この前、島田紳介の深い良い話というテレビを見ていました。
そこで紹介されていた映画監督の小津安二郎の言葉。

『どうでもいい事は流行に従え。重要なことは道徳心に従え。芸術のことは自分に従え。』

この言葉を聞いて、ものすごく深い言葉だなあと思いました。
モノを作り出す人だからこそ言えることばだと思いました。
しかし、島田紳介と松尾貴史 は「う~ん」にしていました。
島田紳介はいい人だし、好きだけど、やっぱりこの人は他人を評論する人で、モノを作り出す人、創造する人ではないんだなと感じました。
つくづく評論家と制作者は違う生き物だと思う。

例えば、一つ具体的な例を挙げると、
「映画を評論する者」と「映画を制作する者」の違いはどこにあるのでしょうか?

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A 回答 (8件)

本来、映画評論家は、一般の映画鑑賞者を代表して、すばらしい映画をすばらしいと、そして、くだらない映画をくだらないと白黒つけるのが仕事だと思います。

もちろん、各評論家はそれぞれのものさしを持っているので、その白黒のつけ方は評論家によって様々な結果となりえます。映画評論家は一般の映画鑑賞者よりも、映画的な知識や一般教養を豊富に持っており、一般の映画鑑賞者が気づかないような、思いもよらないような解釈をして、一般の映画鑑賞者に「なるほど」と思わせる事が出来、一般の映画ファンは自分の映がの見方の浅はかさを思い知らされます。本来、そのはずです。もちろん、一般の映画鑑賞者よりも知識貧困な映画評論家がいれば、この役割を果たす事は出来ません。

すばらしい映画評論家は、すばらしい映画を的確に「すばらしい」と評価する事が出来、そのすばらしい映画を製作した者も、その映画評論家のおかげで報われます。例えば、アメリカの全ての映画評論家に酷評され、一般の映画鑑賞者も見向きもしなかった『俺たにに明日はない』(67)という映画が、ポーリン・ケイルというたった一人の映画評論家の雑誌での絶賛によって、評判が高まり、結局、大ヒットとなり、今では「歴史的に非常に重要な映画だ」と評価されているような事例もあります。

観客にとっても映画評論家は有用です。もし、すばらしい映画評論家を見つける事が出来れば、一般の映画ファンは、その人の評論を参考にして、次に公開される映画を見るか見ないかを決められます。又、見た映画のよくわからないところや、気づかなかったところを教えられます。

しかし、繰り返しますが、それもこれも、優秀な映画評論家である場合に限られます。知性の高い映画評論家の評論文を読むのは下手な映画作家が作ったくだらない映画の何倍も重要だと考えます。

つまり、「常に、作家の方が存在価値があり、評論家は作品にたかる寄生虫だ」とは必ずしもいえないと思います。
蓮實重彦氏や町山智浩氏などの専門家のみならず、ダウンタウンの松本さんや、坂本龍一さんの映画の見方なんかは、独特で大変勉強になる事があると思います。

もちろん、「あんた、何言ってんの?」という映画評論も山ほどありますが、それは「何言ってんの?」という映画作品が山ほどあるのと同じ事だと思います。

質問の答えになってないかも知れません。
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この回答へのお礼

非常に参考になります。
ありがとうございます。
白黒のつけ方は評論家によって異なりますよね。
自分の感性と似た評論家ならいいですが、自分がクダラナイと思う映画でも、面白いと評価する評論家もいますからね。
私も評論を参考にして、映画を見るか見ないかを決めたりします。
評論家は一般人に映画のよくわからないところや、気づかなかったところを教えてくれたりするんですね。
ダウンタウンの松ちゃんや、坂本龍一教授の映画の見方は、独特で大変勉強になるのですか?
「松本坊主」でしたっけ?読んでみます!
ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/22 11:11

一方の収入源は、雑誌コラム執筆、講義、講演、パンフレット執筆などです。

依頼者サイドの要望と合致しないと仕事が続かないと思います。
もう一方の収入源は、スポンサーや興行収入からです。広告主や興業主の期待に応えないと仕事が続かないと思います。
そして、収入分は、評論家は生活費や雑費をまかないますが、製作者は借金に充てなおかつ次作の資金繰りの準備費用に費やします。
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この回答へのお礼

なるほど。
お金からの視点ですね。
確かに、お金がなければ、ご飯を食べられないですものね。
夢を食うわけにはいきませんしね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 11:13

違いはどこにあるかと言うよりも、両者は全く異なっています。



一つ言えることは批評する人は、制作する人がいないと存在できません。
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この回答へのお礼

そうですね。
自明の理です。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 11:03

30代の映画好き男です。



>「映画を評論する者」と「映画を制作する者」

どこまでも全く違いますよね。
両者は「映画」というキーワードで繋がっているに
過ぎないと思いますよ。

批評家は消費してその感想を述べるだけですから
映画じゃなくても書籍でも食べ物でも何だっていいわけです。
"映画の批評"といいつう本当は観ていなくたって
構わないし判らない。。

「映画を制作する者」はそのももずばりですよね。
食べ物でもなく絵画でもなく建築物でもなく

『映画』を『製作』するわけです。
巨額の資金を調達し監督・撮影監督・脚本家・美術監督
その他のスタッフ・役者を調達しロケ地を探しセットを作って
撮影して音楽をあてて配給先を手配して、、、、、公開する。

批評家はそれらを試写会で"タダ"(無料)で観て
面白いだのつまらないだの観るなだのジャッジを下す。。

この地球上から全ての映画批評家が
今この瞬間に消えても映画製作者にとって
は面白くなりこそすれ全く困らない。

映画製作者が一人残らず消えたら。。。
全世界の映画好きが困りますね。

映画に限らず創造する者とそれを批評する者は
天と地の差があります。

またこれも映画に限らず"批評家"とはまずは
作った者に最低限の敬意を払うものです。
そして自分は徹底的に"創造者"ではないことを
自覚している者。それが出来て批評していい資格
が生まれるかと思います。
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この回答へのお礼

なるほど。
創造する者とそれを批評する者は天と地の差がありますよね。
映画批評家が消えても映画製作者にとって全く困らないですね。
そうゆう視点で見る思考も面白いですね。
参考にします。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 11:03

「映画を評論する者」


○評論する対象が映画である。
○使う道具が言葉に限定される。

「映画を制作する者」
○評論する対象が主には映画以外である(社会、恋、戦争など)。
○使う道具が映像や音声である。

違いはこれだけだと思います。

例えば小津は、『どうでも~』という言葉を通じて、極端な話、人生を評論したわけです。しかし、彼は主には映像や音声で表現する人ですから、言葉少なに語っています。これに対して島田氏は「う~ん」と疑問を呈したわけなのでしょうけれど、もしも小津が疑問を呈する島田氏を目の前で見ていたら、まあ、もしかしたら「どうでもいいことだから、今、大流行の君に従うよ」と言うかもしれませんが、それよりはたぶん、新しい映画を作って、その映像や物語を通じて「ほらね、君は疑うだろうけれど、こうして映像で見ると僕の意見も説得力があるでしょ」というところを訴えかけると思います。言葉ではなく、映画を観ている観客が感じ取るようにしむけるのです。

ちなみに、島田紳介って島田紳助のことでしょうか。だとしたら、テレビで見る島田紳助は、かなり、どうでもいい事は流行に従い、重要なことは道徳心に従い、芸術のことは自分に従っているように私は感じます。しかし、ひねくれ者なのが島田紳助のチャームポイントなのだと思います。そして、ひねくれ者であるがゆえに、さまざまなユニークで的を射た発想が飛び出すのだと思います。
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この回答へのお礼

「映画を評論する者」は言葉だけで映画のみを評論する。
「映画を制作する者」は映像や音声を使用して社会、恋、戦争などを評論するのですね。
「映画を制作する者」は多くは語らないのですね。
参考になります。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 11:00

映画評論家の蓮實重彦氏が著書で書いていたことを元に、


私が考えているところでは、

映画作家は「作ってしまえばしめたもの」
つまり物事を具体的な完成形にすることが最重要であり、
できた作品は、世に出ると自然とひとり立ちして観客の評価を受ける。

それに比べ、評論家は、言いっぱなしというわけにはいかない。
その評論には責任と影響力が伴うから、その重みを常に自覚する必要がある。

というところでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。
最初の方と逆の意見ですね。
そういう考え方もありますか。
評論家には責任と影響力が伴うから、評論の重みを常に自覚する必要があるんですね。
参考になります。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 10:56

こんにちは。



私は音楽は好きだけど、作る側にはまわりません。
映画も好きだけど、制作する側にはまわりません。
つくってしまうと、観る側の楽しみが半減するような気がするからです。

たとえば北野武さん。

芸人から「世界のキタノ」とまで言われるようになりましたが
彼は「北野武」としては映画に対して批評はしていないと記憶します。
そのかわり「ビートたけし」として批判はすることはよくあります。
映画のつくりかたもいろいろなので、ほんの一例ですが
「日本の映画は”静”であり、外国の映画は”動”である」と言った評論家(名前失念)がいましたが
カメラワークひとつで自分の伝えたいことは変わってしまう。
北野監督も「DOLLS」のときの紅葉の落ち具合、風の吹き具合、細部にこだわったとどこかで読みました。
スピルバーグの映画は、悪く言うと「動」である娯楽作品で、言葉がわからなくてもストーリーがわかる。これも大事な理念のような気がする。

紳助さんや松尾さん(松尾さんは「折り紙作家」としてクリエーターでもあるけれど)は、やはり「場所が違う人」であって、
たとえばここで私とかが何かの映画評論をしたとしても単なるうんちくにしかならない。だから「うーん」だったのではないでしょうか?

私はこの番組を見ていなかったのでよくわからないけど
>『どうでもいい事は流行に従え。重要なことは道徳心に従え。芸術のことは自分に従え。』
この言葉はとてもいい言葉で、小津監督の「監督心」をよくあらわしていると思いました。

芸術で自分を表現したいなら、迷わされずに自分のこころを信じろ、
ということでしょう。小津監督も興行成績はあまり気にされなかったと思いますし。

長文でへりくつこねてすいません。
要は「内と外」ってことですよね??
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
とても参考になります。
私も小津映画は大好きです。
興行成績が良いから、面白い映画だとは限りません。
視聴率が良いから、面白い番組ではないです。

お礼日時:2009/05/22 10:54

一番端的なのは、評論家は問題点を見つける仕事で、制作者は優れているところを見つける仕事。


そして評論家は責任がない。特に批判点を改善する責任が全くない。制作者には責任があるのです。

だから
>『どうでもいい事は流行に従え。重要なことは道徳心に従え。芸術のことは自分に従え。』
になるんだと思います。責任の所在を表す言葉ですよね。
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この回答へのお礼

確かに評論家は責任がないですね。
言い放しで結構なんですから。
責任がないから面白可笑しく評論できるんですね。
参考にします。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/22 10:51

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