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よく言われる台詞
「自分と(未来は)変えられるが、相手と(過去は)変えられない」
(時間的な可能性は、エントロピー保存が逆転しない限り無理なのでうけいれるしかないでしょうが)

これに意義あるといったら100人中何人が「そうかも」って思ってくれますかね?

わたしは、どうもこの表現にうなずけません。つまりこれは、現代社会の支配的傾向である「個人主義」を擁護し正当化し(相手を変えることは相手のプライバシーへの侵害という現代的個人主義しそうだと思う)、またそれによる方便でもって説得しようとしているという、一種のつじつまあわせのように感じるのです。なので、本当の理想的状態

「相手は変えられるが、自分はかわらない」

ということに無関心になってしまう。なにか現代的なお題目に毒されている気がしますね。流行思想のようなものです。

そこのところはどうなのでしょうか。

A 回答 (22件中1~10件)

NO.12です。


>そかし、この台詞が言われている背景には、どうもそのような宗教観の臭いが薄いですがどうでしょうね。

たしかにいわれればそうですね。薄いです(笑)。または宗教観は
いらないかもしれません。
私もNo.1で深くほりさげて言いすぎたかもしれません。

人生の悩みで、他人がどうだこうだ、とか、
他人がこうこうだけどどうしたらいいか
(パートナーに関して、職場・学校内の人間関係、親子、嫁姑、ご近所などなど)とかいう悩みが非常に多いと思います。
これは同時に過去のことでもあります。
他人に対する不満、愚痴はすべて過去のことです。
他人のことをどうだと批判していること自体、直接的では
ないにしろ、他人を変えよう、どうにかしたいと思っている
証拠だと思います。

過去は変えられないので、他人に対する愚痴を言うことは、
無意味ですよね?
一瞬ストレス発散になったような気がしますが、自分の心に
暗い影をおとします。人に嘘はつけますが、自分にはつけません。(潜在意識がしっています)

人生の貴重な時間を(他人にたいする不満、ぐちをふくめ)過去をふりかえることに費やしている人って本当に多いです。

結局、そんなことをしてもマイナスこそあれ、プラスは1つもないので
そんな無意味なことをするくらいなら、
自分がかわり、未来をきりひらいていけと
言いたいフレーズなのだと思います。

そして、他人を変えられるとしたら、
唯一の方法は自分がかわることです。
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彼女に、ショックを、与えたら、変わるでしょう。

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こんばんは。


いい質問で微妙な質問ですねー。
それは僕もすごく気にするところです。
が、質問文を読むと、意見は僕と正反対なところもあり、書こうか書くまいか、まあ一応参考程度にということで。
とりあえず個人的意見をぶつけてみます。

僕個人としては、自分の人格を尊重されたいです。正しいアドバイスでも、頭ごなしに言われるのはたまりません。
つまり、相手が僕を変えようと何か言ってきたときに、まず最初に見る着眼点は、相手がこちらの人格と人間を尊重しているかどうかです。
それは僕にとっては極めて本能的なものです。考えるわけではありません。
なので、こちらを変えてやろうなんてニュアンスが1万分の1グラムでも感じられたら、つむじを曲げます。
言葉の内容が正しいかどうか、意外に人は、空気や、ボディーランゲッジや、言葉以外の部分で、同時に2重の会話をします。
目つき、言葉の抑揚、その他大勢の要素です。

そこの部分で、こちらの人格への尊重がないなら、聞かない・・・というより、きくのは間違いだろう、と言うふうに感じます。

それは、人格への尊重と、話される言葉の内容は、整合性がとれているのが正しいので、尊重がなく、でもアドバイスが合っている場合は、この人の言ってることは言語外の部分で間違っている、と判断します。直感的に。

具体的にいうと、一般論として、garcon2000さんも、「おれは変わらないが、お前は自分を変えろ!」という人の言葉は聞きたくないのではないでしょうか? あるいは、人は一般的に、でもいいですが。

自分が変わらず他人を思うとおりに変えられたらこんな楽なことはないですが、その考えでは、上の人格の尊重を満たさないので、相手は意地でも変わらない可能性が高いかも、と思います。

自分が相手のプライドを尊重する様に変われば、その段階で始めて他人に働きかけることで、人も聞いてくれるんじゃないかと思います。(ものすごい理想論ぶってますがー自分のことは棚に上げます)
人として対等、自由、平等、というのは、主義とかなんとか以前に、人が生きる上でどうしても必要です。
なんで必要か、というのは、説明は大変ですが、おおざっぱに言ってしまえば、人には様々な性格があり、そういう概念が必要不可欠なタイプの人もいるし、
また、必要と感じない人でも、無意識自分の気付かない部分では、やはり必ず必要だし、
まとめると、すべての人間に必要な概念だから、という気がします。


批判されてる個人主義的概念は非常に重要不可欠ですが、その逆の概念も、同じくらい重要で必要不可欠かなと感じます。
個人主義と、その逆の概念~集団主義???などは、おそらく両方が、人が生きていく上で必ず必要です。
ただ人の性格によって、持って生まれた直感によって、この2つのどちらかを好んだり、自然だと感じたり、意識の焦点も人格的に2つのうちの片方にしかピントが合わないのが普通です。
違う表現だと、正しい個人主義の裏側には、集団主義が必ずありますし、その逆も言えるんじゃないかと・・。
無意識部分までもし人が見ることができるなら、この2つはセットになっていて切り離すことなどできないことが、分かると思ってます。

問題は、どちらか一方のみに依存し、ただ唯一の概念を絶対的に正しいのだ、と思いたがる依存心や硬直した考えは、僕自身自分のこととして非常に避けたいことです。

思想や主義の概念については今考え中なんですが、自分の主義を極限まで突き詰めたところで、その自分の主義のよりどころスタート地点になった直観を見直し、
自分と正反対の主義主張をしている人の本音を正直に理解する、と言う様な、
ある種の感覚の極限から極限へのはし渡りがおそらく必要なんじゃないかな、と。
もちろんこんなことは一人ではできないので、議論したり助けてもらったり、いろいろしながらですが。
それは、思想や、主義、というある種の直観に基づく、極限感覚への依存心とその偏りを、どうやったら減るだろうか? と考えてます。
主義を主張する人は、僕から見ると、直観依存症です。
ちなみに僕もそうですが。とても手堅く正しそうな概念があれば僕もついふらふらと・・・。楽できますから。

依存が悪いのではなく、依存の自覚が大事だ、といつも思うのです。
それが分かった上でなら、大いに主義主張を戦わしたらいい、とは思いますねー。楽しいですし。

なんかだいぶ質問の内容から離れたんですが、せっかく書いたんで消さずに投稿します。
言いたい放題で済みませんが。的外れでなければいいのだけど。
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mmkyからの捕捉追伸まで


「相手は変えられるが自分は変わらない」
この考えはなんとなく皆さんが受け入れがたいのでしょうかね?
言い換えてみるとほとんどの人がこの考えを受け入れているはずですね。
例えば、私はニュートン力学を信じる。
    私はアインシュタインの相対論を信じる。
    私は・・・を信じる。
などいっぱいありますね。
この場合、私が「相手」でニュートンやアインシュタインが自分(創った理論)となりますね。
ニュートンやアインシュタインからすれば私(自分)の理論は真理であると信じている。誰が何を言おうと変わる事はないといっているのですね。他人には信じるもよし信じないもよしとしかいってないのですよね。
ところが、他人は何故か教師の受け売りを安易に受け入れて、ころっと信じて賢くなったように感じてるはずですよね。
これ、ニュートンやアインシュタインからみれば「相手は変えられるが自分は変わらない」といってるようなものですね。
科学を例に挙げましたが宗教・経済・法律など、どの分野にでもあることですね。
つまり何かを信じてそれを基礎に学ぶという考えや行為そのものが「相手は変えられるが自分は変わらない」という考えを内在しているのですね。
心の問題や哲学の問題にしても真理という柱は不動で変わらないのですね。これをよく北極星に例えますね。全ての星は北極星の周りを回っているのですね。
この様を見てぐるぐる回る星のような者は無数にいるが北極星のような者も世の中には存在するということを認めるのも哲学ですね。
garcon2000さんへのささやかな援護射撃になればいいですね。
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ぽこぺろぽです。

ガーコンさんも戦いに疲れてお悩みのようですね。とりあえず私見を述べさせてください。

 自分は変えられます。自己の意志により、自己の主体は変えられます。また意識しなくとも変わります。未来は変えられません。未来はそれまでに至る「いま」にすぎません。「いま」の積み重ねが未来になるのです。時間は「いま」しかありません。私たちという存在が「いま」を見ているのです。

 相手は変えられます。しかし期待しては関係性を損ねます。相手自身ににとっても「自分」に外ならないからです。影響を与えられるというほうが正確といえるかもしれません。過去は変えられません。過去は過ぎ去った「いま」にすぎません。しかし過去への評価は変えられます。私たちは「いま」を生きる以外にないのです。

 「相手は変えられるが自分は変わらない」とは他者本位主義ですね。相手が怒らせたから自分が怒った。もともと自分は怒らない人間だ。誰かに似ていませんか?質問がなければ回答もできないことは認めずに、質問者が無知だから回答してあげる人々のことです。もし自分が変わらないのなら、相手にも「自分」があるからには変わらないのです。もし相手が変わったのなら、自分も変わったのです。これを軽視することが現代の流行思潮とお考えなら、失礼ながら錯誤としかいえないでしょう。

 自己の主体が変わるからには、他者の主体も変わる。その瞬間ごとに「いま」がある。自己と他者は、それぞれの主体において同一ではないが、それぞれに自己の主体があるとの共通性は持つ。したがって自分を鑑みるときに、相手にもかかるところの自分を認めなければならないとなるのでしょう。

 個人主義とは互いの主体性を尊重しあうことだと思います。あなたの反措定ですと主張する本人の主体しか尊重されず、論理的に整合性が低いように思われます。しかし大胆な提言をなさるガーコンさんは大いに好感が持てます。悪しからず。
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逆に聞きたいのですが、周り(相手)をどうやって変えられるのですか?周りを自分の思い通りに変えるなんて無理ですよね?性格や考え方は一人一人違いますし。

ですが、自分を変える事はやろうと思えば出来る事ですよね?周りが変われば良いのにと思っているのではなく、まずは自分を変える努力をしてみたら周りも変わってみえますよ、と言いたいんだと思います。
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自分が正しいと思っている事を他人にも広げたいと思うものです。


しかし、思ったようには他人は受け入れてくれないのが現実だと思います。
つまり、他人は自分の思うようには変わらないのです。

他人の良い所を参考にして自分を変えたいと思うことはあります。
しかし、他人からこうした方がいいと言われたことには良いものだと
分かっていたとしても受け入れがたく感じることもあるでしょう。
それが、他人の思うようにはなりたくないといった気持ちなのかもしれません。

誰でも自発的に変わるしかないのだと思います。
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garconさん。

こんにちわ。
17時半現在、まだ外が明るいので、こんにちわ。

ちょっと確認したいです。


「わたし」というのが、何ものの影響も受けず、
たとえば、時間とか空間とか重力とかの影響も受けず、
恒常的に「ある」「存在する」とお考えですか?


「わたし」とか「他者」というのが
とりあえず、「ある」とお考えですか?


「ある」として「変化しない部分」は
(名前以外で)何だとお考えですか?



もし、たとえば、

「わたしという入れ物」と「他者という入れ物」が
「共通の記憶」「共通の概念」「共通の感情」などを
「共有できたり」「共有できなかったり」
ということを基にして「わたし」「他者」が「ある」
と思うことができるのだとすると、


「変わることなく」そこに「ある」ものというのは、
「現象している」「変化している」というそのことだけで、

そしてまた、
変えることができるのは、
「現在」の「わたし」の「考えるやり方」だけで、


自分の未来も自分の過去も他人の未来も他人の過去も、
変えることは同じぐらいむずかしくて、
また変えることができると思うのですがいかがでしょう。

この回答への補足

いまは、朝日の陽光が周りを照らし出してかなり経った8時です。おはようございます。

1わたし」というのが、何ものの影響も受けず、
たとえば、時間とか空間とか重力とかの影響も受けず、
恒常的に「ある」「存在する」とお考えですか?

影響を受けている部分もあるが、ほとんど受けない「独自的存在」とも言うべき領域も並存していると思います。  

☆「私」とか「他者」というのが
とりあえず、「ある」とお考えですか?

はい。領域的に。


「ある」として「変化しない部分」は
(名前以外で)何だとお考えですか?

肉体的性向(頭脳活動的性向(性格、性質など)含む)


もし、たとえば、

「わたしという入れ物」と「他者という入れ物」が
「共通の記憶」「共通の概念」「共通の感情」などを
「共有できたり」「共有できなかったり」
ということを基にして「わたし」「他者」が「ある」
と思うことができるのだとすると、


「変わることなく」そこに「ある」ものというのは、
「現象している」「変化している」というそのことだけで、

そしてまた、
変えることができるのは、
「現在」の「わたし」の「考えるやり方」だけで、


自分の未来も自分の過去も他人の未来も他人の過去も、
変えることは同じぐらいむずかしくて、
また変えることができると思うのですがいかがでしょう。


なにか非常にあいまいで一面的なものしか抽出していないような気がします。肉体的性向というものは運命的です。また、帰ることのできるものが、現在的私の総体(意識、考えるやり方も含む)である場合、それは不可能と断言しても差し支えない状況です。
 

補足日時:2009/04/24 07:54
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これは一面的な真理ではないかという気がしますけどね。


そういうことが全く無いとは言わないが、そうとばかりは言えない、ということです。

私が思うに、これは、
「相手を変えたければ、まず自分が変わることだ」
という台詞が先にあったのだと思います。
ちょっと違いますが「隗より始めよ」という諺もあります。
これらに対して「なぜ?」という疑問が生じる場合がある。

そのときに、
「自分と(未来は)変えられるが、相手と(過去は)変えられない」
と答えるといかにも納得しやすい、ということではないでしょうか。
つまり、これは本質ではなく、あくまで方便的な、あるいは処世術的な言辞であると思います。

本質としては、
人が変わるのは多義的な意味での環境によってであり、自分がその環境の一部として変わることで、相手にもなんらかの影響が及び、結果として相手が変わる要因となる。
ということのように思われます。

余談ですが、教えることは教わることだと考えます。
 
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この回答へのお礼

まず、そのような言葉があったと考えるとスムーズに行きますね。それを納得させるための方便として「自分は変えられる、相手は変えられない」という限定的な状況の想定をする。

そもそも、相互関係的な問題で、マクロ的に総括的に捉えれば、相手が変わったときに自分が不変であることはないでしょうから、あるいは、自分が変わったときに相手が不変であるはずもなく、この言葉自体にも懐疑的になります。

お礼日時:2009/04/24 07:52

(1) [自分は変えられるが相手は変えられない]


(2) [相手は変えられるが自分は変わらない」
ですか。これどちらも正しいですね。
個々の精神的な向上の途中では自己責任を学びますね。その過程では(1)が主流ですから(1)が正しいのですね。ある程度自分作りができれば、自身はゆるぎない信念がありますから(2)の段階に進みますね。それ故、宗教があり、哲学がありさまざまな学問があるのですね。自分がころころ変わっていれば人に教えることはできないでしょう。人に教えるということは知恵を含むあらゆる影響を行使して相手を変えようとする努力のことですからね。例えれば、学生の言葉が(1)、教授の言葉が(2)ですね。ちなみに、受け売りだけの教育者は論外ですよ。
まずは、自己責任の原則、それによって得た知恵を他の人々にも分け与えていく、これが[相手は変えられるが自分は変わらない」の意味でしょうね。これがないと人類は孤独猿のままだったでしょうね。そうではないですから(2)も正しいのですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。やはり、公正に考えれば、一方だけでは社会がいびつになってしまいます。自分は変わらないという決然とした姿勢も時としては必要です。もちろん可変的であっても何の不都合もないですが、問題は、「相手は変えられない」と大見得を切っていることですね。そんな、潔く諦めんなよって気がします。

つまり、人間成長段階でいうところの初級の言葉しか流布していないという失礼な現実があるのかもしれませんね。

お礼日時:2009/04/24 07:49

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