遅刻の「言い訳」選手権

平安京に遷都するとき、どこを「平安京」にするかいくつか候補地が挙がって、結局現在の京都市になったと読んだことがあるのですが、他にはどこが候補にあがっていたのでしょう?
また、それは誰に、どんな理由で推薦されたのでしょうか?

A 回答 (5件)

>平安京に遷都するとき、どこを「平安京」にするかいくつか候補地が挙がって、結局現在の京都市になったと読んだことがあるのですが、他にはどこが候補にあがっていたのでしょう?


また、それは誰に、どんな理由で推薦されたのでしょうか?


平安京の遷都について他の候補があったとの記述について調べてみました。日本後紀、水鏡、今昔物語集、京都府の昔ばなし等あたってみましたが見つけることはできませんでした。
ただ、「日本後紀」の延暦18年の和気清麻呂の薨伝に「清麻呂潜奏、令上託遊猟相葛野地、更遷上都。」とあり、清麻呂の密奏により桓武天皇は狩猟にことよせて葛野(平安京の地)を視察したとあります。ことによると他の候補地もこのようにして狩猟にことよせて視察した可能性があります。そこで、「日本後紀」の記録に当たってみました。
遷都前年の延暦11年の記述を見ると、天皇が狩猟した地として、「登勒野(トロノ)」3回。「水生野(ミナセノ)」2回。「大原野(オオハラノ)」3回。「栗前野(クリマエノ)」2回。「葛野川(カドノカワ)」1回。「交野(カタノ)」1回。「葛葉野(クズハノ)」1回。「石作丘(イシヅクリノオカ)」1回。「椙谷(スギタニ)」1回となっています。
現在の地域を当てはめると、京都市右京区にあるのが「大原野(オオハラノ)」・「石作丘(イシヅクリノオカ)」・「椙谷(スギタニ)」。
現在地不明の「登勒野(トロノ)」は、「猟罷臨葛野川(現在の桂川)、賜従臣酒。」とあることから葛野の近くに存在したものと想像され、平安遷都が決定した延暦12年には見られなくなることから、平安京の候補地もしくは隣接地であるように思われます。これに「葛野川(カドノカワ)」も含まれると思います。さらに山城国としては宇治にある「栗前野(クリマエノ)」が上げられます。また、伝承でしょうが東山の将軍塚には桓武天皇が遷都前に将軍塚から葛野の地を見渡し、都に相応しいかどうかを見たとの話がありました。
ちなみに、平安遷都が決定した延暦12年では、京都市右京区にあるのが「大原野(オオハラノ)」4回、「石作丘(イシヅクリノオカ)」0回「椙谷(スギタニ)」0回。「登勒野(トロノ)」0回、宇治にある「栗前野(クリマエノ)」3回。それ以外に伏見区の「瑞野(ミズノ)」3回、宇治市の「岡屋野(オカヤノ)」1回となっています。ちなみに、葛野または葛野新京への行幸は7回が記載されています。
これに対して現在の大阪府、当時の摂津では「水生野(ミナセノ)」2回、「交野(カタノ)」1回、「葛葉野(クズハノ)」1回があげられます。
平安遷都が決定した延暦12年では、「水生野(ミナセノ)」2回、「交野(カタノ)」1回、「葛葉野(クズハノ)」0回です。
このように見ていくと、桓武天皇の狩猟地はおおよそ京都市の西山地区(西京区)、葛野地区(後の平安京)、そして摂津の南東部(枚方・水無瀬)に分類できるのではないかと思います。候補地があったとすればこの3地区ではなかったでしょうか。この内交野は桓武天皇が「朕の外戚」と宣した百済王氏の本拠地であり、百済王明信は桓武天皇の青年時代の恋人ではないかと言われています。この百済王明信の夫が右大臣藤原継縄であり、藤原継縄は交野と葛野の双方に別業(別荘)を持っていた人物です。特に葛野の別業の存在は、平安遷都決定に関係を持っていたとされています。

本論を少し外れますが、「日本後紀」の延暦12年3月の記述の中に、「改摂津職為国」とあり、その解説に、「本朝置左右二京職比漢京兆府。以大夫比尹。又以摂津為旧都之地。置準京府。於是、改同諸国置守国守。即漢唐郡守之任也。」とあり、この時期まで難波京は副都とされていたようです。長岡京の建設のために宮殿の一部を移転したりしていますから、副都の実態はなくなりつつあったとは思いますが、場合によるとこの地も候補地であったのかも知れません。(延暦11・12年には桓武天皇の行幸はありませんが、難波へはしばしば行幸している)

さて、遷都地決定にあたって、葛野の地以外の候補地があったことは資料に明確に残っていたわけではありませんので、葛野の地との比較はできませんが、葛野の地に決まったのには次のような理由があったとされています。
その前に何故遷都したかですが、怨霊及び自然災害・天皇の近親者の死去などの理由によるとされています。
「日本後紀」の延暦11年6月の記述に、「皇太子久病。卜之祟道天皇為祟。」とあり、藤原種継暗殺事件及び早良親王の廃太子・親王の自殺から、天皇の近親者の死去、病気が続き、その上長岡京は洪水等の災害に度々見舞われています。延暦11年7月には「雷雨。潦水滂沱(ロウスイボウダ)。式部省南門為之仆(タオレル)」とあって、官庁にも被害が及んでいます。このため、怨霊から逃れるために遷都したと考えられています。また、自然災害・天皇の近親者の死去なども天皇の政治を天が受け入れていない、もしくは間違っている、天皇の徳が薄いとみなし災異を下していると見られ可能性があるために遷都したとも考えられてもいます。
次に葛野の地に決まった理由ですが。
1、平城京もしくは大和国以外であること。
平城京は天武系の都と考えられ、天智系天皇であることを自己のアイデンティティーとしていた桓武天皇にとって、平城京ではないことは第1の条件であったものと考えられています。(天武系の勢力は仏教・寺院勢力と結びついていたために、長岡京には寺院の移動を認めなかったとされています。)
2、地理的条件に優れていたこと。
「日本紀略」の延暦13年10月の記述に、「遷都。詔曰。云々。葛野ノ大宮地者。山川モ麗ク。四方国ノ百姓ノ参出来事モ便シテ云々。(カタカナ部分は本来漢字)」。同11月に、「詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯。自然作城。因斯形勝。可制新号。宜改山背国為山城国。又子来之民。謳歌之輩異口同辞。号曰平安京。」のように三方を山に囲まれ、南に巨椋池があり、桂川・鴨川を通じて、淀川、難波の港から当時の大交通路である瀬戸内海につながっていること。西に山陰道が通じていたこと。長岡京の経験から都の中を川が流れていないこと(鴨川の流路を変更し、堀川を開削しているといわれています)。などがあげられます。また、北に玄武(山地)としての北山。東に青龍(流れ)としての鴨川。南に朱雀(海・湖沼)としての巨椋池。西に白虎(古道)としての山陰道が通じ、四神相応の地であったとも言われています。
3、秦氏の根拠地に近かったこと。
太秦・松尾及び伏見地域などに秦氏が住み、その高い技術力や財力は長岡京の建設でも大きな力となったとされています。また、現在の京都市にあたる地域の開発を最初に大規模に行ったのは秦氏だと言われており、その代表例が葛野川の堰である葛野大堰(オオイ。これが大井(大堰川)の名の由来とされています)です。
4、和気清麻呂の建言。
以上は四神相応の地を除き定説化しているものです。
以上の考え方以外に次の説があります。
5、新興勢力である藤原氏が、天武系の皇統と結びついていた旧族勢力の力を弱めるために、長岡京、平安京と遷都をした。(種継暗殺事件の背後に、大伴・佐伯・紀氏と東大寺関係者がいた事などによる説)
6、桓武天皇の外戚であった和氏、百済王氏、その他渡来系の秦氏、坂上氏、菅野氏、さらに地方出身の和気氏などの天武系の皇統下では日の目をみずらい勢力が、桓武天皇の側近勢力として遷都を推進した、もしくはそのような勢力の財力・技術力などを利用した。
7、元々葛野の地への遷都が計画されていたが、平城京からの直接的な遷都ではなく、長岡京にワンクッション置くことにより反対勢力の抵抗を弱めるとの説。特に長岡京が10年で廃棄されたこと、長岡京の遺跡をなかなか発掘できず幻の都と呼ばれたことなどにより以前は有力な説であったのですが、発掘の結果、長岡京が整備され完成度の高い都だったために今では有力な説ではありません。

以上長くなりましたが、遷都の候補地に関してははっきりしませんでした。また、葛野の地が遷都先に選ばれた理由もたくさんあり、長くなってしまいました。長いだけで核心を突いていない回答ですが参考まで。
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NO.3です。


すいません、訂正です。
分部穢麻呂→正しくは別部穢麻呂でした。
ごめんなさい。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97% …
上記サイトによれば
和気清麻呂は平安遷都の建設に進言し自ら造営大夫として尽力した、
とあります。
http://www.gooujinja.or.jp/yuisho.html
の護王神社Hp 【平安京の造営】においても
清麻呂公は、淀川上流の葛野の地に都を造営することを天皇に進言した、とあります。

ただし、古いことなので何とも言えません。

なお、護王神社Hpの道鏡事件についての記事は
続日本紀の記述とはかなり違っています。

護王神社Hpでは、道鏡は大変怒り、清麻呂を死罪にせよと怒鳴ったが
称徳天皇が道鏡をなだめて罪一等を減じて流罪にしたとありますが

続日本紀では清麻呂を怒ったのは称徳天皇で、
和気清麻呂を分部穢麻呂と改名させて流罪にしたとあります(汗~)

おそらく護王神社ではそう伝わっていたということで
護王神社の記述が間違いだとは言い切れませんが。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

(1)平安京を造ったのは「桓武天皇」ですが、それ以前は、飛鳥宮や難波宮、さらには、大津宮など、天皇が替わるたびに、これらの3つの都を行ったり来たりしていました。

(2)やがて、元明天皇が和銅3年(710)に平城京を建設して遷都。

(3)桓武天皇はこの平城京で生まれ、平城京で即位しました。

(4)しかし、光仁天皇の数多い男子を除けて天応元年(781)4月に天皇に即位したため、反対勢力も多く、また、東の丘陵地に東大寺の大仏殿が、あたかも、都を見下ろすように造られていたため、そして、平城京では、仏教徒の勢力も増してきました。さらには、下水の役目をしてくれる川の水も少なく衛生状態も悪かった。

(5)そこで、桓武天皇は密かに狩を装って候補地探しにでかけ、側近であった藤原種継(たねつぐ)の進言により、種継の支持基盤でもある長岡の地が候補に挙がりました。

(6)まず、大きな川があり、物資が大量に輸送できること、川の流れを庶民の家々にまで、分岐して引き込み下水処理(大小便を流したり生活排水を流したり)ができることが条件でした。

(7)長岡の地は、桂川や宇治川などの大きな川の合流点で、桓武天皇は、ただちに、宮殿と街の建設を指示し、8ケ月後の延暦3年(784)6月に平城京から、長岡京への遷都を実施しました。

(8)しかし、政局は安定せず、桓武天皇の信頼が厚く、長岡京のさらなる建設を進める藤原種継が暗殺されました。

(9)そこで桓武天皇は、「必ずや種継暗殺を企てた者を探し出せ」と指示し、数十人が捕らえられ斬首の刑に処せられました。だが、その一味の中に家族である弟の早良親王(さわら)もいたため、早良親王を幽閉し、島流しにしようとしましたが、早良親王は死亡しました。

(10)長岡京で理想の都造りが出来上がろうとする中、旱魃による飢饉の発生、疫病(天然痘)の流行、そして、輸送の利便を考えていた川の氾濫などが次々と起こるようになり、長岡京の街は疲弊してしまいました。桓武天皇は憂いて「祈祷」をしてもらった結果、早良親王の「たたり」がある、と言われました。

(11)そのため、この「たたり」を断ち切るために、更なる遷都を宣言し、桓武天皇が自ら候補地探しをし視察をして廻りました。そして、将軍塚と呼ばれる山に登り、平地を見渡した時、(京都の)葛野(かどの)の地が適していると判断し、延暦12年(793)1月に都の建設を指示して建設が始まりました。

(12)延暦13年(794)10月22日に桓武天皇は葛野の地の新しい都に入りました。そして、これまでは、その地方の名前で呼ばれていた都の名前を11月8日に「平安京とする」という詔(みことのり)を宣言しました。文字通り、「平らに(何事もなく)」「安心して」住むことができる都という意味です。

(13)平安京では、長岡京での失敗、つまりは、川の氾濫などが起きないような平地を選定基準としました。しかし、北の山間から「東堀川」と「西堀川」という主要な川を掘削させ、庶民の各家庭での下水処理などに役立てました。

結論:
>長岡京は、藤原種継(たねつぐ)の進言により建設されました。
>平安京は桓武天皇自らが探して歩きました。

選定基準:
>近くに大きな川があり、陸路よりも、より多くの物資が一度に運べること。
>人々がいきていくために欠かせない水の便が良いこと。
>そして、下水などが整備されて、疫病の発生を防ぐことができること。
>また、なるべく広い平地であること。
などでした。

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多分平城京から長岡京へ遷都が行なわれ、長岡京造成中のトラブル(早良親王?)に絡んで平安京への再遷都が行なわれた事を指しているのではないでしょうか?


正史では再遷都は和気清麻呂の進言だったとされています。
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