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自分はいてもいなくても仕方がないのだと自分を責めつつも、
私は子供たちの母親である、毎日会社に行く夫もいる。
けれどもいつも「誰にも迷惑をかけずに消えることができたら」
と考えてしまいます。
このままではいけないと心は激しく感じていますが、頭と体は違うみたいで。
こんなちぐはぐな自分がいやでなりません。
自分は自分なんだとあるがままを受け止め、前を向いて生きていくにはどうすればよいのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

こんにちは、



あなたはずいぶん悩み多き人生なのですね。

>自分は自分なんだとあるがままを受け止め

これは口に言うほど簡単じゃないんですよ。
自分を理解するための努力が必要なんです。
理性的に自分を見つめて、一つ一つ理解を深める必要があるんです。
感覚、感情に振り回されていては無理だと思いますよ。

>自分はいてもいなくても仕方がないのだと自分を責めつつも

マイナス思考というのは自己憐憫を含んでいるんじゃないでしょうか。
率直に言わせていただけば、なぜあなたは自分を慰めているのですか?
ストレスの原因となるものを自覚していますか。

自分を理解できなければ他人を理解できませんよ。
他人に振り回されるということは、自分に振り回されているのと同じことです。
自分のあるがままを受け入れられないのは、他人のあるがままを受け入れられないということですね。
自分に振り回されるから、他人に振り回されてそこでのストレスが自己否定という形で自分に返ってくるのではないでしょうか。

もう少し頭で、理屈で考えてみたらどうでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ストレスは・・・

このわけのわからない私の病気です。

昔にこんな病気はなかった・・・ということは、私のこれは単なる甘えに過ぎないのではないか。

ならば、どうすべきか・・・

考え出すと、いつの間にか泣いていたり。

もう少し冷静にならなくてはいけないのかもしれません。
焦って、どうしようどうしよう・・・ってなるから
だめなのかなあ・・・。

お礼日時:2009/03/05 23:14

質問を読んで思いました。


夫も子供もいるのに、“自分はいてもいなくても仕方がない”と責め、“消えたい”と考えてしまうということは、夫や子どもの自分に対しての態度が、自分を必要としていないように思えてしまうから、なのでしょうか。
或いは全く関係ないことが原因なのでしょうか。
例えば家庭を持つ前から、よくそんな気持ちになるとか。
それからもう一つ、“頭と体は違うみたい”とは“理性と感情は違うみたい”と云うことなのでしょうか。
回答でなく質問への疑問、というようなことになってしまいましたが、あなたの気持ちをよりよく知らせることが、正確な解答を求めるために必要ではないかと思いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
結婚前までは「私なんていてもいなくてもいいんだ」と家族に対して思っていました。
実際、親に私なんかいないほうがよかったんでしょ!と何度も泣いて訴えたことがあります。
結婚してからは、まだ若かったので夫にやきもちを妬いたりして、「自分はもう女性として終わりだ」と思ったこともありましたが、
今は夫がいて子供たちがいてくれる環境に感謝しています。

ただ、感謝しているならもっと態度で、行動で示さなきゃいけないのに、体調が悪ければ布団からは出られない、ご飯は作れない、
子供の話も聞いてやれない・・・。

情けないのです。反省して次の日はできても翌日にはまた布団にもぐる


気合が足りないのか、単なる家族への甘えなのか・・・。

お礼日時:2009/03/05 23:08

>自分はいてもいなくても仕方がないのだと自分を責めつつも、



自分がいなくなっても世の中に影響はないのは自分の責任だということでしょうか。

判っておられますね。

ご質問者様の風景は見えませんが、
この広大な自然の中に、ちっぽけで胸くその悪い自分がいる。
嫌悪する日常がある。ってことですよね。違いますか?

自分と自然(世の中)との関わり合いをみてみませんか。

自然は、自分の外側なんだから、本当に自然が自分の外側にあると感じてませんか。

自然は、丸ごと自分の中にこそ存在しています。
そうでしょう。ご質問者様の自然は、私の自然ではありません。
私からみても、ご質問者様の自然はご質問者様の中にあります。

だから、思い、悩み、考え、主張し、行動すると、それらはその自然を変えます。
だから、同時に、自然が自分を変えます。自分も変化させられます。これは非常に敏感です。
だから、その自然がそのようであるのはご質問者様の責任です。

自然が色鮮やかなワンダーランドである人は、その人がその自然を作っています。

>自分は自分なんだとあるがままを受け止め、
前を向いて生きていくにはどうすればよいのでしょうか?

自分は世界なんだとあるがままを受け止め ましょうよ。
とすると、どうすればいいかなんて単に前を向けばいいってことになります。
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この回答へのお礼

>自然が色鮮やかなワンダーランドである人は、その人がその自然を作っています

ありがとうございます。なんだかすごく自然と心に入ってくる言葉でした。

私はできれば、おだやかな日が差す空間でふわふわと子供たちや夫と笑顔で過ごしていたいです。
私のへたくそなお弁当でも大喜びで食べてくれる子供たちが見たい。
夫と私は子供たちの姿を見て
何にもないけど楽しいね!って心からいいたいです。

今は毎日毎日、家計簿と通帳を見てはため息の日々です。

お礼日時:2009/03/05 23:00

具体的に一つ一つのことを大切にするような考え方はできないでしょうか。

子供やご主人の世話をすることこそ大切と思ったらどうでしょう。そういうこととは別に自分の存在理由などを考えるのはそれほど大したことではないどころかほとんどの場合悪循環に陥ると思います。つまり何もしないから何もできないということではないでしょうか。何もできなければ何もできないことに意味づけさざるを得ない。とすれば自分には何も価値がないという結論になってしまうのは当然だと思います。
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この回答へのお礼

私は結婚以前は医療系の専門職でした。やりがいも感じていたし、なにより充実感を得ることができました。
結婚妊娠してからは、子供といたいという気持ちが強くあんなに強かった仕事へのこだわりを捨て専業主婦になりました。
さまざまなことがあり・・今は育児をしながらですが療養の身です。

病気になってできたことができなくなってしまった虚脱感。
親の期待を背負いなった職業。

またできるかもしれないし、
もうできないかもしれない。

ましてや今、家計は火の車。

私は家でこんなふうにおとなしくしていてよいのだろうか、
そう思えてしまうのです。

また、こんなお母さんで子供は幸せなのかなあともおもってしまい・・。

言い訳がましくすみません。

こんな私の質問に回答してくださりありがとうございました。

お礼日時:2009/03/05 22:54

自分を責めることはつらいことでしょう。


どういう理由で責めているのかわかりませんが、
自分を分析するチャンスではないでしょうか?
自分を責めることは、自分を否定して、自分の存在を否定していることです。

また、分析が無理なら、手っ取り早い方法があります。
哲学コーナーで言うことではありませんが、実行すると効果抜群です。

それは、
「私は私のことが大好きです。」
「私は私のことを許します。」
「ツイテル」「ありがとう」「感謝します。」
と声に出して言うことです。

言葉には力があります。
言霊といいます。
これを一日千回、どれでもいいので言うことです。

また、ネガティブな言葉は思っても口に出さない。
口にしてしまった場合は、ポジティブな言葉を言って中和しましょう。

これは、斎藤一人さんの本からです。
実例がたくさんあります。

どうしても、どうしても変わりたいなら、実行することです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

もうコンプレックスの塊というか
中身なんかないのにガチガチにプライドが高いとか
そのくせ弱音ばっかり・・・な自分なんです。

友人には「あなたがうらやましい」と言われても、素直に喜べない。

あんなにかわいい子供とこんな私に理解ある夫がいるのに。

陽の言葉を発することで、そんな自分を解きほぐせたらいいなと思いました。

お礼日時:2009/03/05 18:12

哲学での質問なので・・・そうとう常識から逸脱したものの考え方を紹介します。



今「汎神論」に興味を持っています。反デカルトとされたスピノザhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC% …からですが、デカルトは世界にある実体は「物質=様態」と「精神=延長」の二元論としました。スピノザは一元論「心身並行説」ですが肉体と精神が人間の本性において同時に影響も作用もせず一致しない。自然=神において全てが一致するというもの。

汎神論の自然には目的がない、そこに目的や原因を見るのは人間のもつ偏見の想像以外なものではなく、そこから多様な価値観も生まれます。
人間は完全な神から生まれた不完全であるが故、人間が世界を捉える認識に限界があり、認識の仕方を三種に分けました。

最も高度な認識が「直観知」で物の最深部まで把握して自然(神)がら来て神に還る旅であるとの認識です。それによって感情に振り回されることもなく、欲望に屈服することもなくなるそうです。

その一段下が「理性知」で物の仕組みや性質を知って概念や常識、意志を想像します。

もっとも低い浅い認識は「表層知」で人間の健康や尊厳に役立つことを善と呼び、反することを悪と呼ぶようなもので、神の本性を否定もしているというのです。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないと思うほど手段にする感情は無力となり、それが秩序たっていること判断するし、その反対を無秩序という。つまり自分に不都合なことだけ理不尽としますが、好都合であれば当然になって疑う力もないのが人間ですね。下手に理由を考える必要がなくなって誰にでも正直になれればいいのですけどね。

もう一人、汎神論の先駆者であるジョルダーノ・ブルーノhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …さんともなると、太陽や地球さえ平凡な星に過ぎないといい、異端とされました。絶体絶命の火刑となっても「私よりもこの判決を申し渡したあなたたちの方が恐怖に震えています」と直観でいえるようになれます(?)。死後280年経ってからキリスト教会からも受け入れられ名誉を回復していますが。

安心してください。頭と体の価値観(?)を無理矢理合致させずとも、自分放棄しても(?)、汎神論では神の内で合致しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一生懸命読んでみました。

ついつい他人と比べたり、現状にあせってしまうと
なんとなく自分の中がバラバラみたいな感覚になり、精神的にだけただただ馬鹿みたいに疲れるんです。

自分でもあきれます。

もっとおおらかでもよいのでしょうか。
30代だというのにコンプレックスの塊なので・・・
恥ずかしいのです。

お礼日時:2009/03/05 18:07

家事雑用に疲れきったのでしょうか


それとも夢を失った虚脱感なのでしょうか
私が思いついた、女性向きのヒントを差し上げましょう。

友達と話しをする事です。
とにかく何でもいいから話しをしてみて下さい
心が晴れるまで話しをしてみてはいかがですか。
話しすぎたと思うくらいやってみては・・・
心が軽くなれば、今までの自分は何だったのだろう、と思えますよ。
さあ、あれをやろう、これをやろうという気にもなりますよ。
友達がいなければ身内でもいいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

たいせつな友人はいます。

今度会う約束をしました。

身内には逆になかなか話せません・・。

お礼日時:2009/03/05 23:15

 ぜんぶ引用です。



   *

 真実がどのような労苦によって見出され 誤謬を避けるのがどれほど困難であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。

 敬虔な心の清澄さによって肉の幻想を征服するのがどんなに稀な 成し遂げがたいことであるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。

 内なる人間の目がその〔義の〕太陽をみることができるように癒されるのが どれほどの困難を伴うことか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。

 神についてほんのわずかでも知りうるようになるためには どれほどのため息とうめきが必要であるか知らない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。

 同じ誤謬によって欺かれたことのない者たちは あなたがたに向かって怒り狂うかもしれない。

 (アウグスティヌス著作集 7 基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論 2.2)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。

お礼日時:2009/08/21 23:44

<ねずみ女房>という童話があります。



他から見たらどのねずみも一緒。
自分という個性の無い存在すら希薄なねずみ女房。

夫は「ねずみはチーズのことだけ考えれいればいいんだ」と言う。
確かにそうかもしれないが、ねずみ女房にしてみれば物足りない。
自分の存在が消えていくような思いを抱いて過ごしていた。


ある時 捉えられた山鳩と出会う。
山鳩は外の世界をいろいろ知っていて話してくれる。
それがどんなものか、外の世界を知らないねずみ女房だったがわくわくした。

せっせと通って山鳩の話を聞くねずみ女房。

夫はねずみ女房がもうあっちの世界とこっちの世界の境にいて、とても魂が危ういことに気づかないで、家のことをしないねずみ女房に暴行を加えた。

暴行を加えられて当然だと思って、もう山鳩の話を聞きに行かないようにしようと決めた。

ねずみ女房の魂は限りなく旅だとうとしていて、夜中彷徨うように歩いて山鳩のところについた。
山鳩は与えられた食事ではなく、外の世界のものしか受け入れず、食べなかったのでぐったりしていた。


ねずみ女房は突然自分の使命に気づいた。
せいいっぱい鳥かごに入り口にかみついて、入り口のドアを開けた。

ぐったりしていた山鳩はいつのまにかドアが開いていることに気づき、ねずみ女房が開けたことも知らないまま、カゴから飛び出して外の世界に戻っていった。


そのとき ねずみ女房ははっとした。
「これが何かわからないけど、私には見えることができたんだわ。」
それは私たちが言う夜空の星。

ねずみ女房は、初めて外の世界を体験し、自分はどうでもいい どこにでもいて消えてなくなっても誰も困らない存在などではない。この世で唯一の大切な存在なのだと気づいた。

それから子供ができて忙しく働き、昔体験した外の世界を知覚したことを話した。
子供たちはわくわくして、そのきらめくような世界を体験したねずみ女房の話を聞いた。

もうただのどこにでもいる、誰でもいいねずみ女房ではなく、唯一のねずみ女房として尊敬した。


ってストーリーです。

ねずみ女房は、ずっとある一家の家から出たことがありません。
彼女のこの世のすべては この家だけです。
でも、外に出なくても 彼女は外の世界を知っている。
外に出なくても別世界を体験できる。


限りなく魂が消える寸前に、ねずみ女房は異世界を体験したことで、魂が復活したわけです。


説明下手ですいません。
内容も昔読んだのでうら覚えです。

子育ての合間に、図書館で本借りてきて読むことでも、家にいながら異世界を体験できます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
お返事が惜しくなりもうしわけありません。
わたしって子供にこんな風に物語を話すことができてないなあとふと思いました。
子供の想像を膨らませるようなお話を回答者さまのように自分のこどもにも話せたら素敵だなと思いました。
図書館にしばらく行ってなかったので行ってみます。

お礼日時:2009/08/21 23:42

私もそういう思いになることはありますので、考えてみたところ、今思い浮かんだことを書きます。



>「誰にも迷惑をかけずに消えることができたら」

(1)現実としては消えることはできません!
 (死んでも肉体から離れるだけのことで、他にも霊人は居たりするわけです。。)
 ですから前を向くしかありません!

(2)消えたら消えたでむしろ消えたことによってかかる他者への迷惑の方がはるかに大きいのではないでしょうか。
 ですから、存在するだけで既に存在しないよりプラスであるのです!

(3)夫や子供がいらっしゃるのであれば、それだけで1人役も2人役も実際にこなしておられるわけで、質問者様がおられなかったらその分他者にその仕事量がかかるわけで、迷惑があると言ってもプラスの内でのことだと思います。また仮に病身だったりしたとしても、存在するだけで周囲はありがたいと思っているもののようです。子供だって仕事もせず言うこともきかなくても、存在自体がありがたいでしょう。それと同じだということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なんで自分なんかここにいるんだろうと来る日も来る日も泣いてばかりな時期がありました。自分はまわりの人間を不快にさせるばかりの疫病神だ病原菌だとおもっていました。
今でもここに自分がいていいのだろうかという疑問はないわけではないのですが、自分の周りに笑顔が咲いているというのは幸せなんことなんだなあと実感する日も増えました。
消えてしまったらその人たちの笑顔もみられませんよね。もうちょっと頑張ってみます。

お礼日時:2009/08/21 23:37

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