『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

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A 回答 (81件中1~10件)

NO4です。


質問もらってたので、続きになります。
ちょっと質問にダイレクトな返事じゃないですが、
私が所属する集合体ー小さいのは家族から、大きいのは世界や地球全体などまであります。極論として。
で、自分はあらゆる集合体のレベルに属してる、と思うのですが、どれか一つを優先するなら、それはそういう依存心だ、と思います。別にそれが悪いという意味ではないですが。
自分にとって例えば日本の国ー国家レベルの集合体が一番本質と感じるか、地域社会か、家族か、会社か、もっと大きいのか小さいのか、いろいろあると思いますが。
こういう分類の仕組みは、階層上になって存在してると思ってます。
排他的かどうかについては、それらの概念に対して自覚があるかどうか、あるいは無意識によりどころにしてるかどうか? が、本質的な違いじゃないか、と考えてます。
自覚的であるなら、それによりどころを求めてるのでなく、精神的な自律と主体性がともない、いろんな概念は、社会がうまく回るために必要な小道具、という位置づけになります(理想論としてです)

>ちょっとでいいので勇気」が出る一助になると思われますか
これは、勇気を出す、主体性を発揮する、というのは、習慣づけ、という方向しか浮かばないですが。
癖です。
現実に対して、どう直面するか、というのは、いざというときは、普段の習慣がそのまま顔を出しますし、いきなりそもそもできないです。
一番根本的な、自分や他者への信頼をある程度分かった上で、
その上で、固定観念に寄っかかって手抜きしていた現実をちょっとずつかみ砕いていく、僕はそんなイメージを持ってます。いきなり大きなこともできないですし。
ごくごく極小小さな、そんなことは自分が今まで怖くてやってなかったんだ、とは気付かなかったようなミクロなすごく小さい怖いこと、から手をつけます。ちょっとした家具の配置を見直したりとか、そんな話しです。
それは、大きく言うと変化を恐れない、みたいなことです。(僕はまだ怖いですがもちろん)
怖いことに対して、意志の力でどんどん立ち向かう、とかではなく、そんなことしても長続きしないですし。
信じることーあるいは信念と、勇気をうまく結びつけることで、無理なく心の偏りから抜け出るイメージをーー現在鋭意努力中、ということで。
実際行動を起こす、というより、まず現実認識ー自分の本音を自覚することにしてます。
気取って言えば、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、みたいなことで。自分と戦うくらいばからしいこともないので。
個人的には、この手の分析では、学問的には心理学が一番で、それに宗教哲学を混ぜてます。頼らずに参考にするなら、です。

>概念が分裂する以前の高い集中状態
これは持論ですし、他の人が皆うなずいてるわけじゃないですが。
主体的に怖い物を確かめる、と書いたんですが、そんなしんどいことは長続きしません。ちょっとならできますが。だから癖にしよう、ということですが、
一心不乱に集中してる状態ーー起きて活動してるとき、ものすごく本気でやりたいことがあって、そういう日常を過ごしてる場合、極論として、その時は「自分」は存在しません。「感情」もありません。
瞬間最大風速としてなら僕も経験あるのですが、そこから推論して、人生すごく輝いてる人って、人生全部をある目的に使用してもかまわない、と判断した人のことですが、
人生の一定期間一週間とかを目的のために使うか、人生全体か、過去も未来も全部使いたいか、などのスパンによって、こちら側の人格が変化し、発想、感性が変化する、と考えてます。
無意識レベルの集中が強い人、と言ってます。
何かをやる、ということに集中してる人は、それにそれこそ腹の底から集中してるので、自分のことを考えたり、あるいは、喜怒哀楽を催したりする暇がありません(と想像します)

で、そういう精神集中と人格のレベルの人にとっては、主体的ーというか、能動的な感覚と、受動的な感覚は一致してます。
それは、やろうと思えば勝手にやってる状態であって、意志を使うわけでもなく、盲目的でもない状態、と言って解ってもらえるか自信ないですが。
レベルが下がりますが、普通の話しだと、帰宅時に玄関の鍵を特別なにも考えずに開けるとき、それは能動的でしょうか?受動的だろうか? と考えると、これは両方が混じってる、と思われないでしょうか?
それは癖になってるので、もちろん扉開けようと思って開けてますが、その意味では能動的ですが、でもごちゃごちゃ考えてやるわけではなく、自然に、ある意味癖でさらっと、受け身、と言っていいか迷いますが、受動的に開けてます。そこに鍵があるから開ける、と言うようなイメージもあります。
僕はこのレベルでもちろん生活全体が回るわけではないですが、深い意味で目的意識のある人は、現実、このレベルで生活全体を回してますーーこれも極論としてですが。

その集中は、意志による物ではなく、自分と自分を取り巻く環境の組み合わせによって発生する、無意識レベルの人生に対するーー主観的な時間と空間を使用することに対してのー高い自然な集中状態、と考えてます。というか想像してます。
上の鍵の例とかの、低いレベルでは、誰でも経験することなんですが。
暗示、催眠、自己洗脳など、最近はアメリカを中心に、主に軍事方面の要請で、ずいぶん発達したそうです。
僕はこういうんは気持ち悪いイメージがあったのですが、もう怖がってる時代じゃなく、技術として使う時代がもう来てる、と思ってます。
固定観念に依存することを選択するのが催眠、洗脳です(催眠も洗脳も、すべて自分でかかろうと選択するからこそかかるのだ、暗示は、すべてが自己暗示だ、というのは専門家の意見だそうです)

間違った宗教や、主義、テロなど、暗示や洗脳が使われる場面は多いですが、それを技術として理解し、人にかけられる前に、自分らが使用する技術にすべきだ、と、主張している人も居ますが、基本同意してます。
と言ってごりごり勉強する気はさらさら無いですが。
概念も技術も、無かったことにする、と言うわけにはいかないですし。
頭に浮かんだまま書いたので、話の内容があまり論理的でもなく順不同ですが、こんなんでいいでしょうか?
かみ砕けてます?
漠然と考えてることを言葉に起こしたので、なんなんですが。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>排他的かどうかについては、それらの概念に対して自覚があるかどうか、あるいは無意識によりどころにしてるかどうか? が、本質的な違いじゃないか、と考えてます。
自覚的であるなら、それによりどころを求めてるのでなく、精神的な自律と主体性がともない、いろんな概念は、社会がうまく回るために必要な小道具、という位置づけになります(理想論としてです)
:なるほど。
「>無意識によりどころにしてるかどうか?」
ここが分かれ目ですか。
なかなかしっくりとくるご見解です。

依存しているという事実に気付いているかどうか、ということですね。
気付いていれば、全面的依存に流れて自己を見失ったり、依存対象を失うまいとして無闇に排他に走る可能性も少なくなる。
このように解釈しました。
少し違うのかな・・・。

具体的手法としては、
>勇気を出す、主体性を発揮する、というのは、習慣づけ、という方向しか浮かばないですが。
癖です。
:たしかに習慣として身につくことは重要でしょうね。
習慣づけのためのモチベーションがネックになってきます。

>固定観念に寄っかかって手抜きしていた現実をちょっとずつかみ砕いていく、
:これもうまい表現ですね。
寄っかかることの不都合に対する気付きや、噛み砕いていくことによって新たな地平が見えてくるのだ、と確信させてくれるような契機なり、言辞が求められるようです。

>それは、大きく言うと変化を恐れない、みたいなことです。
:大いに同感です。

補足日時:2009/04/04 20:07
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この回答へのお礼

(つづき)
>信じることーあるいは信念と、勇気をうまく結びつけることで、無理なく心の偏りから抜け出るイメージをーー現在鋭意努力中、ということで。
:この場合の信念に対する変化も怖れないようになりたいものですが、難しいかもしれませんね。
信念は自信にも結びつくわけですが、自信を持ちながらも変革を怖れない、ということになるでしょうか。
信念によって何を求めているのか、ということも検証課題として浮かび上がってくるような気もしてきました。

>実際行動を起こす、というより、まず現実認識ー自分の本音を自覚することにしてます。
気取って言えば、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、みたいなことで。自分と戦うくらいばからしいこともないので。
:このへんはクールですね。
行動によってしか得られない反応なり真実もあるかもしれませんけどね。

>人生の一定期間一週間とかを目的のために使うか、人生全体か、過去も未来も全部使いたいか、などのスパンによって、こちら側の人格が変化し、発想、感性が変化する、と考えてます。
無意識レベルの集中が強い人、と言ってます。
:方法論だったわけですか。
非常にわかりやすくて、有効な考え方ですね。
大変参考になりました。
その【目的】が何か、ということになるのでしょうね。

>その集中は、意志による物ではなく、自分と自分を取り巻く環境の組み合わせによって発生する、無意識レベルの人生に対するーー主観的な時間と空間を使用することに対してのー高い自然な集中状態、と考えてます。
:う~む・・・(-_-;)。
なるほど。
瞑想か何かされていらっしゃるような気もしてきました。

>こんなんでいいでしょうか?
かみ砕けてます?
:おかげさまで、おっしゃることの意図が一応理解できたように思います。
懇切丁寧に解説していただきありがとうございました。
 

お礼日時:2009/04/04 20:07

d




hakobuluさま。こんにちわ。(*^_^*)
78番&81番でごわす。


hakobuluさまは、常々、
自我の大切さ、バランスの大切さを説明していますね。


ところで議論が後退するかもしれませんが、
「自分」っていうのが「あ・る!」と思うからこそ
「排他性」というのが出てくるのではないか、とも思うのです。


「わたし」というのは「何」なんでしょう。
細胞の集合体である「わたしらしきもの」の体がありますが、
1.1時間前のこの物体は必死で車の鍵を探しておりました。
2.そして20分前のわたしは腹が減って食い物を調理しておりました。
3.そして今のわたしはこのようにああだこうだと考えております。

1番と2番と3番はみんな同じ「わたし」なんだろか。


わたし(らしきもの)の持ち物は(知識や習慣や考え方や感情さえ)
他人(らしきもの)からのお膳立てによって得たものであり、
わたし(らしきもの)を形作っているものの中に、
もともとわたしが持っていたものなんかひとつもないんですよね。

歩き方やチャリのこぎかたや食べ方や考え方さえ、
他人のお膳立てによって、他人から教わった、
他人らしきものがなかったら、わたしらしきものも「な・い!」

わたし、というのは、他人によって作っていただいた、
また、現在も他人によって作られ続けている、
もともと、あったものではない、

このことを忘れていると、排他性が強く発揮されるように思います。



この回答への補足

回答欄をちょっと補足します。
「幸福な人ほど排他性は弱いと私も考えています。」
と述べたのは、
>わたし、というのは、他人によって作っていただいた、
また、現在も他人によって作られ続けている、
:というお考えに同感するからで、
その作られてきた結果が幸福と感じるのであれば排他などもっての他になるでしょうから。
という意味です。
逆の場合は、他者というのは自分を不幸にするものであるという経験値によって、防御としての排他が発揮されやすくなる。
このような構図はあると思われます。
 

補足日時:2009/04/19 18:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうさんでごわす。

>「自分」っていうのが「あ・る!」と思うからこそ
「排他性」というのが出てくるのではないか、とも思うのです。
:おっしゃるとおりと思います。
「あ・る!」という思いも、排他性も無意識的な「思い」なのでしょう。

>わたし、というのは、他人によって作っていただいた、
また、現在も他人によって作られ続けている、
もともと、あったものではない、
:これもまたおっしゃるとおりと思います。
それがわかっているだけに、お気に召さない他者を排他によって遠ざけようとするのでしょうね。
お気に召さない理由というか、その内容によってその人の幅も決まってくるのかもしれません。

他者を認めることの難しさから、この質問も発しています。
決して後退などしていませんよ。

>このことを忘れていると、排他性が強く発揮されるように思います。
:これはおそらく真理でしょうね。
幸福な人ほど排他性は弱いと私も考えています。
 

 

お礼日時:2009/04/19 18:51

 アドバイスに回答を補足いたします。


 
 ウィキペディアを教えてもらって見たのですが、どうも胸を打たれる内容でした。近ごろは機械だけの話になっているわけですね。僕らの頃には、伝説的なケーニヒスベルクの橋渡り問題というのがまずあって、(これは想像ですが)それが最短経路問題へと分かれてダイクストラの自己安定性へと変わってゆくのでしょう。

 そもそもの橋渡り問題は、数学的には解けない(要するに解なし)が正答ですが、その答えを見つけ出すための議論(つまり、命題検証です)が、まだそれなりに残っていた。ポピュラーな回答では、図の外にある他の橋を渡るとか、川の源流まで行って迂回するとかあったわけですが、近ごろではもう流行らないのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ケーニヒスベルクの橋渡り
http://homepage3.nifty.com/sugaku/hasiwatari.htm
あ~、答えが出ていてよかった・・・。^^;

お礼日時:2009/04/17 21:51

 重ねて回答いたします。

というよりも、アドバイスです。

>どうも(私の)論理に関する回路がうまく作動しないようです。^^;
 と、
>「自分の身を守ろうとすること」が排他性の最大の要因と認識しています。

 この二つを読むと、これは僕がうまく飲み込めていなかっただけだと思います。護身と排他は同時に起こるというふうに見られているのですね。その視点であれば、絶対に解決はできない問題だと思いますが、対称性にずれがあるのならば、ほれ、Dining Philosophersと同じだと言いたかったわけです。

 この星での暮らしにおいて、それは同時でしょうか。
 護身と排他との間に、もしも時間的なズレがあるのであれば、それを拠りどころにして僕らは暮らしてゆくんじゃないでしょうか。境界「線」ではなく、思考をこらすだけの時間と空間はあるような気がしますが、どうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>境界「線」ではなく、思考をこらすだけの時間と空間はあるような気がしますが、どうでしょうか。
:おっしゃるとおりと思います。

>ほれ
:とおっしゃるので、どれ と Dining Philosophers なるものを検索してみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E4%BA%8B% …

この場合は、フォーク2本使わないとスパゲッティは食べられないものだ、という不合理な思い込み(イラショナルビリーフ)を解消できればよいのでしょうね。
動物か人間か。
は、
機械か人間か。
と同列に論じることもできるのだと、興味深く拝見しました。

ところで、passcard さんの場合であれば、
かの哲学者たちに向けて、どのようなアドバイスをなさるでしょうか。
興味あります。
  

お礼日時:2009/04/17 20:08

 お礼、ありがとうございます。



>:passcard さんの意図されていることを正確に理解できているか自信はないのですが、同一化される過程で発揮される可能性はあるような気がしないでもありませんね。

 なるほど。そこだけが問題でしたら、このように補足してみます。

 排他性の前に「自分の身を守ろうとすること」を掲げておられますね。もしも合意形成できたなら、「自分の身を守ろうとする者」は必ず多数決で、賛意を表明するでしょう。そうでなければ、自分の身が守れないからです。だから、合意形成には慎重になる。

 でも、合意形成しただけではまだ決まりじゃありません。決定は、あくまで多数決で過半数を取らなければならないのですから。「自分の身を守ろうとすること」に対して、それほど熱心でない者は、こんなふうに考えるかもしれません。「適当に合意しておけば良いじゃないか。だって、あとから反対したらそれで良いわけだから」排他性をそれほど及ぼさない者は、合意形成に対してはあまり熱心じゃないような気がするんですね。その代わり、多数決での賛意が得られるかどうかは未知数です。

 また、排他性がとりわけ強い者はどうでしょうか。あまりに強い排他性ゆえに、合意形成では他に対して一切妥協せず、自分の意見を押し通す事でしょう。けれどもし、そんな我の強い意見に辟易しながらも、とりあえずの合意形成に達したとしたらどうでしょうか。
 排他性の強い者は、誰よりも強い意志で、多数決に当たっては賛意を表明するのではないでしょうか。僕の見るところ、熱心に「自分の身を守ろうとする者」と、熱心に排他性を発揮する者は、多数決においては一番確実な賛成票を入れる投票者になるように思われます。

 奇妙な話ですが、多数決に際しては、両者は一致団結して賛成に回る人たちになるような気がするんですね。では、彼らが想定する反対派は、いったいどんな者たちになるんでしょうか。きっと、自分の身を守ろうともせず、そのくせ排他性を嫌悪して他者とのかかわりを避けたがるような者たちになるのではないでしょうか。
 
 合意形成において発揮される排他性は、もしもその者が、投げやりになったりせず、熱心に「自分の身を守ろうとする者」であるならば、最終的に採決を取る場が多数決なのですから、その場が救い上げてくれるのではないでしょうか。どうでしょう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どうも(私の)論理に関する回路がうまく作動しないようです。^^;
あるいは、私の記述が下手なために単語に対する齟齬も生じているかもしれません。

たとえば、
>もしも合意形成できたなら、「自分の身を守ろうとする者」は必ず多数決で、
:とおっしゃる箇所ですが、私が述べたところの「同一化される過程」とは、
#84におけるpasscard さんの、
「> 主張の背景にある様々なものは、この合意形成の過程において、ひとつの主張へと同一化される。」
を前提としたものであって、
「同一化される過程」=「合意形成される過程」
のように解釈しているため、おっしゃっている内容が難しく感じられてしまいます。

先にあげていただいた、
 (1)遠足のおやつ代は500円までとする。
 (2)遠足のおやつ代は1,000円までとする。
 (3)遠足のおやつ代は1,500円までとする。
の例を使って、
合意形成がどのように行われ、たとえばどのように進展していくのか。
といったことを逐次的に解説しながらご説明いただくわけにはいかないでしょうか。
理解力不足ですみませんが、お願いできれば有難いと思います。
なにか新鮮な視点でおっしゃっていただいているような気もするのですが、ぜひ理解につなげさせていただきたいと考えています。

因みに、
> 排他性の前に「自分の身を守ろうとすること」を掲げておられますね。
:という点に関してですが、
「自分の身を守ろうとすること」が排他性の最大の要因と認識しています。
つまり、排他と護身の境界はどのようにして定められるのが理想的だろうか、ということにもなっていくかと思われます。
排他性の定義がしっかりしないまま来ているわけで、その点でご迷惑おかけしているようにも感じているところです。
 

お礼日時:2009/04/17 15:20

#87です。



>元気で職を持たない人はボランティアの義務を与える(?)ふと、思いつきました。

横入りしますが、お許し下さい。

戦後日本が豊かになり、戦後生まれの者がボランティアという言葉を使い始めた頃の話を紹介します。大分前のことですので、はっきりした記憶は残っておりませんが、確か、古新聞などの廃品回収についてだったと思います。どこかの町の奥様方がボランティアで回収することで市の負担を軽減しようと言うことだったと思いますが、その内容の詳細はこの話しでは重要ではありません。その運動のお陰で、細々と廃品回収で生計を立てていた方々が、大変な迷惑を被りました。その時は、奥様方はすぐに事情を理解してその運動を取りやめ、目出たし目出たしとなりました。

もう一つの話は私の個人的な経験です。ボランティアとは直接には関係がありませんが、似たような話です。今から15年程前にチリのサンチャゴを訪れ、地下鉄に乗った時のことでした。どの地下鉄の駅でも、改札を出た所に机が置いてあり、二人の奇麗な女性が制服を着て座っておりました。始めは判らなかったのですが、その内に、彼女達はそこで、切手を売っており、また手紙を受け取っていることに気付いて、びっくりしました。多分彼女達は最低賃金で働いているのだと思います。アメリカ式に考えれば、切手の自動販売機を置き、郵便ポストを置いておけば、人件費が大部浮かせるはずですので、随分無駄なことをやっていると言えるかもしれません。

しかし、よく考えてみると、自動販売機にしていないために、彼女達は職を手に入れることができ、ホームレスにならずに済んでいるとも考えられます。事実、私の印象では、サンチャゴはアメリカの平均的な都市よりも全体的には貧しい印象を受けましたが、ホームレスの数はアメリカの都市よりも大部少いと思いました。一見無駄遣いをやっているようですが、アメリカの合理性を採用していない分だけ、ホームレスの管理に関する無駄遣いをせずに済んでいるようでした。

ボランティア活動は、場合によっては、社会の底辺で生きている方から職を奪い取ってしまうことがありますので、そのことまで見込んでやらなくてはならないことだと言うことを思い知らされました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

たしかにそういう側面はあるのかもしれませんね。
このへんはきちんとした理論で解決できそうに、少なくとも道筋をつけることはできるようにも思うのですが、なかなか難しいのかもしれませんね。
ご体験を踏まえてのお話で大変興味深く拝見させていただきました。
 

お礼日時:2009/04/17 14:46

#75です。



多数決と排他について論じてみます。もともと多数決を正統化する根拠は曖昧で、おみくじと同じ様に、神様の意思を聞き糺すことが目的だったとのことです。

多数決とは、排他を原理として出来ている制度ですね。例えば、51%が賛成し、49%が反対した場合、49%の人の意見は排除されてしまいます。もっと極端に、日本で1億人の人が投票して、9:1で賛成意見が出た場合でも、1千万人という大変な数の人達の意見が排除されてしまいます。この場合、数の力で少数派が自分の意に反して、強引に多数派の意見の実行を迫られるわけです。

一方かつての日本では、意思決定は基本的には全員一致制でした。今でも多くの会社では、全員一致制のいろいろな変形型が採用されていると思います。ある意見や行動に関して全員が一致するには、議論ばかりでなく多くの根回しが必要になります。その過程で、例えばある人がその意見に反対であっても、そこで賛成して置くことにより貸しができ、その人にとって将来もっと重要だと思えることに対して、貸しを返してもらうことも出来るわけです。ですから、局所的には反対であっても、大局的な意味で説得されて賛成側に回ることが可能なのです。貸し借りの利害関係が絡むことによって、「排他」を最小限に抑えようと言う制度だとも言えます。

もちろん、全員一致制の欠点は、合意に到達するのに時間が掛かることです。ですが、一旦合意が成立すると、皆が納得した上ですので、その実行に関しては、手抜きもなく、意思伝達の機能も滑らかに行くので、実動に際しては大変効率の良い制度です。

多数決とは違いますが、アメリカでは上司が部下の都合や意向に相談することなくいろいろと契約を結んでしまうので、その実行の段階で、いつも齟齬が出来、実行に戸惑ります。一方、日本の企業では、この全員一致制が形を変え品を代えながら残っておりますので、契約が成り立つには時間がかかりますが、一旦契約が成立すると、その実行力は見事であり、いつも世界から賞賛されていますね。

まとめると、
多数決の利点は、短時間で意思決定がなされる。欠点は、多大な人達の意見が排斥されてしまう。欠点か利点かは意見が分かれる所ですが、多数決では、時間と空間に関して大局的に考えなくても簡単に結論が得られるので、人々の知的レベルがそれほど高くなくても実行可能な制度です。


全員一致制の利点は、「排他」が最小限に押さえられる。欠点は、意思決定に時間がかかり過ぎる。ただし、全員一致制が効力を発揮するためには、意思決定に参加する者が、時間的にも空間的にも出来るだけ大局的に考えられるようになっており、小異を捨てて大同に就く能力をもっていることが要求されるので、知的に高いレベルが要求される。

してがって、ゆとり教育以前のかつて日本のように国民の一般的レベルが高くないと、全員一致制の実行が難しいので、現在では、アメリカ型の排他容認を原則とする、上意下達制や多数決制の方を善しとしているようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>もともと多数決を正統化する根拠は曖昧で、おみくじと同じ様に、神様の意思を聞き糺すことが目的だったとのことです。
:あ、そうだったんですか。
それほど曖昧なものなんですかね。
神様には悪いけど・・・。

>貸し借りの利害関係が絡むことによって、「排他」を最小限に抑えようと言う制度だとも言えます。
:排他性を、#83さんおっしゃるところの「均質の交換」で中和させようというテクニックなのでしょうかね。
いつもながら興味深いお話です。

>日本の企業では、この全員一致制が形を変え品を代えながら残っておりますので、契約が成り立つには時間がかかりますが、一旦契約が成立すると、その実行力は見事であり、いつも世界から賞賛されていますね。
:そうでしたか。
しかし、「強引に一致させられる」ような側面もやはりあるのではないでしょうか。
全員が本心から納得できることばかりではないように思われますし、結果として、個人の内面に抑圧されてしまうものの影響はおそらく出てくるのでしょうね。

>国民の一般的レベルが高くないと、全員一致制の実行が難しいので、現在では、アメリカ型の排他容認を原則とする、上意下達制や多数決制の方を善しとしているようです。
:そういうことになってますか。
参考にさせていただきます。
 

お礼日時:2009/04/17 14:42

元気で職を持たない人はボランティアの義務を与える(?)ふと、思いつきました。



教養のある人は知識を、知識で社会や次世代の教育に還元する。
体力のある人、経験者は弱者を助けたり、楽しませたりする。
サービスではなく、感謝、感動の共有を報酬としたホスピタリティです。

ホテルや病院の語源となる「ホスピタリティー」でもサービス業というでも名を馳せるに従い、いっそう庶民に敷居が高く、大企業に優しい体制なのはどうなんでしょう?

報酬、対価を求めないボランティア精神は資本主義に反する危険思想とされてしまうので、法に義務として組み込むことは出来ないようです(じゃ提案するな!?ですが)。

アメリカでも福祉法は禁止されているし、自己責任、告訴大国、銃社会と社会が冷たい反動で個人レベルでのボランティアが盛んなだけですね。もし、生活が困窮している人がいなくなると神様でも助ける意義さえ失ってしまうので、相変わらず根本的に無くす方策にならないのですが。

神に出来ないこと(正確には神は人間に権利や義務や保証を人間に特別に与えたりしていない。が人間が自ら持った概念や行動に関知しない)を人間は考えることもある。考えられることは実現の可能性もあるんじゃないかと思います。

メルロポンティが200年後の人類は高度な社会を実現すると予測していると聞いたことがあります。根拠は全くわかりませんが。日本の癒し文化が広まるともっと早まるかも??
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>元気で職を持たない人はボランティアの義務を与える(?)ふと、思いつきました。
>サービスではなく、感謝、感動の共有を報酬としたホスピタリティです。
:対価を支払ってもらえないのであれば一時的なものになるしかないでしょうが、そういった精神は大事ですよね。
人間って食わなきゃ生きていけないので色々面倒なのでしょう。^^;

>サービス業というでも名を馳せるに従い、いっそう庶民に敷居が高く、大企業に優しい体制なのはどうなんでしょう?
:今の漢検の問題でも同じですね。
持ちたがるし、持てば手放したくなくなるし、(私も含め)ほんと人間は強欲です。

>報酬、対価を求めないボランティア精神は資本主義に反する危険思想とされてしまうので、法に義務として組み込むことは出来ないようです(じゃ提案するな!?ですが)。
:いえいえ。
このような気持ちで活動することが本来なんだと思いますよ。
報酬・対価も当然付随してこなければいけませんが、今は、それ自体が目的になってしまっている場合が殆んどですからね。
おっしゃるような視点はとても重要だと思います。

>メルロポンティが200年後の人類は高度な社会を実現すると予測していると聞いたことがあります。
:希望が全く無いわけでもないんですね。
よかった。^^;
 

お礼日時:2009/04/17 12:47

貧富の差が狭まり中流層が増えつつあるタイでもデモクラシー(民主政策運動)でアジア会議が中止になったり、負傷者、死者まで出てしまったこと残念です。



ガンジーはいう「この世に五体満足で仕事もなく衣食が足りず、餓える人がなくならないかぎり、食事をすることは恥としなければならない。」必要な食事をとることは、誰と共有しても、というか人種を超えても共有する栄養補給と心の満たしであり、必要悪でもなんでもないことだけれど、【生きるのに必要以上の食料や土地や資産を個人が占有する正当性はどこにあるのか?】

低所得で賃貸に住んでる私はわからないので、資産家という人なら例えば「人間が皆平等になると労働意欲が下がり怠け者が増える」「真面目に頑張って働いた人が損をする、共食いになる」という答えがあるかもしれない。

では、仕事せずに収入のあるひと(不労所得者)も惰性的な貧乏人同様働けてないから「共食い罪」を適用になる?上から進んで排他していき自らの利権にメスを入れ「自分も他人も良ければこんなに幸せなこともない」気前がいい人が増えれば誰も文句なくなるんじゃないかと。日本もチップの習慣を持つようにするとか。客がサービス料を払って当然というなら基本料金に入れて置くべきですが。

ネパールのレストランで食事をしていて窓ガラスに顔をおしつけてのぞいているホームレスチルドレンに見つめられながら、味の話なんてできませんそんな趣味ない。貧しいといわれる国で肉食やお酒を堪能するのって勇気がいることでした。子供に罪があろうはずがない。悪い恥ずかしい大人めと責められるよう。

カトマンズで愛は地球を救う号の車も走ってました。寄付した私の愛(?)が形になってるよう。でもまぁしかし、支援者気取るほどの力になってはいないのだけど。

愛は形だけでなく動詞でもあって、その子供達とひと時楽しく遊んだり話をしてあげることぐらいにしか出ませんでした。その他に要求もせず逆に英語を教わってたり被写体モデルになってくれたり、退屈しのぎさせてもらったぐらい幸運な旅だったんですが、ケチな大人より気前がいぃ子供達は泣ける、やっぱり罪です。罪な子供を排他したいです。

学校に行けない子供や餓える人がいる国は、パフォーマンス等、楽しませる芸もない者が観光客から貧乏というだけでバクシーシ(個人的に寄付)をせがんではいけない!という国際法を作る。

そのかわりビザ申請の基本料金にバクシーシ済み(料金は任意設定)としたものを添える。なんて案が出ました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>生きるのに必要以上の食料や土地や資産を個人が占有する正当性はどこにあるのか?
:おっしゃるとおりと思います。
何を以って「>必要以上」とするのか、という価値観に関わってくるのでしょう。
排他(=他人を排除しようとすること)は、自らの欲が原動力になってもいるのでしょうね。

>ネパールのレストランで食事をしていて窓ガラスに顔をおしつけてのぞいているホームレスチルドレン
:ははあ。
miko-desi さんは優しいから、うつむきながら食べてたような気もします。
しかし、ほんの少し前までは日本の子供もいつもお腹空かせていました。
幸か不幸か、今は飽食の時代です。
せっかくできた野菜をブルドーザーで潰して、
まだ使えるものをどんどん買い換えて、
どっかが狂っていることは間違いないですよね。

>カトマンズで愛は地球を救う号の車も走ってました。寄付した私の愛(?)が形になってるよう。
:現地で見たのなら、感慨も一入(ひとしお、ってこういう字だったんですね。一塩、だとずっと思ってました)だったことでしょう。

>愛は形だけでなく動詞でもあって、その子供達とひと時楽しく遊んだり話をしてあげることぐらいにしか出ませんでした。
:その子供たちにとってはいい思い出になっていると思いますよ。

>パフォーマンス等、楽しませる芸もない者が観光客から貧乏というだけでバクシーシ(個人的に寄付)をせがんではいけない!という国際法を作る。
:どこかで排他の構造になってしまうわけですが、共有できる正当性をどのように見つけていくか、ということにもなりそうですね。
 

お礼日時:2009/04/17 12:36

 多数決なんて、どうでしょうね。

例えば、

 (1)遠足のおやつ代は500円までとする。
 (2)遠足のおやつ代は1,000円までとする。
 (3)遠足のおやつ代は1,500円までとする。

 このような三つの選択肢から、どれが良いか選んでください。――こういうふうに、物事を決めようとするとき、そこには必ず排他性が働く。そして、そのような仕方で多数決を用いる事はできない。

 意思決定のテーブルは思いの他小さく、異なる主張が三つもあれば、そのままではテーブルに載せる事ができないからだと思います。そのテーブルに載せる事ができる命題は、常にひとつでなければなりません。そのひとつの命題に対して、賛成か反対かを問う。
 これが、多数決だと思います。

 異なる主張が三つある場合、まず合意形成が必要になる。(1)の主張をされる方は、百年に一度の不景気の最中だから、おやつ代は慎ましくあるべきだと仰るかもしれません。(3)の方は、かといって年に一度の遠足ですから、枠は大きめに取ったら良いじゃないですかと仰るかもしれません。(2)の方にとっては、いやいやその中間で。というようなご主張かもしれません。
 主張の背景にある様々なものは、この合意形成の過程において、ひとつの主張へと同一化される。まとめ上げられた主張は、各主張によって折り合いがつけられた、言わば自己の分身といっても良いものでしょう。多数決は他者ではなく、あくまでその自己に対して、賛意と反意を問いかけるのです。
 このプロセスを踏むなかで、果たして排他性は発揮されるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうござます。

選択肢があると、「あれかこれか」という排他の構造になる、ということですね。
で、
>まず合意形成が必要になる
:と。

>まとめ上げられた主張は、各主張によって折り合いがつけられた、言わば自己の分身といっても良いものでしょう。多数決は他者ではなく、あくまでその自己に対して、賛意と反意を問いかけるのです。
:このような視点は新鮮に感じました。
「>まとめあげ」「>折り合いを」つける段階で
遠足の意義と台所事情が天秤に掛けられることになるのでしょうが、
象徴的な例をあげられたかもしれませんね。

>このプロセスを踏むなかで、果たして排他性は発揮されるでしょうか。
:passcard さんの意図されていることを正確に理解できているか自信はないのですが、同一化される過程で発揮される可能性はあるような気がしないでもありませんね。
 

お礼日時:2009/04/17 00:57

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