出産前後の痔にはご注意!

太平洋戦争中の日本は独力で自動車を開発・生産するだけの力はあったのでしょうか?
他国(米、独、ソなど)と比較して、自動車生産はどのような状況にあったのでしょうか?
自動車がないとしたら、どのように作戦を展開していたのでしょうか?

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A 回答 (6件)

米、独、ソと比べれば格段に下ではありますが、自動車の開発・生産は行われていました。

有名どころでは九五式小型乗用車「くろがね4起」あたりがあります。
また軍用以外でも代用燃料を使用した木炭バスなどが走っていましたので、開発生産能力がなかった訳ではありません。同様に火力・装甲の面で連合軍側のものに対抗できるレベルではありませんが、ディーゼル機関を使用した戦車も独自開発・生産しています。もっとも全体的に見て手作り工程が多く、大量生産に向いたものは少なかったようですが。

そんな関係からいわゆる機械化部隊は列強国の軍隊に比べれば少なく、移動は主に自分の足、軍馬などがほとんどです。「日本の兵隊はとにかく良く歩く」と他国からも感心されていたようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%BA%94% …
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横浜フォード、大阪共立で、アメリカ車を戦争までに28万台作っています。

ですが、日本人による日本人向けの乗用車はまだでした。また、赤坂の日仏がフランス車をいれています。陸軍省ではチェコのシュコダ車の車を2台買ってテストのち、公用車としていました。
民間向けがこの程度です。当時の日本には自動車をマスプロで生産できる組織がなかったのです。ですから、民間からの徴発、があたりまえでした。軍用はすでに諸賢がお書きですが、民生向けがこの体たらくなので、日本の兵器生産能力は、飛行機、船、戦車、そして弾丸造りでアップアップというのが実態です。特に、国産車運動のあったころ(日中戦争)の車は、電気系統がダメでした。その技術を戦車にも使っていたので、南方では電気トラブルで戦車が立ち往生、というのはあたりまえで、ダメになった車両から、使える部品をとる「食い合い」と、整備の腕で動いているのが実情でした。だから、日本陸軍は徒歩での移動がはやくなったのも事実で、これが日本陸軍の不整地移動能力の高さ、と結果的になり、インパール作戦の初期に、英国側が大混乱となる遠因となります。

蛇足 
アメリカがちょっと異常なだけで、英国、フランス、イタリア、チェコには自動車産業が確立しており、それらの国を占領したから、ナチス・ドイツが戦争用の車両をある程度以上確保できたという皮肉なことになりました。たとえばシトロエンの創業者、アンドレ・シトロエンはフォードに心酔しており、その流れ作業を参考に一次大戦にフランス軍向け砲弾を供給し、戦後は自動車を安く大量に生産して、英国にも工場をもつほどの勢力でした。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます。非常に勉強になりました。
まとめてですがお礼申し上げます。

お礼日時:2009/05/30 22:06

機動力を重視した日本陸軍は、貧弱な工業力の元でも自動車化には大きな努力を払っていました。


そのため戦前の日本でも自動車産業は航空産業ほどではないにしろ、重視されています。
1936年には「自動車製造事業法」が制定されて自動車は国策により「標準化」される事になるなど色々と手は打ってあり、世界恐慌時の1931年に僅か500両だった生産数は1941年にはその90倍以上の4万6100両にまで増大します。
しかしアメリカとの圧倒的な工業力の格差はいかんともしがたく、1941年におけるアメリカの自動車生産数が484万1000両であり、日本はその1%以下でしかありません。
またアメリカは自家用車が8割を占めるのに対し、日本はトラックなど商用車が9割以上と、一般家庭における普及率には雲泥の差がありました。
これは戦時の自動車乗員や整備員の養成にも、歴然とした優劣が生じる事も意味しています。
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 日本陸軍は大正時代に国産の丙号自動貨車(トラック)を使用していました。

これをベースにシベリア出兵時に際して装甲車に改造使用しています。

 満州事変時には関東軍野戦自動車隊が編成され、スミダP型6輪自動貨車など自動貨車約30輌を装備しました。このころに陸軍自動車学校研究主事前野中佐が主任となって本格トラックの製造が委託され九四式6輪自動貨車が誕生しました。以後九七式4輪自動貨車、一式4輪自動貨車、同6輪自動貨車、試製4輪機動貨車、二式6輪起動車が開発され、太平洋戦争末期には戦時規格型と呼ばれる簡素型トラックが生産されました。もちろんシボレーやフォードなどの外国製トラックも併用され機動性・耐久性は国産車をはるかに上回りました。
 そのほか九四型自動貨車を改造して高射砲を牽引できるUB型牽引自動貨車、航空機始動機車、九四式航空機給油車、飛行場証明車、沸水兼搬水車、九七式炊事自動車などの各種車輌が生産されています。なお衛生車輌にはルノー外科用自動車を参考に手術用自動車や滅菌用自動車が製造されたほかダットサン小型トラックに九八式X線器械を搭載した九八式野戦X線小型車、百式X線機器を搭載した百式X線車などがありました。

 乗用車は先に回答にもあるとおり、くろがね4起に代表される軍用車の他各種国産乗用車が徴発されて軍用に供されました。

 大砲の牽引車(キャタピラー式)は、九二式5屯牽引車(イケ車)、九二式8屯牽引車(ニク車)、九四式4屯牽引車(ヨケ車)、九五式13屯牽引車(ホフ車)、九八式4屯牽引車(シケ車)、九八式6屯牽引車(ロケ車)、試製16屯牽引車などがあり16屯牽引車は水冷V型12気筒ディーゼルエンジンを搭載したもので24糎榴弾砲を牽引しつつ時速20キロが出せました。

 2輪車は、ハーレー・ダビッドソン社やインデアン社のオートバイを使用するとともに昭和4年に日本自動車によってニューエラー350CCオートバイが完成し、まず内務省において採用されました。以後日本内燃機KKが製造したオートバイが九三式自動2輪車(サイドカー付)として陸軍に採用されました。なおハーレー社のSV1200を「陸王」と称して国内で生産されたことは有名です。

 日本陸軍の終戦時の自動車関係部隊の種類と数は以下の通りでした。野戦輸送司令部(18)、兵站自動車隊本部(1)、自動車連隊(19)、自動車隊(1)、独立自動車大隊(40)、独立自動車中隊(88)、兵站自動車中隊(11)、特設自動車大隊(3)、特設自動車中隊(36)、牽引自動車隊(1)、牽引車中隊(6)、独立輜重兵連隊(4)、独立輜重兵大隊(10)、独立輜重兵中隊(21)、兵站輜重兵中隊(5)、野戦自動車廠(25)ほかに師団隷下の輜重兵連隊、輜重中隊など

 

 
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日本の4輪自動車の生産は昭和初期ころからオープンカー型から現在のような型になり、本格化しました。


トラックの生産も同様です。
当然軍事用に使われるようになり、最初にニッサン「81式軍用自動車」が兵士や荷物を運ぶ為制式化され、さらに馬に挽かせていた大砲を挽く「92式5トン牽引車」(キャタピラー車)が昭和7年正式化されました。    牽引車も何種類も開発され、「95式13トン牽引車」が最大で、戦車も牽引しました。
トラックも「94式ディーゼル自動車」は6輪4トン車でした。
昭和16年制式化の「1式軍用自動車」もあります。
水陸両用の軽戦車のように「スキ型水陸両用車」も開発されました。
軍用乗用車として先答の「95式偵察連絡車」もあります。
このように研究開発は盛んでしたが、工業力で劣り生産台数が欧米諸国よりはるかに少なく、前線では車両不足で輸送に苦労しました。
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トヨタと日産、そしてふそうトラック(三菱重工)は戦前から


存在しています
戦時中はもっぱらトヨタと日産でトラックを、
ふそうが民間用のバスを作ってました

ただ、航空機に比べると 優先度が低かったこともあり
技術的には遅れたものでした
占領地などで海外メーカー製のトラックが入手できた場合は
そちらが優先して使われたようです

戦後になって、航空技術者が自動車メーカーに流れてきた
ことと、品質管理技術の導入によって、技術は飛躍的に
向上することになります

なお、アメリカ以外の国の自動車生産能力はたいしたことは
ありません
ドイツでも 補給に馬車等は普通に使われました
ソ連は、アメリカの援助でトラックを入手できたため、
生産能力を戦車等に振り向けています
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Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q太平洋戦争で利益を上げた企業は。

太平洋戦争中に、日本の製造業の民間企業で大儲けした会社はありますか。
戦時体制の統制経済では、原材料の調達も、作業者も、燃料や電力も、輸送もすべて国家管理ですから、利益を上げようにも上げようがない、と思っているのですが、そうですか。
製造業以外では、遊郭や料理屋は儲けたような気がします。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

大儲けの範囲がわかりませんが、意外な業種が。

製菓・製パン業界です。あと醸造、お酒つくる会社はいつの時代も変わらずです。

チョコレート、キャラメル、乾パン、などは陸海軍共に絶えない需要があります。もちろん民間からも引く手あまたですね。乾パンは、いまでも缶にはいって氷砂糖がいっしょになっている商品がありますが、これは海軍の規格そのままです。陸軍は、布袋にコンペントウがはいっているので、痛みやすいと嘆いていたといいます。また乾パンはもつ物で、日中戦争のころに作られ、茶箱にいれられ納品された物が、今でも食べることができた、とニュースでやっておりました。

今でも売っているアンコの缶詰は、日中戦争のとき、慰問袋(戦地の兵隊さんにおくってあげる、お菓子・小物などをいれて縫った布袋。文房具、手紙なども人気アイテムでした)にいれる需要をみこんで製造がはじまったものです。戦前からつづくお菓子(某エンジェルのミルク・キャラメルなんかが代表)ブランドをもっている会社は、戦争の特需がまちがいなくあり、戦後もつづいた数少ないメーカーでしょう。

また、米が統制品となったので、日本酒醸造業界は3倍醸造という、従来の1/3の米で作った、ぶっちゃけうすめた日本酒をつくり、それを正価で流通させました。当然、もうかります。某グルメ・マンガでもネタにされていましたね。。ただ、日本酒のカビに関する技術が応用され、日本は意外ですが抗生物質を自力で実用化し、量産化しています。

ビールもメーカーが統廃合されてラベルが1種類になりましたが、醸造量は本格的に内地が空襲されるまでむしろ増えています。米をつかわず大量に速成できるので、軍はもちろん、軍需工場の工員さんへの慰問用の需要があり、あとビンがリサイクルできるのでつくるだけ売れました(日本酒も今と違って、口金という金具のついたビンをつかっていたので、容器はリサイクルしています)。
銀座のエビス・ビア・ホールとキリン・ビア・ホールが、東京都市部では配給拠点となっていました。配給券もっていくと、ビンを4本、荒縄でくくったのをわたしてくれたそうです。

遊廓・料理屋は、物資の欠乏が直撃する業種ですから、特殊な例外をのぞいて儲かりはしなかったと思います。女の人がお化粧できない、キレイを維持できない、という大打撃がありました。
特殊な例外は、海軍基地、特に鎮守府がある軍港にずっと店をかまえている料亭とか、シンガポールに出店をだしていた料亭くらいでしょう。

大儲けの範囲がわかりませんが、意外な業種が。

製菓・製パン業界です。あと醸造、お酒つくる会社はいつの時代も変わらずです。

チョコレート、キャラメル、乾パン、などは陸海軍共に絶えない需要があります。もちろん民間からも引く手あまたですね。乾パンは、いまでも缶にはいって氷砂糖がいっしょになっている商品がありますが、これは海軍の規格そのままです。陸軍は、布袋にコンペントウがはいっているので、痛みやすいと嘆いていたといいます。また乾パンはもつ物で、日中戦争のころに作られ、茶箱にいれ...続きを読む

Q旧日本軍はどうして潜水艦を強化しなかったのでしょうか?

第二次世界大戦もののDVDを観て思ったのですが、
潜水艦の役割は重要です。
攻撃にしろ、防御にしろ威力絶大と感じました。
とくに太平洋に飛び飛びにある島の防衛などは、潜水艦を配備していれば強化できたと思います。
日本の潜水艦のことはあまり聞きませんが、
海軍は、どうして潜水艦の開発に力を注がなかったのでしょうか?
海を制したかったら潜水艦が不可欠ではないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本海軍は、甲標的艦を完成。実戦に投入しました。
2人乗りの水中高速型の潜水艦の開発に成功していたのです。

この事実に米軍は驚愕しました。

時の水上機母艦は、甲標的艦母艦として即座に改装可能なように設計、建造されていました。

潜水艦に対し相当力を注ぎ込んでいたようです。

日本軍では潜水艦とは、
隠密行動を取り、単独で侵入し、敵艦船を攻撃する為の兵器でした。(特攻に近い思想)

艦隊戦では、艦隊の前で哨戒に当たらせ、
平時は、敵の基地付近の哨戒任務に付かせました。

一方、米軍の潜水艦は日本軍のそれよりはるかに劣ります。
酸素魚雷の開発もまだでした。

米軍は、
潜水艦を3隻一組とする狼狽戦法で弱い輸送船団を襲う事に専念します。
彼らは、日本軍の海防艦が、殆ど使い物にならない木造船である事を知っていました。

日本軍は
駆逐艦を重雷装する事により重巡洋艦と匹敵する戦力としようとします。
重巡洋艦は、重雷装させ、戦艦と互角で戦える事を目標としました。

その結果、被弾に対しては極めて脆く火災、誘爆が多かったのです。

米軍は、無理な雷装や、無理な作戦より、
より効果的な運用方法を目指しました。

追い詰められ、
潜水艦に戦艦が沈められるようになると、
日本海軍も、もう終わりだな。
こう言う空気が流れます。

潜水艦に対する防御、発見方法、攻撃方法などが確定していないと言う、根本的な問題でした。

>とくに太平洋に飛び飛びにある島の防衛などは、潜水艦を配備していれば強化できたと思います。

潜水艦は、常に最前線に投入され、後方は無視されました。

>日本の潜水艦のことはあまり聞きませんが、
海軍は、どうして潜水艦の開発に力を注がなかったのでしょうか?
海を制したかったら潜水艦が不可欠ではないでしょうか?

上層部は、敵艦隊を攻撃する事しか頭にありませんでした。後方、補給よりも、最前線でした。
援護の無い、単独攻撃は、犠牲も大きかったようです。

日本海軍は、甲標的艦を完成。実戦に投入しました。
2人乗りの水中高速型の潜水艦の開発に成功していたのです。

この事実に米軍は驚愕しました。

時の水上機母艦は、甲標的艦母艦として即座に改装可能なように設計、建造されていました。

潜水艦に対し相当力を注ぎ込んでいたようです。

日本軍では潜水艦とは、
隠密行動を取り、単独で侵入し、敵艦船を攻撃する為の兵器でした。(特攻に近い思想)

艦隊戦では、艦隊の前で哨戒に当たらせ、
平時は、敵の基地付近の哨戒任務に付かせました。

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Q戦前の日本は先進国だったのですか?

日本が経済発展して先進国になったのは70年代と聞きましたが、それでは

1.国際連盟の常任理事国だった戦前の日本は先進国だったのでしょうか?

2.そうだとすれば、ドイツも戦前は先進国で、戦後日本と同じように経済発展して先進国になるまでは暫く後進国の状態だったのでしょうか?

Aベストアンサー

なかなか難しい質問をしますね。
日本の戦前の経済レベルは、近代国家として産業革命成し遂げ、それなりの工業力もあり、技術水準も一部では引けを取らないところがあったというくらいでしょう。
つまり、マンガ雑誌で例えればガンガンとジャンプを比べてみてください。
上のほうのレベルではそれほど差がありません。しかし、全体の平均値で見ればレベルの格差は非常に大きいようなものです。

例えば軍事技術で言えば
日清戦争の時(1894-95)は殆どの武器、兵器は輸入品でした。
日露戦争の時(1904-05)は半分くらい国産でしたし、その後はほぼ全て国産化しました。
しかしこれは、国力のかなりの部分を兵器開発に注いでいたからだとも言えます。兵器開発能力も所々に優秀なモノがあったのも事実ですが、総合力ではアメリカやドイツに劣っていましたし、何よりも数を生産する能力においては圧倒的な格差が存在しました。

次に、産業構造で言えば、日露戦争後くらいにようやく産業革命に一区切りが付いたわけですが、それでも日本はまだまだ弱小国でした。
日本の経済力が飛躍的に上がったのはWW1(1914-18)の時ですが、WW1後ですら日本の工業は繊維(生糸や綿織物)などの軽工業が中心でしたし、第一次産業に就業する人が国民の50%を占めていたのでむしろ農業国だったといえます。
世界恐慌を機に重工業化が進みましたが、それでも国民の半分くらいは農民という構造は変わっていません。

という訳で
1.
精一杯背伸びして列強の仲間入りしているけど、足腰の強さ地力の強さではアメリカには全く適わないし(まあ当時のアメリカは欧州全部と戦争しても勝てるくらいの力があったわけですが)、ドイツにもかなわない。
全ての力を戦争に注ぎ込んでもちょっと本気を出したアメリカに一蹴される程度の国力でした。

2.
ドイツは戦前の時点で世界第二位の経済大国でした。
日本人一人当たりのGDPがドイツに追いついたのは70-80年代です。

なかなか難しい質問をしますね。
日本の戦前の経済レベルは、近代国家として産業革命成し遂げ、それなりの工業力もあり、技術水準も一部では引けを取らないところがあったというくらいでしょう。
つまり、マンガ雑誌で例えればガンガンとジャンプを比べてみてください。
上のほうのレベルではそれほど差がありません。しかし、全体の平均値で見ればレベルの格差は非常に大きいようなものです。

例えば軍事技術で言えば
日清戦争の時(1894-95)は殆どの武器、兵器は輸入品でした。
日露戦争の時(1904-05...続きを読む

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q懲役刑と禁固刑の違い

ニュースで良く耳にする「懲役」と「禁固」とはどう違うのでしょうか?
禁固刑はずっと牢屋に閉じ込められて一切外には出れないのでしょうか?
この犯罪は懲役刑、この犯罪は禁固刑と犯罪によって決まるのですか?
わたしなら、牢屋に閉じ込められるくらいなら禁固刑三ヶ月なら、ある程度自由のある懲役刑1年くらいの方がまだマシです。

独り言のような疑問なのでおヒマな方、回答おねがいします。

Aベストアンサー

処遇の内容については皆さんお答えのとおり
刑務作業(要は強制労働)の有無のちがいです。

懲役刑は軽蔑すべき犯罪を故意に行った「破廉恥犯」に課されますが
禁固刑は政治犯など、自分の政治的信念に従って「正しいこと」と信じて行動した結果が犯罪になった場合、また過失犯など「非破廉恥犯」と言われる場合に課されます。

禁固受刑者で作業をしない人は1%にも満たないそうです。ほとんどの禁固受刑者は自ら望んで刑務作業(請願作業といいます)をします。

と、大学で習いました

Q日本陸軍将校専用車の車種について

戦時下の日本陸軍将校専用車の車種を知っている方が居れば、教えて下さい。

Aベストアンサー

 戦前戦中の陸軍将校が使った乗用車は、一般の大型乗用車で当時の大型乗用車といえば外車、つまりフォード、ダッジ、ルノーなどの自動車を指します。たとえばルノーの六輪乗用車は座席が三列あり簡単にオープンカーとなる高級車で民間で所有していたものを徴用と称して買い上げていたものです。三十~四十年代のクラシックカーに詳しい方なら当時の写真を見れば詳しい車種が判ると思います。陸軍制式車輌としては九三式四輪や九三式六輪乗用車がありました。六輪は高級将校用の乗用車。野戦で使用するために4WDの自動車が求められ「くろがね」と呼ばれた小型車や九八式四輪起動車が開発されましたが、この部門の大量生産の余裕などなく、フィリピン占領時に大量に鹵獲したフォード乗用車が使い勝手が良かったということです。なんといっても当時の国産車は信頼性が低く、トラックも日産80型四輪自動貨車などはつねに故障に悩まされたのでシボレーの中古トラックのほうがはるかに歓迎されました。燃費、トルク、車体重量など全ての点で外車が勝っていたからでした。

 
 ところで、既回答の質問「陸軍暗号将校」について、回答に誤りがあるので書かせていただきます。暗号係将校というのは通信係将校(通信掛)とはまったく別のものです。いわゆる「暗号掛将校」は、主に暗号電報を暗号文書をもとに解読するほか保管管理するのが職務で、軍司令部の場合、参謀部電報班に所属しました。歩兵連隊の場合、軍旗旗手が兼ねる事もあり連隊本部において厳重管理しました。したがって暗号掛将校は軍機密保持の重要な任務に就いた人で当然人柄が重要視されました。

史料=野元巳郎『大陸通信戦記』図書出版社85年

 同書の70頁に「陸軍では通信兵と暗号兵は別である。人が違うばかりでなく、組織が違う」とあります。

 戦前戦中の陸軍将校が使った乗用車は、一般の大型乗用車で当時の大型乗用車といえば外車、つまりフォード、ダッジ、ルノーなどの自動車を指します。たとえばルノーの六輪乗用車は座席が三列あり簡単にオープンカーとなる高級車で民間で所有していたものを徴用と称して買い上げていたものです。三十~四十年代のクラシックカーに詳しい方なら当時の写真を見れば詳しい車種が判ると思います。陸軍制式車輌としては九三式四輪や九三式六輪乗用車がありました。六輪は高級将校用の乗用車。野戦で使用するために4W...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q日米開戦時、日本にいた欧米人。英国にいた日本人は。

日米開戦時、日本本土にはおおよそ何人くらいの欧米人がいたのですか。
彼らは、戦争中、どのように処遇されたのですか。

うろ覚えですが、東京近辺にいた人たちの一部は、軽井沢に移らされたそうです。
また、神戸の松蔭高等女学校で英語を教えていた英国人女性の手記では、
敵国人向けの配給センターで、約150人の米英人らが週3回、食料を受け取ったそうです。
外国人が入れる防空壕はないので、神戸空襲時は恐ろしかったそうです。

他方、英国にいた日本人はどんな処遇をうけたのでしょうか。
アメリカでの処遇は、本やテレビである程度のことは分かりましたが、英国ではどうなのか、さっぱり分かりません。
一例としてこんなケースがある、というような話を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

詳細過ぎて抜粋は無理ですので、未読ならば、
下記URLを御覧になってみて下さい。

◇『お茶の水史学 巻43/お茶の水女子大学文教育学部
人文科学科比較歴史学コース読史会/1999-09』(1~48頁)
「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 :
日本国内に在住した英米系外国人の抑留について(研究)/小宮まゆみ」
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/891
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/891/1/KJ00004470995.pdf

続いて英国関連では…
読み辛いとのお叱りを受けるといけませんので、
一部抜粋してみましたが、
必要に応じ原本画像を御覧いただければと思います。

◆表題件名:1.在英国ノ部/1.マン島収容所視察報告
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第一巻
[レファレンスコード]B02032526300[画像数]16
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032526300
<2/16>
昭和17-6072-電信 2月28日ベルン発/3月1日本省着
「マン」島ニ於ケル邦人抑留状況ニ関スル件

一、抑留所状況
「マン」島「キャンプ」ハ同島海水浴場旅館之ニ當テラレ
邦人抑留者ハ他國抑留者ト別ニ二旅館ニ収容サレ海岸散歩道ノ一部ヲ
散歩用ニ提供サル各室ノ設備ハ大體普通ノ「ホテル」ノ通リニシテ
食堂集會室ニハ暖房設備アリ
二、食事
日ニ二三度共質良ク量モ米ヲ除キテハ充分ナリ
三、医療
抑留者中四名氣管支炎或ハ風邪ニ罹リタルモ「ファルコン、ホスピタル」ニテ
治療ヲ受ケ快方ニ向ヒツツアリ同病院ハ設備良ク薬品モ充分アリ
四、衣服
身廻品ハ英國ヨリノを取寄ヲ許サレ衣服下着類ハ充分供與セラル
洗濯ハ「キャンプ」内テ行ハレ石鹸モ供與サル
五、金銭
「キャンプ」到着ノ際ノ所持金及其ノ後外部ヨリノ送金ハ各自ノ
「コント」ニ預ケ入レ必要ニ應シ使用シ得
六、酒保
目下整備中ニシテ煙草ハ品不足ノ爲最近二週間ハ一人週五本宛
シカ配給出サリシモ當局者ニ於テハ将来週二十本乃至二十五本ニ増加方努力中

以下省略

◆表題件名:1 英国
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第四巻
[レファレンスコード]B02032531600[年代域]昭和18年8月6日~昭和20年3月13日[画像数]85
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032531600
<8/85>
昭和18-18843-電信 11月18日19:38ベルン発/19日19:00本省着
英国「マン」島P「キャンプ」抑留邦人左ノ通リ(十一名)…中略…
尚「スコットランド」第二十四「キャンプ」其ノ他英本国内何處ニモ抑留邦人ナシ(了)
<43・44/85>

(1)英国在住ノ抑留セラレ有ラザル日本人家族ニシテ援助ヲ要求シ得ルモノハ
五名ノ婦人ト八名ノ小児(少年三名及少女五名)ヲ以テ限度トセラレ居レリ。
男子ノ長期ニ亙ル抑留ノ結果凡ユル貯蓄ハ殆ンド使ヒ盡サレタルヲ以テ
若干ノ資金ヲ以テハ最早家族ヲ支ヘ得ズ。
之等ノ家族ハ現在英国貧民救済局ノ僅少ノ援助或ハ敵国人ニ対シテ制限的ニ
開放セラレタル労働可能性ニ依リ或ハ家具手廻品ヲ売却スル事ニ依リ生計ヲ立テ居レリ
(2)邦人集団ニハ相互援助機関ナシ
(3)家族ノ援助ニ為月々必要トスル最少額ハ五十磅(※ポンド)ナリ。
右金額ノ支拂ニ関シ信任者ハ各家族トノ関係ヲ適当ニ顧慮之有レリ。
(4)邦人抑留所内ニ於テスラ全ク無産ノ者十一人アリ。
之等ニ対シテハ信任者ハ月額四十四磅(※ポンド)ヲ與ヘ居レリ。


ほか、下記等は御時間の許す時にでも…

◇表題件名:
2.英領各地抑留邦人状況(抑留所視察報告ハA.7.0.0.9-11-1-10-2)/
2.在英本国邦人状況
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/在敵国本邦人関係/
在英(含属領)本邦人関係 第二巻
[レファレンスコード]B02032804300[年代域]昭和17年1月27日~昭和17年8月19日[画像数]28
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032804300

◇表題件名:2 以下昭和十八年度
[階層]外務省外交史料館>外務省記録>A門 政治、外交>7類 戦争>0項>
大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/
在敵国本邦人収容所視察報告/在英ノ部 第五巻
[レファレンスコード]B02032532600[年代域]昭和18年1月5日~昭和19年5月15日[画像数]73
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02032532600

以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

詳細過ぎて抜粋は無理ですので、未読ならば、
下記URLを御覧になってみて下さい。

◇『お茶の水史学 巻43/お茶の水女子大学文教育学部
人文科学科比較歴史学コース読史会/1999-09』(1~48頁)
「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 :
日本国内に在住した英米系外国人の抑留について(研究)/小宮まゆみ」
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/891
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/891/1/KJ00004470995.pdf

続いて英国関連では…
読み辛いとのお叱りを受けるといけませんので、
一...続きを読む


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