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【1】父である景行天皇から東征を命じられ東日本を征伐した彼が何故関東で英雄として祀られていることが多いんでしょうか?

【2】またヤマト王権の人間だった彼がかつての王権の拠点であった奈良や大阪、王権の奥座敷だった伊勢(三重)などではあまり人気がないのはどうしてでしょうか?
(彼が没した地、三重県の能褒野には陵墓がありますがほとんど知られていません。)

【3】王権の英雄を具現化した架空の人物という見方もあるそうですがどうなんでしょう?

A 回答 (8件)

一般論的に、目立った功績を挙げた人物に関してその功績を讃える『記念碑』的なものを造るとしたら、どこに造るでしょうか。


例えば、多くの人を助けたらその助けた場所に、難工事を指揮して無事に完成させたらその工事場所に、戦闘に勝利したらその戦場に、というのが普通でしょう。
従って、東国で活躍した日本武尊が東国で多く祀られていても何ら不都合はないでしょう。

系図上は第一皇子であるはずの日本武尊が(実質的に)皇位継承権を剥奪されて東国へと『追い遣られた』ということへの不自然さはここで詳しく述べませんが、少なくともヤマト王権内で何らかの動きがあったはずです。東国に征かせたことが、征服する事よりも行けるところまで行って野垂れ死にしても構わない、という意味合いが強く感じられます。従って、ヤマト王権の勢力範囲内である大阪や奈良で彼の存在自体を消し去ろうという意図が働いていても不思議はないわけです。

日本武尊が実在の人物か、それとも架空の話かは大いにロマンがある話ですね。確かに一人の人物が東征の全てを行うのは非常に困難に感じます。ただし、何人もの話の寄せ集めと言うよりは、軸になる人がいてその人の話に何人かの分が付け加えられたのだと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>東国に征かせたことが、征服する事よりも行けるところまで行って野垂れ死にしても構わない、という意味合いが強く感じられます。

確かに日本武尊は西征を終えてすぐさま景行天皇から東征を命じられています。
これに対し彼は「父(景行天皇)は私に死ねというのか」と嘆いている場面があります。
これらを考えると回答者様のおっしゃる通り、第一皇子であった彼が何らかの理由により王権にとって不都合な人間になったことが考えられますね。

お礼日時:2009/05/15 23:22

3(日本武尊の実在性)について


日本武尊(更には初期の諸天皇)の実在性については、架空説(津田左右吉説)が支配的ですが、実在説(安本美典説など)も存在しています。

架空説は基本的に文献批判学(テキストクリティーク)の観点に立っています。文献批判学は19世紀以降発展した学問方法で、「確実に信頼できる文献以外は史料として用いない」という立場に立ちます。架空説はかかる立場から、古事記や日本書紀の神話時代の記述を信用できないものとして排斥しています。この立場は、古事記や日本書紀の記述を全面的に信じた戦前の皇国史観に対する反省から、戦後歴史学会で支配的になりました。

他方、かかる文献批判学の学者達は、不合理な記述がある文献をバッサリ切ってしまう傾向性があるようで、これまで、トロイ架空説、釈尊架空説、殷王朝架空説などが展開されたことがありますが、いずれも発掘の結果によって覆されています。

神話というのは古人が神聖性を強く感じていた伝承ですので、小説が発達している現代とは異なり、(誇張はあっても)歴史上の人物や出来事を勝手に創作したとは考えにくいのではないでしょうか。たしかに古事記や日本書紀の記述を全てそのまま信用することは困難ですが、他方、少しでも不合理な記述があるからといって簡単に架空の人物と構成してしまうのも乱暴に思えます。例えば、イエス・キリストについては奇跡や死後復活など、科学的には不合理な記述が多々ありますが、歴史上はこれらの不合理な部分を排斥し、人間としてのイエス・キリストの実在については認められています。この例に比べると、初期の諸天皇(欠史八代)については、100歳以上生きたという程度の記述にすぎず、これをもって歴代の天皇が全て架空であるとするのは尚早であると考えます。

さて、そこで日本武尊の実在性に話を戻しますと、例えば、源義経は源氏の軍勢を率いて敵(平家)を本州中央部から壇ノ浦まで追い詰めて滅ぼし、更には東北の地で藤原秀衡から軍勢を率いる権限を預けられています(実際には藤原泰衡の裏切りによって奥州の軍勢を率いることはなく滅びますが、かりに秀衡が死ななければ東北で義経が頼朝軍と戦闘を行った可能性がありますし、実際1188年2月には出羽国で鎌倉方と合戦をしているようです)。このように本州を縦横無尽に活躍した源義経の例を考えると、日本武尊の活躍範囲は九州から関東までですので、史実としても十分あり得る話ではないでしょうか(少なくとも絶対にあり得ない話とは言えないと思います)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
実在性についてこと細かく語って頂き今まで知らなかった日本史の側面が分かりました。

現在は架空説が有力とのことですが、神話といえどデタラメに創作したものではないな、と自分も思います。

お礼日時:2009/05/16 13:51

riddle09さま, わたしも


<一般論的に、目立った功績を挙げた人物に関してその功績を讃える『記念碑』的なものを造るとしたら、どこに造るでしょうか。
例えば、多くの人を助けたらその助けた場所に、難工事を指揮して無事に完成させたらその工事場所に、戦闘に勝利したらその戦場に、というのが普通でしょう。

 自体には 同意しますが,
http://www.mapion.co.jp/m/38.2479713888889_140.3 …
ここの,柵跡の他は,あまりそのような立地はまだまだ回り方不足で
すが記念碑を建てるにふさわしげな場所を知りません。

 いくつか見たチャシ(蝦夷などの砦)跡には,蝦夷の神を押さえ
込むように諏訪,熊野,虚空蔵,薬師?さんたちが据えられていま
した。                ではでは
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この回答へのお礼

補足事項ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/15 23:25

古代では、征服者は同時に開拓者でもあったようです。

ヤマトタケルの東征については、彼は東国の鉄の産地を求めて各地を旅してまわったのだという説がかなり頻繁に説かれてきましたが、ただ単純にまつろわぬ人々を征服して行っただけではなかったのです。たとえば、走水の話にしても、なぜあそこで海を渡らなければならなかったのかというと、対岸の浜辺が砂鉄の多い場所だったことが大きな要因らしいです。土地を調査し新たな産地を開拓した、という一面がヤマトタケルにはあるのでは。もうひとつは、ヤマトタケルが完璧な英雄ではなかったこともあると思います。彼は神に不敬な態度をとったために神の起す神威に圧倒されたり、悩まされたりしています。彼は東国の人々を征服したが、神までは征服できなかったのです。このことが東国でのヤマトタケル信仰にプラス的に働いたのでは。完璧ですきのない英雄だったら、東国の人も愛しようがなかったと思います。一方の畿内ではこれと逆のことが起こったかもしれません、つまり征服者の側からみれば完璧な英雄であってほしい、だから『日本書紀』では『古事記』とは裏腹により完璧な英雄として描かれているのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>土地を調査し新たな産地を開拓した

なるほど、征服しつつもそうやって得た自然の恩恵を土着の民が享受できることにより英雄譚が広まっていったんですね。

大変参考になりました!

お礼日時:2009/05/15 23:06

【1&2】について 別の視点から・・・



 信仰の拡散には,媒体が必要です。
 関東信越・東北の修験者は 日本武尊を主祭神とする
古峰信仰を掲げ,村々を回りました。結果,なぜか日本
武尊さんは、火防・盗難除・海上安全・五穀豊穣の神と
して、東北・関東信越に広い信仰圏を獲得しました。天狗
の民間信仰とも結びついていたようです。修験さんが精力
的に村々を回った結果,東北・関東信越に拡がったのでしょう。
 古く卑賤な比喩ですが,機能的に優れたビデオのβが売れず,
日本中に販売店をもつ松○電器陣営のVHSが市場を独占したのと
似ているかもしれません。

一方 西日本では,恵比寿さんや熊野の那智さんなど,
火防・盗難除・海上安全・五穀豊穣の神格を持つとされる
神様がいらっしゃいますので,拡がらなかった。

 また逆に見ると,恵比寿さんや熊野の那智のご眷属(修験者)
さんは,東北・関東信越まで出張ったりしなかった。と考え
ることもできます。 修験者さんのテリトリー問題かもしれません
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうこざいます。

確かに信仰が広がっていくには媒体(人間)が必要ですね。
修験道のテリトリーに関係しているとは実に面白い見方です!
ビデオの比喩は実に分かり易くて納得できました。

お礼日時:2009/05/15 22:54

>弥生系のあっさり顔をした近畿・瀬戸内の人々とは対照的に東北・関東の人々の顔は縄文系(蝦夷)の特徴を今でも色濃く残していますよね。


そうゆうことを考慮すると王権の弥生人は土着の蝦夷などの抵抗が激しく東日本を完璧には征服できていなかったんじゃないかな、というのが自分の思うところです。

うーん、顔立ちについては、先祖返りもありますから、現代人の顔の区別について言うのは難しいです。うろ覚えですが10年以上前のニュートンという科学雑誌で縄文顔・弥生顔の特集がありましたね。そのころ流行った学説とは思いますが、顔を含む民族の如何は東征後千年以上経った今になっては関係ないと思います。
なんか、東征時点で話がとまってしまってませんか?
たしかに東征自体は不完全だったかもしれませんが、仮に今質問者様が疑問を呈されている関東について、大和朝廷による東征は平安時代までつづき、その後も東北で勢力をふるっていた(これこそ蝦夷の系譜とは思いますが)奥州藤原氏を天皇家の血筋を引くという名目を掲げた源氏が滅ぼしていますよね?源氏というもともと中央にいた一族が関東に強い地盤をもっている状況で、すでに関東は朝廷(質問者様の言葉を使うなら、弥生人)の傘下におさまっていて、抵抗もなかったかと思います。
その後も、足利政権にうつってのちも、鎌倉府がおかれていますし、近世に至っては、現在の首都である江戸に政治拠点がおかれています。徳川政権の統制力は他の追随を許さないものです。

ご質問にある「何故関東で英雄として祀られていることが多い」かということについてですが、祭祀は何も、古代にのみ興ったのではないことはおわかりですよね?

ご質問の文章が以下の点で不明瞭です。
・着眼する時代(現代)と、矛盾点として指摘する時代(古代大和朝廷による東征)とに隔たりがある
現代を軸にしてのご質問ならば、私は関東の人間ですが、征服されたなんて意識欠片ももっておりません。そんな「天皇家によって征服された!」なんて叫んでいる人も見たことはありません。学校では天皇を主権とする憲法を習ってまいりました。よって日本武尊の英雄譚も、祀る神社にも疑問は生じません。
古代を軸としてのご質問ならば、大和朝廷の東征後、せいぜい一世紀前後のうちに確実にあったと思われる神社で日本武尊を祀っているものの数をお調べになっては如何でしょうか?不完全と質問者様のおっしゃるまつろわぬものへの「東征」ですが、侵略と領土の拡張を何をして「完全」といわしむるのか、それも判然としません。もし、質問者様の主張されるように「東征が不完全だった」としても、当時の日本武尊を祀る神社の数が明瞭になっていないうちには、関東に多い、ということは実証しがたく、ここで矛盾云々以前の問題になってしまうかと思います。
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この回答へのお礼

再度のレスありがとうございます。

>そんな「天皇家によって征服された!」なんて叫んでいる人も見たことはありません。学校では天皇を主権とする憲法を習ってまいりました。よって日本武尊の英雄譚も、祀る神社にも疑問は生じません。

確かにおっしゃる通りです。時の隔たりが長過ぎますね。

勝てば官軍、負ければ賊軍、勝者を賞賛するのは世の常ですね、ご指摘を頂いて確かにその通りだと思いました。

>「東征が不完全だった」としても、当時の日本武尊を祀る神社の数が明瞭になっていないうちには、関東に多い、ということは実証しがたく、ここで矛盾云々以前の問題になってしまう

本で得た知識を鵜呑みにするだけで自分で確かめてみようという探究心に欠けていました。
今後は日本武尊にまつわる神社だけでなく全国のあらゆる神社について勉強をし知識を深めていきたいと思います。

お礼日時:2009/05/11 23:16

ご質問がひじょうに曖昧なため、回答に困る部分があります。


【1】父である景行天皇から東征を命じられ東日本を征伐した彼が何故関東で英雄として祀られていることが多いんでしょうか?
【2】またヤマト王権の人間だった彼がかつての王権の拠点であった奈良や大阪、王権の奥座敷だった伊勢(三重)などではあまり人気がないのはどうしてでしょうか?
(彼が没した地、三重県の能褒野には陵墓がありますがほとんど知られていません。)
双方についてですが、「~の方が多い」「~ではあまり人気がない」など、主観的で抽象的な表現が目立つのが、回答を困難にすると思います。
私がかんたんに見ただけでも、東日本西日本かかわらず、日本武尊を祀る神社はありますし、白鳥伝説で著名な白鳥神社は香川県。もちろん、伝説の発祥地は伊勢のある三重県というのは、ちょっと日本武尊伝説をかじったことのある、記紀神話を読んだ人間なら知っていることと思います。
ただ、もし数値的に東日本に祀る神社○○、西日本に祀る神社○○、というものがあるのであればわかりますが…。

英雄として祀ることについては、東西を問わずにあると思います。
第一、東征をしたのになぜ祀るのか、ということですが、東征を経て領地拡張すれば、その領地は大和朝廷のものになるのですから、領地拡張の功績者がたたえられるのは至極まっとうなことであり、矛盾など生じません。これで被征服者(蝦夷あたりでしょう)が日本武尊を祀っていたら、ちょっと待てwくらいは思いますが、そうでもないのにどうして矛盾とおっしゃるのかわかりません。【2】については、人気のあるなしというひじょうに主観的でわかりにくい事柄について答えの出せる人がいるのなら、こちらが伺ってみたいくらいです。
1番の回答者様には失礼ですが、廃仏毀釈は関西においても行われています。尊皇派の礎となった国学が、関西で盛んだったことはどう説明するのでしょう。かの前期読本の大成者上田秋成も上方、本居宣長にいたっては、お膝元の伊勢の出身です。明治以後、明治以後とはおっしゃっても、記紀に対する関心が高まり、注釈書が多くあらわされはじめたのは近世以降になります。また、日本武尊についても、古くは近松門左衛門の浄瑠璃にも登場する主要キャラクターのひとりです。浄瑠璃が上方で起こったのはおわかりですよね?人気がないなら、そんなものをつくるわけがありません。

「判官贔屓」という言葉をご存じでしょうか。言葉の由来になった源義経に限らず、日本武尊もまた、戦に勝ったけれども結局は悲運のうちに死んでしまったキャラクターです。そういうキャラクターというのは、庶民にとってとても受けが良いです。伝説として今に至るまで語り継がれる理由はそこにあるのでしょう。

国定国語教科書により爆発的に知名度が上がったのは確かですが、この教科書は関東でのみ使用されてはいなかったものですから、当然この教科書の流布が関東で日本武尊が英雄として扱われたという根拠にはなり得ません。

【3】ですが、津田左右吉の学説にちなむかと思います。現在ではもっぱらそれが支持されているのではないでしょうか。まあ、常識的に考えて記紀神話を読むだけでもマジックが多すぎますからねー。父親の景行天皇が106歳まで生きていた(『日本書紀』)っていう話からして、眉唾物で信憑性が薄いです。
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この回答へのお礼

懇切丁寧なご回答、ありがとうございます。

ご指摘の通り抽象的でモヤッとしている表現でした。浅学を反省します。

>被征服者(蝦夷あたりでしょう)が日本武尊を祀っていたら、ちょっと待てwくらいは思いますが、そうでもないのにどうして矛盾とおっしゃるのかわかりません。

弥生系のあっさり顔をした近畿・瀬戸内の人々とは対照的に東北・関東の人々の顔は縄文系(蝦夷)の特徴を今でも色濃く残していますよね。
そうゆうことを考慮すると王権の弥生人は土着の蝦夷などの抵抗が激しく東日本を完璧には征服できていなかったんじゃないかな、というのが自分の思うところです。

なのでそうゆう疑問が湧いた次第です。最初からそのように書けば良かったですね、これまた失礼致しました。

不勉強ならお手数ですが再度ご指摘を頂戴したいと思います。

お礼日時:2009/05/10 16:11

回答いたします。



1.について、明治以降の時勢にあって、廃仏が盛んに行われ、「天皇記」や「古事記」などが、盛んに「幼年教育」で用いられたためであると推定されています。さすがに、12代天皇となると、現代的な観点からは、存在すら疑わしいのですが・・・当時としては、初代「神武」から「明治」(当時の今上)までの各天皇まで、「万世一系」であるということが信じられていたからでしょう。

2.について、明治以降の時勢にあって、廃仏が盛んに行われなかったためであると推定されています。また、「伊勢神宮」では、「天皇の祖先を祀る」ことであり、「天皇の子を祀るのが神事ではない」ためであると思います。そして、武力に頼る王権に対して否定的な立場を取っていたためであると推定しています。実際、「江戸幕府」と「統幕軍」のどちらにも組していないし、「鳥羽・伏見の戦い」では戦場になっているからであると推定しています。

3.架空の人物であると推定しています。「大和朝廷」が、どこから生まれ、どのようにして王権として確立し、その後の歴史の中で中心に位置できたのは不明です。

実際には、数多くの豪族の連合体の中から大王(今の天皇)が選ばれ、豪族連合体として組織されたという仮説が有力で、それら有力豪族が、九州の地や関東の地を征服し(もしくは交易を開き、こちらの方が有力、「さきたま古墳群」の鉄剣などから)、豪族を仲間に入れる形で大きな組織となったためであると推定しています。

そして、「用命天皇」時代から途中「大化の改新」を超えて、「天智・天武・地統朝」までに確立したものであると思います。それらの伝承は、様々な地縁の豪族などによって語られた武勲の話であったり、それらを統合する形で成立したのではないか?と思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
図書館の書物では難解でしっくりきませんでしたが助かりました。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2009/05/10 15:42

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