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文久2年頃
大橋訥庵が捕まり、坂下門外の変が起こった後の後の3月桜の頃。
この頃の大局は尊皇攘夷と公武合体派ってどちらでしょうか。
坂下門外で更なる幕府の弱体は晒されてしまいましたが、長州、水戸の政権は公武合体派だった気がしました。
京の暗殺は始まっていませんので微妙な時期だと思うのですが、如何でしょうか。
何か資料があったらお教えください。

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A 回答 (3件)

尊王攘夷 勤王佐幕 公武合体という「言葉」は


単なる言葉遊びで幕末の日本はかなり複雑で実態はポスト徳川
の権力闘争
尊王攘夷→開国倒幕
勤王佐幕→開国倒幕(岩倉具視)
公武合体→倒幕
と各藩各個人の考えはころころ変わり明治維新となりました、変わらなかった
のは坂本龍馬ぐらいでしょう
これは井伊の残した「攘夷攘夷と声高に叫んでいる連中は己の権力のため徳川の後を狙っている不貞のやからでこの連中にこれからの日本を託すわけにはいかないのです」という言葉が象徴しています
尊王攘夷などの、これらの言葉を追いかけてもまったく意味はありません
その辺は長井路子の岩倉具視を参考に読みましたが結構面白い
ですよ
http://www.bunshun.co.jp/book_db/3/26/53/9784163 …
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幕府が勝手に諸外国と開国条約を締結するのは、朝廷の権限を侵すということで桜田門外の変、坂下門外の変がおきています。


 このころまでは弱体化したとはいえ、まだ幕府は外国との交渉をおこなえていました。坂下門外の変の前年皇女和宮の降嫁が行われて、降嫁の条件に攘夷の実行が入っていたので、その約束が遵守されないことで攘夷派が団結して、尊王倒幕の政局を動かしていきます。その翌年京都へ家茂が行かざるを得なくなります。朝廷の後について下賀茂神社へお参りにでたりして、朝廷の意向が次第に力を得ていきます。いずれにしても長州・水戸(暗殺事件の犯人の大多数は水戸藩です)は尊王攘夷派です。
 吉村昭「桜田門外の変」などは水戸の内情がわかります。
それでもそれぞれの藩で門閥派と急進派との交代があり、わかりにくいです。
 資料というより年表を眺めていただければ流れがみえてくると思います。
 孝明天皇が外遊でもしていれば全国一致で開国になっていたかも知れませんが、孝明天皇は公武一体での攘夷に想いを入れたりするものだから長州は片思いに走るのです。しかしその後では下関戦争で攘夷を隠れて捨てざるをえなくので、複雑な話です。
 
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尊皇攘夷派は、横行していたが、大局は公武合体派。



後に、一時、詩士・長州・尊皇攘夷公家が、幅をきかすが、八月十八日の政変で、退く。

 少なくとも、孝明天皇の時代は、主流派は、公武合体派、
途中まで雄藩連合を目標とするの参与会議消滅までの賢公が中心、
後に直接、徳川親藩諸侯と朝廷が直結した一会桑政権。
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