慶応四年に勃発した戊辰戦争は正当な戦争ですか?
薩摩長州が私欲の為に引き起こした戦争ですか?
あれから150年たちますが…

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A 回答 (3件)

まあ一言で言えばそうかもしれませんね。



ただ正当であったのは青森までです。
北海道に渡った幕臣たちは北海道を「蝦夷国」と名乗り独立し、アメリカ・イギリス・フランスが国家承認しています。
つまり五稜郭の戦争は近代日本が起こした最初の侵略戦争です。
諸外国は官軍に蝦夷国との戦争は止めるように勧告していました。

そののち明治に入り長州に美味しいところを持っていかれた薩摩は反乱を起こし西南戦争になりました。
征韓論云々が原因とも言われていますが。
このとき活躍した官軍の「抜刀隊」と言う軍隊は会津藩士や幕臣、新撰組の生き残りの人たちで編成された軍隊です。

会津の人たちはいまだに恨みを持っていますよ。
戊辰戦争はそれ程の戦争でした。

勝てば官軍と言う言葉では済まない問題です。

この回答への補足

会津の戦後処理は残酷だったと聞きますが怨念はあと350年位は消えないですか?

補足日時:2009/05/12 11:23
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そういう「解釈」は「立場」によって異なると思います。


そして、一般的には、世の中には色んな「立場」の人がいるので、どの「解釈」が「正しい」という風にはならないものだと思います。
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結果的にですがこの戦争を機に明治維新が成功したってことなんですけどね。


ただ戦争ってそれぞれがそれぞれの立場での正当性を主張しているから起こるわけですからね。
そういう意味では正当なんでしょうけど それぞれの正当性って結局は
それぞれのエゴや私欲なんで後者ともいえますね。
もし戊辰戦争で負けてたら明治維新は成功しなかったわけですし
それはそれで今とは違う現代になってたんだと思います。
結果どちらかしか体験できないのでどちらが良かった
って比べることは出来ないんですよね。
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私が持っている保険証書についてお聞きします。
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しかし、保険証書は錦の御旗ではないというのをさっきウェブで見ました。
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元夫には何年も会っていません。住所は変わっていないようです。
性善説にたって今まで子供のためにと払い続けてきましたが急に不安になり、ドキドキして息苦しくなりました。
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Aベストアンサー

契約者の変更をしないと受取人は元夫さんになってしまいます。
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Q龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑

龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑問を持ちました。

幕末期土佐の坂本龍馬達が脱藩していく際に県境にある関所を避けたり、関所の人間を酒で酔わせて不意を付いたとかして脱藩したと聞いています。
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Aベストアンサー

国抜け(脱藩)ですから通行手形は無かったと思います。
ただし、そのヤバイ期間は文久2年(1862)3月から12月までかと。

文久元年(1861)10月11日、丸亀へ剣術詮議での名目で高知を出発
   許可された剣術詮議(修業)なので土州発行の手形を貰っていたと思われる。
文久2年(1862)正月、萩の久坂玄端を訪ねる
   江月斎日乗(玄端日記)の14日に「武市の手紙を持って坂本龍馬来訪」とある(らしい)。
文久2年(1862)2月末、萩から高知へ帰る

文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞の説得を受け第一回目の国抜け
   無手形と思われ、関所を通らず間道(裏道)を行ったのであろうか。
文久2年(1862)7月頃、大坂附近に潜伏
   樋口眞吉7月23日(在大坂)の日記に「逢龍馬 贈一両」とある(らしい)。
文久2年(1862)9月頃、間崎哲馬が江戸で龍馬に逢う(間崎の手紙に書いてあるらしい)
文久2年(1862)11月12日、久坂玄端が川崎の万年屋で龍馬と一酌(玄端日記にあるらしい)
文久2年(1862)12月5日、龍馬が間崎哲馬、近藤昶次郎と共に松平春嶽を訪ねる(続再夢紀事)

文久2年(1862)12月9日か、龍馬が勝麟太郎に入門(海舟日記から推測)
   これ以降、御軍艦御奉行並 勝麟太郎家来、と名乗れたと思われる
文久2年(1862)大晦日、京都経由で兵庫停泊中の朝陽丸に勝を訪ねる(海舟日記)
文久3年(1863)1月15日、勝が下田で山内容堂に乞い、龍馬赦免を取り付ける

つまり文久2年(1862)3月から12月までが、かなりヤバイ状態で、
とくに箱根の関所をどう越えたか疑問だが、裏の間道を行く手もあった。
(勿論見つかれば重罪)

面白いのは先生の勝麟太郎の父小吉が、ニ度この関所を越える実話を残している。
宿屋で手形を二百文で買ってもらう話と、
   http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/15sai.html
修業だと言って手形無しで通る話。
   http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html

国抜け(脱藩)ですから通行手形は無かったと思います。
ただし、そのヤバイ期間は文久2年(1862)3月から12月までかと。

文久元年(1861)10月11日、丸亀へ剣術詮議での名目で高知を出発
   許可された剣術詮議(修業)なので土州発行の手形を貰っていたと思われる。
文久2年(1862)正月、萩の久坂玄端を訪ねる
   江月斎日乗(玄端日記)の14日に「武市の手紙を持って坂本龍馬来訪」とある(らしい)。
文久2年(1862)2月末、萩から高知へ帰る

文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞の説得を受け...続きを読む

Q戊辰戦争で一体どれくらいの死者が出たかわかる人はいませんか?いたら教え

戊辰戦争で一体どれくらいの死者が出たかわかる人はいませんか?いたら教えてください

Aベストアンサー

高校の教科書で掲載されてる内容だと・・
全体:戊辰戦争の犠牲者数8420人、
その内、
・新政府側3550人
・旧幕府側4690人

さらにその内、
・薩摩藩514人、
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以上になります

Q戊辰戦争

今度、会津に行くので戊辰戦争について学んでいます。

鳥羽伏見の戦いで幕府が勝てた可能性はあったのでしょうか?
長岡藩(会津より石高が半分以下?)がなぜあんなに抵抗できたのでしょう。河合なんとかという人のおかげですか?
会津の武器は旧式だったのですか?
庄内藩は勝っていたということを聞いたことがありますが本当ですか?

たくさん質問があってすいません…

Aベストアンサー

>鳥羽伏見の戦いで幕府が勝てた可能性はあったのでしょうか?
兵力的には、この時点では勝利の可能性がありました。
一番の敗因は錦旗を西軍が手にしたことだと思います。
錦旗が立つということは、西軍は皇軍と認められたことであり、それに歯向かうことは帝(天子)に歯向かうことになります。
天子に歯向かえば楠木正成の例ではないですが、何百年に渡り逆賊として歴史に名を残すこととなり、これを恐れいくつかの藩は寝返り、会津藩でさえも躊躇せざるえを得ないこととなりました。
大樹も逆賊として名を残すことを恐れ、交戦派(都守備の要)だった会津藩主・桑名藩主を引き連れ江戸に帰還し、東軍総崩れとなりました。

>長岡藩(会津より石高が半分以下?)がなぜあんなに抵抗できたのでしょう。河合なんとかという人のおかげですか?
河井継之助によるものが一番と強いと思います。
当時世界でも最新鋭だったガトリング砲(マシンガンの様な連射砲)を採用し、西軍に大きな被害をもたらしました。

>会津の武器は旧式だったのですか?
西軍に比べると旧式です。
鳥羽伏見で西軍が用いていたミニエー銃を、鳥羽伏見後に東軍も採用し、会津藩でも採用しましたが東軍は更に最新のスナイドル銃やスペンサー銃を用いました。
銃は武士が持つものではないという、当時の考え方の影響が強いと思います。
東軍は下級武士や農民層も多く、銃火器の使用に拘りがありませんでしたが、会津藩の上級武士が指揮しており、銃火器よりも武士であれば刀や槍をと言う考えが強かったのです。
降伏前日の戦でも、鶴ヶ島城には2000丁以上(だったはず)の銃が残ったまま、白兵戦を挑み多くが討ち死にしています。

>庄内藩は勝っていたということを聞いたことがありますが本当ですか?
事実です。と言うよりも大きく負けることなく降伏しています。
スナイドル銃を西軍同様に備えたことも何度も買った大きな要因だと思います。

会津いいですね。
私も昨年は行けなかったので、今年こそ!

>鳥羽伏見の戦いで幕府が勝てた可能性はあったのでしょうか?
兵力的には、この時点では勝利の可能性がありました。
一番の敗因は錦旗を西軍が手にしたことだと思います。
錦旗が立つということは、西軍は皇軍と認められたことであり、それに歯向かうことは帝(天子)に歯向かうことになります。
天子に歯向かえば楠木正成の例ではないですが、何百年に渡り逆賊として歴史に名を残すこととなり、これを恐れいくつかの藩は寝返り、会津藩でさえも躊躇せざるえを得ないこととなりました。
大樹も逆賊として名...続きを読む

Q勝てば官軍、負ければ賊軍 戊辰戦争について

慶応四年に勃発した戊辰戦争は正当な戦争ですか?
薩摩長州が私欲の為に引き起こした戦争ですか?
あれから150年たちますが…

Aベストアンサー

まあ一言で言えばそうかもしれませんね。

ただ正当であったのは青森までです。
北海道に渡った幕臣たちは北海道を「蝦夷国」と名乗り独立し、アメリカ・イギリス・フランスが国家承認しています。
つまり五稜郭の戦争は近代日本が起こした最初の侵略戦争です。
諸外国は官軍に蝦夷国との戦争は止めるように勧告していました。

そののち明治に入り長州に美味しいところを持っていかれた薩摩は反乱を起こし西南戦争になりました。
征韓論云々が原因とも言われていますが。
このとき活躍した官軍の「抜刀隊」と言う軍隊は会津藩士や幕臣、新撰組の生き残りの人たちで編成された軍隊です。

会津の人たちはいまだに恨みを持っていますよ。
戊辰戦争はそれ程の戦争でした。

勝てば官軍と言う言葉では済まない問題です。

Q薩摩と長州

さっきNHKで、徳川が国を征服した(江戸)時代において「徳川の外様であったため苦労したところの3国」を見ました。その3国とは「薩摩」「長州」とあと一国でした。
これは、明治維新を成し遂げた(江戸幕府に反対した)国と符合します。
やはりつながりがあるということでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは

関ヶ原以来の遺恨は関係はあると思いますよー
長州は儀式として、元旦の挨拶にきた重臣が藩主に、「そろそろいかがでございます」と聞くと、藩主は「まだその時期ではない」と答えるのが常だったそうです。そろそろとは関東征伐、つまり徳川幕府へ反旗を翻す時期という事みたいです。

長州候・毛利敬親は「そうせい候」と呼ばれて、家臣のどんな提案にも「そうせい、そうせい」と言っていたとかいないとか…(^^)
(決して暗愚だったという意味ではないです。)

Q戊辰戦争と西南戦争の違い

戊辰戦争と西南戦争の違い
って何でしたっけ‥??
どっちも 旧幕府vs新政府
でしたか‥?
西南戦争は西郷さんが指揮してて‥、
もうよく分かりません(; ;)

この2つの戦争って
どんな理由で起きたのですか?
しょうもない質問でスミマセン↓

Aベストアンサー

戊辰戦争

旧幕府を、薩長他勤皇諸藩の官軍(明治新政府)が妥当した戦い
薩摩藩士・西郷隆盛は、官軍東征大総督府下参謀として
官軍を指揮、幕府を降伏させた。

西南戦争

西郷は、陸軍大将・参議など歴任するも征韓論で破れ、
鹿児島に引退し、私立学校経営に余生を送った。
ところが明治10年、鹿児島の士族が反政府暴動を
起こし、西郷を擁立し東京をめざした。
しかし、近代兵器を駆使した徴兵制の帝国陸軍に、
西郷の指揮する旧武士団は壊滅、城山に切腹した。

Q戊辰戦争で、なぜ東海道では戦闘がなかったのか?

こんにちは。

戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。

一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。
尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。

いろいろ調べるうち、第一次長州征伐の総大将(参謀は西郷)であり、藩内佐幕派を処罰(青松葉事件)したりした、尾張藩主の徳川慶勝という人物がキーパーソンのように思えました。次の将軍を誰にするかのゴタゴタで幕府中央に嫌悪感があったのか、鳥羽伏見の直後に逃げた慶喜への怒りなのか・・・?
それとも、東海道軍にいた西郷の外交手腕で戦闘が回避されたのか・・・?
・・・わかりません。

なぜ東海道では戦闘がなかったのか、ご存知の方おられましたら、ぜひご教示下さい。
また、参考になる書籍やウェブサイトを教えてくだされば幸いです。
どうぞよろしくお願いします。


*wikipedia 戊辰戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

*wikipedia 徳川慶勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D

こんにちは。

戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。

一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。
尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。

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Aベストアンサー

軍事的に抵抗力があるか?というのと、藩主の意図という点から考えてみた。
軍事的抵抗力というのは、ある程度の兵力=藩士数=領国を持っているかということです。どんなに薩長側に反対しようと、実際の軍事力がなければ、恭順しか選択肢はありません。実際に奥羽越列藩同盟でも小藩は仙台藩や会津藩の意向に最初従い、会津が落城してからはさっさと薩長に恭順しています。奥羽越列藩同盟に逆らったのは、秋田・久保田藩20万石とかになります。力がなければ大勢順応になるということです。

この点で、抵抗力を持ち得るのは、だいたい5万石以上の石高でないと実質的な軍事力となり得ないと思われます。戦国末期~江戸初期で、10万石ないと「備」という軍事単位が成立しないということから、まぁ幕末は半分くらいでOKかなという、ざっくりとした見込みです。また、だいたい5万石以上ないと本格的な城を築くことができなかったので、防衛力が変わってきます。

で、東海道筋で抵抗力があるのは、尾張藩より東では
岡崎藩、吉田藩、浜松藩、田中藩、掛川藩、沼津藩、小田原藩。
薩長側からみれば、上記の城を一つずつ潰していくことが、東上作戦となります。
で、上記の幕末の藩主をみてみた・・・
これが全員が譜代・親藩であるがゆえに、「慶喜政権の内閣」とでもいうべき面々。つまり藩主の視点で考えると、慶喜が鳥羽伏見の戦いの後、大坂城で「朝廷恭順」と唱えたならば、右に従えとなるほかない。

※ これの逆の構造が、ふと思うに、小山会議のあとの、関ヶ原の戦いまでの構造。秀吉は子飼いの福島正則を20万石余りで鍵となる尾張に起き、三河から箱根までの東海道筋には、最小抵抗力を持てるように、10万石以下の小大名をばらばらと配置していた。ところが、小山会議で鍵となる尾張の福島が徳川につき、東海道筋の大名は右倣えして徳川方に開城。

軍事的に抵抗力があるか?というのと、藩主の意図という点から考えてみた。
軍事的抵抗力というのは、ある程度の兵力=藩士数=領国を持っているかということです。どんなに薩長側に反対しようと、実際の軍事力がなければ、恭順しか選択肢はありません。実際に奥羽越列藩同盟でも小藩は仙台藩や会津藩の意向に最初従い、会津が落城してからはさっさと薩長に恭順しています。奥羽越列藩同盟に逆らったのは、秋田・久保田藩20万石とかになります。力がなければ大勢順応になるということです。

この点で、抵抗力...続きを読む

Q宇都宮での戊辰戦争の死者数

栃木県宇都宮市での戊辰戦争の死者数や犠牲者数を知りたいです。
ネットで検索したのですが、死者数などは見つけられなかったので、
知っている方いましたら教えてください。

Aベストアンサー

宇都宮の戦いは戊辰戦争の中での重要な戦闘ですが、その激しさを
伝えてくれる戦死者や負傷者に付いての記述はネットではほとんど
見つかりません。戦闘経過を詳述したものは簡単に見つかるのですが。

興味が有ったので、ネットで「戊辰戦争 宇都宮」で検索し、
「戦死者」のワードチェックをしてみました。
半時間ほどで見つけられた結果は次のとおりです。

幕府側戦死
大鳥軍 兵100名弱、士官10名弱
長岡藩 44名(他説 戦闘参加約100名、捕虜14(十数名))
会津藩 29名
・・・・・

新政府側戦死
宇都宮藩 96名
薩摩藩  23名
桑名藩  7
長州藩  ??
大垣藩  ??
・・・・

供養碑に記載された数や各地方の藩史に記載された数です。
かなり激しい戦いであったことがうかがわれます。

参加各藩の記録や慰霊碑のある各地の寺院や神社を丹念に
チェックすれば全体が見えてくるのではと思います。
中には住民の被害推定もありました。

Qなぜ薩摩と長州は中央政府を江戸に置き部下に任せたのですか?

戦いに勝利した国は、天皇陛下の下、自分が将軍になり、政治を行うイメージが有りますが、明治維新では、中央政府を江戸に置き、更に部下たちに政治を治めさせたのですか?天皇陛下まで江戸に赴き、東の京・・東京と名乗らせる位重要だったのですかね?薩摩や長州や土佐が喧嘩しないよう部下たちに任せたとして、部下たちは自分の藩の為に頑張ると思うのですが廃藩置県は薩長の大名に得??薩長は維新では部下たちが有名ですが当時の大名の名前を私は知りません・・幕末から維新にかけて、薩長の大名を主役にした本<出来れば漫画で>やサイトはありますか?

Aベストアンサー

なぜ江戸を首都に定めたかについて書きたいと思います。江戸というのは世界史から見ても珍しい「政治都市」でした。江戸時代は参勤交代で各地の大名が一年毎に暮らしていましたし、その関係でいわゆる「江戸詰め」の武士が多く住んでいました。そのため、京都に比べれば政治的な情報が非常に集まりやすかったんですね。昔から、新しい土地を支配するときは支配者がそこに住んだほうがいいといわれています。京都や大阪は新政府の目が届いていますが、関東には新政府の関係者がおらず、一歩間違えると関東や東北で反乱が起きないとも限りません。なので、首都を江戸(東京)に置いておいたほうが目が届くのです。また、先ほども書いたように江戸は政治都市ですから旧各藩の関係者や幕府直轄領の関係者も江戸に住んでいるので全国統治に便利だということも大きいと思います。


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