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大塔宮護良親王の身代わりになったということ以外で何か知っていることがあれば教えてください。

A 回答 (3件)

補足です。

村上彦四郎義光のプロフィール(?)です。
村上義光(?~1333)鎌倉時代後期の武将。信濃源氏。信泰の子。通称彦四郎。左馬権頭。
元弘の乱に子息義隆とともに護良親王に属し、笠置落城後、親王の十津川・熊野辺潜行に従い、
芋瀬荘司に奪われた錦旗を奪回するなどの戦功をあげました。
正慶2・元弘3年(1333)閏2月1日、吉野で挙兵していた親王が、
二階堂道蘊ら幕府軍の攻撃と吉野執行岩菊の裏切りによって没落するに際し、
親王の身がわりとなって二の木戸上で切腹、腸を敵兵に投げつけるなど、壮烈な最期を遂げた、
とされています。(『太平記』巻六・巻七にくわしい。)のち贈従三位。
明治7年(1874)、護良親王を祭る鎌倉宮の境内に村上社が建立されました。

なお、戦国武将・村上義清を出した村上氏は清和源氏頼信流といわれています。
「尊卑分脈」によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任らの兄弟があり、
そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったということらしいです。
よって関係は希薄ではないでしょうか?(この辺推定ですので自信ありません)

ゼミで「太平記」やっていたことを思い出しました。卒論まで書いたのにほとんど忘れちゃって
いました。以上補足しておきます。
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この回答へのお礼

詳しい説明、ありがとうございました。最近になって太平記に興味をもったのですが、とても参考になりました。

お礼日時:2001/03/11 13:50

以下のサイトは参考になりますでしょうか?


http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu8-5.htm
(芳野の戦ひ酣なるの日、又代る帝子の屯)
http://www.shobi-u.ac.jp/~tnagae/diary/personal/ …
(太平記巻第七 吉野城軍事)
http://www.kcn.ne.jp/~urano/kankou/yoshino/yoshi …
(村上彦四郎義光(よしてる)の墓)
http://www.kcn.ne.jp/~urano/kankou/yoshino/yoshi …
(村上義光が切腹した「二天門跡」)

ご参考まで。
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村上彦四郎義光(よしてる)の墓は、奈良「吉野神宮」から南の「吉野山」へ


向かう途中に在ります。
神宮からお墓までは南へ約1キロ程です。
村上彦四郎義光は、信州埴科(さらしな)の人で、早くから後醍醐天皇の息子、
大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦い、吉野城が落ちた、1333年(元弘3年)
大塔宮の鎧兜を借りて宮の身代わりとなり、蔵王堂前の二天門の高櫓(たかやぐら)に上がり、
腹かき切って果てました。
なお、義光の子の義隆も、父と共に死のうとしたが、宮を守って落ち延びる様に諭され、
高野山へと向かう途中、ここから南2キロの山中で討ち死にしました。

この回答への補足

ありがとうございます。ところで、義光は戦国大名の村上氏と関係があるのでしょうか。

補足日時:2001/03/09 14:06
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