なぜ人を殺してはいけないのですか

誤解の無いように言っておきますが、私も人を殺すのはいけないことだと思います。けど、本に載っている回答は、直接答えていなかったりして、少し物足りないので。
 私なりに還元すると、(1)人に迷惑をかけてはいけないと言う倫理の根拠は?もしくは(2)人権の根拠は?という質問の答えがそのまま答えになるような気がします。

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A 回答 (19件中1~10件)

そもそも「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という問いは「人を殺してはいけない」ということを前提とされてるようですが、それ自体が疑問です。



法律が人殺し全般を禁止しているから?
否、法律では様々な場面での人殺しを認めてます。際たるものが死刑制度です。

日本政府が世界各地で人殺しを続ける米軍を全面的に支持していることからもわかるように、少なくとも日本では、ある場面では人殺しは認められ、ある場面では認められない、ということです。
日本以外でも、全面的に人殺しを禁止している(つまり正当防衛も認められない)国の方が少ないのではないでしょうか?

なので、質問の中に誤りがある、というのが適切な回答になります。

例えば、「通り魔殺人がなぜいけないのか?」であるとか「過剰防衛で人を殺すことがなぜいけないのか?」という問いであれば、法、慣習、道徳などの面で皆様から納得いく回答を得られることでしょう。
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日本の憲法では自由の権利は認められています。

言論の自由、宗教の自由…などです。では、なぜ人を殺す自由は認められないのでしょうか?

逆を考えてみます。つまり殺す自由を認めるとどうなるかを考えてみます。殺す自由を認めるとムカつく奴、気に入らない奴など殺すことができます。しかし自分もいつ殺されるかわかりません。仲の悪い知り合いから殺されてしまうかもしれません。
このことから考えると、自分の自由を認めるには、他人の自由も認める必要があります。

根本はルールの話になります。無人島に1人なら、何をしても構わない。しかし、2人になると自由がぶつかると思います。どちらがいいところに寝るか…などです。つまり、自由がぶつかるところではルールを決めるのです。ルールは必ず守らなければなりません。

話を戻すと、殺したいと思う人がいる、殺されたくないと思う人がいる。自由がぶつかるところです。おそらく殺されたくないと思う人が多数です。日本では多数決制が採用されていますから、「人を殺すのは禁止」というルールを作ったのです。

これが私が考える人を殺してはいけない理由です。
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 問いに対して回答すると、


「それは日本の法律で定められているから」です。
すでに回答されている中にも同じような内容のものが見受けられます。
 ご質問の(1)や(2)はそれに付属するものではないでしょうか。

 上記の回答の補足をすると、以下のようになります。少し方向がそれるかもしれません。
 本質的に我々は人を殺せます。殺せるということは、自由です。殺すも殺さないも選択できます。
 倫理的な観点や理由のあるなしにかかわらず、可能か不可能かを問われれば可能でしょう。おそらく私の場合は、私、もしくは私が思う大切な人たちに危害を加える者がいる場合、ためらいなく殺すでしょう。
 質問では、「なぜいけないのか」が挙げられているので上記のような回答になりました。
 社会(日本)のルール(法律や憲法)とは我々の生活を維持、管理するためのものです。つまり、我々の自由に付加される制約であると換言できると考えます。
 しかし、それらは私たちの精神や思考までは縛ることはできません。よって私たちは私たちの思ったときに人を殺すことが可能です。その状態では、倫理観や殺人の背景にある動機でさえ、問題にはなりえません。
 ではなぜ人を殺さないのかという問いが浮上します。それは、必要がないからです。もし必要があれば、その必要性と、その後に予想される事態や罰則を天秤にかけて考えます。

 もちろん私は人を殺しません。おそらくこの先もないでしょう。はじめに書いた事態がない限りは。
 人それぞれ倫理観や常識には差があり、他人の設けた基準も尊重しなければ、というよりは許容しなければ生きてはいけません。人の命の重さについて議論することもこれに同じです。
 その曖昧なラインで議論(ここでのものはもちろん議論ではありませんが)するよりは、明確な基準の範囲で考えたほうがわかりやすいのではないでしょうか。それは我々が共通に持つルールである、法規です。

 私の考えでは、「人は人を殺せる」という考えが前提となっていて、それを制約する形で法律を挙げました。社会の枠組みからはみ出せば、それなりの代償が支払われることとなります。殺人は私にとって、得られるものの期待値が低いことです。

ご期待に沿える内容ではないかもしれませんが、ご参考になれば幸いです。
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簡単に言うと、法律で決まっているからです。



日本国民は国会で議決された法律を遵守する義務を負います。負えなかった人は国による制裁があります。

刑法199条に「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する」と書かれています。

これが人が人を殺してはならない直接の理由だと思います。法は人を縛り、人間の行動選択の基準となります。

戦国時代などはそういった法がなく、武将の決めたことが法でしたので、人を平気で殺せたのです。

このように人間はライオンやトラと同じ「動物」なのです。ですので縛るものがなければとても恐い動物になります。

倫理観などは後付けです。
命あるものを奪ってはいけないという説明をよく聞きますが、これには矛盾があります。

動物で、犬や猫は殺してはいけないのに、蚊やゴキブリは平気で殺しますよね?何故でしょう?

これは犬や猫は動物保護条例などがありますが、虫を殺してはいけないという法はない為です。

このように法律は国民のより多くの人が幸せになる為のみんなが決めたルールなのです。
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その人が生きる事を望んでいるから☆&悲しむ者が居るから☆ だから勝手には殺しちゃいけないンじゃん?

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 殺人というのは、僕から言わせて見ると「最大の人権侵害」だと思いますよ。

たとえ相手のことがどれほど憎くても。その人にはその人で「生きる権利」というものが保障されていますからねぇ。まぁ、死んだら誰しも何も出来ないですからね。その人の未来を奪ってしまうということは倫理上いろいろと問題があるのではないでしょうか。(宗教などの観点からの考察であれば、下の方々の意見を聞くのがよろしいかと…)
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 一方的に進めるのは好きじゃないんですが、続けさせていただきます。


 前回の回答で、私は、われわれは皆、「すでに」そして「現に」殺人者であると述べました。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題は、この「すでに/現に殺人者である」という地平から考察されねばならないと考えます。とりわけ、deadpoolさんのようにラディカルな問いを発する方は、ヒューマニズム的な説明では納得しないでしょう。ですから、ちょっと毒気の強い説明をします。そして、ちょっと長くなります。キーワードは「暴力」と「虚構」です。

 「人権の根拠とは?」とお尋ねです。こちらに絡めて述べます。まず結論。「ありません」。
 「人権」に根拠などありません。強いて言えば、日本の場合、日本国憲法が根拠とは言えます。が、憲法で謳われ、尊重されるべきと規定されている「基本的人権」が虚構にすぎないことは簡単な考察で示すことができます。
 基本的人権は、別途定める法律で定義される日本国民に与えられる「侵すことのできない永久の権利」とされます。やや語弊はありますが、「生まれつきの権利」と言っているようなものです。ところが、これが決して「生まれつき」のものでないことは、明治憲法を持ち出せばイッパツで示せます。明治憲法下では、諸々の人権は「天皇による恩賜」によるものでした。決して国民に「基本的に」そなわったものではなかった。
 要するに虚構なんです。「人には基本的人権がそなわっているものと推定しよう」という形で最高法規に規定されているだけです。あくまでも「推定」に基づくものであって、必然的・論理的根拠などはありません。

 話を進めます。
 この、推定されたにすぎない「基本的人権」を、誰もが信頼し尊重しています。その土台の上に、人々の社会生活は営まれます。では、なぜ、これは可能になっているのでしょうか。ただのコトバなのに、誰もが信じている。
 権力、および法があるからです。権力および法の裏付けがあって初めて、ただのコトバにすぎなかったものが現実の中で妥当性・有効性を持つのです。
 「人は法の下で、権利において平等である」とされます。これも「推定」に基づくものです。これが意味するところを少し詳しく述べます。
 人はそれぞれ、固有の利害を持ちます。「したいこと・したくないこと」があり、「してほしいこと・してほしくないこと」があります。そしてこの利害は、人と人との間で衝突する場合があります。対立することがあります。そういうとき…どうするか。
 この利害の対立を、暴力によらずに解決することが、法の第一義の目的なのです。対立を解決するのにむきだしの暴力を用いたら、単純に腕力のある方が勝ちます。でもそれじゃあ獣と変わらない。腕力に劣った者の利害も、理非に照らして調停してやらなくては…ということで「法」が生まれ、強者も弱者も「権利において平等」と推定して、理非に照らして判断する。法とは、そういうものです。つまり法は「暴力の否定」に立脚します。「人を殺してはいけない」も、この一環です。

 ところが、この「法」を守らせる裏付けとして、やはりどうしても「権力」が必要なのです。「人を殺したら懲役刑だよ」「スピード違反したら罰金だよ」というふうに、違法に対して何らかの罰が担保としてなければ、そしてその罰を執行する権力がなければ、法は守られません。民事的な問題でも同じです。「AはBにこれこれの支払いをせよ」という判決が下り、Aがそれに従わなかった場合、強制執行や刑事罰が下されることになります。やはりここでも、判決の有効性を保証するのは「権力」です。
 この「権力」がまたクセモノなのです。結論的に言いましょう。

「あらゆる権力は、それぞれの形と程度において、間接化され、希釈され、緩和された暴力にほかならない」。

 短く言えば「権力とは暴力である」です。ドイツ語でGewalt(ゲヴァルト)というと「権力」とも「暴力」とも訳せますし、Macht(マハト)も「権力」であり「威力」です。Kraft(クラフト)は単に物理的な力でしかありませんが。
 要するに、権力とは「言うこと聞かなかったら、ぶつよ」なんです。いや、これじゃ可愛すぎる。はっきり言えばこうです。
   「従わねば、殺す」
 「権力」というものの究極の核には、これがあります。
 「法」は暴力の否定に立脚しますが、その妥当を保証する「権力」は暴力に立脚しているのです。
 このことは、世界中のほとんどの国が、その建国過程に暴力を伴ったことを想起すれば理解できるはずです。秩序を確立するには、対抗する権力を否定して一元的な支配を確保しなければならない。だから敵を滅ぼして「天下を平定」するのです。その暴力過程を経て秩序が確立されて、やっと暴力を否定できる。暴力を制御できる。これが権力です。

 ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対しては、こう答えることができます。
 社会秩序を保つために「権力」がそう命じるからであって、それ以外の根拠は虚構でしかない。
 そしてその「権力」は、「その気になればお前を殺せるんだ」という暴力性を根拠にしている。
…ということです。

 「暴力」は人間の根源的本性の一面であって、消去・解消することはできません。かろうじて「制御」できる程度です。そして「制御」できなくなる事態も、まま起こります。
 ですから、私は「戦争」を否定しません。と言っても、もちろん肯定も賛美もしません。否定できないのは、その「必然」です。決してなくならないでしょう。その「必然」を、禁じ得ぬ悲哀の念を抱きつつも、見据えなければならないということです。

 「暴力」は、それを直視した者を石に変えるような「呪われた部分」です。が、それは人間の中から消せません。
 なぜ人を殺してはいけないか。それは「人は人を殺しうる」からであり、「その気になればお前を殺せる」という力によってである。
 これが結論です。
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serpent-owlさんの意見におおむね賛成っす。


で、僕流の追加。

成人男性なら、標準的な体力を持っていれば、
人を殺すことははずみ程度のことで、起こり得る
くらいの簡単なことです。倫理の問題を外してしまえばですが。

では、倫理の問題はどうか。
これも、あやうく脆い。
戦争による殺人、死刑による殺人、正当防衛の為の殺人、精神障害者の殺人、
には法的罰則はありません。
ですから、ここで、殺人全般に対して法による拘束を持ち出すのは、
有効とは言いにくい。

すると、何をもって、それを禁止する定めとするか?
これはかなり、難しい。
結局のところ、論理でもなんでもなく、浪花節的に、
「自分の愛する人を殺されたら悲しいでしょ?
自分が死ぬのはいやでしょ?
誰かが死んで、それを悲しんでる人の顔を見たいって思わないでしょ?
なにより、あなたは人の生き死にを決定できるほど偉くないでしょ?」
ってな結論しかでないかもしれないです。
そこで「ぜんぜん」とか「そんなことない」とか
言われちゃうと、なーんにも言えないです。
困ったもんだ。
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 あ~これ、「哲学」に出してほしかったなぁ…というのは、はい、私の勝手な都合から出た言葉です。

すっかり出遅れてしまいましたので。

 それはさておき、本題です。まず外堀からいきましょう。「人を殺してはいけない」根拠、それは「人は人を殺しうる」ということです。殺人という行為は人間の自由意志に基づく可能性の圏域内にある。故に禁じられる。
 「裸で太陽に飛び込んではいけない」という法律を持つ国は、おそらくどこにもない。最初から、不可能だからです。だからわざわざ禁じる必要もない。

 しかし問題はその先です。「できるから」という理由だけで禁じられるならば、人間何もできなくなる。「やっていいことと悪いこと」を弁別しなければならない。…ところが、これがキツいんです。kita315さんが言われているように、決定的な答えがない。
 というのは、感情論や個人信条ではなく、客観的な基準を立てて「殺人は悪である」としたところで、必ず現実がそれを裏切り、「肯定される殺人」が生じるという逆説があるからです。
 実を言いますと、私は人を殺したことがあります。……私だけではなく、deadpoolさん、あなたもです。他のみなさんも。日本国民として半年以上生きていれば誰でも。
 「死刑」です。
 殺人罪など、共同体の秩序そのものへの罪と見なされる刑法犯罪の裁判は、一部を除いて「個人 vs. 個人」という図式を取りません。「共同体 vs. 被告」という図式を取ります。その裁判の結果、死刑判決が下り、死刑が執行されたなら、その殺人行為の執行者は共同体成員の全員です。ハンコをついた法務大臣だけでも、スイッチを押した執行官だけでもなく、日本国民全員です。死刑を指して、死刑制度反対論者は「国家による殺人」と言いますが、この言い方自体、欺瞞の匂いがします。殺しているのは私であり、あなたであり、すべての国民なのです。
 「人を殺してはいけない」という規範は、かくもあっさりと裏切られています。

 死刑制度のない国もありますね。ヨーロッパ諸国の多くは死刑制度を廃止しています。でも…戦争はやります。イギリスなんかは特にエゲつないです。フォークランド。湾岸戦争。UVFやSASによるカトリック系住民殺害なんてのもあります。驚くべきことに、あれほどの先進国で、裁かれない殺人が日常の中で頻々と行われている。
 「戦争」という時空間は、その中においては「殺さないことが罪になる」時空間です。「自由」とか「大義」とか、さまざまな修飾はなされます。けれど行われているのは殺人以外の何物でもない。
 「汝殺すなかれ」という一方で「殺せ」と命じる。これが人間の姿です。

 最初ですので、これくらいでやめておきます。でも、話は始まったばかりです。お言葉を待ちます。

P.S.「クローン人間」にも、そのうち書きます。これも…「哲学」に出してほしかったなぁ…。
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お求めの回答とは違うと思いますが・・・



人を殺したり、迷惑をかけたりしてはいけないのは、結果的に自分が罪に問われたり、報復されるから・・・

「情けは人の為ならず」の逆バージョン?
「人を呪わば穴二つ」ちょっと違うな・・・
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