痔になりやすい生活習慣とは?

言葉は真理を伝えない 嘘 実?

言葉では真実は伝わらないものなのでしょうか?


言葉では真のことは伝えられないが、言葉でしか伝えられないのもまた真理である。

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A 回答 (19件中1~10件)

もし注意深く言葉を選んで質問を書かれたのならば、


三つの問いが絡まっています。
ひとつは真理と真実の性質の相違についての問い、
もうひとつは言葉の性質についての問い。
さらに、上記のどちらか一方が解れば他方が自明となるのか、という問いです。

言葉についてのごく一部のことだけ、書きます。
読む聴くという特殊な能力に向って、言葉は伝えるという能力をはじめて持ちます。
何が伝わっているのでしょう。意味でしょうか。嘘や偽りになってしまった何かのからくりや仕組みでしょうか。
いえ、「語ることの身体性そのもの」なんてロラン・バルトは音楽について表現しますが、
「語りかけるように」とはたらく能動性、ステージ(舞台)においてステージ(位相)のあるもの、
つまり車で言うと、車種や年式といった「情報」ではなく、
駆動性や、エンジンの調子や、構造信用性こそが伝わっている、ということ。。。

伝達意味は、せいぜいが、音でポルシェかスバルかと聞き分けている程度の事柄で、
そのものに向かい合うよりもすでに持っている外部情報や記憶からのはたらきかけによるほうが大きいのです。

補足欄に書いておられるような、宗教的指導者の言葉を伝えるということについて、
それらの言葉は、それらの偉人自身の、世界との関わり、構造化の広さ深さ、対象化に際して置かれる信の重さ、
そして開示の場のありよう、といったものについての「聴解」をもって、伝わるのです。
伝聞では、言葉の成ったところのこうしたハード面は、ずれていきます。
残り香があればよしと考えていいのではないでしょうか。形骸化していても、せめてその形骸があるおかげで、
真空になっている内奥が存在しているのだとわかるのですから。
言葉の死ですね。
しかし、生のなかに生き続ける死ですね。

わたしは文書から精神疾患者の病状を把握しますが、訓練は表層的な特徴を辿ることに終始するものでした。
しかし、言葉には、その人の能動性の特徴とでもいうべき、徴(しるし)が伴われており、
能動性を消した文章でなければ、人はそこに透けて表れます。
癖でもない。エネルギーの状態でしょう。
凄腕になれば、膵臓が悪いやら、水虫やら、もしかしたらわかるようになったりとか。。。しないか。
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『「言葉は真理を伝えない 」という言葉』さえもが、


真理の伝達の機能を期待されていますよね。
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ひとつの言葉には複数の意味がある。


『愛』という言葉に「家族愛」「夫婦愛」「同族愛」など、色々な意味が含まれるように、ひとつの言葉にも色々な意味が存在しますよね?
さらに、辞書で調べれば『愛』という単語の定義付けがされています。
でも言葉で説明されても、感情を理解するには、どうしても自分で経験するしかありません。
そこには必ず、個人でズレが生じると思います。

仲間どうしで同じ経験をして、みんなが『楽しい』と感じていても、きっとそこには個人個人で多少のズレが生じているのだと思います。

どんなに言葉で説明して、どんなに同調しても、そもそも感情の理解に差がある訳ですから、「100%感情を共有する」ということは不可能なわけです。

ということは、自分の言いたいことを100%伝えることは不可能に近いと思います。
つまり、『言葉は絶対ではない』ということになりますね。

実際言葉だけでは自分の伝えたいことの50%も伝わらないと聞いたことがあります。
その人の口調、声色、表情、ジェスチャーなどを交えて、できるたけ100%に近づけるとか…

少し論点とズレているかもしれませんが、良ければ参考になさってください。
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この回答へのお礼

伝えることはできないが、伝えなければいけない場面というのは幾度も遭遇します。

そこで伝えることはできないが、伝えようとすることで、なにかのスキルがあがっていくのだと思いますが、人が人に伝えるということは最重要案件であるとともに、とても難しいことなんでしょうかね。

お礼日時:2009/12/15 17:57

面白い話ですので参加させて下さい、心理と言う事がテーマなのか、言葉の持っている力のことなのか?それは置いておいて、感じた事を書いてみます。



貴方の言いたい事は「人間の到達出来て得られる真理」と言う事かと思います。この事を伝えたいと思うのなら、例えば砂糖の味を、砂糖を知らない人に説明するという試みを考えてみた場合に、創造出来ると思います。この為に聖書があれ程厚くなっています。又仏教の経典があれ程、多くなっています。

仏教の経典においては、時代が相当古くなっています、同じ国の言葉であっても、1,000年も、2,000年も昔の言葉は分からないと思います。まして言葉を翻訳に次ぐ翻訳と言う事で伝えられています。分かり難い事、この上ないと思います。

そのために、お釈迦様は、お経によらない教えを残しました。是が禅と言うものです。それで、本当は禅については門外漢ですが。鈴木大拙博士の著作したものを学ぶうちに、禅問答が解けた経験から「人間の心の秘密」を書いてみます。

人間の心は二つ在ります、この事が人間を悩ましくしています。子供のうちは脳が未だ発達していないために、心は未だ二つになっていません、是が聖書による「天国に一番近い存在は幼子」と言う意味になります。

処が成長してゆく時に、脳の機能の分化が完成に近くなります。この事が人間を悩ましくさせます。すなわち分別が出来るようになると言う事です。是は「意識をして」世の中を見る、と言う事です。世の中を論理的に、分析したり、反省したり、比べたりする事になります。この意識をして世の中を見る、と言う事が「アダムとイブが知恵のリンゴを食べて、天国から追放された」と言う意味になります。

どういう事かと言いますと、是は心の分裂を意味するからです、物事を二元的に見ると言う事です。二元論の始まりと言う事です。目の前の出来事を二つにして、天国と、地獄と言う風に二つにして見てしまう事です。それだけならまだよいのですが、地獄に落ちて、這いあがれなくなってしまう場合が出てくる事が在ります。

何も無い処に自分自身を、自分自身が縛り付けてしまうと言う事です。これほどではないにしても、子供のようには心は自由にはなれなくなってしまいます。子供のようには楽しめなくなってしまう場合が在ると言う事です。

子供の時には親に抱きしめられただけで、安心しきっていられました。大人になって、どこか不安が頭をもたげてくると言う事が在ります、漠然とした不安です、安心できなくなった心持が在ります。是は自我意識が意識をしたせいですが、この意識が持続した場合には大変つらい気持が待ち受けています。

この心の違和感を体に向けた場合には「自律神経失調症」心に向けた場合には「精神疾患」自分の行動や社会生活一般に向けた場合には、広い範囲での「ノイローゼ或いは神経症」と言う事になります。この事が、お釈迦さまが言っていた「一切皆苦」という世界です。

一切皆苦と言う事は「意識地獄」と言っても良いと思います。意識した事が症状名になっていて、さらに、又意識してしまって、意識から心が離せなくなってしまう事だからです。この事が生き難さとして現実に起こっています。

この事の解決が本当は宗教の本来の目的かと思いますが、余りこの事には気が付いている人が居ないように見えます。

是は脳の機能が分かっていな事から起こっている問題です。人間の脳には二人の人格が存在しています。スペリー博士の研究成果が物語っています。一人は自分を認識している左脳に在る自我意識です。

もう一人は右脳に在る意識です。是が仏性と言うものです。無意識界、或いは潜在意識界の主人公です。命の働きそのものです。体の機能まで変化させる事が出来る者です。意識と無意識が常に入れ替わっています、ですが自我意識には、はっきりとは認識できない、或いは認識し難い、とも言えます。ですが出会った感想は「今更、お前は誰かと聞く必要はない」と誰もが見性した時の事を言っています。

悟りを開くと言う事の意味を書いてみます。

一つ目は、自我意識を不安にさせていたもの、そのものと出会うと言う事になります。不安は仏性が自我意識に加えている圧迫です。自我意識が「意識をして苦しんでいるのを見かねて、助けたいと言うアピール」是が、精神疾患の元になっています。是は心の矛盾と言う風に置き換えても良いものです。出会う事によって、心の矛盾が解消すると言う事になります。

二つ目は、お互いの機能が違っていると言う事を認識し合うと言う事になります。自我意識は割り切れる事を専門に行うと言う事です。割り切れる事とは有限の事と言う事になります。言い方を替えたならば「割り切れない問題は、専門外で在って、能力オーバーな問題と言う事になります。

割り切れない問題と言う事は、永遠に属する問題是には宗教問題や人生問題など、他には感情や感動など、情緒に関係している事になります。是等は、全てが矛盾に満ちていて計算では割り出せない問題と言う事が言えるからです。

従って悩みや、苦しみや、精神疾患などで生き難い思いをしている事は、問題を、問題の解決能力のない方の脳で処理をしようとしていると言う事になります。この事が判らない事から心の病は「完治」と言う事を言う事が出来ないでいます。

禅問答の中にはこの解決方法が在ります。禅問答が解けた時には「生死の問題が解決した」と言う風に言います。どうしてかと言いますと、右脳の意識は「神、仏」そのものと言えるからです。簡単に言いますと「神に会って和解した」と言えるからです。二度と心が騒がない。心の分裂が無くなってしまうからです。

禅問答を解く事は、人間の隠れていた脳の機能を再発見する処に在ります。この機能こそ人間に安心と自由と、創造を与えてくれるものです。
自分自身が分からなくて苦しい想いをしている事を「無明」と言います。自分自身を知ると言う事が本当の人生の始まりになります、心が自由に働くからです。自分自身を知るのには、大変参考になるものが在ります、先に書いた鈴木大拙博士の書いたものです。自分自身を知ると言う事が出来たなら、精神疾患の完治となります。心に在る「恐れ」と言うものが「安心」に替るからです。
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>言葉では真実は伝わらないものなのでしょうか?


当たり前。

あなたがりんごを買ってきます。そのりんごを言葉で説明してみましょう。「赤い」、「丸い」、「甘い」…などなど。
さて、すべての要素を説明できたでしょうか?

「それ」は「それ」でしかない。
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まず、思いや真実を真に伝えられる媒体は存在するのでしょうか?


自分の記憶でさえ都合の言いように書き換えてしまうのが人間です。

蛇足ですが私が印象に残った言葉を置いておきます。
<通信とは「通」じたと「信」じる事>
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人は言葉のお陰で、真実を隠したり、自分を飾ったりと、欲望に負けてしがちです。

だから言葉が多くなると、現実から離れて仮想世界に入ってしまいます。だから日本人は、言葉以外のしぐさや、言葉の間に間を入れたりして、言葉を少なく、以心伝心を大事にします。だから人は言葉ではなく、テレパシーで会話するのが理想です。人以外の動物や植物などは、テレパシーで会話しています。また超古代文明のアトランチス人は、伝説ではテレパシーで会話してたとか言われています。また世界中で情緒がある言葉は、日本語だけそうです。この情緒は言葉の欠点をカバーします。とにかく言葉は脳の活動ですから、ストレスになります。なるべくやさしい言葉で、難しい言葉や抽象的、観念的言葉は、脳を刺激するのでストレスになります。
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この問題は大変に奥深いですね。


そもそも言葉とは、概念の既定であるとするならば
既定した時点で相対的な自己矛盾を生じてしまう恐れがあるからです。
一つの既定がその他の既定を否定してしまう働きを持つからです。
自己矛盾の全く無い言葉というものはあり得ない。
また概念以前のものを完璧に言い表す言葉も存在しない。
言葉自体においての危険性に加えて、概念の仲介としての働きにおいては不安定な要素がさらに加わってきます。

以上の事を前提として、真理、という言葉をみてみましょう。
いにしえより、この真理と言われるものを的確に言い表すことのできた人がいたでしょうか
ラジカルな表現の対象として扱うことができた人がいたでしょうか
私の知る限りでは
玉城康四郎氏という仏教学者が述べておられますが
真理というものは一般仏教(顕教)では、果分不可説といって説くことができないが、真言宗(密教)では果分可説といって説くことができる
特に弘法大師のラジカルな表現には、驚いて言葉も無い
とおっしゃっています。
その言葉とは、真理とは六大一実である、というのです。
(詳しくは密教関連の解説書をお読み下さい)

この事が物語っているのは
通常の言語表現では真理は言い表せない(概念化・既定できない)
という一般的認識論は
高度の認識の立場から見れば言い訳にすぎない
という事なのです。
もちろん、受け取る側の理解力の問題は当然のことながらありますが。

結論からいえば
言葉は真理を言い表すことができる(高度の認識の立場において)
言葉が真理を伝えられるかどうかは人による
このようになるでしょうか。

言葉の有効性が人にもたらす範囲は、同時に解釈の浅深でもあり
概念の伝達の範囲でもあります。
この範囲を乗り越えなければ、真理は伝わらないものと思います。
たとえ真理が言葉として言い表されていても
概念を超えた真理を認識するためには、言葉が道しるべとなっているにしても
それ以上の体験が必要になってくるのではないでしょうか。

少し長くなってしまいました。
私も勉強させていただきました。
ご参考にしてください。
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この回答へのお礼

ふと書いた質問だったのですが、ここまでたくさんの真摯な回答が得られるとは予想外でした。

言葉というのはおおよそ気持ちが伝われば充分とされるものかと思います。または概要、要領など。

しかし真理を伝えるとなると、両者に洗練されたもの、または卓越したなにかが必要となるのかもしれません。

また真理とは常にこの世にあり、誰しものとなりにあるもので、知らず知らず、浅きなり深きなり、知得しているものかもしれませんね。

私も勉強させていただきました。
有難うございました。

お礼日時:2009/03/11 02:12

 「言葉では真のことは伝えられないが、言葉でしか伝えられないのもまた真理である」すでにお答えは出ているようですが、賛成の裏づけをさせていただきます。

質問に掲載される三つの文章には「言葉」と「真実」そして「伝える」という文字をお書きですね。
 前者ふたつをお訊ねですから、残りのひとつから考えてみたいと思います。
「伝える」というのは、とても大事なことです。言葉を尽くして一生懸命説明するのに、ちっとも相手に気持ちが伝わらない。誰もがしばしば経験することです。これってどうしてなんだろう、という質問だと理解して以下に説明を加えてゆきます。

「伝える」という行為を考えたとき、ブランショは『終わりなき対話』のなかで物語について教えてくれます。でも彼のいう物語は少しだけ変わっています。ふつう「物語」と聞けば作家が苦心して拵えた「おはなし」のことを意味するんだろうと思ったりしますが、彼はそうじゃないと言うんですね。
 ところで「伝える」という行為の代名詞とも呼ぶべきものに、対話があります。対話では話し手聞き手は一対一の関係を保っています。彼はそこに三人目を加えてごらんと言うのですね。すると、もうできた。この形式で語られるのが彼の言う「物語」なんです。ただし、三人目は人間であってはならない。人間のように問いかけは可能でも、決して答えを返さないものでなければならないと彼は言います。なぜなら、「伝える」すなわち対話は、常に一対一の関係を保たねばならないからです。
 少し例を考えてみましょう。
 夫婦で晩ご飯のおかずを前にして話す、そんな場面をご想像ください。このおしどり夫婦は、話し手聞き手の一対一の関係を保っています。そこに、晩ご飯のおかずが加わる。これが三人目です。なぜなら、おかずに箸をのばして「よく煮えてるかなー」とか、口にして思わず「おっ、美味しいなあ」と言葉をかけることはできても、おかずは「そのとおり」なんて絶対に答えないからです。彼はこの形式を「物語」と呼ぶのですね。
 この原理を知ってしまえば、ふだん我々が文庫本とかを指して「物語」と呼ぶときと、まったく同じ構図になっていることに気付きます。著者である書き手と、読者である読み手、そして「本の世界」という三人目があって、我々は知らずしらずのうちに三人目の話題に夢中になってしまっている。もっと直截に、三人目を指して「物語」と呼んだりもする。
 けれど彼が言うには、「物語」は三人目のみでは成立しない、さらにもう一歩突っ込んで「物語」にとっての三人目は「実はどうでも良いものなのだ」と断言するんですね。
 言われてみると「おかず」は牡蠣フライでも肉じゃがでもサーロインステーキでも(好みはあるとしても)良いわけで、肝心なのは書き手と読み手との対話にあるんです。

 三人目に用いられた「言葉」、あるいは三人目に問いかける「言葉」は、案外どうでも良いものかもしれません。けれど、答えを返さない「言葉」を通じてしか「伝えられない」言葉があるように思います。
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 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。



     *

 《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。
 《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》

 それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。
 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。

 有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。

 《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》

     *

 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。

 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。

 《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。

 もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。  

      *

(アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚書したものです。意訳・変更している箇所があります。)
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