プロが教えるわが家の防犯対策術!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3% …
このページから抜粋します。
1 自由民男子とその家族3万から10万人と、奴隷など5万から10万人の人口を抱えていた。
2 戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。
3 戦士であり政治家でもある古代ギリシア人は労働を蔑み女性や奴隷に任せて、体力の鍛錬と政治談義に日々を過ごし、その中でギリシア哲学や科学が発達した。

さて、私の疑問です。
1が事実だとすると自由民の比率に対して奴隷の人口が多過ぎる気がします。この人口比で自由民が奴隷の団結と反逆に抗し得たとは信じ難いです。この状態で奴隷制度が機能し得たについては、奴隷自身が奴隷であることに何らかの理由で納得していたのではないかと想像します。従順でない奴隷を恐怖と強制力によって労働に従事させていたというよりは、今日の経営者と従業員との関係にも似た納得の仕方があったのではないかと思います。

ところで、2からは奴隷側の敵愾心も相当なもので、強制力なくしては到底彼らを管理するのは不可能だったろうと考えます。採鉱夫や軍船の漕ぎ手など特殊な狭い空間に於いて身体の自由を奪った状態で鞭を振るいつつ使役する、というのなら理解できます。しかし、日常の家事や農作業など広い空間を自由に動き回らねばならない作業に従事させるには管理する側の人口が少なすぎませんか。それにポリス内にこれほど多くの潜在的敵を抱えていてはとても戦争なんぞ不可能だろうと思います。

さらに、ところがです。3から推し量れば日常の労働にも奴隷が活用されていたと考えるのが自然です。
どうも1、2、3が整合する奴隷制度とは如何なるものか、イメージが浮かびません。後の北米の場合は圧倒的多数の白人社会に少数の奴隷が配置される格好であったため無事に管理できたのだと思います。
古代ギリシャに於ける奴隷の処遇、反抗や逃亡の防止策など、この当時の奴隷制度の実態を上記の疑問が解ける程度に知りたいです。一般人がソクラテスやプラトンの時代を知る上での参考資料程度の知識で十分です。資料のご紹介でも、ここでの解説でも結構です。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

「奴隷」と言えばムチで打たれ、酷使され、貧しくつらい生活をしていたと思われがちです。


もちろんそのような実例が多々あったのは間違いありませんが、古代ギリシャやローマにおける奴隷はそう単純な話ではありません。
例えばヘタエラという「酒の席で男の相手をする奴隷女」は一流になると奴隷身分でありながら莫大な報酬を得て豪邸に住み、酒の席で得た貴族達の裏情報を握り、影で大きな影響力を振るっていたと言われます。
過酷な境遇がよく引き合いに出されるローマの剣闘士も、一流になればやはり巨万の財を得て、吟遊詩人が次々と称える詩を造り、高位の女性が競って寝床に誘い、豪奢な生活を送っていた記録が残ってます。
もちろんそこまでなれるのはごく一握りに過ぎませんが、それでも当時の「奴隷」に対する認識は通常「貴重な労働力であり財産」でした。
現在の農場主でも家畜を酷使したり虐待する人間は「愚か者」と評価されて当然であるように、奴隷を必要以上に酷使したり、虐待したりするのは「己の財産を損なう愚かな行為」だというのが一般的な認識でした。
故に奴隷の暮らしは決して悪くはなく、強いて言えば「政治的権利を持てない下層階級の雇われ人」程度の存在だったのです。
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この回答へのお礼

羽振りのよい遊女や剣闘士がいたり、どうかすると政治的に影響力をもつ奴隷が出現したりしたのは理解できます。また、虐待どころか健康に留意したり結婚相手を探したり何かと世話を焼いたであろうことも想像できます。しかし、それは家畜としての価値を認めていたからこそで、今日のペット商が商品である犬猫を手入れしたり、繁殖に精を出すのと動機が同じではないのでしょうか。そして、こういう空気は奴隷の承知するところで、面従腹背だったのではないでしょうか。この場合、何故無事に管理できたのか不思議です。

あるいは、こう考えれば納得できます。質問文の1、3に該当するのはアテナイのような繁栄を極めた特殊なポリスに限られるのではないかということです。つまり自らアテナイで働きたいという願望をもつ人間が周辺のポリスに沢山いたのではないかという推理です。今日、産油国へ出稼ぎに行き下働きを希望する人間があちこちの国に存在するのと同様に。「政治的権利を持てない下層階級の雇われ人」を双方が承知の上の雇用関係だったのではないでしょうか。
もしもそうなら、奴隷という呼称ではなく、別に何か呼び名を工夫するのが妥当だと思います。あるいはこの場合も奴隷という呼称が妥当なのでしょうか。

あるいは、こうも考えます。古代ギリシャといってもポリスによって様々で、アテナイの実態を以てポリスの実態とするのは無理があるのではないかと。
ご回答、有り難うございました。もう少し様子を見させて下さい。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2009/04/19 19:28

何かムキになっているように見受けられます。


質問者の濃く本的な誤りは、奴隷という言葉から、アメリカなどでの黒人奴隷を想定しているためと思われます。
世界的な奴隷は、むしろアメリカなどでの黒人奴隷のようなものが少数派です。
日本おいても、奴とか小者とか言われる人達は、奴隷です。
金銭での年季奉公も同じです。
キリシャ世界において、奴隷の人達も、お金があれば、自分自身を買い戻すこともできましたし、自由人以上の生活もできました。
それゆえ、一部の不満分子が反乱を企てようとしても、行動を起こす前に現状に満足している人に伝わり大規模な反乱を起こす前に知れ渡ってしまうため、実際に起きる反乱は、計画性の無い突発的なものしかありませんでした。
>光秀にしても南州にしても負け戦を承知の上で叛旗を翻したのです。ビン・ラディンもそうです
これらは、指導者がいたために起きたものですし、奴隷の反乱とは性格が異なります。
家族がいて、自分が反乱に加わることで家族が困難な状況に追いやられる事、行き来で自分が築いてきた実績が無になる事、一時的に反乱が成功してもその先が無いこと、そういったことが阻止力になります。
>内部に入り込んだ多数の敵に対しては効果がありません(?)。城壁の内部の勢力比が1:1に近くては奴隷の方が有利です。
城壁は、外部の敵に対してだけでなく、内部からの脱出に対しての高価もあります。
城壁内には、兵士が駐屯できるスペースがあり、櫓は、そのまま簡単な要塞となっています。
また、奴隷たちは武器を持ちません。
それに対して市民は、常に軍事訓練を行い、完全武装のギリシャ軍兵士になりますから、ギリシャ式重装歩兵にまるごしでは全くかないません。
1対10でも、重装歩兵が有利です。
>それに何と言っても家族が足手纏いです。
これは、むしろ反乱奴隷側に強く出ます。
>1、2から奴隷の側の不満は許容の範囲にあり、何らかの理由で自らの立場に納得していたのだろうと思います。
これは、何回も述べている通りで、そのため奴隷の待遇が良くされているのです。
また、優秀な奴隷は、高く売れるため、奴隷への待遇も比較的良く、奴隷への待遇が悪いと、世間からさげすまれ、その人の奴隷の価値が下がってしまうため、主人もそうならないように手を尽くします。
>奴隷として暮らすより出身のポリスに還って自由民として暮らしたいと思わないかったのでしょうか。
奴隷は、主人を選択できませんから、勝手に自分の出身地に戻る事はできません。
また他のポリスから働きに来ている人が奴隷ではなく、ギリシャ世界においての奴隷のほとんどが、バルバロイ(蛮族)の人達です。
主に黒海沿岸部で、奴隷狩りによって連れてこられた人達で、ギリシャ人はほとんどいませんでした。
スキタイの人が、奴隷としてアテネに連れてこられても、簡単には帰ることができません。
船を動かすことができず、陸路をとつても、途中でつかまります。
ギリシャ世界では、ポリス間での戦争はありましたが、ギリシャ世界を根底から突き崩す事態においては、結束してかかりますから、反乱奴隷や犯罪者が、他のポリスに逃れても、そのポリスに捕まり、送還されたり、そこで処刑されるだけです。
そのため、ギリシャにおいて反乱の話を比較的聞くのが、ガリー船などでの反乱です。
奴隷の数が多く、過酷な環境にあり、主人側の援軍はなく、家族の心配もなく、船を奪えば、逃走の不可能ではないからです。

この回答への補足

補足の要求は何もありません。字数制限があるので、こちらを借用します。
はて、対応の難しいご回答を頂戴したものです。不出来な生徒の集まった不出来な学校の、不出来な先生と生徒の遣り取りにも似て、オモシロイと思えば面白くなくもないです。
このご回答には何の引っかかりもありません。分かりましたと済ますことはできます。ただ、一般に如何なる回答に如何なる反応をする人間であるかは無意識裏にもせよ観察されていて、その後の質問が良い回答者に恵まれるか否かに影響するのだろうと推測します。この点に鑑みて少し記しておきます。

1 ムキになっているか否かはnacamさんが決めてよいことです。私を誰がどう評価するかは私が決めることでは有りません。
この世にはnacamさんの説得力を以てしても通用しないワカランチンが存在することをnacamさんが知ったのは、とてもよいことです。もっと早く知っていれば、もっとよかったのにと思います。

2 ムキであるとかないとか、こういう言葉が混じるのは痴話の始まりです。痴話は御免です。ご回答の冒頭から6~7割、即ち「バルバロイ(蛮族)」が登場する以前の部分には触れないことにします。納得したからではありません。痴話は御免だからです。

3定説であろう資料を読んで疑問をもつ者が、資料から推し量れる説明を受けて納得する筈だとは思わない方がよいです。判断材料として、資料にはない新たな視点を与えないと納得しません。判断材料が不足しているからこそ疑問をもつのですから情報の追加がない限り、納得しなくて当たり前です。

4定説があるのを承知の上で疑問をもつ者と疑問なし派が対立したとき、疑問なし派には不利な点があります。結論としては最初から疑問なし派が正しいことに決まっているのですから、疑問なし派には付和雷同組が大量に混じるのが常です。資料の裏に隠れている視点をもたず、資料の記述に寄りかかった説明しかできないとすれば付和雷同組と間違われる危険があります。自分が納得する能力と他人を納得させる能力とはイコールではありません。私が回答者になれない理由のひとつは此処にあります。
どういう資料にどういう疑問をもっているかを知り、どの程度の手間で納得させられるかを察知する勘を磨くのは、とても大事です。今回のこの質問に答えられるけれど、あれやこれやを総合的に判断して静観している方が沢山おられると思います。それも一つの大事な能力です。

此処まではお礼のようでお礼でなく、お礼でないようでやはりお礼です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、さて此処まで書いてきたはよいですが、このご回答にはとんでもないどんでん返しがあるではありませんか。
5>>黒海沿岸部で、奴隷狩りによって連れてこられた人達で、ギリシャ人はほとんどいませんでした。
スキタイの人が、奴隷としてアテネに連れてこられても、簡単には帰ることができません。<<

本当かいな、スキタイといったらペルシャの縄張りを越えて更に北方ですぞ、と調べてみれば、何と、アゾフ海沿岸にまでギリシャ人の植民都市があったことが判りました。こんな遠方から連れて来られるのでは、どうかすれば意趣晴らしの叛乱が起きる程度で済むのも納得できます。それに遥か彼方からやって来た遠征軍に敗北したり、殖民都市を築かれてしまったりする民族の文明は相対的にかなり低く、ギリシャで暮らすのも許容する気分になるのかなとも推測します。本当のところは知りません。こういう資料にない情報を早く出して欲しかったと悪たれをついておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再びお礼に戻ります。5があったので芽出度し芽出度しです。消しゴムがないので1~4は残しておきます。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

補足日時:2009/04/21 23:31
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2番です。


当然ギリシャ世界においても、奴隷の反乱といったものはありました。
特にガレー船のこぎ手などの待遇は劣悪でしたから、しばしば反乱があったと聞いています。
しかし、反乱を起こしても、その人達の行く先はありません。
当時のギリシャの都市は、城壁に囲まれており、都市内部で反乱を起こしても都市外に逃げることはできませんし、ガレー船で反乱を起こしても船の運航すらままなりません。
さらに大規模な反乱を企てれば、その過程でまず反乱に同調しない人に知れ渡り、事前に鎮圧されてしまうため、必然的に少数での決起、鎮圧となってしまいます。
また、主人にとって、奴隷は有力な財産でしたから、過酷に扱うことは稀で、奴隷の扱いが劣悪だと、財産価値を減ずることになります。
(奴隷の転売は、当たり前で、そのため高価で売るために、奴隷に教育したり、技術をつけさせるのが一般的でした。
(ガレー船のこぎ手は消耗品扱いでしたが)
そのため、奴隷たちも、自分の待遇改善のために熱心に学ぶことになります。
そのため、必然的に奴隷の反乱というものは少なくなります。
>ペット商が商品である犬猫を手入れしたり、繁殖に精を出すのと動機が同じではないのでしょうか。

ブリーダーが、高くペットを売るために、しつけをしたり特技を見に付けさせるのと同じです。
>アテナイのような繁栄を極めた特殊なポリスに限られるのではないかということです。
ギリシャ世界において、アテネだけが飛びぬけて豊かであったわけではありません。
規模が比較的大きかっただけで、豊かさの差はほとんど差がありませんでした。
>政治的権利を持てない下層階級の雇われ人」を双方が承知の上の雇用関係だったのではないでしょうか。
その人達は奴隷ではなく自由民です。
政治の権利は持ちませんが、主人(雇い主)を選ぶ権利もありますし、イヤであれば辞めることもできます。
奴隷は、職業選択の自由が無い、主人を変えられない人達ですから、逆に主人に忠誠を誓い、腕を上げ、主人が出世すれば、奴隷である自分の地位も上がる事になります。
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この回答へのお礼

1 叛乱は勝ち目があるとかないとか、生還できるとかできないとか、そういうことには、さして関係ありません。損得勘定で動くのは商売です。叛乱は心の問題ですから勝敗の見通しに関係なく起きます。勝ち目がなくても相応の打撃を与えられると確信すれば叛乱は起きます。負け戦を承知で仕掛けた例はいくらも有ります。島原の乱がそうです。光秀にしても南州にしても負け戦を承知の上で叛旗を翻したのです。ビン・ラディンもそうですし、自爆テロもそうです。同意は求めませんが、これが私の考えです。

2 城壁は外敵の侵入を防ぐのには有効ですが、内部に入り込んだ多数の敵に対しては効果がありません(?)。城壁の内部の勢力比が1:1に近くては奴隷の方が有利です。奴隷の側は都市を破壊すれば戦果ですが管理者側は無傷で守ってすら何の戦果にもなりません。それに何と言っても家族が足手纏いです。内側が混乱すれば城壁なんぞあろうとなかろうと同じことです。

1、2から奴隷の側の不満は許容の範囲にあり、何らかの理由で自らの立場に納得していたのだろうと思います。

3アテネだけが飛びぬけて豊かであったわけではなく、何処のポリスも大同小異だったのであれば、奴隷として暮らすより出身のポリスに還って自由民として暮らしたいと思わないかったのでしょうか。

折角のお答でしたが依然として私にはよく分かりません。今、此処で分からないからといって、困ることは何もありません。頭の片隅に置いておけばよいことです。
再度のご返事を有り難うございました。

お礼日時:2009/04/20 23:42

 古代ギリシャは、独立した政治・社会体制を持つ都市国家であるポリスが数多くある地域の総称で、奴隷制度についても一概に言えません。



 農業経済主体のスパルタでは奴隷の監視が厳しく、商業主体のアテネでは奴隷の個々の能力を活用する必要性から相当に自由でした。(奴隷と市民のはっきりした違いは、選挙権があるかないか程度で、今の感覚で言えば単なる使用人の感覚であったようです。雇用契約を所有者同士が売買すると言う感じでしょうか。)

 300人でペルシャの数万の大軍の侵攻を止めた軍事国家スパルタの奴隷制度は、質問者さんの求めるものかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91% …
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この回答へのお礼

ご回答にあるサイトの、スパルタに焦点を合わせた記事は納得し易いです。徹底した威圧と強制に拠る管理であれば可能なのかも知れません。この場合は単純な労働に限られて、奴隷のもつ能力全てまでは引き出し難いのかもしれません。しかし、農業経済主体だというスパルタには矛盾せず理屈に合う気がします。

奴隷は存在するのが当たり前。奴隷の労働は所有者が決めて当たり前。奴隷は売買されて当たり前。人権思想が今日とは違うので、奴隷にとっても所有者にとっても、これらが常識だったのかもしれません。だとすれば奴隷の側も現代人ほどの不条理は感ぜずに、アテネのように節度のある(?)ポリスでは案外素直に納得していた面もあるのでしょうか。そんな風にも思えてきました。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2009/04/20 21:24

 ローマの奴隷が最初から従順だった訳ではありません。



 奴隷戦争とも呼ばれる大規模な反乱が3回、そのうち最も規模が大きかった第三次奴隷戦争(通称「スパルタクスの反乱」)では、老人や子供を含めると10万人を超える規模に成りました。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89% …

 この反乱を鎮圧したクラッススは、反乱に参加し捕虜となった奴隷達をアッピア街道の沿道に生きながら十字架に磔にし、その遺骸を片付けてはならないと命じました。
 つまり当時ローマに住む人達は、アッピア街道という最も重要な街道を通る度に、反乱を起した者の末路がどんな物に成るかを目に焼き付ける事になりました。

 なお、この反乱の後にローマでは奴隷達に対する待遇の改善が行われ、他の回答者さんが解説された様な状態へと進んでいきます。

 スパルタクスの反乱をモチーフにしたFlashが有りますので、宜しかったら此方も参考に…。
   http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Spotlight/5 …
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この回答へのお礼

ご承知の上でのことと拝察しますが、ご回答は質問文の時代を少しばかり下っているようです。しかし、実態の基本は共通しているのだと思います。
これほど大規模ではなくても、歴史に残らない叛乱は始終あったと考えるのが自然に思えます。平穏に管理できたケースがあるとすれば奴隷の側が何らかの意味で納得していたのだと推測します。このご回答を含め、私の感想はNo.1のお礼の欄に記しました。ご面倒でもご覧下さいませ。
ご紹介の映像は記憶しておきます。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2009/04/19 20:37

1番の方も言っておられますが、ギリシャ・ローマ時代の奴隷は、後のアメリカの黒人奴隷とは、全く異なる扱いでした。


奴隷によっては、自由人以上の権限を持っている場合もしばしばでした。
特に重要な仕事は、自由民にはさせず、信頼できる奴隷にまかせる場合がしばしばありました。
奴隷を管理するのも、奴隷が行っていました。
まじめに働けば、自由民(解放奴隷)になることも、事業の番頭や、執事長にもなれました。
また女性の場合、歌姫などでは、自由民以上の生活ができる人もいました。
後のイスラム社会では、出世するには奴隷になるのが一番という状況でしたが、ギリシャ・ローマでは、そこまではいっていませんでした。
当時の奴隷は、主人を変えられない労働者(逆に言いますと解雇もない労働者)とみるのが一番適当だと思いまする。
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この回答へのお礼

全体として半分は納得できますが、半分は納得できませんでした。賤業や被差別階級の者が飛び切りの力をもつことがあるのは理解できます。しかし、ご回答に該当する奴隷は圧倒的少数派、例外的存在であって、奴隷の実態を代表するとは、とても言えないように思います。
このご回答にもNo.1のお礼欄に記したと全く同様の感想をもちました。横着なようで済みませんがNo.1のお礼欄をご覧下さい。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2009/04/19 19:47

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