痔になりやすい生活習慣とは?

ヘーゲルは、陪審制は自立した市民の自覚「自己意識の権利」を確認するためにも必要であるといってるが、本来(西洋哲学の導入前に)日本にそのような思想・哲学(陪審員制度あるいはそのたぐいを必要とする。)があったのでしょうか?

追伸:陪審制がいまいちピントこない人が多いようなので、その原因を確認するためにこのような質問をしています。関連の回答も歓迎します。

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A 回答 (11件中1~10件)

性善説(儒教思想)が想定した社会は『修身斉家治国平天下』。


つまり民衆が知を追求する社会です。それはヘーゲルさんの思想の基
となったアリストテレスのニコマコス倫理学にも似て、統治者より
民衆の努力を求めた社会とも言えると思います。

ですが、性悪説にあるように、統治者が知を与えるべきという論調も
たしかにあります。そもそも法律は社会への適合をすべきという大原則が
あり、現実社会の意見とかけはなれた判決をしてはいけません。
もし、統治者が与える知が正しいのならば、そちらに拠る必要があるのです。




民衆の知と統治者の知。
いったいどちらが現代の社会の感覚により近いのか。




普通に生活する人間を衆愚と評価する人達は、ある一点を見逃している
のではないでしょうか。それは、衆愚と評価する側もまた、
人間であるということです。



権威主義の欠陥とは、つまり『その権威が正しいか、判断するための
情報を一般の人間が持ち得ない』という一点につきます。
確かに権威は普通の人より裁判に携わる回数は多いかもしれません。
ですが、それが果たして正常な判断へとつながるのでしょうか?

権威主義の問題とは、権威であるがゆえに、その判断が常に正常であると
みなされる点です。たとえば一般の行為、たとえば日曜大工などでは
その失敗が目に見えて明らかです。失敗したことがわかれば、
次回は修正しようとするでしょう。



では裁判という擬似社会の場ではどうか。
権威である彼らの判断は『最初から常に正しい』のです。
権威にその判断が間違いであることを知らしめる人はいません。
よって間違いを知る手段は無く、それを修正することが出来ません。
さらにその間違いを基準として新たな判断を行うでしょう。
そこにはもはや、原型を留めない、いびつな解釈が出来上がるのです。




多くの学問で、権威が『わけのわからない呪文』を唱えるのは、
実際にこうした理由があります。




あるいは、権威が自分の間違いに気づくことがあるかもしれません。
しかし、権威はこの自分に不都合な情報を隠蔽することが可能なのです。
そこには民主主義を成立させるための大前提である『民衆に判断基準と
なる情報を過たず伝える』という情報公開の理念が崩れることになります。
権威の誤りを証明する情報を民衆に伝えない。このことだけで容易に権威
への支持を作り上げることが可能なのです。

平たく言うと、情報が不足していれば、やはり権威の唱える
『わけのわからない呪文』が、あっているのか間違っているのかの
判断もつかないですよね。





日本の裁判制度は、この権威主義の色彩がとても強いのです。
ある裁判官が唱えた有名な呪文をひとつ紹介します。

携帯電話を使っている女性を男性が注意をしました。
このときに女性は男性を『痴漢だ』と告発しました。
物的証拠はありません。

判決文はどうか。『女性が携帯電話を注意されたくらいで
虚偽の痴漢を告発することはありえない。』として男性が有罪です。
これは証言を重視する、という日本の裁判の常識から生まれた判断です。
すくなくともこの常識は一般の常識とかけ離れているのではない
でしょうか。しかし、それでもその場の最高権威である裁判官の判断は
絶対です。





日本の法学の権威は強弁します。『法的な意思と一般の社会で述べられる
意思が別であることを一般の人間が理解できるかは疑問である』と。
この呪文に対して、我々は『ならば一般の社会の意思の概念を優先させるべきだ』
と答える必要があるのです。現実と乖離した法律解釈を続ける権威たちには、
一定の刺激になるのではないでしょうか。そもそも彼らは法の大原則である
社会への適合をすでに失っているのですから。

裁判の間違いとは何か。究極的には生活する人々との認識との乖離を意味します。
人間のことをわかっていない連中に裁判を任せるのではなく、
あくまで民衆の意思が権威の上位に存在することを確認するという点に
おいてのみ、意味のある制度であると考えます。








残る問題は裁判員制度や、陪審制が民衆の意思を反映させる方法となり得るのか。
その一点です。残念ながら、その点においての制度としての完成度は
未だ低いままです。

米国陪審員制度は予備審によって陪審員の"選定"を行います。権威側の介入を
許しており、権威によって選ばれた人間が審議を行っているのです。
たとえば、黒人のフットボールプレーヤーを無罪にするために、12人中9人を
そのフットボールプレーヤーに好意的な黒人によって占めることで、意図的な
判決の操作を行う、といったような"権威による操作"が行われています。


裁判員制度は判決において、裁判官3名、裁判員6名の計9名で構成されています。
制度としての問題として、純粋な多数決ではなく裁判官の賛成が必要であること。
また、これらの合議が守秘義務という名目によって公開されないこと。
こういった点において未だに権威主義としての性質が強いものとなっています。




こういった制度不良は、権威主義の名残であり、実際に生活する人間と司法の
乖離を少なくするという目的には合致しないと考えます。そこにのみ、改善の余地が
あることは間違いありません。

ですがこれらの制度の欠陥は、民衆の意思が優先されるという原理の欠陥ではなく
立法の技術的問題でしかないと考えます。我々が社会契約を標榜するならば、
やはり権威の意思を民衆の意思の上位に置く事は原理としてはあってはならないのです。

この回答への補足

この場をお借りして、
皆さん回答ありがとうございました。
私の疑問にも光が見えてきましたのでこのカテは絞めさせていただきます。
ポイントは皆さんに付けたいのですが、制約がありますので今回は、wiz0621さんとmichael-mさんに付けさせていただきます。
ご理解いただければ幸いです。

補足日時:2009/05/11 11:01
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この回答へのお礼

再度の回答本当にありがとうございます。
>>「やはり権威の意思を民衆の意思の上位に置く事は原理としてはあってはならないのです。」
福沢諭吉先生の話を聞くようで身が引き締まる思いです。
何事にもしっかりした思想・哲学が必要だと痛感する次第です。
重ねて御礼申し上げます。

お礼日時:2009/05/11 10:26

今日は、法哲学の関連は久しぶりですね。


興味深い回答があって、勉強になります。

関連回答と言うことで、少し書いてみます。

今回の陪審員制に関しては、私は二つの見方があるように思うのですが、その前に、この裁判員制とほぼ同時期に変更された、被害者・及びその家族の裁判制度への関わりの強化についてですが、この二つの変更が偶然同時期に起きたのか、一定の意図の二つの表現形式なのか、これが私には判りません。

裁判員制度を被告よりも被害者側の立場に舵を切ったとすれば、裁判員制度によって被告の不利益増加よりも、それによって国民を涵養する利益の方が大きいと考えたのでしょうか。

一方、偶々、同時期に起きただけで、この二つの変更が、無関係とすると、価値相対主義的方向に舵を切ったのかもしれません。法哲学の分野でも、実証主義と相対主義の対立があるようですが、私はあまり詳しくないので触れられませんが、極端に判りやすくするために、いい加減に言ってしまえば、成文法と自然法の関係で、どちらを優位におくかと言うことでしょうか。実証主義的に成文法の解釈を厳密に行う専門家の回答が、価値相対主義的批判の中で、絶対性が維持できなくなったのか?裁判員制度は、そうした専門家の判断の及ばない部分を、一般世論、言い換えれば市場原理のような多数決で補って、ある種の安全弁を追加したのかもしれませんね。

「常に改善される正義」これは、確かレヴィナスの言葉ではと記憶しているのですが、正義が常に変わっていくようでは、成文法の立場は危ういものになりますね。

ところで、日本の裁判員制度では、専門の裁判官が裁判員の中に含まれるらしいですね。
これがどういうことになるのか、成り行きを見守っています。

やぁ、やっぱり慣れない回答は、下手ですね(笑。

この回答への補足

fishbowl66さん回答ありがとうございます。

>>実証主義的に成文法の解釈を厳密に行う専門家の回答が、・・言い換えれば市場原理のような多数決で補って、ある種の安全弁を追加したのかもしれませんね。」
この視点は的を得てるかもしれませんね。参考になります。

私は、まず日本に法の専門家(精神的を含む)などいるのだろうかと疑ってるんです。例えば、本当に専門家あれば、例えばの話ですが、憲法の条文なんか擁護する弁護士などいないと思うのです。
憲法前文で、『主権が国民に存することを宣言し』があり、次に何故か第1章:天皇制、2章、第3章:14条2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
これ順序が変ですよね。第3章14条2項で「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」といいながら第1章:天皇制、ですからね。まともな頭なら???なりますね。
私は天皇制を批判しているのではないですよ。法律(成文)のひどさを指摘しているのですね。こういう矛盾だらけの法律を改正もせず擁護するものを専門家といわれてもと、思うからですね。だから#5さんのご指摘(偏差値だけでなった法律の専門家)も気にかかってるんですね。
余計なことかいてしまいましたが、専門家が成文法の立場を守りたいのなら国民(日本の教育程度は世界一)の誰もが理解できる平易で論理的な成文にしないといけないのではと思っているだけですね。それができない似非専門家しかいないのなら、市民の直接参加しか解決法はないのかも知れないとも思うのですね。ちっと厳しいでしょうか。

補足日時:2009/05/11 08:42
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#8です。



>正義の民主裁判も時が経てば欲望の愚民裁判にもなるということですね。

済みませんが、もしかしたら私の言いたかったことが通じていないのかもしれません。多分、私の拙文が原因なのだと思いますので、申し訳ございませんでした。

陪審制度は正義でも無く、民主裁判でも何でも無く、中世の英国ならいざ知らず、自分も含めて人間とは何かと言うことを判っていない連中の机上の空論に乗った馬鹿げた制度だと言いたかったのです。思想だ哲学だと理屈ばっかりが先に立って、人間ならどんな優れた者でも初心者のうちは慣れていないためにコツが分からず、計るずも間違いをしてしまう者であると言う現実の人間が考慮されてない制度だと言いたかったのです。ですから「時が経てば」どうのこうのと言うことでは在りません。私の筆が至らず、誤解を招いてしまって、重ね重ね申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
>>「人間ならどんな優れた者でも初心者のうちは慣れていないためにコツが分からず、計るずも間違いをしてしまう者であると言う現実の人間が考慮されてない制度だと言いたかったのです。」
この点ですね。私の読解力不足でした。これも納得してしまいますね。

お礼日時:2009/05/10 09:43

もしそのような思想や哲学が在ったとしたら、それは単なる詭弁でしょうね。



陪審制が正義の実行を妨げてしまうことは、すでに陪審制の発祥の地である英国でも認識されるようになっています。事実、19世紀半ば以降、特に民事陪審は衰退していき、詐欺、名誉毀損、悪意訴追・誣告、不法監禁というごく一部の事件に対象が限定されることになっています。刑事陪審でも、19世紀から20世紀にかけ、陪審審理が行われない治安判事裁判所の管轄できる事件の範囲が徐々に拡大しており、実質的に陪審審理は限定されるようになって来ております。

陪審制では何故正義が実現できないのか、それに関して、一件関係のないような話しから始めます。私は、アメリカに住んでおります。そこで新築した家の窓のブラインドを自分で取り付けました。窓が沢山ある家です。一番最初の窓では付け方を失敗して、完全にやり直しました。2番目のはどうやら付けられましたが、少々失敗して、やはり少しだけやり直しました。3番目は、やり直さなくても出来ましたが、それでも少し不満でした。4番目当たりから後は、どれをやっても同じように巧くつけられるようになりました。

今までの私の経験では、日曜大工などで初めてやるときはコツが分からないので、大抵どこかで失敗します。そんな失敗を二三度繰り返すと、その経験で、何処で間違えるかが前もって分かるようになり、なんとか自信が持てるようになりました。こんな何でもない日曜大工でも始めのうちは失敗するものです。人の人生のかかった、それも重犯罪の場合に正義に基づいた適切な判断が出来るようになるためには、数回の失敗を実際に経験して、それに基づく反省が決定的に重要です。もちろんその失敗は、出来るだけ影響力のない所で、例えば軽犯罪などで、また、裁判所の見習判事などのように、自分の判断が始めから判決に影響がない所で何度か失敗を経験して反省材料にすべきです。

ところが、同じ人が一生の間に陪審員に何回指名されるのでしょうか。もし、私が陪審員になったら、ブラインドのときと同じように始めの二三回は判断の失敗をすることに自信があります。ブラインドのマニュアルがどんな良く書かれてあってもです。だって、上でも述べたように、まだ慣れていないのでコツが分からないからです。ですが、その失敗のお陰で、4回目あたりからなら、きっと私でも適切な判断も出来るかもしれないなと思っています。一生の間に私に4回も陪審員をやらせてもらえるのかしら。アメリカでそんな方は殆どいません。しかし、もし私が4階もやらせてもらるのでしたら、始めの3人の容疑者は正義が行われなかったとしても運が悪かったと思って諦めていただくことにして、4人目の容疑者からは、正義に基づいた適切な判断をしてあげられると思います。

また、私はアメリカの法律学校で弁護士になる訓練を受けているアメリカ人から次のことを聞きました。授業で弁護士の卵達は、裁判官を説得する技術と、陪審員を説得する技術をそれぞれ別に教わるのだそうです。そして曰く、裁判官を説得するのは大変難しいが、陪審員を説得するのはずっと易しいのだそうです。裁判官には何が正義であるかを説得しなくてはなりません。ところが、陪審員は素人ですから、正義云々よりも、彼等の感情に訴えて、陪審員を激情させたり、過剰な同情心を引き出す訓練をするのだそうです。さらに、もし自分が被告人の弁護士だったら出来るだけ女性を陪審員に選ぶ努力をし、もし検察側だったら出来るだけ男性を選ぶ努力をするのだそうです。もちろん、一つの裁判で始めは数百人の陪審員をくじ引きで選ぶのですが、その後その中から12人絞る段階では、裁判官と弁護士と検事が相談して選ぶのです。ですから、アメリカでは弁護士と検察側の戦いは、裁判が始まる前に陪審員を選ぶ段階から始まっているのだそうです。そんな制度が、正義を全う出来るはずが無いのは自明ですね。

具体的な例は幾つもで挙げることが出来ますが、多分質問者さんはオー・ジェー・シンプソンという元アメリカン・フットボールのスーパースターで、かつ俳優が、妻とその愛人殺しで無罪になった事件をご存知だと思います。裁判がテレビで放映され、国民の大多数が有罪だと認めたのですが、何せその裁判では、たった12人の素人の陪審員さえ説得すれば良いので、誰が見てもおかしな判決が出てしまいました。実際、シンプソンはお金に物を言わせて、弁護士のドリーム・チームを作りました。そのチームの努力により、結局、刑事裁判では無罪になったのです。さすがに、裁判所も国民も我慢が出来ず、刑事裁判ではなく、遺族からの要請で民事裁判を開き、「シンプソンは彼等を殺してはいないが、彼等の死亡に関しては責任がある」という支離滅裂な判決が出て、遺族への支払いを命令する判決が出ました。アメリカでは一旦無罪の判決が出ると、裁判をやり直すことが出来ないことになっておりますので、再び刑事裁判に訴えることは出来ないと聞いています。こんな例は、ほんの氷山の一角ですが、陪審制の欠陥を象徴的に示している例として、大変教育効果のある事件でした。

歴史的には、英国の貴族の横暴から一般市民の身や財産を守るために陪審制が必要とされた時代も在りましたが、現在では、もうその役割が終わっていることに英国も気付き始めたようです。

時代に逆行して、なんと「裁判員制」を取り入れようとしている国があると言う噂を、私はアメリカで聞きました。そんな国に住んでいる人達は、正義が実行されなくなるのが目に見えていますので、可哀想ですね。もちろん弁護士達はそのお陰でアメリカの弁護士のような大変な金持ちになれますので、その国の弁護士達がほくそ笑んでいる顔が、私には目に浮かぶようです。アメリカでは政治家の圧倒的多数が弁護士ですから、彼等は陪審制でのみ正義が全うされると大宣伝をして、国民を洗脳しておりますので、可哀想に、一般のアメリカ人達は、陪審制の犠牲者になって居ります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「可哀想に、一般のアメリカ人達は、陪審制の犠牲者になって居ります。」
正義の民主裁判も時が経てば欲望の愚民裁判にもなるということですね。

お礼日時:2009/05/10 08:06

現代の法律の体系としては、大きく英米法と大陸法に分けて


考えられることが多く、それぞれの立脚点は異なります。

一方で、そこに共通の概念が存在します。『社会契約論』です。
もちろん社会契約論の捉え方も国の事情によって異なります。
しかし共通して社会契約論に求められる民衆の姿勢は『政治参加』です。

自由主義の発祥国、イギリス流の考えでは『社会なんて存在しない』
(サッチャー元首相)という発言に代表されるように、何か悪いことがあった
場合『社会が悪い』なんていうのはただの言い訳じゃないか、と考えます。
実在するのは人間なのです。わけのわからん『社会』に人間が裁かれることは
あってはならず、実在する人間の主張をなるべく取り入れようとします。
そこに求められるのは政治への参加です。これを受け継いだアメリカでは
さらにこの概念が強く取り入れられています。





さて一方、質問者さんも挙げられるヘーゲルさんを擁するドイツの発想は
どうでしょう。ドイツという国は連邦としての独立心が強く、さらに
ロシア・フランスという強国から常に圧力を受け続けていた経緯があります。
第一に、国を守らなければいけない。そこに求められるのは
『団結する強い社会』です。(後にヘーゲルさんの思想をぱくった
ドイツ発の思想であるナチズムや共産主義もこの立脚点から逃れられないでいます)


さらにドイツにおける戦争論をみていくと、平和的なアプローチをした
カントさんにしてもさらに戦闘的なアプローチをしたヘーゲルさんにしても、
言葉は違っても、最終的には同じものを目指しているようです。

カントさんの発想では『永遠の平和のために、一切の戦時国債の発行を認めない。
戦費の調達はすべて増税によるべきだ。』

ヘーゲルさんの発想では『戦争が無ければ民衆には無関心が広がり、
自分の為だけに働こうとする。戦争が無い状態は腐敗を招く。
人は国家のために働くべきだ。』

この両者が何を言っているのか。戦争をすべき、あるいはすべきでないという
一見、正反対の主張ではありますが、共通する点は『社会に無関心ではダメだ。』
『国の損得が自分の損得に直結することを自覚すべきだ』と言っているわけです。





この2国の政治思想を見ていくと『当事者たれ』という部分では共通しています。
しかしながら、そこには明確な差、つまり『人間が集まって社会を作るか』
『社会の庇護を受けて人間が生きることができるのか』という考え方の違い
があります。








すでに長文ですが、もう少しお付き合いください。
さてさて、肝心の日本はどうでしょうか。
封建時代の風習から捉えるより、近代国家としての成立後、つまり明治日本に
着目してみるとわかりやすいかもしれません。

そもそも社会契約論の歴史的な意義を見ていくと、キリスト教的な神授王権への
対置としての存在が認められます。神授王権による立法、とは端的に言えば
『権威主義』です。偉い人が言ってるんだから正しいだろ、という、まあ
投げっぱなしに近い発想ですよね。

さらに権威といえども人間であり、間違えることもあります。加えて
権威主義はその検証が不可能であるという致命的な欠陥を抱えています。
(だからこそ民主主義が歓迎される、とイギリス法理論の基礎にあります)







しかしながら『権威主義』がすべてのケースにおいてダメというわけでは
ありません。現在存在する知識体系は、古代とちがってあまりに多岐にわたって
います。そこで、社会の発展のためには『専門家』を配置して、特定の分野では
その専門家の意見によって社会・組織を運営する、ということが行われます。
日本という国は、特定の分野を突き詰めることが奨励され、
特にそういう風潮が強いように思えます。
(日本人に言わせれば職人気質、外国人に言わせれば、偏執きょ・・・ゲフン)


加えて明治日本は、侵略を受けることに対しての危機感が常に存在しました。
そもそもの近代化の契機からして、軍艦を使っての圧力外交ですしね。
求められたのは『権威主義』に基づく産業の急速な拡大であり
法整備の原型とすべきは『強い集団を作る方策』です。

そこで若き日の伊藤博文らが憲法作成のために向かった先はドイツでした。
結果、今日に至るまで、『社会のため』という発想は色濃く残っています。
一方で、イギリスやドイツと異なり、宗教改革が行われませんでした。
神権政治(つまり皇統)が継続され、さらに『権威主義』の色彩が強いのです。





一方で、近年の裁判員制度開始はイギリス流の思想を受け継いだアメリカの
年次要望(どういうわけか曲解されていますが、これは命令ではなくお互いに、
外から見たらあんたの国はこうしたらいいよ、という意見書を交換しています。)
にあったことから、立脚点がやはり違う思想であることは否めません。

イギリス流からもドイツ流からも歓迎される裁判員制度であっても
『権威』がより色濃く影響する社会を作り上げた日本には確かに
なじまないかもしれません。さらに度々指摘されるように制度としての
完成度もあまり高くないです。


しかし、民主主義社会を実現させるためには
間違っているかもしれない『権威』ではなく
同じく間違っているかもしれない『民衆』の意見を
採用するべきというのが、今回の法案の原点のようですよ。
もちろん、民衆側は勉強することが増えてしんどいのは間違いないんですが。

この回答への補足

この場をお借りして、#7さんおよび皆さんのへのお礼と私の感想を記載させていただきます。

>>「民主主義社会を実現させるためには間違っているかもしれない『権威』ではなく同じく間違っているかもしれない『民衆』の意見を
採用するべきというのが、今回の法案の原点のようですよ。」

民主主義社会の原点には「自覚した市民」がヘーゲルの哲学にはあるように思います。「自覚した市民」の背景にはまた「絶対」という精神的存在があり、ゆえに裁判には「自覚した市民」の精神を反映すべきなのかなと思っています。
「絶対」をどう解釈するかは人それぞれですが、性善説、性悪説と取ってみると、ユダヤ・キリスト教的性悪説(人間、罪の子)の強い欧米に陪審制が導入され、性善説(人間、仏の子)の強い東洋や日本で陪審制が無かったことが不思議なところですね。思想的には、#8さんのご指摘もうなずける点があることも確かなんですね。

私は、個人的に陪審制(裁判員制度)の導入には賛成なのです。理由は「性善説が強い国民」だからうまくいくと信じてるからなんですね。
量刑には法律の専門家が必要であるが#5さんの回答に見られるように裁くのは「人の心」でしかないと考えるからですね。
また、どのような結果であれ、つまるところ、#4さんのご指摘のように閻魔の裁判からは逃れようもないという「絶対」の担保があると考えるからでもあるのです。
そういう意味で#1、#2、#7さんの教育効果論は前向きで納得もしています。
具にもならない感想ですが、追伸等あればよろしくお願いします。

補足日時:2009/05/10 10:29
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欧米法簡略にまとめていただいて理解が容易でした。
>>「同じく間違っているかもしれない『民衆』の意見を
採用するべきというのが、今回の法案の原点のようですよ。」
確かに戦後憲法には「主権在民」と明記されてますね。
国民はもっと勉強し、仕事もしなさい。ということですね。

お礼日時:2009/05/10 08:02

自発と自立が弱い日本人が陪審制で啓発されるといいですね。


根底には善悪の考え方が根底に露呈するといいと思います。

>>日本のいかなる思想・哲学に対応するのか?

日本人は、宗教も哲学もよく知りませんし、宗教などは犯罪者が言いなりになる人を作るぐらいにしか認識ないでしょう。
 本来人としての多くを教えていますが、邪教と正教、教えの高低、浅い深いも見分けられず、生き方という、宗教哲学などない、非常に動物てき思想しか感じません。
 日本に思想哲学があれば、宗教哲学も深く理解がされてますが、宗教と哲学さえ分けて見てることの幼稚さから、日本の思想哲学に信念は感じませんし、どういう具体的現実が、社会の中で思想哲学が生きてるのか?逆に聞きたいです。
 そういうものも持ち合わせないから陪審制で啓発されるといいですね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「認識がないから・・陪審制で啓発されるといいですね。」
初めての経験ということですね。納得してしまいますね。

お礼日時:2009/05/10 07:55

裁判制度そのものが西洋のものなので、それ以前というと江戸時代以前ですよね。


制度と言う事では陪審員制度と類似するものはありませんが、支配者と被支配者の関係は、ある部分では厳しく、ある部分では現代より民意が反映していたと思います。
上下の関係も現代より親密で、民衆の支持を得られなければ、国を納める事も非常に困難だったでしょう。忠臣蔵なんていい例ですし、悪名高い生類憐みの令などは、存外さほどの結果を得られなかったそうです。
お上第一の考え方は明治以降に出来上がってしまったもので、現代の裁判官に権威が集中しているのも近代になってからです。

別に哲学とかではないですが、私は学校と塾の行き来だけで、偏差値だけでなった法律の専門家という連中に裁いて欲しくなんかないです。
裁判員制度を回避するのもいいですが、それなら現在行なわれている裁判官の審査を家裁まで広げて、不支持が有権者の80%を越えたら解任するくらいの厳しさがあってもいいとさえ思っています。

この回答への補足

>>「支配者と被支配者の関係は、ある部分では厳しく、ある部分では現代より民意が反映していたと思います。
上下の関係も現代より親密で、民衆の支持を得られなければ、国を納める事も非常に困難だったでしょう。」

そういえばそうですね。戦後憲法で「主権在民」が明記されましたが、国民は、やさしいデモぐらいでしか権利主張しませんね。
江戸時代は、権利主張など無い様に見えて、実は不満であれば、討ち入り、打ちこわしですからもっと支配者は真剣であったということですね。
封建制度も怖い在民で支えられていたということでしょうか。
浄土真宗・一向宗門徒などは、宗教的な精神的により、支配者の権威を認めていなかったようですから、あの世の閻魔は怖いがこの世のお裁きなどという思想ですかね。

補足日時:2009/05/10 08:41
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「私は学校と塾の行き来だけで、偏差値だけでなった法律の専門家という連中に裁いて欲しくなんかないです。」
納得してしまいますね。

お礼日時:2009/05/10 08:14

陪審制は全く日本人の気質にはあいませんね。


日本人にとっては裁判官は閻魔大王であり長老であり鶴の一声で上の人間が白黒つけるというイメージで成り立っていると思いますので。素人が口を出すべきじゃないという考えも日本にはあります。
しかしこれは、もともと先進国と同じような制度にしたいという欧米至上主義の経済界と司法制度改革パフォーマンスをしたい行政との思惑が一致したもので泥縄式に決まっていきましたね。
日本人にはあってはいないと法曹界も実は知っており、だからこそ、陪審制ではなく裁判員制にしお茶を濁したというのがポイントだと思いますよ。
なんだかんだ言われていますが、結局、一般的日本人は、だま~って最後に、「裁判長の意見と同じで~~すw」でちゃんちゃんって終わるだけでしょう。だからこそ陪審制じゃないわけですし。
(名指しはやめますが、やっぱりいまだに理解していない人が多いみたいですねwwwww)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「裁判官は閻魔大王であり」
確かにこの思想は日本に蔓延してますね。

お礼日時:2009/05/10 07:53

くじ引きで決めるってことだから、禁治産者など能力が無いと法律で定められている人以外誰でも負かされるので、思想や哲学など全く無縁の人でも任せられるってことじゃないかと。




どうして裁判員制度ができたのかというと、経費削減のためらしいです。
裁判を開くとすごく金かかるので、節税対策として、制度ができたらしいです。

で、最初は民事訴訟のみ担当することになると思いますが、いかに言い負かす弁護士を雇う財力があるかで、裁判員の感情を味方につけることが可能になる。

勝ちたければ、有能な弁護士を雇うってわけで、そうなると弁護士がもっと必要になり、アメリカのように殺人をしようと無罪になるように裁判官の心情をコントロールしたりする有能?な弁護士が儲けるってことになるわけです。
弁護士を雇う費用が無い人は、相当苦戦を強いられることになる。
特にディベートをやっていなければ、言い負かされてしまうし、相手の誘導にのってしまう。
プロ相手に、、、かなり厳しい戦いになると思います。
弁護士がいれば、誘導尋問って割りこんでくれますけどね。


裁判員は裁判で出されたもののみによって判断するわけですが、個人の信条も甘味され、プロとは違った判決を下すかもしれない。
それこそ市民の側からみた表決ですが、一般市民の感情を誘導する能力に長けた弁護士だと 一般の裁判員など赤子の手をひねるようなものかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「経費削減」
時間も削減されますから、これも社会には利益がありますね。

お礼日時:2009/05/10 07:49

米国からの要望だったと聞きました。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>「米国からの要望」
日本人は外国からの要望には弱いところありますね。

お礼日時:2009/05/10 07:44

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