは極東どころではなかったのでしょうが…。よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/11 22:53

その少し前に辛亥革命が起こり満州族の清朝が倒れていますが、清ができた時代中国人は万里の長城の内側に、満州人やその他の北方の人々はもちろん長城より北にいました。


その前の明朝を李自成が滅ぼし順(大順)を建てましたが、明の軍人であった呉三桂は東北部におり、亡国となった中央(北京)に戻れずにいました。そして満州人のドルゴンに近づき協力し、自ら満州族の風習である弁髪にして満州人に従順の証を示し、北京を攻めました。そして順国はたった40日ほどの天下におわり、清朝の時代へとつづいていきます。

このあと満州族は全満州人/全族/全旗(満州人は複数のエスニックの集合体)をあげて、万里の長城を超え中央(北京やその他主要地域)へ移住します。清朝は長城の北の東北部は、満州人の故郷ということで、漢人などが勝手に入らないよう令を出して禁じます。そして長城以北の東北地方はほぼ人の居住や文化がまったく存在しない、広大な空き地になりました。

日本はこの歴史をしっており、清朝時代に万里の長城より北にあった(のちに満州国と呼ばれたこの)東北部に目をつけていたので、日露戦争のあとや、中華明国成立後も、この広大な空き地の土地利用(資源や開発)をあきらめていませんでした。
さらに現在の中華人民共和国の地図や、1910年代に中華民国が清朝から引き継いだとされる土地の範囲から考えると、一見東北部も内モンゴルも中国のもののように見えますが、実態は清朝が長城以北を管理してはいたが、漢民族はこの土地を歴史的に実効支配をしたことはない土地でした(以北は、満州族やモンゴル人(元)の土地ではあったことが歴史上あった。このため清朝と中華明国の関係を述べるとき、満州はヌルハチの時代300年の昔より満州族の土地ではあったが、漢民族の土地ではなかった、という言い方をする人がいる)。

なので、1910年代は中華民国が建ったとはいえ、漢人(漢民族)が実効支配したことがない土地であったことを知っていた日本は、力の時代の中でその範囲を(西欧の顔色をうかがいつつ)広めたいと考えていても不思議ではなかったと思います。
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございました。内蒙古はエアスポット的な位置づけという感じでしょうか?日本が虎視眈々としている様子がみえてきたように思います。とても詳細に記述してくださり感謝いたします。

お礼日時:2009/02/11 22:49

鉄鋼石は朝鮮満州から比較的潤沢に確保していたし、それ以外は現代でも半導体関係のレアメタル以外特に無いので、特別有益な資源は無かったという結論になるかと思います。

まあ探してみないとわからないので。
ただ当時は市場も一つの資源でした。
あと、内蒙古を含む満州近辺の日本の優越的立場と日露戦争が、結果としてソ連の北満鉄道売却に至ったといえますので、百%無駄でもないかと。
まああの時期は、取れるものはとっておけという状況でしたから。
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この回答へのお礼

ますますよくわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/02/09 08:07

第五条 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。


(1)南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与へ、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
(2)南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと

上記は21カ条要求の一部です。
これによると、鉄道敷設権と税金をとることが利権になっていますね。
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございました。確かに条文をよく読めばそういう目的である事のようですね。…ただ実際の所はどうだったんでしょうか?本当に内蒙古から実効性のある権益、つまり日本にとって現実にメリットが発生したのでしょうか?専門書等調べたのですが、とくに記載は無いようなので…。

お礼日時:2009/02/08 21:59

優越的な地位という用語は、最恵国待遇であつかうということです。


つまり内蒙古に対する貿易圏みたいなものを日本に与える、もし他国に門戸を開くなら(まあこれは日本が認めませんが)、その他国にとって有利な権利は全て日本にも認める、といった意味でと思います。

なお満州および内蒙古各地は、その後満鉄調査部によって精力的に資源探査が行われています。資源が出た時の採掘権も意味していたと思われます。

曖昧な約束を取り付けて、何か見つけたらあとで実力で巻き上げるといった意図もあったかもしれません。
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございました。なぜ日本が内蒙古にこだわったのか、少しイメージが湧きました。内蒙古では本当に有益な資源が見つかったのでしょうか?それはそれで興味あるところです。

お礼日時:2009/02/08 22:04

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