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中世のフランスやイギリスでは公開処刑が市民の娯楽として機能していたそうですが、実際の所こうした公開処刑には犯罪抑止力はあるのでしょうか?

A 回答 (8件)

20年近くなりますが、中国に行った際(現在は分かりませんが、当時はまだ中国でも行われていました)に現地人に聞いた話ですが、公開処刑は「山の上」で行われ、相当の観客で賑わうそうです。

立ち会う観客は公告(壁新聞など)で知り、会場に詰めかけるそうです。時間になると処刑者はトラックで現地に運ばれて来て、観客の間を通り抜けて刑場に向かうそうです。その束の間の時に、観客が受刑者に歩み寄り、「肝臓をください!」「腎臓をください!」「胃をください!」「脳をください!」と自分の具合の悪い部位をねだるそうです。もとより観念し、気の抜けた受刑者はそれらに力無くうなずくだけであると言っていました。
これらから察するに、観客にとって決して娯楽だけではなく、切実な思いを抱いて集まっており、また犯罪抑止といった意味合いとかたづけるものだけではないと思います(子どもたちにとっては恐怖だったようです)。
得てして公開処刑という形は、貧しい国で実施されている場合が多く、「悪いことをすればこうなるぞ」といった一種の「道徳」観念を植え付けるための行事となっているのではないでしょうか。
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刑罰は犯罪の抑止効果があります。


量刑が増すにつれその効果は統計的にも把握できます。

道交法の改正により駐車違反は激減しました。飲酒運転も同じく又ドライバーに酒を提供しない飲食店も増えました。〔統計数値は警察で確認して下さい。)
解りやすく言えば、駐車違反で、そく30万の罰金なら、という事です。
拳銃所持の量刑が重くなりました、ヤクザが慎重になっているとの話を聞きました、これに関しては、所持だけで10年、発砲で無期、銃による障害で死刑、の量刑設定を行えば銃による犯罪はもっと減るでしょう、何故、当局はそうしないか、、警察とヤクザはつるんでいるからです、まさか、と思いますか、類似したよい例が違法換金が行われているパチンコと警察の関係です。

公開処刑が抑止に有効か? というより犯罪行為が即、公開処刑に結びつく刑法の存在でしょうね、

中国では無限連鎖講(ねずみ講、マルチ)の首謀者は、ほぼ、死刑とのことですので、おおっぴらに実行する者はいなくなったとのことです。
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抑止効果はあるかもしれませんね。


でも恐怖が人の感情を支配する社会になりそうです。
北朝鮮は現在でも反体制派や犯罪を犯したの人々を公開処刑にかけていると聞きます。
そういう社会って気味の悪いものを感じてしまいますが、いかがでしょう。
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抑止力という点では、難しい問題ですね。


ただ、近現代の刑法の性質を考える上では興味深いテーマですね。
近代以前と近代以後の刑法の違いを、フーコーは次のように分けています。

・近代以前の刑法

近代以前の刑法の特徴は「身体刑」であった点です。
そして、この「身体刑」は「権力者の勝利を示す儀式」であったと言います。
「権力者の勝利を示す儀式」なのだから、観客がいなければいけません。
そして、観客の脳裏にその拷問の苦痛を記憶させる目的があったとしています。
観客は、さらし者にされた罪人を侮辱し嘲笑をなげかけ愚弄することで優越感に浸ります。
それと同時に、自分が罪を犯したら(≒権力に逆らったら)いつかは自分も愚弄する側から愚弄される側になるのだという恐怖を抱きます。
しかし、その一方で観客(民衆)が不当な処刑だという想いを共有した場合は、彼らは一致団結して処刑を妨害する事も多々あったと言います。
これによって、「権力者」は時に「敗北」することがあったとしています。

2・近代の刑法

18世紀末もしくは19世紀前半頃から、この「身体刑」が禁止され始めます。
禁止された理由は、「身体刑の儀式」が逆に新しい犯罪を助長するのではないかと疑いだしたからというのです。
犯罪者を裁くはずの死刑執行人や裁判官こそ、犯罪行為の実行者ではないかと考えられます。
そして、「見せしめとしての刑」は姿を消すこととなったのだと。
変わって「刑」の対象は、「身体」から「精神」に移ったというのです。
例えば、殺人を例に取ってみると、「身体刑」では「殺人」という行為を行った「身体」に罰を加えます。
そこに「精神」は関係ありません。
しかし、「精神刑」では「精神」が重要になっていきます。
つまり、「殺人」という行為に走らせた原因は「本能」なのか、「無意識」なのか、「環境」によるのか、「遺伝」によるのか、そしてそれは「矯正」できるものなのかが問われるようになります。
そして、裁判官は犯罪者の「精神」を裁くというのです。
民衆は、その「裁かれる」という思いにより犯罪を思いとどまらせるのです。

以上が、フーコーの考え方の大雑把な説明です。
抑止力という意味では、「処刑のぞっとする光景」を見ることによる身体的行為に依るのではなく、「罪を犯したら罰せられる」という観念が重要になってるんですね。
で、前者は「処刑のぞっとする光景」を見なければ抑止力は働かないし、後者は「罪を犯したら罰せられる」という事を知らなければ抑止力にならないという事でしょうね。(素人解釈ですけど、、、)
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・テレビ放送が始まるまえは、実際の議会の傍聴や裁判が今で言う緊迫感ある政治/刑事ものドラマの代用品として楽しめたという話があります。

処刑が娯楽だったのは確かですが、残虐な部分に注目が集まったというよりは、そういった政治劇の一幕の代用品であったと考えたほうがいいかもしれません。

・大昔公開処刑が主流だったのは、テレビや新聞があるわけでもない、政治行政も不透明だった時代に「政府はきちんと犯罪を処罰していますよ、極悪人を賄賂等で放免したりはしていませんよ」という事を大衆に知らしめるには、確実に犯罪者を処刑しているところを公開しなければならなかったから、というのが大きかった、とも言えるかもしれません。この場合、コネや賄賂で処刑を逃れる事を計算にいれて計画的に行われる凶悪犯罪には抑止効果があったと思います。

・現在では、公開の有無にかかわらず、きちんと裁判は行われて処刑は行われているという事に関しては皆さん納得していますよね。この状態では上に述べたような形の抑止効果はないと思います。また、確かに死刑囚が悶え苦しむところを公開すれば、それで犯罪を思いとどまる人が出てこないことはないとは思いますが、実際には、裁判で犯罪の経緯が丸裸にされる、またその情報がニュースで広く報道される、という事の抑止効果のほうが大きいのではと思います(相対的な問題で、どちらにせよそんなに大きくはないとは思いますが)。 
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#1です。


犯罪抑止力がどうとか考えるのは、あくまでも罪を犯すことがない普通の人々です。
犯罪心理学などと言っても、結局論じているのは罪を犯すことがない普通の人々です。
普通の人々だから、罰を重くする(酷くする、見せしめにする)ことが抑止につながるのではないかと考えるわけで、実際に罪を犯す人々は、一切そういう思考が働くことがないのではないでしょうか。
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処刑が娯楽になると、人権感覚がなくなります。


また、中世の魔女狩りのように、だれかに難癖を付けて火あぶりにしてしまうこともあったようです。あるいは、穀物のカビが放った神経性の毒素で、みんなが幻覚を見たから、無実の人間を殺して平気だったし、悪魔や魔女を本気で恐れたんだという説もあります。
いずれにしても、公開処刑は異常です。異常な社会の中では、犯罪防止になるかもしれませんが、社会全体が異端者を訳なく殺すような犯罪体質になるかもしれません。
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こんばんは。


抑止力はないと思います。
結局、罪を犯す人は、どのような罰(死刑でも)を受けることになるかなど考えませんから。
きっと、考えたら行動できないですよね。
考えない人が最強なんだと思います。
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この回答へのお礼

やはり抑止力は無いに等しいのでしょうかね・・・。丁寧な回答有難う御座いました。

お礼日時:2009/02/18 23:48

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