中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

アンサープラス

それぞれの詳細です参考にしてください


~Wikipedia ~
【幕府】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C
【朝廷】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%BB%B7

A 回答 (6件)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。


ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)
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この回答へのお礼

丁寧なお答えありがとうございます!(T▽T)
今日はもう子供寝てしまったので、明日この回答を全部見せてあげようと思います!

お礼日時:2009/02/08 00:54

こんばんは。



あなたのためにもお子さんのためにも、シンプルな説明をします。

・幕府のボスは将軍(征夷大将軍)で、取り巻きは武士。
・朝廷のボスは天皇で、取り巻きは貴族。

幕府と朝廷が両方あった時代(鎌倉、室町、江戸)というのは、
朝廷が‘お飾り’で、幕府が日本の政治の実権を握っていた時代です。

朝廷に政治の実権を戻したのが、徳川慶喜(=最後の将軍)による‘大政奉還’(明治元年の前年)。

ちなみに、これは日本史の、超がつくほどの基本ですから、
人に聞いたら恥をかいたかもしれません。
ここで質問してよかったですね。


以上、ご参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

とっても、とっても参考になりました。o(_ _*o)
私は勉強嫌いだったので、今ごろになって子供といっしょに勉強しなおしてるようなところがあります。
「教えてgoo」みたいなところがあってホントに良かった~!と思います。
ご回答下さったsanoriさんを始め、みなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます!!またご縁がありましたら宜しくお願いします!!(^▽^)

お礼日時:2009/02/08 01:05

「幕府」はもともと「軍の指揮官が現地で事務処理をするための場所」を表し, 日本では転じて「将軍が政治をする場所」あるいは「そのような政治体制」を意味しています.


これに対して天皇が政治をとる場所のことを「朝廷」といいます. なぜ「朝」かというと, 仕事をするのが「夜明け~昼」と, 朝の時間帯だったから.
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この回答へのお礼

> なぜ「朝」かというと←こういう知識うちの子大好きです。
ご回答ありがとうございます!

お礼日時:2009/02/08 01:00

朝廷は天皇が政治を行う所のことで、天皇による政治、支配体制を言います。

幕府は朝廷、つまり天皇から任命された征夷大将軍を中心とした武士の政権です。
江戸時代でいえば、朝廷は京の都にあり、幕府は江戸。徳川将軍は朝廷から征夷大将軍に任じられ、日本の支配を任されていたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
>江戸時代でいえば、朝廷は京の都にあり、幕府は江戸。

具体例があげられて、子供もより分かりやすいと思います!

お礼日時:2009/02/08 00:57

「幕府」とは武士による政府、または政権のことですね。


日本史上、過去には鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の3つがありました。

「朝廷」とは天子(日本で言う天皇)が政治を執り行う場所のことを指します。(現在では転じて政府自体のことも指すようです)
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この回答へのお礼

より分かりやすい説明をありがとうございます。o(_ _*o)

お礼日時:2009/02/08 00:45

 


幕府・・・武士による政府
朝廷・・・天皇による政治

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
分かりやすいですね。

お礼日時:2009/02/08 00:43

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Q室町幕府の扱いについて

徳川家康が始めた江戸幕府について、「頼朝の鎌倉幕府以来の武家による政権」という言われ方がすることがありますが、この言い方だと室町幕府を除外して考えているようですが、これは、室町幕府は江戸幕府・鎌倉幕府と異なり武家による政権として何か不足していることがあるからなのでしょうか?江戸幕府・鎌倉幕府と室町幕府の違いがあるのなら教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
 もちろん、江戸時代からの判官贔屓体質や尊皇思想などさまざまな要因も影響しているとは思います。南朝を正統とした「大日本史」もそのようですし。
 さらには主に対して忠であるべし、とする儒学の思想も関係しているかも。

 とにかく戦前には室町時代の研究も盛んとは言えなかったのではないでしょうか。
 近年になって、参考で挙げた今谷氏を始めとして中世を専門とする研究家も増え、当時の文献も多数研究されてきて、かなり新しい中世像が生まれつつあるのが現状のようです。そう詳しいわけではないですけど。

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
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Q室町時代には「南北の朝廷」だけでなく「東西の幕府」も存在していた?

室町時代前期における「南北朝」の対立は非常に有名です。
しかし、この時代には京都の幕府とは別に、関東にも「もうひとつの幕府」の
ような存在がありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BA%9C
その名は「鎌倉府」といい、足利尊氏の子の基氏(二代将軍義詮の弟)とその子孫が
代々世襲しました。
この鎌倉府の組織とは、「鎌倉公方」をトップに「関東管領」が補佐し、その下には
「侍所」「政所」「問注所」があり、これは室町幕府の機構にソックリです。
室町幕府はどうしてこの模倣品のような組織を認めたのでしょうか?

ちなみに私は学校で初めて「鎌倉府」の組織について学んだ時に、
「これはきっと将来争いが起こるに違いない」と予感していました。
そうしたら、次のページにはもう永享・嘉吉の乱が起こり、これが「応仁の乱」の
引き金となりました。
まるで漫画のようなお約束展開に笑えました。

ではなぜ幕府は「絶対もめる」と分かりそうな組織作りをしてしまったんでしょうか?

室町時代前期における「南北朝」の対立は非常に有名です。
しかし、この時代には京都の幕府とは別に、関東にも「もうひとつの幕府」の
ような存在がありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BA%9C
その名は「鎌倉府」といい、足利尊氏の子の基氏(二代将軍義詮の弟)とその子孫が
代々世襲しました。
この鎌倉府の組織とは、「鎌倉公方」をトップに「関東管領」が補佐し、その下には
「侍所」「政所」「問注所」があり、これは室町幕府の機構にソックリです。
室町幕府はどうし...続きを読む

Aベストアンサー

歴史の流れを現代人の目から見ると、
「結局○○になるのにこいつら馬鹿だなあ」
などと、つい笑ってしまいがちですが、
それは後知恵による結果論です。

下の回答者の方も書いておられますが、
鎌倉府を作ってしまったために争いが起きたのではなく、
権力の中心を一つにまとめることが出来ない状況だったのです。
(室町幕府がどうやって出来たか考えてみてください)

後の江戸幕府のあり方と比べてみれば、
室町幕府のお粗末さは目に余る程ですが、
考えてみれば江戸時代の平和も、
100年続いた争い、すなわち戦国時代を経た後
だからこそ実現したと言えるのではないでしょうか。
(そう考えると、参勤交代の制度を作ったりして
大名達をコントロールした徳川将軍家ってすごい)

現在の私達は、明治以降の強力な中央集権化によって出来た
1つの政府の存在を自明のものとしていますが、
歴史の流れをさかのぼれば、
権力が統一されていないこと時代があって当たり前です。

あなたは鎌倉府について学んだ時に、
「これはきっと争いが起こるに違いない」と予感したそうですが、
この時代の人たちも勿論それは予感していました。
と言うよりも、もう既に争いの真っ只中にいたのです。

建武の新政では、
後醍醐天皇の息子である護良親王は天皇の言うことを聞かず、
鎌倉では中先代の乱が起き、
南北朝の分裂に続いて観応の擾乱・・・
ワンマン天皇の死に体の親政を延命するか、それとも
頭の2つある危なっかしい形でも幕府をスタートさせるか、
(リーダーは尊氏か?それとも直義か?)
当人たちは真剣に迷ったと思いますよ。

結局、足利尊氏は、
幕府を鎌倉ではなく京都に移す「建武式目」を発表。
足利一族の争いを都に持ち込まないためには、
離れていてもらうしかない!という訳で鎌倉府の設置に至ります。
しかし争いの種はすぐに芽吹いた訳ではなく、
足利義満は有力な守護が勢力を強めないように討伐を行うなど、
将軍権力の確立に力を注ぎました。
しかし足利義教の恐怖政治や、足利義政の無気力政治のせいで、
守護大名たちが争い合う時代を招いてしまったのです。

まず「永享の乱」ですが
これは室町幕府と鎌倉府の対立と言うよりは、
義教の専制政治の一環と捉えるべきではありませんか。
次に「嘉吉の乱」ですが、
義教の専制政治を覆そうとした有力守護の反乱です。
室町幕府VS鎌倉府の図式には当てはまりません。
そしてこの2つの乱は
応仁の乱の引き金になった訳ではありません。
「嘉吉の乱」はやがて「結城合戦」や「享徳の乱」を誘発し、
関東が全国に先駆けて戦国時代に突入するきっかけとなりましたが、
応仁の乱が起こったのはまた別の理由によります。

因みに応仁の乱の図式は、
将軍家、畠山氏、斯波氏の各家督相続争い+守護大名の勢力争い
ということになります。かなり複雑な事情がありますので、
じっくり腰を据えて勉強してみてください。

「東西の幕府」というキーワードだけでは
室町幕府の失敗の謎は解けませんよ。

まずは学校で社会科の先生に聞いてみてはどうかな。

歴史の流れを現代人の目から見ると、
「結局○○になるのにこいつら馬鹿だなあ」
などと、つい笑ってしまいがちですが、
それは後知恵による結果論です。

下の回答者の方も書いておられますが、
鎌倉府を作ってしまったために争いが起きたのではなく、
権力の中心を一つにまとめることが出来ない状況だったのです。
(室町幕府がどうやって出来たか考えてみてください)

後の江戸幕府のあり方と比べてみれば、
室町幕府のお粗末さは目に余る程ですが、
考えてみれば江戸時代の平和も、
100年続いた争...続きを読む

Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

Aベストアンサー

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例...続きを読む

Q教えてください。歴史のこと。 1.平安時代の朝廷と、鎌倉時代の幕府(武家政権)の違いについて。 2.

教えてください。歴史のこと。


1.平安時代の朝廷と、鎌倉時代の幕府(武家政権)の違いについて。
2.阿氐河荘の農民の訴えと正長土一揆の違いについて(以下の二つ)
★訴えを起こした原因
★その時代の武士たちの支配体制(政治について)


と言うような形です。一問だけの返答でも大歓迎です。どうかよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1、について

平安時代の朝廷を代表する政治体制は「摂関政治」です。要するに、藤原氏が朝廷を牛耳っていた時代です。
摂関政治の特徴として、皇室に娘を嫁がせるなどして婚姻関係を結び、天皇との血縁関係を背景として権威をふるったことです。しかし、この摂関政治は縁戚として利用していたはずの天皇家(主に白河法皇)に権力を逆に掌握されたために衰退していきます。

鎌倉幕府の基本は「御恩と奉公」です。幕府は御家人に対して本領を安堵する代わりに幕府への忠誠を求めたのです。つまり、血縁ではなく、利害の一致によって成立した組織であると言えます。
もう一つのキーワードは「執権政治」です。鎌倉幕府の将軍は初代の頼朝以外、すべてが傀儡と言っても過言ではありません。そのため、鎌倉幕府は(一応将軍を頂点としているものの)実質的には将軍を補佐する執権である北条氏を中心とした集団指導体制を取りましたが、やがて政敵を征伐していき、北条氏の本流(得宗家)に権力を集中させるようになりました。しかし、鎌倉時代後半になると得宗家の権威も失われ、寄合衆と呼ばれる集団合議体制に再び戻っていきます。
つまり、武家政権は貴族政権と比較して組織での運営がより多くなされている政権なのです。

1、について

平安時代の朝廷を代表する政治体制は「摂関政治」です。要するに、藤原氏が朝廷を牛耳っていた時代です。
摂関政治の特徴として、皇室に娘を嫁がせるなどして婚姻関係を結び、天皇との血縁関係を背景として権威をふるったことです。しかし、この摂関政治は縁戚として利用していたはずの天皇家(主に白河法皇)に権力を逆に掌握されたために衰退していきます。

鎌倉幕府の基本は「御恩と奉公」です。幕府は御家人に対して本領を安堵する代わりに幕府への忠誠を求めたのです。つまり、血縁ではなく、...続きを読む

Q室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか

室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか「守護たちは独立して領地を治めていたため、幕府は山城の国一国からの収入しかなかった」などと書かれています。しかし、半済令などで減っていたとはいえ、全国から年貢を得ていたのではないのでしょうか。
また、幕府の年貢は守護請では「守護→荘園領主→幕府」と動いていたと思うのですが、それ以外の場合は「守護→幕府」と「荘園領主→幕府」の2重取りだったのでしょうか。
さらに、朝廷はいったい何を財源にしていたのでしょうか。荘園からの収入だけで成り立っていたのでしょうか。
素人なりに調べたのですが、今ひとつわかりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、素人でもわかりやすいように教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

私も昨年から中世に興味をもって本などを読んでいるのですが、ご質問のように幕府財政はどうなんだと余り考えたことはありませんでした。

当時は、「幕府」といっても、「朝廷」がなかり力を持っていましたし、全国を考えても、畿内、西国、東国とそれぞれかなり状況が異なっていたような気がします。ですから、全国一律に「幕府」が年貢を徴収できていたかと言うと、かなりバラバラだったと考えた方が良いような気がします。

荘園と国衙との二重構造で、荘園は御家人(地頭)や地頭代が直接管理して、中央政府に米や特産品の年貢や夫役を納めていたと思いますが、一方で、大量の宋銭の流入による貨幣経済の発達(幕府は鋳造しませんでしたが)、また日宋貿易の幕府独占による収入など、その“財政”の姿は、現代は勿論、江戸時代ともかなり異なっていたのではないかなとか思っています。

まあ、ぜんぜん、回答にはなりませんが、思っているところを少し整理させていただきましたが、わたくしもその点に注意しながら更に読書したいと思います。

Q幕府と朝廷について

ど素人かつ無知な質問でお恥ずかしいのですが、幕府と朝廷の違いを簡単に教えてください。
もちろん両者が同じだと考えているわけではなく、両者の役割と立場、絡み方を知りたいです。
どうも一国に政府(統治機関)が二つあるような気がしてしっくりこないのです。
今の天皇と総理大臣の違いのような感じでしょうか?
でも、当時の天皇は象徴というお飾りではないですよね?
戦国時代になるとまた違うのでしょうか?
幕府は兵をもっていなかったとか。
朝廷には兵はいたのでしょうか?
力(権力、軍事力、財力)の違いもよくわかりません。
質問に脈絡がなくて申し訳ありませんが、どうか教えてください。

Aベストアンサー

#2です。
やはり本を読まれるのが良いような気がします。Q&Aではどうしても断片的になるので。先に挙げた新書の他に、井沢元彦「逆説の日本史」3,4,5巻あたり(小学館文庫)も、独特の歴史観ですがその分、わかりやすいです。本を読みなれてない方だと学者の書いた本より作家の書いた本の方が読みやすいでしょうし。

>一国に統治機関が二つあるような複雑な状況になったのは何故なのでしょうか?
>朝廷という国の統治機関がありながら、何故幕府という機関が発足したのか。

律令制の前提の公地公民(税収は国庫に入り、貴族には官僚としての報酬が支払われる)が、平安時代には貴族の私有地である荘園(および私有民)の拡大によって税収が減り、崩れます。この時点でもう、日本全体を治めるという朝廷政治は正常に機能していないわけです。天皇や皇族ですら荘園を持ち、国庫を経ずに収入を得ている。
鎌倉幕府が出来る直前の状態でいうと、武士達は自分達の権利を京都の荘園領主に対して守ってくれるリーダーを必要としていたわけで、関東のそれら武士が先祖が源氏か平氏かに関わらず、頼朝政権に期待し、支援することで源平の戦いが終わったわけです。頼朝政権は国司に対応する守護、在地の荘園管理者に対応する地頭を武士が全国に置くことを朝廷に認めさせます。名目上は、朝敵となった義経の追討のためですが、実際には武力で脅したといえるでしょう。この守護・地頭が鎌倉幕府の全国支配の元になります。

>当初、幕府の発足は朝廷の望むところだったのでしょうか?

朝廷としては、武士を皇族貴族の手足として使い、農民を支配するのが理想だったのでしょう。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇は親王を征夷大将軍にして武士をその配下に置こうとします。

>その後の関わり合いを見ても、非公式な発足とはとても思えないですが。
>ともすれば、利害の一致があったわけであり、お互いどのような目的で、

権威はあるが実質的に支配する能力の無い朝廷と、武力を持った武家政権との妥協ないし、武力による脅しの結果です。

幕府が朝廷を抹殺しなかったのは、一武家である源氏のちには北条氏が他の武家を支配する理由付けとして外に権威を求めたためと思います。これは日本特有でもなく、中世ヨーロッパでのローマ教皇と各国王との関係、イスラム世界でのアッバース朝カリフ(マホメット後継者)とスルタン(軍事)政権との関係も同じでしょう。奈良・平安時代の藤原氏が天皇家に取って代わらなかったことも。

>共存体制をとり、それぞれどんな役割を担う事となったのか。

実質的な支配と、その支配の根拠となる伝統権威との分担です。

#2です。
やはり本を読まれるのが良いような気がします。Q&Aではどうしても断片的になるので。先に挙げた新書の他に、井沢元彦「逆説の日本史」3,4,5巻あたり(小学館文庫)も、独特の歴史観ですがその分、わかりやすいです。本を読みなれてない方だと学者の書いた本より作家の書いた本の方が読みやすいでしょうし。

>一国に統治機関が二つあるような複雑な状況になったのは何故なのでしょうか?
>朝廷という国の統治機関がありながら、何故幕府という機関が発足したのか。

律令制の前提の公地公民(...続きを読む

Q幕末の幕府と藩の関係

幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

幕末には徳川幕府の権威も形の上だけで形骸化していました。
幕府に弓をひくような藩例えば長州藩に対し取りつぶしの処置もできず、武力により征伐するべく各藩に出兵を命じましたが親藩の指揮官の尾張藩ですら十分な兵力を用意出来ず、譜代や外様大名も同様でした。
その上旧式装備でしたから長州藩の新式装備、奇兵隊の活躍の前に敗北を重ねて進攻は頓挫する始末でした。第1次長州征伐は長州藩の内紛でなんとか勝利したのですが重役などを切腹させただけでそれ以上の処分は出来ませんでした。

この為第2次長州征伐が必要になったのですが、既に各藩とも戦意を失い、譜代大名の小倉藩の小倉城も落城、譜代の浜田藩も敗退し戦線は後退、膠着状態になる始末でした。

このように親藩譜代といえども全て佐幕派ではなくなっていました。
幕府が先手としていた彦根藩も桜田門事件で藩主が首を取られたことを理由に処罰を受けたため勤王派に鞍替えしてしまいました。
親藩の尾張藩も代々将軍になれなかった恨みから戊申戦争では勤王派につく始末でした。

Q鎌倉時代の幕府・天皇の「二頭政治」で怒った天皇が戦争で幕府に負けた

 13世紀だったと思いますが、後鳥○(正確な名前忘れました)天皇がたぶん京都にいて、そして関東にある鎌倉幕府と、同じ日本で二つの支配層があるような政治形態だったと思います。

 その天皇が統幕を企てるも、戦争に敗れ、勝者としての幕府と、応援した武家たちが、西日本に大挙として押し寄せた。どうやら、褒美として西日本の政治的・経済的な支配権をそうした武士達に与えるという趣旨だったようですが、そもそも西日本は天皇側の京都もあり、戦争に勝ったとはいえ、にらみを利かせる意味で武家を幕府が配置したのでしょうか?

 関東から西日本に行くというよりは、行かされる(縁のない地域に住んで自分の代から子供や孫までその地域に住む覚悟だったと思います)という気持ちはなかったのでしょうか。各々の武家は、何を基準に、西日本の地域のあるところは、武家Aで、またこちらの地域は武家Bという風に決まったのでしょうか。サイコロですか?

 

Aベストアンサー

承久三年(一二二一)後鳥羽上皇がかつがれておこした「承久の乱」ですね。

制圧した鎌倉幕府は「応援した幕府たち」への恩賞として上皇方旧領の地頭職を与えました。
その配分規準は知り得ませんが、上皇に加担した武家の地位と、その旧領へ送り込む幕府方の武
家の功績とのバランスをみて決めたと思われる例が多いようです。
また、そのとき「にらみを利かせる意味で」京都に設けられたのが、六波羅守護(六波羅探題)です。

頼朝の「平家討伐」のときも、東国武士たちに西国の平氏没官領が与えられています。
もともと東国などに地頭職をもっていたので、初め代官を送って支配に当たらせた例もあったようで
すが、庶家(分家)が増えれば東国の本領だけでは扶養しきれません。
やがて、新所領に移転して支配に当たるようになりました。
 

Q鎌倉幕府の年号変更について

鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか?
そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか?
ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。
実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

Aベストアンサー

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、...続きを読む

Q幕府や朝廷にも政党みたいなグループはあったのでしょうか?

幕府や朝廷にも政党みたいなグループはあったのでしょうか?

日本において、過去の行政機関(幕府、朝廷など)にも、意志を同じくする人たちがグループを組み、協力して行政をなすという歴史はあったのでしょうか?

Aベストアンサー

ありませんよ。

あったら将軍や天皇の独裁にはなっておりませんので。


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