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人生は無意味で、本当なんて存在しなくて、人間は不完全で、諦観が他者のすべてを許して包みこむような愛情なのかと、諦観がそんな虚無な人生を肯定しうるものなのかと思っていたのですが・・・
あまりにも諦観しすぎてしまったのか、私自信の欲も消滅してしまいました。食欲や睡眠欲など、肉体的な欲求はまだ残存しています。
ですが、生のエネルギーが消えてしまいました。人生をこう生きたい、こう描いていきたい、あれがしたい、これがしたい、全てありません。
楽しみも悲しみも何をしようと感じませんが、苦しみの強弱だけがあります。苦しみを紛らわすために、時間をつぶすために読書や勉強をしています。暗い海の底に漂っているような感覚です。向かいたいところがどこにもない、こういう場合どうしたらいいのかわかりません・・

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A 回答 (12件中1~10件)

 それは、あなたが見ている夢の事です。

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hogehogeです。


何事も大きな心を持って捉えれば空虚な事象ばかりです。その観点から見ると意思決定ほど無意味なものはない。
ただ、以下のことは否定に値するでしょうか。「文明は流行り廃りはあれど先へ進み戻らない」。流行りはまたもとに戻ったりを繰り返すこともありますが、例えば、蒸気機関により馬車というパブリックトランスファーはなくなりましたし、戦争に原子力の可能性を加味しない世の中ではなくなりました。例に暇はないです。「駒は進んで戻りません。」
ひたすら文明や時代や、もっと細かいあれこれを進めてしまいませんか?どうせいずれは進むんです。加速させても既得権益構造が維持されようと、少しずつだろうと進んで戻らないんです。大きな観点からすれば、あなたもわたしも、何をしたところで大差ないですが、ただやみくもに加速させることも、選択肢の一つにあります。
その行動の最も素晴らしいことは、そこには本人の意思決定や希望など込められていないことです。ただやみくもに加速させているとき、もう自身のことに関して考える必要はなくなります。
あくまでわたしの生き方ですが、よろしければ、試してみてはいかがでしょうか?
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 回答番号:No.9の継続


 宇宙創造は積極、神聖的質(サット)、活動と野心・獲得欲の質(ラジャス)、懶惰・怠け・無気力・鉱物質(タマス)によりなされているというヒンドゥの観は理解するととても示唆に富むものです。
 最後のタマス質(懶惰・怠け・無気力・鉱物質)の状態が、ご質問者さんの後半の文章での状態なのでしょうね。
 これは表面の現象をことばでの描写をすると、なにかサットに類似しているかの誤解が生じることもありますが、全く正反対ですね。
 何も知らない乳幼児や動物、植物、日月星辰が無邪気で、あるがままであるかのようで、だから聖なる大認識・実現し、自己を超越して無心なる聖者に似ているかのようですが、全く異なるのと同類の誤解ですね。

 ご質問の文章後半での描写は、そういう意味で何かを認識して、諦観に安居した、意識の普遍状態という溌剌たる状態ではないのですね。
 寧ろ内にあるのは、エゴと執着、そして欲望と、何かに依頼してそれにより楽したいという意識の状態を内に持ち、活動と攻略、獲得と欲望がその実現を期待し、待っている状態なのですね。
 それらが躍り出たいが、それを実行していくのも面倒くさいという懶惰の、依頼心の状態ですね。
 寝ていて果報を依頼し、機械があれば、夜叉や阿修羅として野望を遂行していく状態なのですね。
 おとなしそうで、恐ろしい軍力が控えている状態です。
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 回答番号:No.8の継続


 仰せの無力感、無気力、喪失感にもいろんな原因や状況、その思いがあるでしょう。
 苦しさも様々であり、その強弱も様々でしょう。
 本当にそういう状況であるならば、現にある、現に居る場と世界、状況を、そして自分を身に改めて享けとり、受け取り、それを認識してそこから出発するのでしょう。
 しかしそれをするには只、きょろきょろ辺りを眺め回し、考え込み、来し方(こしかた)を思い浮かべても何もわかりません。
 人は自分の義務、避けられないことがらを前において進むことによってしか、状況の認識はできないものです。
 考える、眺める、思うのではなく、無、空(から)になって、進むときに、思考が生じてくる。
 思考や理解が先ではない。
 思考も理解も、どちらも一歩も二歩も歩いた後の、それまでのプロセスだということです。
 泳ぐときは水に入る。水や泳ぎを理解して水に入り、泳ぎ始めない。
 泳いだときに、泳げる。
 自分を歩く。そして自分が出て来る。現れてくる。
 どなたかの回答者も仰せです。
 自分を行く、そして自分が出てくる。しかし自分に捉われるとまた、同じ無力の世界が来るでしょう。
 人生の最初と最後の理解を、把握を知的に得ようとすることは無意味だ。立脚、開始。それは自己を他者の中で失って見えてくる。
 最終への価値理念。終局。それも、他者と自己の区別がなくならない限りはわかりようがない。
 敢えて回答、敢えて経験、敢えて自信というところにチェックをつけました。
 それは、この投稿がこの私自身への回答であった時代があるからであります。
 55年も前、中学の終わり頃の私のテーマでありました。
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 仏教の用語の“諦観”はこと見ていましたが、存じませんでした。


 http://ext.dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/131564/m … では
 (1)全体を見通して、事の本質を見きわめること。
  では透徹した認識到達ですよね。
 (2)悟りあきらめること。超然とした態度をとること。
  悟って諦める、そして超然。
  何を諦めるか、悟っていなかったときの欲しいとかなんとかのあきらめでしょう。
  そして超然。
  この(1)、(2)の解説からは、現れた形は達観でしょう。
 
 それはご質問の後半の文章とは全く異なった、寧ろ正反対の状況ではありませんか。
 後半の文章が叙述している状況は単なる、迷いの世界、精進修業の無い世界、流されている世界。
 エゴの発揮ができないでいるので、悲しいと思っている世界でしょう。
 混同してはなりません。身近な切実な仏教といえども、こらえることのできない、それを意志しないでは付き合ってはくれませんでしょう。
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まず、こういった人にありがちなのが「自分はこうなのだ」という思い込みによる決め付けです。


自分はこういう人間で、こういうことしかできないから、ここまでしかできないのだ。という追い込み方ですね。
自己分析が得意な方などにありがちな思考です。

また、諦観は達観ではありません。達観は数々の思考の果てにある境地ですが、諦観はその思考を放棄した状態です。

私の友人が精神科医をやっていますが、彼女がよく言っていたのは、何をしたいかが見つからない時は、何ができるかを考えることです。
自分の中の可能性を模索する、ということです。
難しい、そんなことできない、と思うかもしれませんが、自己分析ができる人間であれば、意外と難しくありません。
なにもしたくない、興味が無い、で終わらせるのではなく、何もしたくなくてもとりあえず何かをやってみることです。
あなたは欲が無いといいますが、どうにかしたいと思っているから、ここに書き込んでいるのでしょう。
どうにかしたいと思うなら、それは欲求です。
その欲求にしたがってください。
そして、そのために、たとえ興味が無くとも「何かをする」という意欲を持ってください。極端に言えば「しなければならない」という義務に置き換えてもいいです。
あなたの考え方なら、まだ大丈夫だと思います。

あなたに道が開かれることを願います。
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>人生をこう生きたい、こう描いていきたい、あれがしたい、これがしたい、全てありません。



>苦しみの強弱だけがあります

>向かいたいところがどこにもない、こういう場合どうしたらいいのかわかりません・・

つまり、「虚しい」苦しみがあるのでしょう?

虚しさを受け入れ、死を待つ家畜として生きるのか
虚しさを克服すべく、悩み向き合うのか?

どっちですか?
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きっと若くして成熟、早熟された方だったのだと思います。



自分も今現在似たような状態です。


自分の経験から言わせていただくと、あなた自身の心が本当に感じて動かなければなにをしても意味を成せません。

読書や勉強をしているのは、まだしなければいけないという思いや、今までそれをしてきて平常的にしているという状態で、平均的な人から見れば平常的にレベルが高いほうだと思います。

他人から見ればきっと、他の人が思うように、あなたは大丈夫に見えます。

人生には海の底も必要です。

馬鹿になった経験が無いなら、本当に馬鹿になって行動を起こすのも一手です。

最後に、貴方はきっと大丈夫ですよ。そう願います。
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大丈夫ですね


これだけの質問の文章を書けるのですから
冷静に自分を見つめる事もできるのですから

這い上がる力も余裕もあるけれど・・・
きっかけが欲しいのでしょうか?

>生のエネルギーが消えてしまいました。
まだまだエネルギーがあると思いますよ

私が思う二つのヒントをさしあげます

一つは、体を動かす事です

読書や勉強ばかりではただ頭が疲れるだけです
何かスポーツでもやってみてはいかがですか
体で何かを感じとる事も大切だと思います
あなたは今まで頭だけで生きてこられたのでしょうか
そうではないでしょう
頭で考える以前のものがあったはずです
体を動かして、そういうものを取り戻す事も必要だと思います
体を動かして、無心になってみてください
まだあなたにはできるはずです。

二つ目は 夢を取り戻してください 

一つ目の事をやった上でのことになりますが
あなたには、やり残したことはないですか?
やっておかなければならない事はないですか?
どうしてもやりたい事はないですか?

これは、誰でも必ず持っているものです
或いは背負っているものです
自然な自分を取り戻せたならば自然と答えが見つかるはずです
何から始めるかも分かるはずです
夢とまでは言えないにしても
自分にはこれしかないと思えるものがきっとあるはずです。

私にもあなたのような時が昔ありました。
小さな一歩を無心になって踏み出した時のことを今も覚えています
夢に向かって体ごと前に進んだ時のことです
私の場合の夢は仕事でした
よし、まず資格をとろう、という気持ちで必死になって取り組んだのです
必死になって見事に一発で取りました
思いだすとその頃の自分がいとおしくも感じられます

あなたにも出来るはずです
諦観や達観はまだ早すぎます
頭だけの諦観や達観なんて本物ではありません
自分を夢に向かって精一杯ぶつけてみてからにしてください。
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>楽しみも悲しみも何をしようと感じませんが、苦しみの強弱だけがあります。



諦観の「許し」の愛情は「故郷は遠くにありて想うもの」の「郷愁」で、感情が失せるということではないと思いますよ。
理性がなくてっも即死とは行きません。けれど感情も感覚も生きるのに必要だから備わっています。必要とされる苦しみが減るということは自然から成長を捉そうとはされてなく、感覚の方から「もう生きてなくていいよ」と諦観させていることになる(に違いない)。

要は全ては無価値、無意味と肯定し(?)全て諦観ファイルに(?)保存していては寧ろ諦念への出発にも到達にも至れず固まるばかりで、四苦八苦し生き生きしている人間に哲学の方から隙間を埋め人間を照らすのに役立つ光となれるので、独自の方法論を実践することで「必要とされない辛苦、感情を捨てる」ことが出来るのだと思います。

人生を充実させようとするなら、官僚になるとか、ノーベル平和賞受賞とかの夢(があったとして)大場の局面に備えることなどは他に幾らでも生きる選択肢があることで代用出来る生き方はなんぼでもあります。

しかし、その場その場で、例えば飢えを克服すること、トイレに行くこと、病気治療すること等は他に代用する選択もなく、何をおいても実行を迫られます。

充実の賢者や達観視できてる人から失笑されることなのかもしれないけれどは理性概念で軽い扱いをされる「急場しのぎ」は誰にもある本質で、つまり人間の本質で、何があっても限界を乗り越えなければならない他に選択しようもないもので、生き生きとわき目を振らず充実を得られることである(多分)。

クローン人間が完成するのが先か、人間型ロボットが完成するのが先かわかりませんが、人間が代用の利く部品、装置として存在するとするとクローンもロボットも軽い存在であることに耐え切れず自殺するだろうという。
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