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仏教の「五戒」や「十善戒」は、いつ頃、誰が言い始めた(あるいは広めた)のでしょうか。

Wikipediaの「十善戒」の項目によれば、
「仏教において沙弥・沙弥尼が十種の善行(十善)を守らなければならないと定めた戒で、最澄によって定められたという。」 とあります。

最澄が説いたとすれば、紫式部はそんなことクソ食らえとばかりに、不倫あり飲酒ありの源氏物語を書き、宮廷人はその物語に熱中したということになりますね。
それはそれで、私のような凡人にはけっこう面白く、紫式部に拍手です。
一般民衆ならともかく、宮廷人なら仏教の教えの片言くらいは聞いていたと思います。

世の中が乱れて争いが絶えないので仏教会が「戒」を広めたのか、それともただ単に理想を書き並べただけなのか、興味があるので質問しました。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

すでにWikipediaでお調べのようですので、最澄が広めた、または、確立したことは、読んでの通りです。

(1)最澄は、孝謙天皇(こうけんてんのう)にとりいり、僧道鏡が前代未聞の「法王」に任じられた頃に生まれました。

(2)最澄が比叡山に入山した当時は、山岳信仰の霊峰(れいほう)で、「大山咋神(おおやまくいのかみ)」や修験者たちの草庵がわずかにあった程度でした。

(3)延暦7年(788)に最澄は比叡山において自ら薬師如来像を刻んで、後の「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」と呼ばれる堂を建てました。延暦寺根本中堂の前身です。

(4)その頃、桓武天皇が延暦3年(784)に平城京から長岡京へ遷都、さらに、延暦13年(794)に平安京に遷都をしましたが、比叡山は都の「鬼門」にあたるため、「皇城鎮護(こうじょうちんご)」と言う役目を与えられ、都を守る役目を与えられました。

(5)さてそこで、紫式部などとの関係ですが、天皇を初めとする公家衆のほとんどは「神道」で、「加持」「祈祷」などでは仏教の力も借りましたが、仏教を信奉する、と言うことは、当時としては、「俗世」を棄てることでありましたので、多分に、紫式部自身、または、源氏物語では、俗世の「ありのまま」または「汚い部分」が「まかり通った」ことではないでしょうか。

(6)また、日本の仏教の祖師と言われる「聖徳太子」を信奉する「太子信仰」も古くからはありましたが、空海などによる「真言宗」など、「念仏」を唱えれば「俗世の人間」であっても極楽浄土へ行けるとの説法で人々の間でも広く信仰されるようになり、宮中などにも広がりましたが、宮中では、先に述べた通り「仏門の入る」=「俗世を棄てる」の考え方が根強く残っていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「天皇を初めとする公家衆のほとんどは神道」

なるほど、そういうことですか。
聖武天皇の御世から250年も経てば、仏教の熱も冷めて、皇室はやはり「神道」を重んじたわけですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/07 20:45

<<仏教の「五戒」や「十善戒」は、いつ頃、誰が言い始めた?>>



2500年以上前、ゴータマ・シダールタ(お釈迦様・ブッダ)が説きました。

「十善十悪」自体は戒律としては説かれていないかもしれませんが、道徳倫理としてはお釈迦様が説かれています。

生命のネットワークの中で幸福に生きて生きたいなら守るべき「善」と、最低限これだけは守ったらどうだろうと「五つの戒」をとかれました。

パーリ語の仏典の訳が多々あります。調べてみてください。
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この回答へのお礼

先日、親戚の法事の席で「十善戒」を3回唱和しました。
「飲酒するなかれ」と言ったあと酒を飲みながら、源氏物語を思い浮かべていました。
千年前の日本では「十善戒」の教えがあったのだろうか、あったとすればどこまで浸透していたのだろうかという疑問です。

>「十善十悪」自体は戒律としては説かれていないかもしれませんが、道徳倫理としてはお釈迦様が説かれています。

そうだと思います。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/11 14:22

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