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 『愛の反対』で検索すると、『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』という Mother Teresa の言葉がたくさんヒットします。

 確かに無関心というのは愛の対義語のような気もしますが、ピンと来ません。 Mother Teresa のように誰に対しても愛をもって接することのできる人の言葉として捉えると、そうなのかなという気もしますが。

 愛の反対は何ですか?

A 回答 (26件中1~10件)

こんにちは!



哲学的なことは何も分からない一般人の女性です。
ですから本当の答えは分かりません。
ですので、私でしたらということでよろしいですか?

私でしたら、「愛」の反対は「戦争」になります。
愛のタメなのかも知れませんが、愛があるならやめて~~!という感じです。

「憎しみ」は愛あってのものかも知れませんね。
「無関心」確かに愛も何もない。
マザ-テレサってやっぱりすごい!

しかし私は「戦争」です。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 哲学的なことは何も分からない一般人の女性です。
> ですから本当の答えは分かりません。
> ですので、私でしたらということでよろしいですか?

 もちろん大歓迎です。愛という言葉を恋愛に限定したくなかったので、哲学のカテゴリーで質問させていただきました。

> 「愛」の反対は「戦争」

 なるほど戦争に愛はないし、愛があれば戦争はおきませんね。『戦争=憎しみ』とも限らないですし、戦争を国と国との争いという意味だけではなく、人と人との争いとして考えても、愛とは正反対の行為ですね。考えさせられる言葉です。

>「憎しみ」は愛あってのものかも知れませんね。

 『可愛さあまって憎さ百倍』という言葉がありますが、愛がカラ回りした結果と見ることができるのかもしれませんね。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/23 11:37

単純に愛の対義語は『憎』かな~と思いました。



愛=対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。
↓この他にも
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-more_prin …
(goo国語辞典より)

憎む=出来ることなら、抹殺したいくらい、相手の存在がたまらなく嫌
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search. …
(goo国語辞典より)

「愛憎が交錯する」「愛憎相半ばする」 が真っ先に思い浮かんだのですが・・・
「愛」も「憎」もどちらも相手の存在を大きく認めている上での
感情かしら、と考えました。
(「憎」は相手の存在を認めたくないと必死に思っていても、
認めないと出来ない-な感情ですよね)

無関心・・・博愛主義者のマザー・テレサだから言える言葉ですね。
でも、無関心の方が憎むより、存在自体を認めていないので、
そっちの方がきついな~と感じてしまうのは私だけでしょうか?!
マザー・テレサ・・・すごいこと言っているなあと、
今「愛」について考えて、しみじみしてしまいました。

単なる一般のおばさんが思いつくまま回答しました。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-more_prin …
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 単純に愛の対義語は『憎』かな~と思いました。

 私も『愛の反対は憎しみ』と思っていましたが、Mother Teresa の言葉にハッと
させられて質問しました。

> でも、無関心の方が憎むより、存在自体を認めていないので、
> そっちの方がきついな~と感じてしまうのは私だけでしょうか?!

 確かに、無視するということは存在を否定しようとする行為ですが、裏を返せば
『関心を持っているからこそ、意識的に関わらないようにしようとしている』
とも考えられますよね。そう考えると、感情をぶつける憎しみよりも一層憎しみの
度合いが強いのでしょうね。

> マザー・テレサ・・・すごいこと言っているなあと、
> 今「愛」について考えて、しみじみしてしまいました。

 本当にそう思います。愛の対極としてあるものを一切超越した境地になれたら、
どんなにすばらしいことだろうと思います。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/23 12:03

こんにちは。

個人的な意見ですが。

愛の反対は怨み(うらみ)だと思います。
言霊ってありますよね?
言葉には(良くも悪くも)エネルギーがあると思うんです。
で、その言葉(日本語)の50音の最初が「あ・い(うえお)=愛」
最後が「(わゐうゑ)を・ん=おん=怨」ですよね。(濁音は除きますが。)

こういう見方をしたら「あい=愛」の反対(対極)は「をん(おん)=怨」じゃないかなって思います。

ま、言葉遊びと言われてしまえばそれまでなんですが、遊びと言うにはできすぎてると思いませんか。
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この回答へのお礼

 こんにちは。個人的な意見、大歓迎です。

> 愛の反対は怨み(うらみ)だと思います。

 新しい説ですね。憎しみとは少しニュアンスが異なりますね。

 怨みというのは『相手から満足できるものが得られなかったり、不快感を与えられたりしたときに相手に対して抱く感情』といったような理解でよろしいでしょうか?

 もし愛というものが代償を求めるものではないとしたら、代償を得られなかったことに対して生じる『怨み』という感情は、愛の反対とは言えないのかもしれませんね。

 しかし、相手から愛が得られなかった場合に、相手に対して抱く感情としての怨みというのはあり得るかなとも考えられますね。

> 言葉には(良くも悪くも)エネルギーがあると思うんです。

 これ、いい言葉ですねー。

> こういう見方をしたら「あい=愛」の反対(対極)は「をん(おん)=怨」じゃないかなって思います。

 面白い解釈だと思います。言葉遊びと謙遜されていますが、言葉遊びにも鋭い一面を突いていることがよくあります。

 余談ですが 『アルファベット順では、I(愛)の前にはHがある』 というのを思い出しました。あ、関係ないですね。失礼しました。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/23 14:16

ちょっと言葉のお遊びみたいな回答で申し訳ありませんが、


「反対」ということは対になっていなければならないので、
じゃあ、「無関心」の反対は「愛」かというと、
ちょっと違いますよね。
ちなみに、 Mother Teresaの言を借りると、
「憎しみ」の反対も「無関心」ということになりませんかね?
「愛」にしろ、「憎しみ」にしろ、感情を持つ対象ですらない、
ということですよね・・・

「愛を否定する言葉は?」と聞かれれば「無関心」でもOKだと
思いますが、「愛の反対の言葉は」と聞かれれば、個人的には
#2の方同様「憎」かな、と思います。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

 辞書的な意味ですと、『愛』の反対は『憎しみ』でいいのだろうと思います。ただ Mother Teresa の言葉を見た時に自分の心の中で『憎しみは本当に愛の反対なのだろうか?』という疑問が沸いてきたので質問させていただきました。

> ちなみに、 Mother Teresaの言を借りると、「憎しみ」の反対も「無関心」ということになりませんかね?

 これも鋭いところを突いていますねー。その通りかもしれません。 Mother Teresa の言葉は、愛の反対が何であるかなどということは本当は問題ではなく、『弱い人を見た時に、あなたがたは決して無関心であってはいけません』と言っているのかなと思いました。

 ただ、私は人類愛とか博愛といったような高尚な愛を持っていないので、私の中で愛の反対は何だろう? みなさんの心の中で愛の反対は何だろうと思ったのです。

 Mother Teresa に関しては、私は彼女に関する本を読んだわけでもなく、聞きかじりの知識しかありませんので、どなたか彼女の言葉の意味を解説していただけたら嬉しいのですが。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/23 14:50

私的な意見を一つ。



概ね#4のお礼で述べてある、Tiamatさんのご意見に同意します。

『愛』にしても『憎悪』にしても、対象があっての事。そこから推するに、『無関心』とは裏返せば対象が存在しない(人の事を考えない)『自分勝手(身勝手)』と言えないでしょうか?
電車の中で大声で携帯で話す。道にタバコやガムを捨てる。等の身近な事から、先の韓国の地下鉄放火犯のように「一人で死ぬのはイヤだから。」と云う理由で、見ず知らずの人を巻き添えにする。不倫相手との関係の為に、自分の子供が邪魔になり、殺してしまう。等、全ての犯罪は、突き詰めれば『自分勝手の成せる技』とは云えないでしょうか?

私もMother Teresa の著作は読んだ事はありませんが、私達凡人は、何も世界中を飛び回って貧しい子に手を差し伸べる様な壮大な愛の行動をしなくても、身近な事に感心を持ち、常に相手(人)の気持ちになって考え行動をする事が、『無関心』とは対極の『愛』の行動になるのではないでしょうか。
(私が現在、そう云う行動をしてるかどうかは別として。。。爆)
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 『無関心』とは裏返せば対象が存在しない(人の事を考えない)『自分勝手(身勝手)』と言えないでしょうか?

 関心を持つということは多かれ少なかれ、対象に対して愛を抱く余地があるけれど、無関心だとその余地もない、というご意見には全くそう思います。

 愛のない行為とは何かということを考えていけば、自ずと愛の対極にあるものが見えてくるのかもしれませんね。

> 身近な事に感心を持ち、常に相手(人)の気持ちになって考え行動をする事が、『無関心』とは対極の『愛』の行動になるのではないでしょうか。

 この言葉もいいですね。頭の中ではわかっていても、なかなか相手の気持ちになって考えるというのは難しいものです。どうしても自分を第一に考えてしまいますから。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/24 00:01

『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』というのは、個人的には


『晴れの反対は雨ではない 曇りだ』って言われているようで、なんか中途半端な感じがします。

『愛』という言葉からイメージするのは、光・温もり・やさしさ・笑顔・安心などが浮かびます。
(人によっては、厳しい・辛い・苦しいなどもあるかも…)
これらのイメージの逆を考えると、暗闇・冷たい・孤独・恐怖などが浮かびます。
したがって、『愛』の反対は『闇』だと感じます。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』というのは、個人的には
> 『晴れの反対は雨ではない 曇りだ』って言われているようで、なんか中途半端な感じがします。

 とても分かりやすい例ですね。私も最初はそんな気がしていました。けれどここでみなさんの回答を読み、自分なりに考えているうちに、愛の1つの対極として無関心というのも確かにあるなあと思うようになりました。

> これらのイメージの逆を考えると、暗闇・冷たい・孤独・恐怖などが浮かびます。
> したがって、『愛』の反対は『闇』だと感じます。

 あー、何となくわかります。『愛』の反対としての『闇』。愛には闇のイメージは全くありませんよね。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/24 00:03

愛の反対は、「相手に対する強い思い」の中で言えば、


「憎しみ」という気がします(ていうか、そう思ってます)。
でも、「相手に感心を持っているかいないか」な感じで言ったら、
反対は「無関心」だと思います。私は。

参考にならなくてすみません。では。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 参考にならなくてすみません。

 いえいえ、決してそんなことはありません。愛の反対というものを考えるとき、自分の感情のスタンスをどこにもってくるかによって、答が違ってくると理解しましたが、それで合っているでしょうか?

 先ほどから考えていたのですが、たとえば、愛していた人に裏切られたときに憎しみを抱いたとします。この憎しみという感情は、愛の反対なのでしょうか?

 いや、本当は愛ではなくただの独占欲ではなかったのでしょうか?
 自分の思うようにならなかったから憎しみを抱いたのではないでしょうか?
 もしそうであるなら、憎しみの反対である愛は実は本当の愛ではないのでしょうか?

 というようなことを考えてしまうと、わけがわからなくなってくるんですよね。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/24 00:05

愛の反対は、ありません。


愛は満ちているので、反対の余地はありません。空っぽと言うのも、また愛です。愛は、それほどに、満ちています。
と、考えました。
>『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』
きれいな、スマート(知的)な言葉だと感じます。
このクリスチャンの言葉の愛が、人の愛か、神の愛か。
愛に違いはないと、思えるなら、うれしいです。
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 愛の反対は、ありません。
> 愛は満ちているので、反対の余地はありません。空っぽと言うのも、また愛です。愛は、それほどに、満ちています。


 何度も何度も読み返してみましたが、私の頭が悪いせいで、おっしゃっている意味がどうしても理解できません。あまりに哲学的すぎて、わたしの理解の範囲を越えています。いろんな考えを聞こうと思って立ち上げた質問ですが、このような考え方があるとは思ってもみなかったので、呆然としているところです。

 『愛は満ちているので、反対の余地はありません』というのは、
 愛は自分の反対のものの存在を許さないということでしょうか?
 愛の反対というものは、あってはならないという意味でしょうか?


 反対の余地がないとおっしゃられると、この質問の存在自体が意味をなさないということですね。

 せっかくのご回答にケチをつけたり、揶揄するものでは決してありません。
 本当におっしゃる意味が理解できないのです。
 私の文章を読んで、気分を害されたら申し訳ありません。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/02/24 00:12

 『愛の反対は憎しみではない 無関心だ』という Mother Teresa の言葉は、愛がある故に相手に強く関心を寄せる。

だから関心を寄せない無関心とゆうことが反対だとゆう意味でいってるのだと私は解釈しています。
 でも、私もこの解釈にはピンときません。なぜなら、相手に関心を寄せる感情は愛だけではないからです。好奇心や憎しみ、憧れ。こうゆう感情も相手に関心を寄せるからこそ湧いてくるものだと思います。
 なので、関心・無関心とゆう事は愛だけに限ったことではないので、愛の反対には当てはまらないように感じます。
 単純かもしれませんが、愛の反対はやはり「憎しみ」ではないでしょうか?同じように人が相手に対して抱く感情にも関わらず、片方は相手に好意があり、片方は敵対する。
 「反対」とゆうものは、似通った部分がありながら、歩み寄る事のできない相違のあるものだと思います。

この回答への補足

 <<ご回答をいただいた皆様へ>>

 お礼が大変遅くなって申し訳ありません。

 私事ですが、少し前から目の異常を感じていたので、No.8の方のお礼を書いた翌日に病院へ行きましたら網膜剥離と言われ、入院手術になりました。手術後、網膜の付きが悪いということで再手術になり、とてもしんどい思いを経験してきました。

 この質問のことも気にはなっていましたが、退院後も光を見ると眩しくて涙がポロポロ出るし、またほとんど片目で見ている状態なので、とても目が疲れてパソコンどころではありませんでした。

 そのため、パソコンはメールチェックのみで、ほとんど開いていなかったので、こんなにたくさん回答がついているのにびっくりしています。

 返事は少しずつ書かせていただこうと思っていますので、もうしばらく御猶予を頂きたく存じます。

 大変申し訳ありません。

補足日時:2003/03/23 09:42
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この回答へのお礼

 こんにちは。

> 関心・無関心とゆう事は愛だけに限ったことではないので、愛の反対には当てはまらないように感じます。

 確かに『関心=愛』とするには少し抵抗がありますね。でも、Mother Teresa の愛というものは『好奇心や憎しみ、憧れ』といったものすべてを含んでいるのかなあとも思います。尤も彼女には憎しみという感情は存在しないのだろうなあと勝手に想像していますが。

 愛の反対を、歩み寄ることのできないものとして考えると、憎しみが最もあてはまある気はしますね。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/03/23 09:48

私もご質問の言葉を初めて耳にしたとき、「ああ、なるほどね」と「なんか変だな」の両方を感じたように思います。


一般的に「相手へ向かう強い思いのプラスとマイナス」なら「愛」に対して「憎」ですが、マザー・テレサの言うのは「愛の有無」ですから、対応するのは「無関心」になるんですよね。二つの「愛」は微妙に違っています。

私なら「愛」の反対に何を据えるか考えてみました。「相手へ近寄りたい感情と相手から遠ざかりたい感情」で「恐」はどうでしょうか。
(でも「怨」の音韻的解釈、好みです。)
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この回答へのお礼

 こんにちは。お礼が大変遅くなって申し訳ありません。

 私と同じような感じ方をされたようで、心強いです。(^^;
 反対というのをどのようなスタンスで取るかによって、答えが違ってきますね。

> 私なら「愛」の反対に何を据えるか考えてみました。「相手へ近寄りたい感情と相手から遠ざかりたい感情」で「恐」はどうでしょうか。

 これも新しい解釈ですね。おっしゃりたい意味は何となくわかります。
 私も、怨」の音韻的解釈は面白いなと思いました。いろんな解釈が聞けて、興味深いです。

 回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/03/23 21:06

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