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謙信の流を汲む 景勝 と兼続が「義」「愛」という切り口
で注目されていますが、もともと豊臣方であったのに
家康と戦いながら形成不利と見るやすぐに「侘び」をいれ
家康の家臣となりました
それに比べ「真田幸村」は、形成不利にもかかわれず
大坂の陣で泥舟の豊臣につき再三の家康の誘いにも
乗らず壮絶な討ち死にとなりました
よっぽど景勝 兼続たちより「義」を重んじた武将なのに、なぜ景勝 兼続がもっとも「義」を重んじた武将といわれるのでしょうか?

A 回答 (9件)

直江兼続って何やった武将か知ってますか?



1600年、会津・米沢の兵を率いて山形の最上義光に攻めかかり、長谷堂城に立て篭もった最上の家臣・志村光安が篭城して出てこない事に業を煮やして収穫直前の田んぼを焼き払い、女を犯した『刈田狼藉』をやった人物ですよ。

これが義や愛に生きた男といわれると腹が立ちます!

ある意味『愛』を教えてますがね…
強姦して男の味を教えるっていう悪い意味での愛…
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この回答へのお礼

皆様回答いただきありがとうございました
この欄で代表して御礼申し上げます

お礼日時:2009/03/31 16:40

はじめまして


まず この時代の人が義とか愛とかをどういう感覚で使っていたか
ということがまず先じゃないかと思うんですよ
確かに兼続の兜の前立ちには愛という漢字をつけていますが
これは敵対するものに 私は慈愛がある 無用な抵抗をしないで
降伏せよ はじめから 許す側 つまり相手より上位にいるんだということを知らしめるためのもののように私には思えます
また 謙信公の義ですが 身分階級の維持の筋目としてのものではないかと
なぜなら 領土欲がなかったでしょ 越中は百姓が自治していた土地
ですし 領主というものが長く存在していませんでしたね
関東へは管領としての出張りですから
でもね裏を考えれば (( 日本農業史上からは2,3年毎の飢饉でした))
川中島も関東出兵も飢饉との関係を疑なければならないとおもいます
出兵の時期と飢饉の時期を照らし合わせると妙に符号しますしね
越後兵はよく関東で年を越していますし
最大の激戦だった川中島第4次合戦は関東から帰ってすぐ出陣しています
8月には妻女山に陣取っています 妻女山の後方は稲の穂がたわわになっていたはずですし これの略奪戦のような気がします
でなければ敵中 退路を断つような陣の張り方はないでしょう
今も昔も食べていくことが最優先事項でしょう
天下という概念は 関東管領職の範囲だったんでしょう

真田は骨の髄まで戦人なんでしょう 勝てる自信は充分に持っていたと
思います  よしんば負けても名を残すという風に
黒田如水が関が原の時 九州で手早く戦したように
才覚のある者は ちょつとした機会があれば 図面は引けたと 
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主人である信長の跡継ぎの子供や重臣や妹を片っ端から殺していって、天下を簒奪した秀吉が、太閤様って人気有るのと同じです。


そもそも、信長だって、守護の斯波家を滅ぼした守護代です。
越後は守護が上杉、関東管領も上杉、守護代が長尾です。
謙信が3つを統一しました。
それが死後、景虎の関東管領と景勝の守護代に別れて、謙信の兄や父の時代と同じに、争って、信長と同じように、守護代が勝ったってだけです。
そのお館の乱の後に、織田軍が、北陸から柴田勝家、佐々成政、信濃から森長可、関東からは滝川一益と、強力な武将が三方から春日山目指して迫って来て(例えば七尾城は少数の守兵が壮絶な討ち死にしてます)、豊臣秀吉が信長殺すのが半年遅れたら、上杉景勝は間違いなく滅ぼされています。
また、その後も越後の北半分揚北衆との、越後を二分する一進一退の戦いに、勝利できたのも、豊臣秀吉のバックアップのおかげです。
その恩というより、運と、その時々の権力者と上手くやっていく能力がないと戦国武将は生き残れません。

真田家は、お兄さんが徳川、弟の幸村が徳川と、二股かけて家の存続を図っています。幸村はたまたまはずれの方だったというだけです。
また、大阪の陣は、まっとうな大将が指揮していれば、大阪方が勝った戦いです。淀君とそれに取り入って秀頼を生んだ大野修理という佞臣が幼年かつ実戦経験ゼロの大将秀頼の参謀としてデタラメな指揮をしたから負けてしまっただけの戦いです。

景勝兼続が義を重んじた武将といわれるのは、大河ドラマ天地人の主人公だからというのが大きい要因です。
確かに、米沢から会津に減俸された際に、社員というか家臣をリストラしなかったという点だけを見れば、最も義理堅い武将ではあります。
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あくまでですけどあの時代の武将って基本的には義を重んじてたと


思いますよ。 もちろん政治的な背景もあったんでしょうけどね
ただ今景勝や兼続が言われているのは単に大河の影響以外何者でもないですよ。
そもそも仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われますが
謙信公が毘沙門天の毘を旗印にしてたように愛染明王とか愛宕権現
をあしらった前立とかって話もありますからね。
あくまで大河ドラマは史実ですが小説ですからね脚色等もされえています。
史上類を見ない極悪武士とかって言うより義を重んじた武士とかって銘打ったほうがみんなが見るでしょ!(笑)
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家臣たるもの主家の存続はかるもの大将自ら前線にでるなんて


武勇伝にはなるかもしれないが
生きていれば何とかなるテレビで兼続ばかり、いわれてるが
阿賀北衆(阿賀野川より北)では中条与次藤助名前はっきりしないが景勝の誉れも高かった
次回のテレビで金塊の貢物の産出は佐渡金山ではない
阿賀北鳴海金山より産出という
兼続は与板今の長岡市与板打ち物金物で名があるだけで
義を重んじたなど聞いた事がなかった。
なお米沢に改易されてからは名君と誉れの高い
上杉鷹山公のほうが世間ではもつと有名だよ
あの名言 なせばなる、なさめばならぬなにごとも、なさぬは人のなさぬなり
テレビの影響で脚本されている
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もっとも「義」を重んじた武将といわれるのでしょうか?


→ 上杉家が幕末までちゃんと残ったから。つまり言い続けてくれる人がいた。
さらには、120万石→30万石→15万石と、大変苦しい藩運営を余儀なくされた。こういうところは、精神論で乗り越える必要があるので、だいたい、先祖称揚を行います。

真田幸村を称揚したら、反徳川OKとなるじゃないですか。
石田三成も称揚されていない。
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義の人といわれているのは直江兼続であって、上杉景勝ではないですよね。


豊臣秀吉からの引抜にも一切応じなかった態度や米沢への転封の際にリストラをさせなかった行動、米沢での領民のことを考えた内政、などからそのように言われているのだと思います。

真田信繁(幸村)や大谷吉継など義の人と呼ばれる人は沢山居ます。
直江兼続もその中の一人です。
誰かが「もっとも」義を重んじた武将と言っているとしたら、それは単に大河ドラマの宣伝でしかないと思いますよ。
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個人の場合は、義理人情で世の中を、自分の意思のままに意地を貫いても責任は自分ひとりで償えます。



景勝が、家康の軍門に下ったのは、景勝について生死を共にしようとした家臣団を考慮してのことです。家臣には家族も居ます。使用人も居て、その使用人にも家族がいるのです。

景勝が意地を張り、義に生きようとしたら、景勝一人でなく家臣団をはじめその家族など100万に近い人々を死なせたり、路頭に迷わすことになります。

武将一人の判断だけで物事は解決しなくなってるのです。

幸村の場合は、家臣団は傭兵のみで、金で動く連中ばかりです。死んでも禍根の無い立場です。形勢不利は承知の上の、義理を尽くした戦いでなく、意地を貫いたやけっぱちの戦いなんです。

死ぬことと見つけたりの葉隠れの真の意味は、死ぬことが目的でなく、死んでも、死んでも、食らいついて主君の役に立てと、言うことです。

義を貫くのに、死んじゃ終わりです。何度でも再起を果たし義を貫く環境を作り直せと、言うことです。
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上田長尾家によるクーデター(御館の乱)で、上杉の家を乗っ取ったわけですから、「義」や「愛」とは縁遠いはずですが、なぜでしょうね?

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