平安京の右京と左京についてです。
時代を追うごとに右京よりも左京が広くなったと聞いたことがあります。
なぜなのですか?
詳しく教えてください。

A 回答 (3件)

単純に言うと


右京の西を流れる桂川
左京の東を流れる鴨川
どっちが扱いやすかったか?ということで、鴨川の方がハンドリングしやすかった。
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最初は淀川につながり、水量が安定して流れのゆるい加茂川沿いの右京から開発が始まり、にぎわい始めました。

琵琶湖にも近いし奈良からも近いし。が、右京を開発する資金が不足しました。右京はどこまでだったのか正確なところは全部はまだわかっていません。
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平安京の南北の中心線である朱雀大路の、


西側半分(右京)は長安城、
東側半分(左京)は洛陽城と呼ばれていましたが、
右京は湿地帯で住むのに不便なので早くから寂れました。
これに反して左京は発展をつづけたので、
洛陽が京の代名詞になり、
略して「洛」が京都の意味になりました。
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具体的には江戸・明治時代の日立駅近辺の古地図が欲しいのですが、そもそも古地図が存在するのかもわかりません。

地元の図書館を探してみたのですが、思うような物が見つかりませんでした。

日立市に限らず、古地図を入手したい場合、どこから入手するのが一般的でしょうか?(国土地理院とか?)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/valuable_m/001051356960/Bibliography.html

県立図書館

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/digital_lib_main.html
他にあるかも。

国土地理院は、基本的には明治以降の陸軍の組織からですので、江戸時代に関しては国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101029.php

Q青春時代 昔は青春時代という言葉がありましたけど、今はそんな言葉すら聞かなくなりました。青春時代と言

青春時代
昔は青春時代という言葉がありましたけど、今はそんな言葉すら聞かなくなりました。青春時代と言わ無くなっただけでしょうか?それとも青春時代がそもそも無くなったのでしょうか?

Aベストアンサー

青春・朱夏・白秋・玄冬 といいます。

それがいつの間にやら青春だけが生き残り
他は死語になりました。

同じようにして、青春も死語になりつつ
あるのかもしれません。

Q土佐と蘇我氏の関係は

土佐と蘇我氏の関係は

現在大学で蘇我氏について学んでいて、勢力争いをしていた大伴氏が瀬戸内ルートを確保していたため、対抗して日本海側ルートを蘇我氏が確保したというところまで学びました。

ですがその後、まとめとして土佐には蘇我氏や物部氏や秦氏の地名が多いと説明されたんですが、全くつながりが理解できません。なぜ高知県には蘇我氏の地名が多いんですか?

Aベストアンサー

土佐には蘇我氏や物部氏・秦氏をはじめとする、中央にも勢力を持つ氏が展開していた、という話を誤解されてしまった可能性はないでしょうか。

古代史料上に見える土佐国の蘇我氏関連地名といえば、和名抄の香美郡宗我郷と長岡郡宗部郷の二例だけだと思います。これを蘇我氏だけ特別多いと取るかどうかが問題です。
和名抄所載の宗我・曽我・宗部・宗我部・崇賀郷は、ほかに筑前国早良郡、肥後国玉名郡、丹波国多紀郡・天田郡・桑田郡、信濃国筑摩郡に見られます。丹波は土佐より多いですね。

全体的に見るならば、土佐は蘇我氏にとって特別な地域ではなく、部を置いて経済的基盤とした地域のひとつに過ぎないという理解も可能になると思うのですが、いかがでしょうか。

物部氏も土佐国香美郡に物部郷という地名を残しています。既出のとおり物部川流域が遺称地です。土佐国内で「地名」という縛りで見るならば、物部氏関連地名はここだけになります。
王権の勢力扶植から、土佐も免れることなく、他地域と同様に諸氏の展開があったということのように思います。

加藤謙吉氏の『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館 昭和58年)は読まれたでしょうか。
経済的基盤が弱い蘇我氏が、物部氏を打倒し、物部氏配下の土地・人民を収奪していった様子が考察されていて、土佐も一例として挙げられていました。参考になると思います。

物部氏が特定の地域に偏ることなく全国的に展開していったことについては、下のurlからご覧ください。
上記加藤氏の著作では、物部氏は四十四国九十一郡、秦氏は二十五国六十二郡、蘇我氏は二十国二十八郡に分布しているといいます。データが古いので、現在では木簡や墨書土器・漆紙文書等の出土資料によって数字が変わっているでしょうが、大勢としては同じはずです。

考古学カテゴリでの質問なのに、歴史学の話を紹介するだけになったことをお詫びいたします。

参考URL:http://mononobe.nobody.jp/map/east.htm

土佐には蘇我氏や物部氏・秦氏をはじめとする、中央にも勢力を持つ氏が展開していた、という話を誤解されてしまった可能性はないでしょうか。

古代史料上に見える土佐国の蘇我氏関連地名といえば、和名抄の香美郡宗我郷と長岡郡宗部郷の二例だけだと思います。これを蘇我氏だけ特別多いと取るかどうかが問題です。
和名抄所載の宗我・曽我・宗部・宗我部・崇賀郷は、ほかに筑前国早良郡、肥後国玉名郡、丹波国多紀郡・天田郡・桑田郡、信濃国筑摩郡に見られます。丹波は土佐より多いですね。

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【世界史と日本史】人類は平和より戦争の時代の方が長かったとは本当でしょうか?

縄文時代から現代の平成までを1年区切りにして戦争の時代だった月日と平成だった月日を数値化すると何対何ぐらいの比率になるのか教えてください。

Aベストアンサー

>人類は平和より戦争の時代の方が長かったとは本当でしょうか?

ウソです。
でも歴史が学べるのは平和な時代であることが多いので、悲惨な戦争を忘れないために色々言われます(古代から戦争は殺し合いなので悲惨なものなのです)。
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Q唐招提寺から朱雀門へ行くには?

奈良の唐招提寺から朱雀門へ行くには、近鉄の西ノ京駅→西大寺駅→バス 以外に、直接行くバスの便はありますか?
尼辻からでもいいのですが。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

直接はないですね。

唐招提寺から東へ5分ほど歩いて、唐招提寺東口から
春日大社行きのバスに乗るのが一番近いかな。

時刻表はこのサイトのバス停をクリックすると出てきます。
http://jikoku.narakotsu.co.jp/jikoku_pdf/Bsmap.exe?335+1029+532+nishinokyo.gif+2+hanrei.gif+309+136
昼間は一時間に3本程度。

尼辻からは近鉄奈良行きが一時間に1本程度です。
http://jikoku.narakotsu.co.jp/jikoku_pdf/Bsmap.exe?342+797+391+amagatsuji.gif+2+hanrei.gif+309+136

無難に行くなら、近鉄西ノ京から西大寺まで行き、
そこから徒歩です。大極殿までは徒歩10分。朱雀門へはさらに10分
平城宮跡内を歩きます。

尼辻にいくということは、垂神天皇稜も見ようということかな。
そういう人には西大寺駅前でレンタサイクルを借りるのもお勧めです。
http://www.narakotsu.co.jp/kanren/cycle/index.html
西大寺から薬師寺(実際は法隆寺)までは専用の自転車道が秋篠川沿いに通っていて、
なかなか気持ちがいいです。
http://beres811.exblog.jp/9585036/
大池なんかにも足をのばしやすいですしねね。
平城宮跡も自転車ならすいすいですし。
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/nisinokyou.htm

直接はないですね。

唐招提寺から東へ5分ほど歩いて、唐招提寺東口から
春日大社行きのバスに乗るのが一番近いかな。

時刻表はこのサイトのバス停をクリックすると出てきます。
http://jikoku.narakotsu.co.jp/jikoku_pdf/Bsmap.exe?335+1029+532+nishinokyo.gif+2+hanrei.gif+309+136
昼間は一時間に3本程度。

尼辻からは近鉄奈良行きが一時間に1本程度です。
http://jikoku.narakotsu.co.jp/jikoku_pdf/Bsmap.exe?342+797+391+amagatsuji.gif+2+hanrei.gif+309+136

無難に行くなら、近鉄西ノ京から西大寺...続きを読む

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q愛媛県にある秦氏ゆかりの神社・寺を教えて

最近読んだ本で、古代日本において秦氏の貢献した役割は大きいとあります。

愛媛にある秦氏ゆかりの神社ないし寺を教えて頂き、神主ないし住職に率直な質問をしたいと思ってます。

考古学なんて大それた意味ではなく身近な郷土史に触れたい程度です。

でなければ近県で秦氏関連の神社ないし寺で電子メールで問い合わせ出来そうな所が知りたいです。
(あくまで出来そうで結構なんです)

Aベストアンサー

愛媛県松山市にある木野山神社ではないでしょうか。

参考URLによると、日本書紀の記述から、秦氏が神と崇めた稲荷とは実はオオカミと推定しており、古代の狼信仰の名残を伝える数少ない神社の1つに、愛媛県松山市にある木野山神社をあげられています。

また、稲荷神社が秦氏の氏神ということだそうです。
(ということは京都の伏見稲荷をはじめ、全国の稲荷神社は秦氏のゆかりの神社といえると思います。)

神社の連絡先は分かりませんが、おそらく市の観光協会で教えてもらえると思います。

松山市観光協会
〒790-0012 愛媛県松山市湊町7丁目5番地 松山市総合コミュニティセンター1F
TEL 089-935-7511  Email:matukan1@topaz.ocn.ne.jp


また、神社のとりまとめをされている組織として都道府県ごとに神社庁があります。
そこで教えていただくことはできないでしょうか?

愛媛県神社庁
〒790-0934 松山市居相町337伊豫豆比古命
089-905-0315

参考URL:http://homepage3.nifty.com/yahoyorodu/hatasi.htm

愛媛県松山市にある木野山神社ではないでしょうか。

参考URLによると、日本書紀の記述から、秦氏が神と崇めた稲荷とは実はオオカミと推定しており、古代の狼信仰の名残を伝える数少ない神社の1つに、愛媛県松山市にある木野山神社をあげられています。

また、稲荷神社が秦氏の氏神ということだそうです。
(ということは京都の伏見稲荷をはじめ、全国の稲荷神社は秦氏のゆかりの神社といえると思います。)

神社の連絡先は分かりませんが、おそらく市の観光協会で教えてもらえると思います。

松...続きを読む

Q『氏姓制度』は、古墳時代と飛鳥時代、どちらでしょうか。調べてもよくわかりませんでした。 解答よろしく

『氏姓制度』は、古墳時代と飛鳥時代、どちらでしょうか。調べてもよくわかりませんでした。
解答よろしくお願いします

Aベストアンサー

大伴金村が大連(おおむらじ)と呼ばれた時代。
蘇我馬子が大臣(おおおみ)と呼ばれた時代。
それが氏姓制度のあった時代ですから「飛鳥時代」

Q碁盤の町と放射の町

都市は「碁盤型」と「放射型」に分けられると思います。東京は「放射」大阪は「碁盤」。無論、京都、奈良は碁盤。N.Y.、ロスは碁盤。パリ、アムステルダムは放射。
結果、東京の育ちの人は歩行中「東西南北」を意識しないなどの違いが出るようです。又東京の中でも日本橋、東京から銀座新橋までは碁盤、渋谷、六本木、池袋、飯田橋あたりは放射状です。
1.他の都市はどうなんでしょう?
2.この二つの形の分かれ目はなんでしょう?どういう発想で二手に分かれるのか? どっちが自然なのか。
3.他の形はあるでしょうか?(むちゃくちゃ型?)
4.2パターンの功罪はなんでしょう。又好き嫌いはありますか?。

Aベストアンサー

 MONKEYMONKEYさんは非常に理解が早いですね。こちらも手を抜くことができません。ところが、僕の手元に、現在資料がほとんど残っていないため、今回の回答は「自信なし」です。
 言い訳がましいのですが、会社の業務でこれをまとめたものですから、その際に使用した資料は当然ながら会社のものなので、当時勤めていた会社にほとんど置いてきているのです。
 私は都市計画の専門家ではなく、ましてや歴史の専門家でもありません。ここに書かせていただいていることは、都市の防災を考えるにあたって、都市の発達史を明確にしておく必要が業務上でてきたため、まとめたものなのです。(私の素性は、回答者の私のハンドルネームをクリックして、私が出している回答を覗いて下さればすぐご理解いただけると思います。)
 従って、歴史上の細かい具体的なことになると、正直言って手元に資料がないとお答えできないのです。
 ごめんなさい。

1)争奪戦は、わかりやすく言えば「戦国時代」のことです。室町末期の群雄割拠のように捉えて下さっても良いかと思います。細かくは、手元に資料がないので説明できません。すみません。
 都市の時代として捉えると、「大将が住む一つの街」=「大将の国」=「ある程度経済的に自己完結する都市」のように考えることができます。

2)「一つの都市」=「一つの国」づくりが終わったことを象徴的に捉えて、「江戸時代」と言いました。国同士の争いがなくなり、日本全部の都市が集まって一つの国となったことから、都市間相互の経済的交流が本格的に始まった、という事です。

 これら1~2については、「日本の城下町」という名前だったと記憶しているのですが、この本を参考にしました。この本は、日本国内のいくつかの代表的な城下町について、都市形成の初期から最近の鉄道駅までの歴史を、各歴史段階ごとに地図で示しながら、都市の発達を解説している本です。この本を見れば、具体的に答えられるのですが、すみません。

3)「放射状の街」というのは、実は全く意味が異なるのです。日本の都市開発を見てみると、放射状の街が造られる(または計画される)のは、明治以降だと記憶しています。争奪戦に強い町作りは、放射状のように整然とした町作りではなく、全くその逆で、入り組んだ複雑な街路と家に象徴されます。これは、大将を守るため、自分の都市に入った敵方が、容易に大将の陣地まで近づけないように配置したものです。
 こような入り組んだ配置は、戦国時代には明確に形成されていましたが、荘園の頃までさかのぼっても形成されていたのか、僕の記憶にはないのです。すみません。ただし放射状の都市ではなかったことは、確実です。
 ここで話題が少しずれますが、僕が書いている「都市」と「街」について明確にしておかなければなりません。僕は「都市」を、「街」のたくさん集まった、例えば広義の「東京」や「大阪」と考えています。「街」は「渋谷」とか「新宿」のように考えています。
 東京も、江戸時代頃まで遡ると、小さな宿場町(例えば新宿:新宿は内藤さんが造った新しい宿場町でしたので当時は内藤新宿と呼ばれ、そして現在の新宿という地名になった)を、街道によって接続され、形作られていました。
 明治以降から昭和の初め頃まで、東京には「街」を開発する地的余裕があったたため、新たに「モダンな」町作りが行われていました。この時の開発は、争奪戦の頃のように「独立した経済」圏としての「都市」や「街」を造る必要がないため、「住居」専門の町作りが行われていました。もちろんその背景には新しい職業「サラリーマン」の出現もありました。この際に参考になったのが、外国の住居の街でした。これが「放射状の街」です。「放射状の街」は、設計思想として明確な考え方があります。僕の記憶では、思想的・宗教的象徴を中心に配置して、そこから放射状に街路を配置することで、中心への帰属意識が高まると同時に集まりやすい。さらに同心円状に街路を配置することで、目線として行き止まりをつくり、こぢんまりとした小さい生活集合体意識を持たせる、確かこのようなものだったと記憶しています。間違っていたらごめんなさい。この思想的中心を鉄道の「駅」に置き換えて、開発した街として、「田園調布」をあげることができた記憶していますが、これも間違っていたら、ごめんなさい。
 しかしこの僕の3に関する記憶は、たぶん間違いです。すなわち「放射状」は小さい「街」単位のみで、「東京」のような大きい都市には計画されていない、と記憶している事です。なぜなら、おっしゃるように、東京には放射状に郊外へ延びる幹線と、環状の幹線がいくつもあるからです。
 放射線と環状線の幹線道路基本計画は、これも僕の記憶では、関東地震(大正11年)の復興計画だったと記憶していますので、前に紹介した本を、なんとか入手して読み直さなければなぁ、と思いました。

 日本の主な都市は、第二次大戦時のアメリカによる空爆で、ほとんどが壊滅しています。それ以前は、東京のように地震による壊滅が発生していない限り、戦国時代の幹線のままです。
 現在各主要都市に見られる放射状の幹線は、大部分は終戦後に計画されたものと記憶しています。これもまた、間違っているかも。

 最後は、お粗末になりました。
 だめですな、こりゃ。

 あれっ、関東地震って大正11年でしたっけ?
 本当にだめだ。

 MONKEYMONKEYさんは非常に理解が早いですね。こちらも手を抜くことができません。ところが、僕の手元に、現在資料がほとんど残っていないため、今回の回答は「自信なし」です。
 言い訳がましいのですが、会社の業務でこれをまとめたものですから、その際に使用した資料は当然ながら会社のものなので、当時勤めていた会社にほとんど置いてきているのです。
 私は都市計画の専門家ではなく、ましてや歴史の専門家でもありません。ここに書かせていただいていることは、都市の防災を考えるにあたって、都市の...続きを読む

Q中学の歴史について質問です。 戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

Aベストアンサー

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によ...続きを読む


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