プロが教えるわが家の防犯対策術!

ここ三年ほど 立て続けに
叔母達など七人 亡くなりました。
その中に 元主人や付き合った彼・その親友が一年で三人亡くなり… とてもショックです。皆40代後半くらいで 早過ぎ…
昨日 火葬されたのは
高校の時の彼で 大人になっても お互い 近況報告しあい 苦しい時も 支えてくれた32年以来の付き合いの人です。ポカポカの空に 煙となり逝ってしまいました。。皆さんは 悲しい時を
どうやって 乗り越えてきましたか?皆 亡くなったら どこにいるんでしょう… 哀しみは どこに 消えますか… どんな風に とれば楽になりますか・・

A 回答 (5件)

無理に思い出にしようと思わないほうがいいのではないでしょうか。


「死」は確かに、この世から、形を奪います。
目の前に今まであったものが無くなる。
昨日までここにあったものがここにない。
昨日までここにいてくれた人がここにいない。
そして、その事実を認めることがなかなかできない。

大病を患った母が死んだとき、妹が言いました。
「私、お母さんは、まだ病院にいると思うことにする」
母はこの世での体を失いはしたけれど、母は「生きて」いる。
妹は、そう考えることで、自分を納得させようとしていたのだと思います。

母がこの世での体を失ってしばらくしてから、母の夢を見ました。
病気をする前の元気な母でした。
よそ行きの服を着て、ボストンバッグを持って、母は「旅行に行ってくる」と私に言いました。
「お母さん、成仏したんだよ」とある人が私の夢の話を聞いて言いました。
「夢の中で、亡くなった人がしゃべるのは、成仏したってことだよ」

行き先を聞かなかったので、どこへ行ったかはわかりません。
母の旅行は、まだ続いています。

そして、今、私たちは、笑っています。
母は、私たちの心の中で「生きて」いるから。
私たちが失ったのは、母の体だけだから。

ORYO-3様がどのようにしたら、悲しみを乗り越えられるのか、私にはわかりません。
人にはそれぞれ、悲しみの乗り越え方、気持ちの切り替え方があると思います。
私たちも、「笑っている」といっても、悲しみがすっかり消えたわけではありません。

「死」はこの世との「別れ」。
でも、私は「死」の先にもしかしたら、まだ何かあるのかもしれない、と最近、思うようになりました。
そこが亡くなった人にとっても、そして私たちにとっても、ひとつの「出発点」なのかもしれない、と私は考えています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。
cutiechopさんも お母様と死別なされたんですね。
病院に入院してると 思う事にする… 切ない思いがしますね。
でも 私も そう思おうとしてる
どこかで… 多分。
私は 病名も状況も 耳にしませんでした。
弱虫の私には 良かったと思ってます。苦しんだのか… 想像はつきますが はっきり知りたくなかったんです。。 だから 笑顔と真面目な顔と 繰り返し 浮かびます。幸せだったのか
楽しめたのか…
人の事ばかりで終わったんじゃないか… それでも
それは本人らしく 生きた証だと思います。
そんな生き方しかできない 人でしたから(笑) 有難うございました。

お礼日時:2009/03/04 20:29

>どうやって 乗り越えてきましたか?



私は死を語るには若年に過ぎ、偉そうなことは言えません。のり越えていないからこそ、以下に引用したような言葉に反応してしまうのかもしれません。

ただ、特に離別間もないときは、のり越えようと意識しなくてもいいのではないかと。かなしみに沈潜するのも供養の一つのあり方だとも思いますし。

>皆 亡くなったら どこにいるんでしょう…

宗教家なる人はその教義によって死者のありどころをいろいろと説きますが、私はこれが基本ではないかと。

お墓に花を供えるとき、墓石ではなく、生きている人の方に花を向ける理由も、「季札挂剣」(=中国の故事)と同じです。死者は、墓石に宿っているのではなく、わたしたちの心のなかに生きているのですから。(加藤徹『漢文力』より)

故人は我々の祈りのなかで永遠なのだろうと思います。

>哀しみは どこに 消えますか…

時とともに薄らぐ生々しい哀しみは、姿を消すのではなく、かたちを変え、故人への感謝や想いを深める肥やしとなり、それはまた「生」への慈しみも通じていくではないか、と。
子どものころ老人が慈しみ深く感じられたことがあります。これは、彼らの先立たれた経験の多さと無関係ではないように思います。

>どんな風に とれば楽になりますか・・

実際にどうかはともかく、この考え方にはどこか慰められるものがあります。

あなたが死んで、火葬にされたあとのことを想像してみましょう。あなたの体を構成している十の二十七乗個以上の原子はたちまち大気中に広がり、三年から四年もたてば全世界にほぼ均等に散らばることになります。地球大気の総量は十の二十一乗リットル余りなので、一リットルあたりの空気には、あなたの原子が百万個も含まれる計算になります。あなたの体を作っていた原子は、アフリカの花になったり、アイルランドのジャガイモになったり、海水に吸収されて太平洋の魚になったりしますが、残りの原子は風に乗って空中を漂い続けます。
もし、あなたの祖父や祖母が火葬にされて四年以上たっているなら、あなたが地球上のどこにいようと、空気を一回吸うごとに、祖父や祖母の体を作っていた原子を数十個から数百個の割合で吸い込んでいる計算になります。
この青い星は、私たちのゆりかごであり、アパートであり、墓場でもあるのです。(加藤徹『漢文力』より)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

安心しました。。
四年 待ちます・息を吸ってみます・感じれるかもしれません。。
良かったです 回答頂けて。。私だけでしょうか
こんな事知らなかったのは?もし 周りの友達が 知らなかったら 今度 弔いの時 教えてあげます・・
息を吸って吸って
沢山吸ってあげます。
温めてあげます・・
抱きしめてあげます。
有難うございました。

お礼日時:2009/03/02 20:17

当方の周りもバイク事故で4人程亡くなってます。


また4年前には母親を癌で亡くしました。

友人がバイク事故で亡くなった時、電話で知り(既に亡くなった後)電話口で号泣しました。
母親の時は平日の早朝、病院の駐車場内で自分のクルマの中で号泣しました。
・・・不思議なもので、3日程泣くと涙が出なくなりました。

そしてそういう事実から半年ぐらいはポカーンとしてました。
仕事中であれ、普段の日常時であれ。

母親の生前の知り合いで、自宅近所の定食屋サン(←行き着けの店)を営んでる方がおられまして”何時までも悲しんどったらアカン!涙枯れるまで泣いたんやろ?(母親に)怒られるぞ!!”と諭される様に言われました。

時が解決してくれます。
またそういう苦しみや試練はそのヒトにとって乗り越えられるモノしか無い(by生前の母親)。

生きてる以上、誰にでも”最期”はいずれ来ます。それはどうしようもありません。

立て続けに親しい方がお亡くなりになられ、今はとてつもなく悲しいでしょう。その点では当方より深いかもしれません。当方の場合他の事情も重なって体重激減しましたし。

クルマやバイクの耐久レースで例えるとしたら、まだあなたは人生というサーキットをまだ走ってる途中です。チームメイトがリタイヤしたからといって自身もリタイヤする・・・・ワケにはいかないのです。
リタイヤされた方にもそれぞれの想いがあったでしょう。
その想い、しっかり心に留めて今は多少スルーダウンしてるでしょうが走り続けて下さい。それが亡くなった方々への弔いにもなるのでは?

すいません、ワケわからない駄文で。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

アドバイス 有難うございました。
MAMI_SPRさんも お母さんを見送られたんですね
きっと そちらの方が もっとキツイでしょうね―
学生の頃から 男気があり
亡くなるまで 人の世話ばかりして 終わったと思います。バイクがやはり 好きで・その頃はCB400やホンダナナハンに 乗ってたと思います。(私は詳しくないです)今みたいに
ミニスカートでも着て跨ぐなら 怒鳴られてましたね。チェリーボーイズとかご存知ですか?古いレコード盤預かったままだったのを 思い出しました… 有難うございました。

お礼日時:2009/03/02 09:20

なんとも身につまされますね。


私も同級生を2人も亡くしております。
「同級生が亡くなる」などということは、考えもしていなかった事態だけに、なんとも言えない思いがしました。

しかし我々…私も40代中半ですが…は、もうある意味では「死」というものに大分近い位置に居るんですよね。
「人生80年時代」は、ひょっとしたら過去の話で、本当は我々の世代の平均寿命はもっと短いのじゃないか?と思ったりします。

もしも本当にそうだとしたら…そんなふうに思うとき、私はなおさらに「生ききる」という言葉を、頭の中に思い描くのです。
長さではない、時間では無い…「中身」こそ大事にしよう!と思うのです。

「極楽」というものがあったとして、仏の教えの中では「善行」を大事にせよ、さすれば極楽へと導かれん、とあります。
本当に「極楽」があるかどうかは、おそらく私は行ったことが無いと思うのでわかりませんが、しかし「仏の教え」は生者の世界での「生ききる方法」を教えているのだ、と言っても良いのではないかと思うのです。
「善行をする」ことは「いのち」をつなぐ事、そのものです。
大きな意味で言えば「死」というものはとりもなおさず「生」というものと必ず「一心同体」なのではないでしょうか?。

愛する人を失った悲しみは、拭いきれなく残るものではあります。
しかし、亡くなった人たちは「悲しみ」という名の「残り香」を残すことで「最後の生」をつないで旅立って行ったのではないでしょうか?。
…亡くなった私の同級生の一人は、私といつも遊んでくれた友人でもありました。
何かに挫けそうになったとき、私は彼の人生と、彼と遊んだ思い出を糧に、もう少し、もう少しと言いながら生きて行きたいと思っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございました。大事な同級生を亡くされた事… 寂しいですね。。
本当に 皆 早過ぎ…
でも なんとなく自分も
あまり長くない… そんな気持ちでしたが・やはり
私の元彼が早かった。
一昨日より昨日 昨日より今日・思い出が増すんです。。 でも私は生きてる
この何ともいえないギャップというか…
不自然さ・・ついこの前
話したのに。
もう少し もう少し…
きっと「頑張れや」って
言ってくれてるかな・・・・・子供に戻ってしまうんですよね 彼の前では いつも私は高校生で… いつも 守ってやるって 言っててくれた 域を越えた 友達だったと思います。
有難うございました。

お礼日時:2009/03/01 17:00

何か、趣味を見つける。


友人を作る。
目的を見つける。

私も、無気力な時期はありました。
でも、家族が居たので、穏やかにはなってます。
しかし、このまま、居なくなったほうがって思うときもあります。

目的を見つけたら良いと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございました。そうですね
視線を変えたり 目的を持ったり・・
でも 今はまだ 乗り越えれないです。ボチボチ 泣いたり思い出したりしながら又 違う思い出の中に 閉じていきます… あの世で再会するまで。

お礼日時:2009/03/01 17:04

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!