親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

*それってどんな「感覚」でしたか?

*「思索」として「成果は上がった」と感じますか?
(いえ勿論結果論ですが。。。汗)

現在「閉じて」いらっしゃる方は、尚更回答下さると嬉しいです。
人生を「雨のち晴れ」或は「台風一過、快晴!!」の方法を色々と検討中です。
どんな方法が有るのでしょう?
よろしく御願いします!!

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A 回答 (13件中1~10件)

 先日 投稿したことのある文章ですが 回答とします。


 《自分を閉じた》ことはなかったです。《社会のほうから閉じられた》と感じていたときの状態を分析したものです。ほんとうに能天気でありまして 長いあいだ こういうふうに言葉にして認識してはいなかったのですし 《閉じる》ことは考えたこともなかったのです。でも 情況は たぶん 《閉じた》場合と あまり変わらないかも知れません。
 《思索》は 思索で おこなっていました。けっきょく 関連し 連動していたのでしょうか。

 1 太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。
 わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。
 萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。

 2 わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。
 萎縮しない。

 3 だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。

 4 いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。

 5 ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。

 6 だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。

 7 そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。

 8 たとえば 約束を守ることだ。違えるならば わけを説明し 詫びることだ。

 9 生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。

 10 欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。
 欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。
 存在を放棄することができないからだ。

 《欺かれるならば 我れあり。Si fallor, sum. 》だったのだ。

 11 嘘と演技とで 《勇敢にも抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは  すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。

 12 なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。

 13 ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。

 14 破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。

 15 不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。

 16 不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。

 17 ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。

 18 根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。

 19 欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。

 20 欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。

 21 この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれなさい 巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられるのだよ・・・。

 22 抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。

 この現実を見よ。

この回答への補足

bragelone様、回答御寄せ下さいましてありがとうございます!

>《社会のほうから閉じられた》と感じていたとき

これも辛いですね。。。(自分で選んで)拒絶する事よりも、
(他人から勝手に)拒絶を受ける方が余程苦しいように思います。
今ではもう大丈夫なのでしょうか?
こんな若年の未熟な者では無力です。。。
何か誰かの手助けになれる可能性を考えて立てた質問です。
勿論自分の手助けにもなると思っておりますが。。。

例に依って箇条書きで頂きました。^^
プリントアウトして返信を考えております。(やっぱ、紙が一番!^^)

>1
「萎縮」。。。はい。その表現もぴたり!です。
「抵抗(力)」。。。はい。自己防衛の手段としての「閉じる」でもありますね。

>2
日本人は(根っこの)宗教観が大らか故、私は「変化」や「新しいもの」に耐性がある筈、と思えるのです。有る意味「勇敢」とも感じます。
(そう言う意味とは違うでしょうか?汗)

>3
前項に関して「有る筈」と書きました。
何か「歪み」は感じています。
夏目の講話に「現代文明の開化」と言うものがありますけれど、なかなか現在の社会状況にも当てはまるのではなかろうか、と考えています。

>4
「諦め」と「放棄」と言う言葉。。。現実に現実味が有るのが哀しいな、と思います。社会全体にこの二つの言葉が言霊になっているように感じます。
私自身はこれらの言葉が嫌いですので抵抗したい所ですが。。。
いえ、「抵抗」する為に「閉じて」いた気もします。(思い上がり?汗)

>5
仕合わせ=幸せ=シンライカンケイ=信頼関係。。。「幸せの根っこ」ですものね、信頼は。^^

>6
はい。ありえませんね、「幸せ」と言う意味でも。

>7
この項目については少し戸惑ったのですが。。。
信頼関係は「理由や必要に応じて」築くものでも築けるものでもない、と言う事でよろしいでしょうか?
そして、自然発生(良い言葉が見つかりません)の信頼関係については諦めていない、と。

>8
私は「詫びる事を怖がる」人間にはならないようにしたい、と考えています。

>9
はい。「信頼関係のひび」を「回避」するよりも「修復の術」を高めたい所です、根気づよく。^^

>10
「存在の放棄は不可能」。。。は理解しました。
その前の
「欺かれたと言う不幸せに耐える事は出来ない(私風に字を変換。汗)」。。。これが掴み所無く。。。
 *「欺かれる」について具体的にご教示下さると嬉しいです。
   (11の信頼関係の破綻、で良いのでしょうか?)
 *「耐える事は出来ない」については「耐える必要は無い」でよろしいのでしょうか?

>11
あーーー。。。深いです。。。
「嘘と演技」は「諦めと放棄」であり「抵抗」ではない。
「嘘と演技」は信頼関係を「修復」しない。
 *「果敢なる忍耐」。。。これは「嘘と演技」の事でしょうか?

>12
ふう。。。素晴らしいです。。。^^

>13
「そうする人/そう出来る人」とは「勇敢」なのですか??
ちょっと判り難いです。汗
「破綻」を自分の責任に「引き取り過ぎる」と言う感じでしょうか?

>14
これも御願いします!

>15
はい^^  苦しさは「勇気」であり「想像力の源泉」とも感じます。
(合ってます?汗)

>16
はあーーーーキザ^^です。素敵です。やられちゃいました。^^
「耐えられない」のは「能力」であり人間の(心の)「進化のエネルギー」とも言えるでしょうか。不幸は耐えられない、だから幸せになろう!と言う。。。

>17
こう在りたいものです。でもこれって少々「難しい」事ではありませんか?

>18
はい。同感です。
何かを誤摩化してはいけませんね。

>19
ちょっ、ちょっと「幻想の虚構」って何でしょうか?
ん。。。?私読み違えていますでしょうか?

>20
>人自身を信用しあっているというそのこと自体が虚構なのだから 
>これ(=虚構)の構築を絶えず要請(=必要と?)される。

大胆な切り返しだなあ、と思いました。^^
でもちょっと判り難い。。。汗
虚構が虚構である事の「弱さ」を補う為に「(社会的成功とか?)強さ」が必要。。。でよろしいでしょうか?

>21
「強さは死を基盤としている」。。。ううむ。。。
20と21についてはbragelone様ご自身の思いでよろしいのでしょうか?ん。。。自省の文でよろしいのですよね?

>22
最後の3項目は「社会への批判の視線」でよろしいのでしょうか?

あーーープリントアウトして正解でした。難解です。。。涙
読み間違いのご指摘御願いします!

ありがとうございました!

補足日時:2009/02/20 18:06
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ちょっと補足を。


恐怖ー根源的な恐怖についての僕の対策を下に書いたのですが。
以前恐怖は非存在だと書きましたが、つまり自己喪失の感覚です。

それに反して、下の能動的に信じる、というのは、信じる自分という主体をいつも存在させます。言い換えると、自己喪失や非存在は感じないで済みます。

といってもこんな意図的に作ってる間は偽者です。
でもこの擬似的な信頼という集中は、それでも現実に対応する正しい直感を与えてくれます。
その判断に従って現実のほうをちょっとずつ変えていけば、
いずれ、意識的な高い信頼の集中は、単なる現実の当たり前となって、自分の内面に固定される、と、まーー、これは取らぬ狸の皮算用ですが、そう思ってます。
いずれは無理しなくても済むようになる、と思ってます。
現実問題、これを始めた10年ほど前は、ものすごく意志の力が要りましたがーー本も読む余裕がないくらいですーーでも、その信じる直感に基づいて考えを作ってきた結果、今は、たぶん・・意志の力は100分の一くらいしか必要なくなりました。

このあたりの内容は、いろんな本の受け売りでもあります。
なんというか、いろんな本のタペストリーというか、まあ寄せ集め?というか、自分に合うところだけ選んだんです。
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こんばんは!


まだ、開いてらしたので、続きを・・・

知らないことが怖い、と書いておられます。

予想が当たってるならわかる気もします。
以降あてずっぽうですが、
僕自身、考えることに関しては、常に開き直り続けてます。
それは開き直らないと恐怖に負けて考えが進まないからです。
それでも怖いのですが、でも一番土台にあるものがあります。
それは「絶対うまくいく」という直感です。
それは生まれていこうずっと、うまくいかないという裏側にいつも輝く、最終的には必ずうまくいく、という感覚です。

これがないと開き直りも無理で、考えもできません。
それは、別の言葉だと、どういいますか、人によっては神様だろうし、あるいは自分を信じるだろうし、生きてる実感といってもいいし、
そういう強い根本的集中を自分にもたらす直感はありませんか?
希望、といってもいいと思いますし。パンドラの箱のような。
理屈以前にある、光、のようなものです。
それはとても小さな光で、信じるにはあまりに小さいんですが、人間追い詰められたりして、選択の余地がない場合、間違いなくこれを信じると思います。
それは、論理的に信じられる、ではなく、自分が生きる!という意志みたいなものかもしれません。
僕は、「絶対信じる!!」 をいつも頭においています。
何を信じるか、というと、すべて、でしょうか?
あるいは、それは対象は具体的な何か、ではなく、自分の心の、信じたい、信じる、という抽象的な気持ちの願望を丸ごとかなえてあげるような、そういう感覚です。
それは僕の中の、信じたい願望です。人を信じたい、自分を信じたい、動物植物を信じたい、などです。
それが大事だ、ということは、小さいころからの僕の実感です。
なくしたら生きていけない、と感じます。
信じる気持ちは、当面は、信じる対象がなくても成立します。僕の場合。漠然としたすべて、といえるので。それは抽象とも具体ともいえません。

この信じる気持ちに最も逆らうのは、この世にある悪いことです。しかし、たとえ犯罪者でも、僕自身犯罪者になる可能性があります。洗脳されれば戦場で人を殺します。それはいい悪いではなく、人の脳と心の性質です。悟りを開いた人とかでもない限りはです。
僕の好きなデールカーネギーさんも書いてました。「ある悪人がいても、その人と同じ性格能力を持って生まれて、その人と同じ環境下に置かれたら、自分だって必ず同じことをするだろう」という一文があって、そのとおりと思いました。
なので悪い人、と自分が判断した人を見るときに、自分の価値観を見ます。そのとき、悪いやつらがいる、という気持ちに負けて信じるのをやめるのはやめよう、と言い聞かせます。
テレビの犯罪のニュースを自分の価値観の戦いにコンバートする、みたいなのでしょうか?


それは、「信じられる」ではなく、「信じる!」です。かなりしんどいです。かなり主体的な能動的なもので、気合はいりますが、そこで必要な気合=生まれてから成長の過程で僕がネガティブに負けて失ってしまった集中レベル、そのものなんです。
だから、その気合を入れるのは、本来持ってたものを取り戻すまでであり、無限に続くわけでもなく、また考えが進むにつれ、自分に徐々に戻ってきてる実感を感じると、その予想は当たってる、という気持ちが強くなります。
(以前に赤ちゃんのことで質問したのをおぼえてらっしゃるでしょうか?ー生まれたばかりの赤ちゃんは全部持ってる、というのは、主にこの意味においてです。あくまで僕のものさしで見た場合ですが)
信じる気持ちは、ある特定のものを心の底から信じてるのは、素敵だと思うのですが、まだ上がある、と思います。
具体の殻を破って、抽象を信じる力、のようなもの、そこまで行きたいのです。

ただ、実生活との兼ね合いがありますし、
上に書いた光をいつも意識することは何をもたらすか、というと、現実がうまくいくにはどうしたらいいか、という発想をくれます。

これは、もちろん僕のやり方なのですが・・

以前のお返事で問われてたのはこういう内容でしたか?
違うでしょうか?
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こんにちは!


お久しぶりです。

まだ締め切られてないみたいなので、しゃっとはいっちゃいます。
質問が抽象論ぽいので、そんな感じで。

自分を閉じた、と書かれてるので、かなり意識的に閉じたことがあるか?という意味でとりますと、思いっきりあります。
僕的にはしょっちゅうです。生活とのかねあいはありますが。
小さいときから、その手のことは元々好きだった上に、問題が起きたときに、閉じて自分の世界を作って、内観的な解決をしようとしたので。でも時間かかるんですよねー。

パソコンが出てきて、携帯が出てきて、いつでもどこでも思いついたことをメモれるようになってから、考えはぐっと進みました。
それまでは手帳に書いてたのですが、いきなりバイクや自転車を道ばたに止めて、いそいそと鞄から手帳を出してめもるのは、人目を気にする僕にはとてもやりずらい作業だったので、
外で思いついたときは、携帯だと、誰かにメール打つようなふりをして、メールの下書きにメモりまくってます。でそれをパソコンに送って、後でワードにまとめて清書、という風です。

これは、方法・・といえるかどうかわからないのですが。

もちろん現在閉じたり開いたりで、かなり長期にわたって閉じたこともあります。
ただ閉じてるだけなら、心を全快で開けはなってる人などいないと思いますが。でも目的あって閉じる人は少ないかも・・
でも昔なら、山ごもりや出家など、いい意味で閉じこもることは理解されてたと思うんですが。

成果は上がったか? ーーーん~~~~~~~~~~~~~
まーあがったと言うことにしたいですが。
というか道半ばでそんなこといえた義理ではありません。
多少は上がってるかなー、というくらいです。見方によっては結構あがってるかも・・・、どっちでしょう。


雨のち晴れ、というのなら、雨を生かしたかどうか、ですよね。雨降って地固まる、になるかどうか?みたいな。

一時的に逃げるのはいいと思うんですが、最終的には、否定して遠ざけるのはまずいですし、といって受け入れるというわけでもなく、
僕の方針としては、「現実を知る」、ただこれ一本に絞ってます。感情は後載せです。否定や肯定、という気持ちの動きではなく、自分の内面的なリアリティーを理解する、これ一本に絞れば、感情に振り回されることなく把握していけることがわかりました。元々感情に流されやすいので。
最近お釈迦さんもそんなことを言ってるというのを知って大いに気をよくしました。

でもほんと、感情でも、味気ない把握でもなく、どちらにも傾かない現実感、をとらえ続けるのは集中力がいります。
でもあがる成果はそれ以上ですよ。うん、ぴんとくるならおすすめですー。

脈絡のない文章になってしまいました。失礼します。
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この回答へのお礼

sheep67様、すっかり忘れたような頃に申し訳ありません!
丁寧な回答をありがとうございます。

>いつでもどこでも思いついたことをメモれるようになってから、
私の今年の第一目標は「メモ魔になる!」なのです。^^
「やりたい事」を中心に、やった事、やらなきゃいけない事、考えている事、言いたい事諸々をメモしまくる癖を付けようと考えています。
「頭の整理整頓」ばかり目指して、実は「しまい込み過ぎている」気もするのです。
なので、今年は「頭の中身の虫干し」です。汗

>僕の方針としては、「現実を知る」
はい。
別の方が「叙事的な感性」とおっしゃっておられました。(#3)
それと同じ感覚ですね。。。
受け入れる/否定する、のどちらでもなく、「只、知る/認める/見つめる」ですね。

こんなにお礼が遅くなってしまったのは、sheep67様のおっしゃる
>自分の内面的なリアリティーを理解する、
これがこの質疑に対して出来なくなってしまった(と感じた)からです。
返答する自分の心をつかめなくなってしまいました。
返答したい心が見えなくなってしまい、捕まえる為に伸ばす自分の手も何故だか不安で縮こまり、申し訳なさで右往左往しておりました。

私は「知る事」が好きです。
「知らない事を知る」事が好きです。

なのに、どうにかするとその「知らない事」が怖くて怖くて堪らなくなるのです。
何故怖いのか?と自分に問いかけるとどうやら「思ったものでない事が怖い」と言う何とも筋違いな答えが返って来ます。
「知らない事」は「知らない」のだから、「予想通り」も「意外」も関係無いのだと説得を試みるのですが、言葉を声に乗せる傍から萎縮していくのを感じます。。。

「取り敢えず知る/進む」事を促すのですが。。。
その事の大切さは身を持って知っている筈の私がそれを不可能とする事が理解不可能です。。。

私の現状を乱文にて書く事で遅くなり過ぎた返答とさせて頂く事をお許し下さい。

お礼日時:2009/03/16 00:47

 yukkinn66さん ていねいな評言をいただき ありがとうございます。

No.1です。
 特にこちらから指摘するとなると それこそ 一大議論になるかと思います。漱石の文明論を取り出し それをめぐって 考えるところを No.9に 述べました。ほかでは 特には 箇条書きにしているので それとして yukkinn66さんが 読み取り評価されたところは 成立しているとも考えます。
 でも 放っておくのも 言いっぱなしになっていけないかと思い わたしのほうからの意図や見方などを 補いたいと思います。

 全体として 《17》以降は わたしの思いとは別の世の中のあり方を わたしから見て 分析したものです。言ってみれば その限りで 皮肉のようなものです。そして 《16》までにも 中には そのような皮肉としての分析が 入っています。
 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >《社会のほうから閉じられた》と感じていたとき

 これも辛いですね。。。(自分で選んで)拒絶する事よりも、
( 他人から勝手に)拒絶を受ける方が余程苦しいように思います。
 今ではもう大丈夫なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。ミネルワ゛のふくろうは 夕方になって飛ぶと言います。知恵の女神アテネのはたらきは ようやく問題の解決に到ったころ 全体像がわかるように 明晰な分析をもたらしてくれるといった意味だと思いますが わたしが 《太宰治ではないが・・・》の22カ条を書いたのも 同じような事情と経過が かかわっています。
 阿部謹也が その著書で 『坊っちゃん』から引用しているのを読んで 初めて 《委縮》ということばで 自分の状態を知りました。
 ▲ (『「世間」とは何か』・序章) ~~~~~~~~~~~~~
 赤シャツは あるとき坊っちゃんにいう。
  《あなたは 失礼ながら まだ学校を卒業したてで 教師は始めての 経験である。所が学校と云ふものは中々 情実のあるもので さう書生流に淡泊には行かないですからね》。
 坊ちゃんはそれに対して
  《今日只今に至る迄是れでいゝと堅く信じて居る。考へて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励して居るらしい。たまに正直な純粋な人を見ると 坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。夫(それ)ぢゃ小学校や中学校で嘘をつくな 正直にしろと倫理の先生が教へない方がいゝ。いつそ思ひ切つて学校で嘘をつく法とか 人を信じない術とか 人を乗せる策を教授する方が 世の為にも当人の為にもなるだらう》
 と考えている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき わが身の置かれた状態が 認識できました。つまり この文章と同じようなことを わたし自身が ひとに向かっても 言っていると知ったからには その効果の無さがわかったのでした。長いあいだ 一向に話が通じないまま わたしは 事あるごとに 言い続けていましたから しかも 学者が書く本でなら 世間に流通するのかと 嘆きつつ 確認したわけです。
 すなわち 本に書いた文章でなら ひとは読むが ただし その内容を 生活の中で 生活態度として 受け容れるというわけではない。こう 捉えました。のれんに腕押しが つづきそうだと思ったわけです。
 でも それまでの自分を 同じように うんうんと これからも 押して行こうとも考えたことになります。
 同じ阿部は すぐあとに こう書いています。
 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わが国の学問〔は〕日常会話の言葉を無視した・・・。
 いわば世間は 学者の言葉を使えば 《非言語系の知》であって これまで世間について論じた人がいないのは 《非言語系の知》を顕在化する必要がなかったからである。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 永くなるのを嫌わねばなりませんが この日本社会の現実についての理論ないし思想は じつは 《思索》の方面として けっこう わたしは おこなっていたのです。それでも 《わが身にかんする世間における位置づけとしての 委縮》については 言葉による認識をしていませんでした。
 いわく。
 ・《アマテラス公民圏‐スサノヲ市民社会》の連関構造なる国家形態
 ・スサノヲ市民らは アマテラス公民らに 国ゆづりをした結果 この二階建て社会が出来た。
 ・かくて アマアガリ症候群に罹患した人びと および アマアガリはしなくとも アマテラス予備軍シンドロームに罹った人びとがいる。
 ・アマテラス公民とそのファンたちは 一般に 意識の排泄を 《自由に》 おこなう。あるいはつまり その感情を 《自由に》 他人に対して アース(接地)する。
 ・これら《日本教》なる意識の垂れ流しネットワークは 隅々まで 行き届いている。
 ・この放射線の網の目は 電流を流したかのように 電磁波をさえ放射し これに抵抗する人間は たしかに 委縮する。
 ・うんぬん。
 ☆ でした。つまり わが身に関してだけは 認識していなかったのです。ようやく 自覚したというわけです。まっ いささか自分の名誉のために言えば 誰に対しても その存在の善であることを信じていたからかも知れないと みづからをなぐさめています。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >7
 この項目については少し戸惑ったのですが。。。
 信頼関係は「理由や必要に応じて」築くものでも築けるものでもない、と言う事でよろしいでしょうか?
 そして、自然発生(良い言葉が見つかりません)の信頼関係については諦めていない、と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 結論を言えば わたしの場合 《人を信じる》というよりは 《存在もしくはその善を信じる あるいは 絶対者を信じる》というあり方なのだと思います。《人》に対しては 《自分と同じように 愛する》です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >10
 *「欺かれる」について具体的にご教示下さると嬉しいです。
   (11の信頼関係の破綻、で良いのでしょうか?)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 出せる事例(もしくは 短く言える事例)として。大学卒業のとき とある銀行に就職した友は 《これからは互いに敵になるかも知れない。これまでの気持ちは 捨てたのだ》と言わんばかりに しかも 終始 無言で 去っていきました。

 ★ >11: *「果敢なる忍耐」。。。これは「嘘と演技」の事でしょうか?
 ☆ はい。そのとおりです。――ただ 上の事例を合わせて考えると 《嘘でも演技でもなく 本気で》 友は 去って行きましたね。大きく《日本教》の中で 日本教徒どうしとして 時には 敵どうしとなるに過ぎないと言いたかったのでしょうか。そうすると 大いなる幻想の共同の中に 入ることになるのではないかとは 考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >13
 「そうする人/そう出来る人」とは「勇敢」なのですか??
 ちょっと判り難いです。汗
 「破綻」を自分の責任に「引き取り過ぎる」と言う感じでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この友は 出世競争あるいは経済戦争が 自分にとって 現実であると捉えたのでしょう。当時として 自分の勤める会社が 《うち》(つまり 《お家の一大事》というときのような)なのだと思います。
 存在どうしの関係が 競争やたたかいによって 圧倒されて 信頼関係が破たんしたあと さらに 自分の所属としての《うちの会社》を基点として 二重・三重に フィクションをふくらますのだと思います。どれだけ嘘ないし虚構ないし幻想であっても 《勇敢にも 友情関係の破綻の上に 自分の人生物語を描いていこうとする》のだと考えます。

 ★ >14 :これも御願いします!
 ☆ じつは この友は やがて わたしの住む街の或る支店に配属になりました。電話をかけて来て 《敵としての立ち場になるときもあるかも知れないが 同じ戦場で仕事をするのだから 仲良くやろう》と その口調は――つまり 言葉としてではなく―― 言っていました。人ごとに フィクションを こしらえるのも然ることながら 時と場合に応じて フィクションの創作は 自由自在だなと思いました。

 ★ >15 :はい^^  苦しさは「勇気」であり「想像力の源泉」とも感じます。(合ってます?汗)
 ☆ これはですね。かれらは フィクションの創作のほうでも 《想像力を旺盛にして 発揮するものだな》と 皮肉で言っています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >16
 はあーーーーキザ^^です。素敵です。やられちゃいました。^^
 「耐えられない」のは「能力」であり人間の(心の)「進化のエネルギー」とも言えるでしょうか。不幸は耐えられない、だから幸せになろう!と言う。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ああ やっと 《キザ》の使い方が 分かったようでもあり まだ 分からないようでもあります。ちなみに
 ▲ (パウロ:コリント後書11:30) 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
 ☆ を用いています。これも しっかりと出典を明らかにすべきでした。たとえば《目から うろこ》(使徒行伝9:18)は 出典を明記せずに使います。そのように扱っていました。

 ★ >17:こう在りたいものです。でもこれって少々「難しい」事ではありませんか?
 ☆ ですから これは もう わたしの見方としては 皮肉として言っているものです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >20
 ・・・でもちょっと判り難い。。。汗
 虚構が虚構である事の「弱さ」を補う為に「(社会的成功とか?)強さ」が必要。。。でよろしいでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるとおりです。わが友を例に出していますが かれなら どんな場合でも つねに新しい虚構をつくる《能力》(皮肉です)を身につけているので もはや《その弱さを補う》必要はないかも知れません。でも 自民党なり秀吉なり巨人なりの アイドルやカリスマを 必要としているようでもあります。持ちつ持たれつで 《日本村》は 成り立っているように思います。(わたしの意味は 皮肉ですよ)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >21
 「強さは死を基盤としている」。。。ううむ。。。
 20と21についてはbragelone様ご自身の思いでよろしいのでしょうか?ん。。。自省の文でよろしいのですよね?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいえ 《ぎゃくに言おう》と言って始めている《17》以降は おおむね 皮肉であり 批判です。日本教の思想が そのようであるのではないかと言っています。すなわち
 ★ >22:最後の3項目は「社会への批判の視線」でよろしいのでしょうか?
 ☆ こちらのほうの評言が わたしの意図です。そういう意味での《思い・自省》でしたら まったく おっしゃるとおりのことです
 
 またまた ながながと 澄みません。
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 No.1です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本人は(根っこの)宗教観が大らか故、私は「変化」や「新しいもの」に耐性がある筈、と思えるのです。有る意味「勇敢」とも感じます。・・・何か「歪み」は感じています。
 夏目の講話に「現代文明の開化」と言うものがありますけれど、なかなか現在の社会状況にも当てはまるのではなかろうか、と考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼ (現代日本の開化――夏目漱石の現代文明論――)~~~~~
 http://kindai.bungaku1.com/meiji/kaika.html
 ・西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。
 ・ここに内発的というのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積(つもり)なのです。
 ・これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべ)りの開化であるという事に帰着するのである。
 ・しかしそれが悪いからお止(よ)しなさいというのではない。事実やむを得ない、涙を呑(の)んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの考えでは すべてを端折って
 ○ 接ぎ木でよいではないか。
 ☆ です。人間の自然本性に 違いはないと考えます。《上滑り》と言っても 《駆け足で進んで来た》という意味でもあるでしょうし 接ぎ木であっても その新品種が 人間性の範囲を広げてくれるかも知れません。土壌や基礎が なかったのではないわけです。
 この《文明開化》にかんしてなら 
 ★ 「台風一過、快晴!!」
 ☆ というふうに 行けるのではないでしょうか。

 ★ 何か「歪み」は感じています。
 ☆ たとえば 
 ★ 日本人は(根っこの)宗教観が大らか
 ☆ であるのに 西洋化のために 《中央集権体制 / 神国としての統一》がありましたから キリシタンは あらためて 邪宗門とされましたし 仏教も排斥という憂き目を見ました。
 しかも たとえば 江戸時代には 新井白石(?)でしたか 《神基習合》――神道と基督教とは あたかも神仏習合と同じように 同類であるという――をも唱えています。

 きわめて簡単な議論で済ませようとするのは
 ○ 人間の自然本性に 違いはない。
 ☆ に基づこうとしています。
 ・記憶・知解・意志の三つの行為能力 
 ・中で 特に 意志行為についての自由と責任
 ・自由ゆえのまこと(善)とうそ(悪)
 ・個人としての自治 社会としての共同自治
 ☆ これらに 違いはないという人間性に 基づこうという趣旨からです。

 ★ 自己を閉じる
 ☆ のは とうぜんの如く 自由と答責性をめぐって 人びとの言動に 必ずしも 共通の判断基準が 通用していないと捉えざるを得ないときです。
 これは 経験合理性にもとづく妥当性が 判断基準であるのでしょうが これが 必ずしも 論理的に・ことば毎に一義的に 決まらないことからも来るのでしょう。その場の空気に つまりは 権限や権力や権威のほうに 従うという別種の基準が はたらいていて これが あまりにも 不合理もしくは非人間的である場合には 困ったことになるというのでしょう。
 もう一点は たぶん 日本社会にあっては 《絶対》という概念の扱い方が きちんと 決まっておらず 共有されていないことが 大きいと思われます。欧米では これが 逆の情況であるかも知れません。
 
 とりとめがなくなって来ました。夏目の議論にかんれんしてでした。
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この回答へのお礼

bragelone様、すっかり遅くなりましたが再びの回答にお礼申し上げます。

>☆ わたしの考えでは すべてを端折って
>○ 接ぎ木でよいではないか。

わあーーーさすがはbragelone様、見事に「明るく大らかに前向き」でいらっしゃいますね。^^
そうなのですよね、接ぎ木であろうと無かろうと、内発的で在ろうと外発的であろうと、現状は「この存在」であって他の誰(何)でもない。

この質問も「閉じる自分を好もうと拒もうと「この私」は変わらず存在するのであって、他の誰でもない」と言う思いもあります。
変わらずに私は私であるならば、それを「有効活用」するまで。
>接ぎ木であっても その新品種が 人間性の範囲を広げてくれるかも知れません。
自分の範囲を広げたり深めたり色付けしたり。。。その為の要素にして行きたいと思うのです。

>きわめて簡単な議論で済ませようとするのは
>○ 人間の自然本性に 違いはない。
>☆ に基づこうとしています。

何処に在っても、いずれの神を信仰しようとも、どんな制度の下に生きようとも「人間の自然本性は同じ」であるのですね。
此処の部分を「違いがある」としてしまうと、途端に私の思索の枝葉は収拾不可能になります。だからと言ってそれを纏める為に前提を設けているわけではないのですが。。。。

>たぶん 日本社会にあっては 《絶対》という概念の扱い方が きちんと 決まっておらず 共有されていないことが 大きい

これについては「信仰」或は「宗教観」に根付く部分でしょうか?
それとも人々の「行動基準」でしょうか?
「行動基準」と言うと大袈裟かも知れませんが、こういった(自分を閉じる)状態に関する異常と通常の線引きと言うか。。。。

其処に限らずとも、日本人が何かと「何でもあり!!」な感じになってしまうのはこの「絶対」が共有されていないから。。。そうかも知れませんね。

あーーーお話をちゃんと浮けとれているか、変に心もとないのです。
でも、そんなに「書き手の思惑通りに受け取る」事にこだわる必要も無いのかも知れませんね。^^
ありがとうございました!

お礼日時:2009/03/03 15:56

回答番号:No.7 です。



訂正お願いします。

3.の必要性は必然性でした。

ついでに、回答は私の独断と偏見です。一つの見方として参考程度になれば幸いです。
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自分を閉じたという結果に関して言えば、思いつくのは、



1.肉体(脳)的病気としてそうなる場合。

2.社会(人間関係)で精神的に追い詰められてそうなる場合。

3.人格構成において、必要性に応じてそうなる場合。

などが大きく分けた原因として思いつきます。
もちろん、1.2.3.の複合系も存在すると、思うのですが、その状態が何から始まり、なにが、どのようにその状態を作り出しているか、把握することが、大切かと思われます。

1.が原因でそう言う状態になった人は、2.3.の複合的要素が少なければ、薬で良くなると思います。

2.3.の要素は自分自身の中にある問題が多いの物なので、人によってアプローチは大きくかわってくると思います。
中には2.3.が原因で1.が大きく現れる事もあると思います。

あまり細かく書くと、長文になるので。

余談ではありますが、見分けは、つかないかも知れませんが、意図的(何時でもやめられる)な、自己の閉じは、人間の成長において、個人的は、在っても良いとおもいます。
自己や世界を、より見つめなおす事や、深く考える時間は、精神を強くする事になり、病的な閉じの予防にもなると思うからです。
そう言う意味で自分を閉じた事はあります。
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この回答へのお礼

maimaisus様、すっかりお礼が遅くなりまして申し訳ありません!
回答頂いては嬉しくってすぐに拝見するのですが「返信」となると迷いが溢れてしまいます。。。

冷静に分類して下さってありがとうございます!
>1.肉体(脳)的病気としてそうなる場合。
>2.社会(人間関係)で精神的に追い詰められてそうなる場合。
>3.人格構成において、必要性に応じてそうなる場合。

そうなのです、「自分を閉じる」と言う状態はいずれの場合も「必要に迫られて」の状態であって、「自ら選んで」の状態ではないと考えています。
#6の補足欄にて
「誰でも閉じこもって考え事に耽る経験はある筈」と書きました。
それだって、「一時的にでも閉じないと考え事が纏まらない」と言う必要に迫られて、の事です。(これはmaimaisus様の分類では>3に当てはまるかな)

問題はその「閉じている状態」が「自分自身で苦しいか?辛いか?」或は「自分の望む生活から離れているか、否か?」と言う事なのだと思います。
苦しさも(それ自体の)実り有るものと無いものがあります。
勿論、経験してしまった以上、それを「人生の糧にする必要」は出て来ますけれど、その閉じている時点で「苦しさの先に見えるもの」が無い場合、それは「人生の弊害」となると考えています。

「弊害」等と書くと語弊があります。
「意識して改善すべき状態」と言うべきでしょうか。。。

他人に助力を仰ぐか否か?はこの点を考慮して決めれば良い、と考えています。
「他人の助力」とは、例えば
「私の話を聞いて欲しい」であったり、
「ちょっとの間手を握っていてくれないかな?」、
「仕事を減らして欲しい」、
「しばらく食事は惣菜中心で勘弁してね」、
「子ども達を一時保育に預ける」、
「休日はひたすら眠るからよろしく!」だったり、から

カウンセリングに行ってみる、
保健所の無料相談に行ってみる、
心療内科を覗いてみる、
婦人科に掛かってみる、等も含まれますね。

「自分を閉じる」と言う表現にアンテナが反応する方は多かれ少なかれ「苦しい」と感じていらっしゃるように思います。
そのトンネルのように続く「苦しさ」の先に「出口を感知出来ない」場合は、少々「異常事態」と捉えてみた方が良いのでは?と考えております。

ありがとうございました!

お礼日時:2009/03/03 12:51

 回答番号:No.2 補足をありがとう。


 小6で閉じました。閉じたから、教条的なことに走っています。
 みんなが閉じていたから、開いていられなかった。
 存在とは所詮、閉じたものなのだと、今は納得しました。
 多大なる手傷を負ったあと、その成果として。
 現在に至る過程においては、理屈が成り立てば何をすることも可能であり、可能とさせるのだ、ということでありました。
 結論の明確な提示が必要でした。
 そういう進行線路で湖人、百三、阿部次郎、・・・、宗教、ヒンドゥと経て、今そのヒンドゥに住所をおいています。
 自己が居なくならないと、閉じた存在は解消しない。
 所詮は、呼吸で存在するものは閉じたものでしかない。
 それをとやかくいっても、自分の場合は意味が無いという閉じ方を今はしている。
 この閉じ方が欠陥をもっていることは、承知していても、それをこじ開けることはできないし、とやかく言われるのも、こじ開けようとされることも、多大の反発で抵抗する。
 蚊取り線香のような、そういう路線を走っていて、更にそれを増設して走り、何とか啓いた(開いた)世界、自分がもてると、納得しようとしている。説得している。
 老齢になると、そういう中でもそんなそぶりも出来てくる。
 この世、処世を口先、頭先で蹴飛ばしながら、処世に長けてきたと思えるようにもなる。
 事情というものを分かってきたかのようである。
 ここに閉じた方のたくさんのお話は、同感し興趣につきないものである。
 でも嫌な奴の一人である、私はその嫌な奴の道、螺旋線香を歩き続けるだけである。
 尺取虫が、小枝の先で空(くう)に身をくねらせて、空を探っているように。
 そして仮想の小枝を継ぎ足して、歩いている仮想で、歩き続ける。
 空しく、つらく、そして他者の愚かさを思い、自己の生産性、成算性を虚構・構築しながら。
 個別存在も、不変存在も、存在とは所詮自己完結、閉じたものであるという、思いに打ちひしがれても、なお個別存在、存在としてあり続ける。
 存在をでることしかないのだろうが、空しく存在の中を歩いている。

この回答への補足

krya1998様、こんにちは!
丁寧に再びの回答を寄せてくださって感謝申し上げます。

>閉じたから、教条的なことに走っています。

「宗教的な決まり事(ヒンドゥ)」でしょうか。
決まりに依って自己の存在を支えている、と言った感覚でしょうか?
批判でも何でもなく、私の個人的な感覚としましては「消極的/受動的」に感じられるのですが、いかがでしょうか?

>みんなが閉じていたから、開いていられなかった。

とお感じになったのは「小6の時」でしょうか?
その年頃でそう感じられると言うのが、少々不思議に思えるのですが、何か環境的家庭的な必然性が在ったのでしょうか。。。

>存在とは所詮、閉じたものなのだと、

これにつきましては、同意でもありますが、それを敢て「開いて行く意志」を持つ事が人間の意義であるように私は思うのです。
なので、自分が閉じていた時は意志に反していると言う思いで苦しかったのです。

>多大なる手傷を負ったあと、

苦しかったのですね。。。今は癒されていますでしょうか?
その傷を癒した「薬」は直接的には何であったのか?お聞かせ頂けないかと思います。

>理屈が成り立てば何をすることも可能であり、可能とさせるのだ
>結論の明確な提示が必要

はい。
私自身も小さい頃から何かと「理屈屋」で在ったように記憶しております。
でも自分の性格と言うか本質としては「叙情」で在りたいと言う風に感じます。
只己を護る、或はその為に「理解者を得る」手段として「理屈屋」で在ったような感じです。
こう考えると私は「自己防衛」を一人で行う自信が無かったのだ、とも思います。誰かの力を借りる為に常に理解者を得る必要が有り、その為に「理屈を利用」していたように感じます。だからと言って理解者は安易に得られる筈も無く、いつもいつも不安で居ました。
その不安を私は能力(と言われるもの)で補おうとしていました。
例えば学力、部活動での能力、何らかの作品展やコンクール、様々な場での意見表明やら討論やら。。。田舎故有る程度満足出来る成果を収めて来ました。
自己防衛を外からの力で行おうとしたのか、何とも自分の内部に評価基準を置かない不安定さを抱えて来ても居ました。汗

>呼吸で存在するものは閉じたものでしかない。

そう拝見して何か初めて「ああ、そうだ。。。」と思いました。
今迄にもそんな風な表現は見聞きした事が在った筈なのに。。。何故でしょうね。。。

でも、それとは別の意味で
>この閉じ方が欠陥をもっていることは、承知して
いらっしゃるのでしょうか?
「全ての人間」が閉じた存在である事は然り。
でもその存在の中でもご自分の閉じ方は欠陥を持っている、と言う事でしょうか?
これはどの部分でそうお感じになるのでしょうか?

私も上手くは言えないのですが、欠陥の有る閉じ方と無い閉じ方が在るように思うのです。誰でも閉じこもって考え事に耽る経験は在ると思われるのです。そして、私は自分を特別だとも思っていないのです。
でも、何故苦しいのでしょう?何故「閉じる」と言う感覚が表面化するのか。。。あまり一般的に無い感覚のようですが。。。

これは単に、言葉にこだわるか、こだわらないか?の違いでしょうか。。。

>蚊取り線香のような、そういう路線を走っていて、

でもそんな路線はとてもとても人生を意味を「吟味して生きる」ようでもあり、私は好ましいと考えております。^^ 勿論苦しさは感じますけれど、そのような生き方で生きて行きたいとも考えております。

生命が二重螺旋構造の DNAによって自己を差別化しているように、そんな蚊取り線香的生き方(^^)はとても自然な在り方なのではないかしら、とも思うのです。(強引な解釈ですね。汗)

空しく、つらく、愚かに感じるのも「本当の変化は目に見えない」ものだからではないか?と。同じ場所をぐるぐると、或は一進一退で変化は皆無に自覚していても、必ず長い時間の果てに「振り返ってみれば道が見えた」と言うように。。。

思うまま、つらつらと乱文にて申し訳ありません。
しかも気付けば空腹で、余計に頭が鈍いです。汗

ありがとうございました!

補足日時:2009/02/24 18:26
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 ☆ アポロンの生誕 ☆




 砂の海に
 立ち込めた
 陽炎が
 しなやかな身体を
 くゆらせ
 ボレロを舞い
 魔法使いの鏡の中で
 か細い腰を
 さらに細めながら
 昇天してゆき
 なおも激しく
 また登り始めたかと思うと
 異教の寺院で祈る娼婦のように
 長々と寝そべり
 半透明の捩じれを
 駄々をこねながらも
 あたり一面に散らして
 晴れ上げるとき

 虹色の南の風が立つとき

 一群れの鳥が
 はばたき始め
 次からその次へと
 一気に翔けのぼり
 うず高く浮かび上がり
 さらに翔けのぼり
 瀕死の陽炎を追いかけ
 ふたたび急降下し
 みたび舞い上がり
 チョコレート色の翼一杯に
 そよぐ風を浴びて
 砂の海を
 去ってゆく

 ひと群れの
 うずら
 初夏


 遊鳥の旅団は
 約束の地に向かう処女のように
 陽炎の去ったあとの
 ガラス張りの大陸に
 褐色の肌を晒しながらへばりつき
 自ら締めつけた喉の奥から
 γ線の叫びを叫ぶスフィンクス
 時の忘れ子スフィンクスらに
 今年も別れを告げて
 地球の斜角をよじ登り
 神々の住む
 オリュムポスの峰峰を目指して
 北へ向かい


 回帰への旅路をさまよう陽炎を
 やさしく両の手で包み
 その亡き骸を陽の神に捧げて駆ける
 南の風に 
 乗っかって



 アフリカに絡みつく
 ニルの大蛇が
 幾千の首を伸ばし
 重たい水煙を吐き出す
 焦げ付いた都を
 過ぎ去って


 踊り出てゆく
 大洋 
 地中海に


 海は 
 大蛇が静やかに注ぎ込む 
 ファラオの
 (ルクソールあたりの大遺体か)
 ファラオの
 しめやかな永劫の涙を
 ひと粒残らず飲み込んで
 怠けものの黄牛が
 反芻を楽しむ如く
 ゆっくりと
 自らの胎内を
 回遊している


 苦い輝きを発する
 オリヴの小枝を
 口にくわえ
 いくつもの
 色とりどりの乳房を
 軽やかに
 掻きくすぐってじゃれ飛ぶ
 白茶色の鳩が落とす
 五羽六羽
 八羽九羽の
 影を浮かべ
 青い肌の鏡面は
 初夏の陽光を浴び
 恥づかしげに
 輝き伸びている

 
 常にも増して大きな下腹部を
 南の風にやさしくさすられ
 過ぎ去った秋の 
 ゼウスとの恋を
 新たに偲び
 空を翔け
 空を翔けながら
 生まれ来る一羽
 そして多分もう一羽の
 雛鳥の前にしのび寄る危惧を
 そっと両の羽根で覆い
 覆いながら新たな不安に
 その子らの父の
 厚い庇護を祈る
 レト


 レトをまん中に
 渡り鳥の群れは
 オリュムポスの神妃ヘラ
 ヘラの嫉妬を思いやって
 顔を見合わせ
 見合わせながら
 五月の青を
 抜けてゆく


 五月の青を抜け
 はるか下に広がる鏡面の青に
 想い出を映し
 言葉の葉脈が
 まだその形を現わさないまま
 樹樹が
 熱い蒸気をささやく
 海原から伸び茂る昔を
 ゼウスがまだゼウスでなかった昔を
 映し
 卵巣の海に葦の小船を浮かべ 
 櫂を漕ぐ手に赤い戦慄を覚え
 たじろぐ身と溶ける心が
 ない混ざり
 深海のシレーネーを聞く頃


 ヘラの嫉妬は
 夫ゼウスの新しい恋人レトの
 レトの異国の肌の侵入に怒り狂い
 この陽の下にその混血の出生は
 ならぬと固く誓い
 喚き散らし
 異性と交わらず自ら産み落とした
 目にも鮮やかな巨竜ピュトーン
 ピュトーンを放ち
 世界の黄昏の地にまで
 遣わし

 
 神殿デルフォイの守護者
 ピュトーンは
 殺し屋の長身を引きずって
 海に浮かぶ大小の乳房を縫い
 のっそりと這い進み
 背の鱗粉に
 澄み渡った鏡面の
 まばゆいばかりの
 輝きを閃かせ
 ひっそりと上空を窺い
 季節の女神の
 はからいの中に渡り来る
 一羽の臨月のうずらを
 待っている


 渡り鳥の恐怖は
 今静かに内から突きのぼり
 レトは
 海底を這い来る
 ヘラの潮流を
 素早く見届け
 湧き上がる優しさの
 捩じれを撚り戻し
 陽の神ののぼる地陸の
 褐色の血の前途を清め
 長音と短音の山並みに包まれた
 ギリシャの地平に
 覚悟を飲み込んで


 山々のクレータの
 35度を
 遂に越え


 のちの聖なる島
 デロスを取り囲む
 キュクラデスの
 小さな島々に
 さしかかり


 のちに東方のフェニキアの
 王女エウロペが
 一頭の白牛に姿を変えた
 神々の神ゼウスの
 背に乗って
 里を去り
 青い海を渡るとき
 たどり着き
 迷宮クノッソスの王となる
 ミノスを
 産み落とす島
 クレータをうしろに


 のちに姿を消した
 エウロペを追って探す兄
 カドモスがたどり着く
 三日月模様の島
 テラをまえに


 突如 一撃の疼痛が走り


 のちにカドモスの娘
 セメレとゼウスとの子
 酒神ディオニュソスが
 葡萄園を開く島
 ナクソスを通る頃


 月足らずの陣痛が
 激しく襲い


 はるか遠く
 半島ギリシャの先に
 細長く口を開けた湾
 エウボイアから
 島アンドロスの松林と
 島ケオスの果樹園の間の
 水門を抜けて
 近づいて来る
 一連の不気味な鱗光を
 見つけ
 黒曜石の島ギアロスの陰に
 逆鱗が隠れたとき


 ひと群れは
 音もなく 
 隊を崩し
 南の風に
 身重のレトを包み
 そっと
 白い島ミュコノスの
 太陰暦のなかに眠る
 小島デロスの分島
 オルテュギアに
 降ろした 


 うずら(オルテュックス)島


 増進した疼痛を引きずる心のどこかを
 そこに吸い込まれる気にさせる
 紺青の海に囲まれ
 その波ひとつない水面に
 いまにも飛び込みそうな絶壁と
 不毛の丘陵のほかには何も
 ないオルテュギア
 島を実を結ぶことなく
 見渡して
 岩陰に下りると
 すぐに母体を離れ出た嬰児
 アルテミス
 姉アルテミスは
 見る見るうちに
 山の端からのぼる月のように
 満ち
 石苔の褥の母レトを伴い
 満潮の力を力として
 オリヴの鈍い色に映える
 明晰の島
 デロスを目指し
 海の狭間を
 渡る
 その淡い緑白の花が
 ――二つのとがった嘴の
 両頬を潤わせることに――
 歓待の香りを放つ
 小森のなかに
 生い茂るオリヴの
 木陰に
 急をしのぐ


 一組の母子の発する
 クウェッ クウェッという叫びは
 それぞれひと塊の礼砲となって
 一羽の神の生誕を
 傷むように祝うように
 小森を舞い上がっては落ち
 紺碧に鋭く穴をあけ


 弾痕が
 やがて茜色に染まり


 遠く山腹に聖域をたたえた
 パルナッソスの山々に
 夕焼ける陽塊が入り
 勢いを増して
 あたらしい現出を痛む
 夜を明かし
 昼を過ごし
 夜を送り   
 光明がななたび・やたび
 南の至点を駆け
 さらに一夜が明け 
 背後には石筍と石鐘乳が芽を吹く
 キュントスの山を従え
 オリヴの小森の果てる海辺には
 母と娘には
 故里を想い起こさせる
 なつめ椰子の群れを飾り
 キュクラデスの漁民が作り上げた
 白い獅子像を配置して祝う
 デロスの島に
 生まれ来る一羽のうずらの
 ペルソナを捩じる
 九日の動転と
 九夜の反転の後
 アルテミスの見守る
 母レトの傍らに
 巨神太陽の射る第一の矢を受けた
 赤い肌のアポロン
 七ヶ月の早生児


 生誕を待ち受け
 地中海にひとり
 浮きさまよって来た
 島デロスには
 二対の三柱
 南の風をもたらす 
 序と義と和の季節の女神と
 糸を紡ぎ・分け与え・断ち切る
 運命の女神との母テミスが
 見守り
 海神ポセイドンの妻
 アンピトリーテーが
 オリヴの森を揺らす
 微風を運び
 父なる神ゼウスの母神
 レアが駆けつけ


 まだ見ぬ歓びの中に
 取り上げ
 異国の水を注ぎ
 麻布の純白に包み
 紐の黄金で結び
 結ばれたアポロンは
 養母テミスのもとに
 運命の女神
 クロートの紡ぐ 
 ネクタールを飲み
 ラケシスの分け与える
 アンブロシアを食し
 四日目の朝が訪れるとき
 竪琴と弓矢を取って
 立ち上がり
 祖母たちの愛の豊饒の中に
 対象のない恐怖を覚えた
 己れを掻き鳴らし
 打ち放ち
 子午線をひとり
 北へと向かう


 ピュトーンの鱗粉に揺れる
 鏡面を下に見て
 琥珀の道をたどり
 未踏の回帰線を跨ぎ 
 北の風のかなた
 凍河エーリダノスの流れ込む
 極洋の
 白い夜の国へと



  そこは昼も夜の国だった。

  谷合いの橄欖が香りを そして 遠くの入江が潮風を かろうじて流し込んでいるが 谷にはいつも深い霧が湧き立ち 背後の山は 裸岩ながら険しい鉄面皮をさらしており 陽炎の国とは そして 周囲の地平とも まるで 隔絶された小宇宙だった。

  竪琴を一本 鳴らすと 陰画紙のなかであえぐ愛のように 闇のとりもちに引っかかって 怪しげな死を死んでしまう。

  ここが デルフォイだった。

  神域は 断崖の一角 斜面の急にこびりついている。よく見ると 双つの鈍い赤の岩壁は 獲物を前にした龍が揉み手をする双舌を想わせた。岩壁の赤や 裸山の褐色や 下方の濃緑が 空のはやした霧の鬚の透き間を漏れる光線に映えている。

  プルルンと 地球の臍に立って アポロンは また ひと鳴らしした。かつてゼウスが地球の両端から二羽の鷹を飛ばして それらが落ちあったところが この地だと言う。その民族の中心が固まって生まれたピュトーン。

  異邦人アポロンは この巨龍と戦わねばならないと思う。

  地球のへそに立って プルルンとかき鳴らすと 三つになったアポロンは 魂がかすかに弾むのを感じ 弓矢を握る手に力がはいった。奉納や宝物殿が軒を連ねる神域を静かに歩いていった。

  霧の障子がかすかに開いて 外の世界が見え隠れするなかに いま登ってくる途中 背の羽根を清めて来たカスタリヤの冽泉が光っている。

  きらきら光る泉の岸にも 臍から湧き上がる大地の岩漿が取り巻いており 岩漿は 谷合いを流れる小川のせせらぎの中にも 間歇的に障子をたたく西の風の音の中にも 地霊の呪文をささやいている。

  

  山を巻いて登る小径を進むと 岩陰に怪しい窪みが見え その中から大地が息をする噴気が上がっている。母レトの話すには デルフォイの巫女たちは 聖なる裂け目と呼ぶこの岩陰で 湧き上がる灰褐色の噴気を吸ってそのペルソナを脱ぐのだと。地霊の吐く言葉を着るのだと。この噴気こそ ピュトーンの息の根にほかならない。

  片方のサンダルを脱いで 進んで行った。
「「自分を閉じ」た事の有る方、集合!!」の回答画像5
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