私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか?
初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。
 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。
 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

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A 回答 (10件)

No.2の回答者です。



>戦前に足利尊氏が好きといったら、大逆罪とは言えなくとも非国民扱いされたのでしょうか?

「土を喰う日々」(水上 勉 著)[新潮社版]
と言う本に、著者の水上 勉さん本人が書かれてます。
水上さんは、戦時中、足利尊氏の菩提寺で、住職さんの世話役のような仕事をされていたそうなのです。

以下は、本からの抜粋です。

>等持院は、当時大変な貧乏寺だった。
>足利尊氏の菩提寺だし、室町時代の宝物も有ったが、戦争中のこととて、国賊の菩提寺などへ観光に来る人は一人もいなかった
(中略)
>国家も、尊氏の事を逆臣と言っていた。

蛇足ながら、戦前の教育を受けている私の母親も、NHKの大河ドラマ「太平記」を見る時は、
「足利尊氏は、悪い奴だと教えられたけど、どうして悪い奴が主役なんだろ???」
と、言ってましたっけ・・・。
(^^;
いや、「教育」ってモノは、ある面、恐ろしいですネ。
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聞いた話では平均寿命は時代が後世になるに従い


上がると思いきや、鎌倉時代は平安時代より
人の寿命が短かったとか、生産性が上がらず
停滞した時代だったという話があり
その暗い?時代の幕開けをやった権力者だから
人気がないのかもしれませんが、それで
源頼朝を責めるのは、ちょっと酷かもしれません
かれじしんは、後世が評価したような
武家安定体制を成し遂げたという認識があったか
どうか、彼は短命だったし、あとの源氏は、すぐ
断絶して鎌倉時代の ほとんどは平氏の北条が
執権したわけですから
足利尊氏は、権力の頂点まで上り詰めたというか
彼は死ぬまで日本の統一は出来ませんでした
南北朝の決着を付けたのは、その数代後の
足利義満で、足利尊氏は、相当やり残しの
あった権力者で、そこのところが、あまり
ぱっとしないのかもしれません、これも
彼自身を責めるのは酷でしょう。
というか、歴史人物を後世の人が
有能無能で判断することが、そもそも
なんなのか
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>足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?



天皇制を強力に進めた、明治政府の政策結果です。
足利尊氏の子孫は、室町幕府崩壊後も阿波(徳島県)で家臣(2百数十名)と一緒に住んでいたのです。
幕末、阿波から京都へ移住。紀伊徳川家から毎年200両の資金提供を受けています。
(武家からは、尊敬を受けていたようですね。蜂須賀家からは、厄介者扱いでしたが)
明治維新後、旧藩主・領主などは「爵位」を受けますが、足利家は「天皇に弓を引いた国賊」として扱われ、1945年の終戦まで続きます。
(明治30年まで、旧紀伊藩主徳川侯爵家から毎年200円の資金提供を受ける)
頼朝も、同様に「天皇に敵対した」事が原因ですね。

余談ですが、江戸時代まで「明智光秀は英雄」だったのですよ。
部下が上司を殺害し、その地位・領土を奪うのは一般的でした。
ところが、明治政府は「明智光秀のみを逆賊」に指名したのです。
朝鮮・中国侵攻を考えていた明治政府としては、秀吉を英雄視する必要があったのです。

自由な学問が出来なかった時代の、悪影響ですね。
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人間的な魅力を取り上げれば、間違いなく


 足利尊氏>源頼朝
でしょうね。

しかし、政治的な実績で言えば
 足利尊氏<源頼朝
です。

足利尊氏が今ひとつ人気がないのは、彼のすぐ後の世代で「太平記」が広く流布され、それが彼の決定的な評価となっているからでしょう。
当時の価値観で言えば、現代人の目でみてやむを得ない事情が重なったとはいえ、主筋である後醍醐天皇と敵対してしまったからです。

この評価を覆すには、太平記の評価を覆すほどの歴史的な作品を将来の歴史作家が、世に送り出せるかどうかにかかっています。

かつて司馬遼太郎は、戦前は「軍神」とあがめられた乃木将軍を、人格面ではともかく、軍事的な才能では無能な人間という位置にまで評価を落としました。
近年はまた別の研究者の研究により、その評価も少しずつあらたまっていますが、まだまだ一部に留まっています。
また他の方の回答にあるように、それまで無名の志士であった坂本龍馬の評価をぐっと引き上げています。
このように偉大な歴史作家の作品は、歴史的な人物の評価を塗り替えることは十分可能です。

とはいえ、足利尊氏のもう一つの欠点は一代で軍事的な混乱を収拾できなかったことですね。
この点では、足利尊氏の評価は徳川家康や源頼朝に比べると、一歩劣ってしまいます。
例えば、足利尊氏一代だけでなく孫まで含めた三代記で書けば、また読者の見る目も少し変わるかもしれません。
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よい作家さんに出会ってないから。


司馬遼太郎が書かなければ、龍馬は、幕末に死んだ志士の一人でしかない。
山岡荘八が書かなければ、徳川家康は狸親爺。
吉川英治が書かなければ、宮本武蔵は時代遅れの戦闘オタク。
兄弟殺しと言えば、信長も政宗もやっているので、強い因果関係があるとは思えない。要は作家さんがどう上手く書くか。

今後の可能性としては
尊氏>頼朝
尊氏は度量の大きな人間だというのは同時代人が書いています。その辺を生かした小説が作られれば、人気↑でしょう。
大河ドラマの尊氏は、ちょっと線が細いような演出をしていました。あれだけ婆娑羅大名に慕われた武人ですので、もっと豪快な人間だったと思います。
頼朝は1160→1180まで、話題がないので小説にしにくい。1180以降も、実戦の現場にはあまり出てこないので、映像化したときに印象が薄れるという欠点があります。まぁこの辺は宮本武蔵がほとんど吉川英治の作ったフィクションであることを考えれば、逆に小説化しやすいかもしれませんが。
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どちらも天皇から政権を奪ったので明治以降あまりよく評価されなかったから、とか?

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どちらも、自分の弟を殺したからです。


作り上げた政権を保つためには、時には非情にならねばならないこともある。
源頼朝は、武士の棟梁として、「武士である以上は、自分の部下である。
自分の許しなく朝廷から勝手に官位を受けてはいけない」としました。
ですが、弟の義経は身内であるという感情に甘え、かつ朝廷のほうが
権威は上だからと勝手に解釈して官位を受けてしまいました。
兄とはいえ、将軍の決めたことをその身内が平気で破る…これでは、
争いの耐えない当時、政権を維持していけません。第二の義経が現れない
ためにも、涙を呑んでそうするしか無かったのでしょう。政治的に必要だった
ことだとしても、戦争に功のあった弟を殺してしまう。この非情さが、彼の
人気の無い最大の原因ではないでしょうか。
そして足利尊氏。彼の場合も、弟が尊氏の執事であった高師直が気に食わない
あまり、なんと政敵である南朝側へ下ってしまいました。その結果、尊氏も
一時的に南朝に下ることを余儀なくされますが、のちに朝廷から弟、直義の
追討令を貰い受けて直義を毒殺さえしています。尊氏の場合、特に政権が
不安定で、武士だって南朝、北朝のどちらにつくか分からない状態だったのに、
身内がさらに土台をぐらつかせるようなことをすれば、それに習う人間が絶対に
出てきます。だから、弟を殺したのです。尊氏は、それに加えて「後醍醐天皇を
吉野へ追い落とした」という悪評がつきまといました。代わる北朝を立てても、
天皇を京から追い出したという事実は、当時としては大変重いです。
天皇といわば、「仲直りできないまま」政権を打ち立ててしまったので、明治
以降、太平洋戦争時代までは逆賊とも言われていたんですよ。
これが多分、今でも尾を引いているんだと思います。以上、二人に対する私的
意見ではありますが、述べさせていただきました。
ちなみに、歴史作家の山岡荘八さん、吉川英治さんは、二人へ同情的な立場です。
私も彼らにさほど悪感情は持っていません。
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この2人は兄弟げんかが人気無しの原因でしょう。


軍事的才能は弟のほうがあったのでは?
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お早う御座います。



私は、この両者、嫌いでは有りませんよ。
(^^)
ただ、足利尊氏は、天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていた事が人気の無い一因だと思います。
何よりも、NHKの大河ドラマ「太平記」で初めて映像化されたと聞きましたから。

源頼朝の場合は、政治家としては優秀だと思います。
しかし、不人気の原因は、何と言っても弟の義経を討ってしまった事でしょう。
義経の方は、「悲劇の武将」として、文字通り「判官贔屓」されて非常に人気が高い。
どうしても、頼朝さんは「悪役」に回ってしまうのでしょうね・・・。
(^^;

この回答への補足

戦前に足利尊氏が好きといったら、大逆罪とは言えなくとも非国民扱いされたのでしょうか?

補足日時:2009/04/18 07:15
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不謹慎な言い方かもしれませんが、大河ドラマ等で取り上げるようになれば人気も上がります。

人それぞれが過去の人物の行動を学び自分の行動に生かします。人気あるなしは関係ないと思われるのですが・・・

この回答への補足

尊氏については、平成3年「太平記」で真田広之が演じています。頼朝についても、4年前の「義経」で中井貴一が演じ、それぞれ取り上げられているように思うのですが・・・

補足日時:2009/04/18 07:08
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http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm
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判官贔屓のせいか、江戸時代以降現代に至るまで義経に人気があり、頼朝はあまり好かれていないようです。このため、ほとんど歴史ドラマのごとき論がでてくるわけですが。

根本的にめざしているものが違う以上、「実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなる」という事にならないと思います。平安時代史を調べると(たとえば岩波新書「平安王朝」)兄弟で政治的に敵であった例はもう山ほどあるわけで。とりわけ新興武士階級の場合、それまでの朝廷の官位の権威ではなくずばり武力をもって支配を...続きを読む

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ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

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1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q清盛はなぜ頼朝、義経を殺さなかったのか?

こんにちは。

結局この二人に一族を絶滅させられた清盛です。
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その前の戦(保元の乱?)の戦後処理でなぜこの二人を殺さなかったのか?
なぜ生かしておいたのか? 
その時期に清盛にはそう言う力が無かったのか?
でもその後でいくらでも出来たはず赤子の手を捻るがごとく。
頼朝のやり方と比較するとあまりにも寛容すぎてバカみたいです。

最高権力を握るほどの人なんだから女(常盤御前)の理由とも想えません。
それとも当時はそのぐらいが普通で頼朝がやり過ぎなのか?

では宜しくお願い致します

Aベストアンサー

 他の方の回答にもありますが,平安時代の日本では長らく死刑が行われておらず,保元の乱で平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝や義経の祖父)が処刑されたこと自体が,当時の法慣習としてはかなり異例の措置であり,貴族層からも相当の反発があったようです。もっとも,死刑が行われなかったというのは朝廷がやらなかったというだけで,武士団などによる処刑は平然と行われていましたが。
 清盛が,仮に頼朝や義経を始末するとすれば,両人の父・義朝は保元の乱当時清盛の味方だったので,それに続く平治の乱のときということになるでしょうが,幼年期に父親が処刑され,後に子供が成人して力を付けて親の仇を討つというのは,日本の歴史上は源頼朝や義経がまさにリーディングケースであり,清盛としてはそのような事態は想像もできなかったでしょうし,また謀反人の息子とはいえ幼い子供まで殺すというのは,武士の死刑自体にも世論の反発が強かった当時ではさすがに難しかったでしょう。
 もっとも,源平合戦の時代以降,日本では全国各地で武士同士の抗争が続き,成長した子供が親の仇を討つなどというのは珍しいことでもなくなりましたが,それでも子供まで平気で殺すという措置を取るには,あまりにも残虐だという非難を覚悟しなければなりませんでした。
 織田信長のように,残虐だと言われても一切気にしないような人物は,歴史上の人物の中でもかなり稀ですが,その残虐さで知られる織田信長でさえ,敵や謀反人の子供でもさしたる脅威にならないと判断した場合は殺していません。信長の弟・信勝は,二度も謀反を繰り返し最後には謀殺されましたが,その子・信澄は信長に育てられて成人し,明智光秀の娘を娶っています。
 戦国時代の価値観に慣れてしまうと,平清盛の措置は寛容すぎるとも感じられるかもしれませんが,平清盛については,逆に死刑を復活させてライバルの源氏を叩きすぎたため,後に源氏側の怒りを買って平氏の完全滅亡を招いたという見方も存在します。本来は,敵の一族は子供まで皆殺しというやり方自体が異常なのですよ。

 他の方の回答にもありますが,平安時代の日本では長らく死刑が行われておらず,保元の乱で平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝や義経の祖父)が処刑されたこと自体が,当時の法慣習としてはかなり異例の措置であり,貴族層からも相当の反発があったようです。もっとも,死刑が行われなかったというのは朝廷がやらなかったというだけで,武士団などによる処刑は平然と行われていましたが。
 清盛が,仮に頼朝や義経を始末するとすれば,両人の父・義朝は保元の乱当時清盛の味方だったので,それに続く平治の乱の...続きを読む

Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

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Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
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この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲...続きを読む

Q調べやすい歴史上の人物

中学生です。夏休みに、歴史新聞という課題を出されました。
条件は、『死んだ人』なら、誰でもいいらしいです。
でも、私は歴史上の人物の誰かにしたいのですが、どれもピンとこず・・・・。
死んでいて、中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

Aベストアンサー

歴史新聞の作り方
http://event.kids.yahoo.co.jp/summer2006/study2/society04/index.html

>中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

・聖徳太子
・天智天皇
・天武天皇
・源頼朝・義経
・足利尊氏
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
・西郷隆盛

あたりは、エピソードがたくさん残っているので、やりやすいでしょう。

Q源頼朝関連の本の決定版!って?

しばらく前に頼朝の伝記を探したことがあるのですが、けっこう所蔵冊数がある筈のウチの県立図書館でもこれというものが見つかりませんでした。
こんなに有名な人なのに?と思うととても不思議です。
吉川弘文館の人物叢書にもまだ登場していないですよね。源頼政や源頼光よりは先に頼朝だろう!と思うのですが、何故ないんだろう……。でも人物叢書では平清盛も平成11年の発行ですから、有名な人ほどまとめにくい、という側面はあるかもしれません。

それはそれとして、頼朝の人生を辿る、という視点で見た場合、基本大前提といいますか、王道の本をご存知ありませんか?小説以外の、一応学者さんの本でお願いします。頼朝といえばこの人!という学者さんの名前でも結構です。出来れば1990年以降に発行されたものが希望です。

ちなみに
「頼朝の精神史」(山本幸司・講談社選書メチエ)
は読んでいます。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

学者さんの本になると、1958年発行ですが、

「源頼朝」(永原慶二 著 ・岩波新書)

が少々難しいですが、ベターだと思います。
絶版だと思うので、図書館でリクエストするしかないですね(私は古本屋で偶然購入できましたが(1992年第26冊発行の物))。

ただ、源頼朝については“王道の本”というものは無いと思っています(だから、過去の大河ドラマで源義経・平清盛・北条政子が主人公になったドラマはあっても源頼朝を主人公にしたドラマがない)。
歴史的事実にしても、源頼朝個人の性格についても、諸説入り混じっています。いろんな関連本を読むことをおすすめします。
例えば、昨年発行された、
歴史小説「平家」(池宮彰一郎 著 ・角川書店)
には、頼朝助命の真の嘆願者について意外な人物を挙げていますし、頼朝の性格について‘悋気’という表現まで使っています。
研究書?「源氏と日本国王」(岡野友彦 著 ・講談社現代新書)
には、他人の学説とはいえ、池禅尼と北条氏は縁戚関係にあって頼朝の身柄は保護されていた、という信じがたい学説など、さまざまな興味深いことが書かれています。

長くなりましたが、参考になれば幸いです。

学者さんの本になると、1958年発行ですが、

「源頼朝」(永原慶二 著 ・岩波新書)

が少々難しいですが、ベターだと思います。
絶版だと思うので、図書館でリクエストするしかないですね(私は古本屋で偶然購入できましたが(1992年第26冊発行の物))。

ただ、源頼朝については“王道の本”というものは無いと思っています(だから、過去の大河ドラマで源義経・平清盛・北条政子が主人公になったドラマはあっても源頼朝を主人公にしたドラマがない)。
歴史的事実にしても、源頼朝個人の性格についても、諸説入...続きを読む


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