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日本の現在の基本的な学校制度は、

・小学校(6年制):6~12歳
・中学校(3年制):12~15歳
・高校(3年制):15~18歳
・大学(4年制):18~22歳

となっています。勿論、個人によって違いはありますが。

この制度はおそらく戦後に設定されたものですよね?戦時中は今とは修業年数も違い、学校の呼び名も違っていたと思います。
そこで質問なのですが、太平洋戦争中の日本の学校制度はどうなっていたのでしょうか?それぞれの修業年数と、年齢が知りたいです。
在学途中で徴兵、出征させられた大学生達の年齢は、今の大学生より上でしょうか?下でしょうか?
ご存知の方、教えて下さい。よろしくおねがいします。

「戦時中の修業期間について」の質問画像

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A 回答 (4件)

こんにちは.



ご質問者さまと同じ疑問があったため,
教育委員会~文部科学省に問い合わせました.

文部科学省ホームページ→白書→その他→
学制百年史→資料編→
三 文部省局課変遷・学校系統等図表→
学校系統図 

結果が下記アドレスです.
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz19 …

ご質問の趣旨を含めて全ての情報が記載されて居るので,
詳細な解説は必要ないしていたしませんが,
ご質問に関連する部分は,
『第6図 大正8年』と,
『第7図 昭和19年』が,
ご質問に該当する時代の図表と思います.

このご質問は私の疑問解決にも,本当に役立ちました.
ありがとうございました.

なおこの回答が,
ご質問者さまの参考の一助になれば幸いです.

参考URL:http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz19 …
「戦時中の修業期間について」の回答画像4
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり、大変申し訳ありません。

詳しく完璧に教えていただき、ありがとうございます!
おかげ様で疑問が解けました!
また、質問の年代以前のものも知ることができ、とても参考になりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/13 14:37

戦前の教育制度は今のように単純ではなく、義務教育の尋常小学校(6年)は現在と同じですが、そこから後はいろいろなバリエーションがありました。



第一段階 尋常小学校 6年 (1パターンのみ)

第二段階 中学校レベルの学校 (経済的に余裕がある家庭の子供が行く)
中学校 5年 例:東京府立第一中学校
高等女学校 5年 例:東京高等女子師範学校附属高等女学校
実業学校 5年 例:大阪府立淀川工業学校

第二段階の傍系 高等小学校 2年 (多少経済的に余裕のある家庭の子供が行く)
第二段階の発展 師範学校尋常科 高等小学校卒業を入学資格とし、5年
※ 師範学校を卒業すると小学校の教員になれました。現在の**教育大学に相当する学校です。

第三段階 高等学校レベルの学校 (進学する者は国民全体の1割未満。中学校レベルの学校を卒業することが入学要件。師範学校卒業者も入学可能な例あり)
高等学校 3年 例:官立第一高等学校
大学予科 3年 例:官立新潟医科大学予科、私立早稲田大学予科
専門学校 3年 例:官立小樽高等商業学校、官立東京高等師範学校

第四段階 大学レベルの学校(高等学校レベルの学校を卒業することが入学要件)
大学 3年 例:官立東京帝国大学、官立新潟医科大学、私立早稲田大学

この時代、家庭が裕福で勉強ができ、「大蔵省の官僚になりたい」と願う子供は、理想的なコースは下記でした。

尋常小学校 6年
東京府立第一中学校 5年
官立第一高等学校 3年
官立東京帝国大学法学部 3年

合計で17年となります。卒業時には23歳となります。

さて、学徒出陣の対象は「徴兵年齢である20歳を越えて、『文系』の高等学校レベルの学校、大学に在学している者」でした。

ですので、ご質問
「在学途中で徴兵、出征させられた大学生達の年齢は、今の大学生より上でしょうか?下でしょうか?」
の答は
「今と同じくらいです」
となります。

なお、上記の「大学卒業時には23歳となります」では、
* 中学校は5年制だが4年修了で高等学校レベルの学校を受験可能。
* 中学校から高等学校に入る時が現在で言う大学受験に相当する難易度と競争率で、この段階で浪人する者も少なくなかった。
* そもそも、戦前は満年齢ではなく数え年。今とは年齢の数え方が微妙に異なる。
ことを無視していますので、実際はもっとややこしくなります。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありません。

今のような大学全入時代とは全く違い、中学校へ上がるにも頭と財が必要だったのですね。
そこで止まらず、上まで上り詰めた大学生たちがどんなに優秀だったか分かりました。

大学生の年齢は、多少のバラつきはあっても基本的には今と同じくらいなんですね。
すごく分かりやすかったです。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/13 14:49

昭和16年に国民学校になるまでは、尋常小学校と高等小学校がありました。

一般の児童は尋常小学校に6年間通ってお終い。そこから先、旧制中学以上への進学を目指す者は、高等小学校(二年間)に進学した。すなわち高等小学校には予備校的な意味合いがありました。したがって最終学歴に「予備校・卒」がないように、「とりあえず高等小学校までは・・・」という考え方はありませんでした。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありません。

今のようにほぼ全員が気軽に高校へ上がるような社会システムではなかったのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/13 14:40

まず日本人ならアメリカの言う「太平洋戦争」ではなく、日本国が正式に採用した「大東亜戦争」と言いましょう。



うんちくはさておき。

国民学校(6年)ここ迄が義務教育。後は就職か進学。

中学校(男子のみ)・高等女学校(4年)
進学して。
師範学校(小学校の先生になるための学校)
高等学校
その後に。
大学
高等師範学校(中学以上の先生になるための学校)

と言う具合です。
昔は小学校以外年齢は、ばらばらでした。
また戦時中の昭和18年に大幅な学制改革が行われています。
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この回答へのお礼

呼称については、大東亜、太平洋、昭和戦争 等々ありますが、個人的に名称についてはあまり拘りが無いので、一番馴染みの深い『太平洋戦争』と言わせていただきました。

年齢はバラバラだったのですか…。
高等学校や大学などの修業年数も決まっていなかったということですか?
当時はかなりアバウトだったんですね^^;

詳しいご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/31 13:25

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Q戦時中、みんな何をしていたのでしょうか?

度重なる質問申し訳ありません。
戦時中について興味を持ち調べてみたところ、次から次へと疑問が噴出してきまして。
さて、今回の質問ですが。
まだ徴兵検査を受けていない、20歳以下の人達についてです。進学して学校に通っていれば、学徒動員などがあったようですが、小学校を卒業後に就職した人達はどのような仕事をしていたのでしょうか?
やはり、学徒動員するほど人手が足りなかったわけですから、彼ら学生に混じって軍需工場などに動員されたのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、12月8日には近くの神社へ必勝祈願のお参りをしました。
千人針を縫ったり、千羽鶴を織ったりして「武運長久」を祈りました。
山へ入って、松の根っこを拾い集めました。
松脂から松根油というのを作って燃料にしたのです。
大勢の男を湯船にいれ、おならをさせ、それを集めてメタンガスを作る実験があったとか無かったとか。
そんな話が、当時では笑い事ではなかったのです。

毎日のように防空訓練というのがありました。
防空頭巾をかぶって防空壕へ非難したり、バケツリレーで消火する訓練です。
出征する兵隊さんを日の丸の小旗を振って送り出すこともありました。

☆中学校、女学校

昭和に入ると、裕福な家庭や都会では、中学や女学校に入ることが多くなります。
いまとは違い、「男女16歳にして席をおなじゅうせず。」といわれ、男女共学ではなかったのです。
中学に入るとすぐ始まるのが、軍事教練と学徒動員です。
女学生の場合、看護訓練などもあったと思います。
軍隊から派遣された教官が中学生を心身ともにしごきあげます。
「一億一心」「鬼畜米英」「海行かば~」と、お国のために命をささげる訓練です。
戦火が激しくなると近くの工場へ学徒動員されます。
軍事物資の生産に狩り出されるのです。
しかし、原材料がなくなると工場の掃除や草むしりです。
動員された工場に爆弾が落とされ死傷者がでることもありました。

幼年兵学校というのもありました。
少年航空隊というのもありました。
予科練習生というのもありました。

☆「甲種合格」

男子は(多分)16歳になると全員徴兵検査を受けることになり、甲種、乙種、丙種に分類登録されます。
「甲種合格」といって喜んではいられません。
先ず最初に徴兵されるのは「甲種合格者」です。
密かに喜んでいたのが「丙種合格者」かも知れません。
しかし、戦争に行かずに街中をうろうろしていると憲兵に捕まり鉄拳制裁を受けます。
あの家にも、この家にも、次々と「赤紙」が届き「恩賜の煙草」を戴き徴兵されていきます。
「練兵場」という場所に集められ訓練を受けた後、戦場へと送り出されます。
しかし、送り出された兵士たちに、弾薬や食料はわずかしか送られません。
そんなものは現地で調達しろというのが「大本営」の方針だったのでしょうか。
旧厚生省調査によれば、日本人戦没者は310万人、内訳は軍人軍属230万人、空襲被災者80万人だそうです。
軍人軍属の犠牲者のうち半分以上は「餓死、病死」といいます。
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戦争末期には殆どの成年男子は戦場へ駆り出されました。未成年者も予科練や特攻隊に志願していきました。死を覚悟して。
沖縄では看護兵として狩り出された女子学生までもが、本土防衛のため、戦闘に加わって死んでいったそうです。

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、1...続きを読む

Q戦時中の教育制度について

昭和十六年~終戦までの教育制度について教えてください。
(1)国民学校初等科(6年)と国民学校高等科(2年)は義務教育でよろしいでしょうか。
(2)国民学校初等科を卒業後すぐに青年学校に入学することはできたのでしょうか
(3)国民学校尋常科と中学校の違いを教えてください
(4)高等科を卒業して師範学校へ進もうとした場合、高等科卒業後に2年間の「予科」を経てから師範学校入学となるようなのですが、この「予科」とは何なのでしょうか。現在の予備校のようなものですか?つまり浪人生?

Aベストアンサー

参考URLに国民学校令がありますので、詳しくはそれを見てください。また、参考URLからのリンクで師範学校令や中学校令を見てください。
(1)条文からはそうなります。
(2)青年学校は普通科、本科などに分かれていたようです。普通科は尋常小学校卒業で入学できたので、初等科卒で入学できたと思われます。しかし、国民学校令施行後の青年学校についてはよく知りませんので確証はないです。
(3)国民学校に尋常科はありませんでした。尋常小学校が国民学校初等科に替わったので、初等科のことではありませんか?
(4)予科は予備校ではありません。師範学校の一部です。師範学校には本科と予科があり、中卒だと本科に直接入学できましたが、高等科卒だと予科に入学してから本科に進学することになります。

参考URL:http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs16-148.htm

Q戦前の師範学校について

戦前には、教員を養成する師範学校がありましたが、師範学校は、旧制中学校を卒業した後に入学したのでしょうか。

Aベストアンサー

残念ながら数的データを持ち合わせないので伝え聞く範囲でお答えします。

戦前の師範学校は、第二次世界大戦中の学制改革までは高等小学校卒後に進学するのが基本ですので、中学校からは普通進学しませんでした。
田舎の自作農やあまり大きくない地主の長男は地元を離れることを許されなかったので、高等小学校卒後農業学校か師範学校へ進むことができれば幸運だったようです。

高等師範学校というものもありましたがこれは主に中学校教員の養成機関で、中学校卒か師範学校卒の学生を受け入れていました。類似するものに農業教員養成所や工業教員養成所があり、それぞれ農業学校や工業学校の教員を養成していました。

ただし戦時中の学制改革によりNo.1さんの回答のように、予科3年を経て本科3年に進むようになりました。
このため戦後、教員養成学校は新制高等学校相当ではなく大学相当になった経緯があります。
(なので戦後かなりの長期にわたり、文学部など伝統のある大学学部の教官は、同じ分野の研究をしていても教育学部の教官や教養部(旧制高校相当)の教官を見下していたところがあります)

残念ながら数的データを持ち合わせないので伝え聞く範囲でお答えします。

戦前の師範学校は、第二次世界大戦中の学制改革までは高等小学校卒後に進学するのが基本ですので、中学校からは普通進学しませんでした。
田舎の自作農やあまり大きくない地主の長男は地元を離れることを許されなかったので、高等小学校卒後農業学校か師範学校へ進むことができれば幸運だったようです。

高等師範学校というものもありましたがこれは主に中学校教員の養成機関で、中学校卒か師範学校卒の学生を受け入れていました。...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q昔(旧制?)の学校の呼び方を教えて下さい。

こんにちは。

昔の学校の呼び方を教えていただけないでしょうか。

たとえば、よく本などを読んでいて、著者略歴の中に、
「旧制第一高等学校(現在の東京大学)卒業」
などと書いてあります。そのような呼び方がよくわからないのですが、
(1)現在の大学
(2)現在の高等学校
(3)現在の中学校
(4)現在の小学校
はどのように呼ばれていたのでしょうか…?
現在大学と呼ばれているものが、昔は高等学校とよばれていたのですか?
現在の高等学校と呼ばれていたのは中等学校でしょうか?では、現在の中学校は何と呼ばれていたのでしょう?

現在では
小学校(6年)→中学校(3年)→高等学校(3年)→大学(4年)

ですが、

旧制だと、
「???」→ 中等学校(4年)→高等学校(3年)

…でしょうか?
旧制の高等学校が現在の大学に当たるのならば、
旧制の中等学校とは現在の中学と高校でしょうか?

昔は現在の6年分を4年で??
それとも、中等学校が中学を示すのならば、現在の高校はどこに行ってしまったのでしょうか?

とにかく、要するに、よくわかりません。

ご存知の方いましたら、教えていただけないでしょうか。できれば、
「 現在 」 ⇔ 「 旧制 」
「大学1年」 ⇔ 「高等学校2年」
「高校3年」 ⇔ 「中等学校4年」

みたいな感じで教えてもらえることが可能ならば、助かります。(システム自体が違うので無理だと思いますが、大まかでかまいません。)

なんだか長くてまとまりのない文章になってしまい済みません…

よろしくお願いいたします。

こんにちは。

昔の学校の呼び方を教えていただけないでしょうか。

たとえば、よく本などを読んでいて、著者略歴の中に、
「旧制第一高等学校(現在の東京大学)卒業」
などと書いてあります。そのような呼び方がよくわからないのですが、
(1)現在の大学
(2)現在の高等学校
(3)現在の中学校
(4)現在の小学校
はどのように呼ばれていたのでしょうか…?
現在大学と呼ばれているものが、昔は高等学校とよばれていたのですか?
現在の高等学校と呼ばれていたのは中等学校でしょうか?では、...続きを読む

Aベストアンサー

 正確にはご自分で調べて頂くとして、あくまでも普通科での目安を上げてみました。

年齢 学年 1944年時           1949年(学校教育法施行時)
  6  1 国民学校初等科       小学校 
  7  2 
  8  3
  9  4
 10  5
 11  6
 12  7 尋常科   中学校      中学校
 13  8 
 14  9 
 15 10                   高等学校(全日制)
 16 11 高等学校  大学(予科)   
 17 12 
 18 13 大学    大学        大学
 19 14
 20 15 
 21 16 (大学院)
 22    大学院             大学院

Q太平洋戦争中に街で見かける男性たち

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われます。

考えれば、あの戦争中でも男性が必要となる職場が多くあったように思います。 たとえば鉄道関係者、警察官、消防士、医師、自治体の公務員、電気・ガス会社の社員、あるいは建設関係 ・・・ などなど、女性だけでは運営出来ないと思うのですが、これらの男性たちには徴兵義務が免除されていたのでしょうか? 

それとも、形だけ一旦徴兵に取られてどこかの軍部に属し、その後に 「派遣」 という形でまた元の職場で以前同様の仕事を続ける、そして家から通う ・・・ こんな制度だったのでしょうか? たしか軍艦を建造する造船所の技師や職工はそんな身分になっていたと、どこかで聞いた覚えがあるのですが、ハッキリしません。

もしそうなら、そんなラッキーな職業には具体的にどんなものがあったのでしょうか?

健康上の問題で徴兵が免除された人は除くとします。

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われま...続きを読む

Aベストアンサー

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えなどということもあったでしょうが、45年には徴兵検査を受けた者の9割が実際に動員されたということですから、それほど多い事例ではなかったと思います。
むしろ、金持ちの子弟は、高学歴ですし、働く場所も親の力などで選べますから、軍属名目の勤務先に勤めたり軍関係の仕事に従事したり、満州国政府に勤めるとか、ということで結果的に徴兵逃れが出来たケースが多かったのではないでしょうか。

アメリカではこれが結構多くて、大統領選挙の時の経歴で問題になったりしますよね。徴兵逃れのため州兵の、しかも空軍(一番戦場に行かないポジション)に親の力で入隊するとか、カナダに移住しちゃうとか。

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えな...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q旧制女学校の入学試験

旧制女学校について調べています。
いままで十分な学資と本人の意志さえあれば、だれでも進学は可能なのだと思っていました。
しかし母の知り合いに伺った所、「入試がむずかしくて入れなかった。周囲にもそういった方が何人かいる」というではありませんか。
その方曰く、私立はともかく、県立や市立といった公立校はむずかしかったと言うことですが、本当でしょうか?
学費のことはしばしば取り上げられますが、入試については寡黙にして知りません。
ご教授していただけると助かります。

*現在85歳以上の方のケースを想定していますので、その条件でご回答願います。

Aベストアンサー

私はまだ85才になっていませんが姉二人が女学校に行っていたので若干戦時中の受験競争の事情も判りますのでお答えします。女学校も中学校もシステムは同じです。当時住んでいた神戸市の場合公立は県立と市立があり県立は第一から第四まで、市立は第一、第二(記憶に自信なし)神戸市で一番成績の良い順番に県立第一から第四を受験します、もし第一を受験しておちれば私立中学を選択して受験します。現在有名な灘高校は県立第一を落ちた者達が受験した中学校です。
女学校も県立、市立、も中学校と同じで成績の良い者から順番に県一、県二を受験して、もし落ちれば私立女学校へ行く事になります。
私立は公立より授業料が高いので貧乏人は行けません。だから貧しい家庭の子供は勉強して県立か市立に合格する必要があった。昔は公立が国立、県立、市立の順番で学力を測る物差しになっていました、貧しい家庭の子供で学力のない者は中学校、女学校には行けません。

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q太平洋戦争時の徴兵について

太平洋戦争時の徴兵について

昨日「15歳の志願兵」を見ていて、ふと思ったので教えてください。
学徒出陣もそうですが、兵力不足の為に徴兵猶予中の学徒が出陣させられたり、一応「志願」で中学生が徴兵されたり、本当に「根こそぎ」な状況だったというのを、よくドラマや映画で見かけます。

でも、空襲や原爆体験者の話などの中で、父親が家に居た、というのをよく目にします。
昨日のドラマ内でも男性教師がけっこう残っていました。
一方では、男性教師は全員徴兵されて、学校には女性教師しか残っていなかった、というのを目にしたこともあります。

実際はどうだったのでしょうか?
戦争末期にも、意外と多数の男性が兵役につかずに残っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

現在の自衛隊には入隊の年齢制限というのがありまして、「18歳以上27歳未満の者」と決まっています。一応、その年齢なら入隊はできるということになります。
世界中どこの軍隊でも似たようなものだと思います。特殊技能(医師や何らかの研究機関)を持っているなら話は別かもしれないですが。

つまり、基本的にはその年齢の範囲が「兵隊として使える」という範囲だと軍隊は経験上判断しているということだと思います。ちなみに、軍隊の世界では昔から25歳くらいになるとオッサン扱いで、30代ともなると「じいさん」と呼ばれるそうです。ついでに、ホストの世界も25歳くらいでオッサン扱いで、30代はおじいさん扱いらしいですよ。
兵隊つーのは結局のところ体力勝負なので、年をとった人間だと体力もないし視力も悪いしで使い物にならないということになるのです。また、軍隊つーのは時に無謀なこともやらせることもあります。丘の上にあるトーチカを占領しろみたいなね。人間年をとると臆病になりますから、オッサンやじいさんの兵隊にそれをやらせようとしても皆な死ぬのが怖くてへっぴり腰で戦って話にならないなんてことにもなります。自動車事故なんか、若い人は無謀運転で事故を起こしたりしますが年齢と共にそういう事故は減っていくわけです。

しかし、国家存亡の危機なんていうとそんなこといってられませんから、上限を少し広げ、下限を少し広げ、となるわけです。また視力が悪かったり色盲だったりして徴兵検査で不合格になる人もいます。
また沖縄みたいにもうそこが戦場になってしまうと年齢もヘッタクレもあるかとなって14歳で兵隊扱いにされた鉄血勤皇隊みたいのが出てくるわけです。しかし、一応14歳は徴兵できない建前ですから「日本軍鉄血勤皇部隊」ではなくて「志願民兵部隊鉄血勤皇隊」となっているわけです。

第二次大戦末期のドイツ軍となるともうベルリンにソ連軍が来るなんてレベルですから年齢どころの騒ぎではなくなるので、60歳のじいさんだろうが小学生だろうが銃持って戦えなんてなるわけです。映画「ヒトラー最後の12日間」ではおじいさんや小学生くらいの子供が出てきますがあれは本当の話なのです。でも、いざ子供を兵隊に無理やり仕立てたといっても肝心の武器がなかったらしくて、実際に部隊に送られた子供たちが武器がないので僕たちどうすればいいですかと古参の兵隊に聞いたら子供が使い物にならないことくらい兵隊も分かっていますから応援してろなんていわれたという話が残っています。

ドイツは今も昔も徴兵制なので、60歳のおじいさんも軍隊の経験がありますからいきなり軍隊に放り込まれてもどう立ち回ればいいか分かります。また、韓国なんかじゃ中学の体育の授業で軍事教練がありますから中学生をいきなり軍隊に放り込んでもそんなに手間はかからないわけです。
しかし、現代の日本人は元自衛官以外は軍隊の経験が皆無なので、いきなり軍隊に放り込まれても全く使い物になりません。そもそも「だいいちそーていは、ひとよんさんまる」なんていわれたってフツーの人はその意味すらわかりませんからね。
管理教育全盛の80年代に育った私たちの世代は運動会などに合わせて行進訓練なんかをしましたから、たぶん今のゆとり世代の方々より軍隊じゃ使い物になるはずです・笑。

現在の自衛隊には入隊の年齢制限というのがありまして、「18歳以上27歳未満の者」と決まっています。一応、その年齢なら入隊はできるということになります。
世界中どこの軍隊でも似たようなものだと思います。特殊技能(医師や何らかの研究機関)を持っているなら話は別かもしれないですが。

つまり、基本的にはその年齢の範囲が「兵隊として使える」という範囲だと軍隊は経験上判断しているということだと思います。ちなみに、軍隊の世界では昔から25歳くらいになるとオッサン扱いで、30代ともなると「じいさん...続きを読む


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